8 招かれざる客

 貴族の朝は遅い。遅い時刻に出勤してくることを重役出勤と表現するように、定時から仕事がある労働者とは生活リズムが異なる。


 太陽が昇りきってからのんびり起きた私は、サイドテーブルに準備された水刺しから水を飲んだ。冴えた目で新聞を広げると、とある記事に目が釘付けになる。


(ついに来たわね)


 私が注目したのは、その名もずばり『切り裂きジャック事件』だ。


 治安が悪いイーストエンドのホワイトチャペル地区で、女性が肉切り用のナイフでメッタ刺しにされて殺されたという。

 前世でも実際に起きた、有名な連続殺人事件だが、乙女ゲーム内で起こる事件は、プレイヤーに配慮して単体の殺人になっている。


 なぜ『ジャック』と名指しされているのかというと、現場に名前入りの犯行声明が残されていたからだ。


(大丈夫。うちのジャックは関係ないわ。外出しないでってお願いしたもの)


 新聞をダストボックスに放りこんだ私は、普段着のエプロンドレスに着替えて、梳いた髪にリボンを結わえた。


 貴族令嬢はメイドの手を借りて身支度するものだが、我が家には女性の使用人がいないので身の回りのことは自分でが基本だ。


 結び目が左右均等にできたので、気分よく部屋を出る。赤い絨毯を敷いた廊下を歩き出すまえに、壁灯(ブラケット)に動いた形跡がないか目視する。


(異常なしだわ)


 リデル男爵邸は特殊な屋敷だ。侵入者に備えて、さまざまな仕掛けが施されているので、夜の間に異変がなかったか家中を回るのが、私の朝の日課になっている。

 幸いなことに、自室の周りに張りめぐらされた仕掛けが動いた様子はなかった。


 私は、誤って自分が罠にかかることのないよう、慎重に移動していく。

 玄関ホールを見下ろす二股階段を通ると、扉から大きなノックが聞こえた。叩く力が強く、家事室から誰かが駆けつける前にノッカーを壊されそうだ。


 急いで歩み寄った私は、背丈の二倍ほどもある重い扉を開けた。


「はい、どなたでしょう?」

「ノックを始めてから二分五十二秒が経過。広いお屋敷とはいえ、駆けつけるのが遅いのではありませんかな」


 エントランスに立っていたのは、トレンチコートを着た中年男だった。

 懐中時計を見る顔からせり出した鷲鼻がクチバシのようだ。長い首や丸い体もあいまって、図鑑で見たことのある南国の怪鳥に似ている。


「出るのが遅くなり申し訳ありません。リデル男爵家になにかご用でしょうか?」

「愚問ですな。用事がない来客は存在しないと思われます。こんな話しをしている間にも、三十秒が経過だ。まったくもって無駄な時間です」


 中年男は、ふるふると首を振ってから、顔を上げて私を見た。


「某はドードーと申す者。リデル男爵家のご当主にお目にかかりたい」

「私が当主のアリスですが……」

「お嬢。来客の対応は俺がする」


 ホールの奥から現われたジャックは、片手で扉を押さえてくれた。重みで腕が痛かったのでありがたいが、彼は料理中に怪我でもしたのか手に包帯を巻いていた。


「朝食はテーブルに準備したから、先に食べてろ」

「そうするわ。ありがとう、『ジャック』……」


 私が彼の名を呼んだ瞬間、中年男の小さな目が光った。


「ジャックが現われた。緊急確保!」


 扉の影からいっせいに警官たちが走り出てきて、ジャックに飛びかかった。


「いきなり何しやがる!」

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