7 雨がやむまでここにいて
「お嬢」
呼ばれて目を開けると、心配そうなジャックに覗きこまれていた。
自室のベッドに横たわっていた私は、無意識のうちに止めていた息をぷはっと
「ゆめ……」
深い眠りのなかで、三年前の
「ずいぶん長くうなされていたみたいだな。寝汗をかいてる」
ベッドに浅く腰かけたジャックは、私の額にはりついた前髪を指でよけてくれる。
真夜中だというのに、
「見回りの時間?」
「これからだ。先にお嬢の様子を見にきた。雨が降る夜は、決まってうなされるだろ」
窓の向こうでは、ざあざあ振りの雨が白いすじになっている。
その流れを、ジャックは
「こんなに激しいと、せっかくの薔薇が散る。これだから水は嫌いなんだ……」
「花はまた咲くわよ。花びらのお掃除は私も手伝うわ。家族みんなでやればいいのよ」
家族。そう口にするだけで私は安らぐ。
シャンデリアの下敷きになったあと、通りがかった悪魔の手でよみがえったのは、私とジャックだけだった。
家族を一気にうしなった喪失感は、
彼らがいてくれるから、私は悲しみに
いまだに足首まで涙の海につかったままだけれど、ジャックはそんなこと知らない。
ダークだけだ。
私の心が、いつだって震えていると知っているのは。
「お庭がきれいになったら、テーブルを出してお茶会をしましょう。ヒスイ
「お嬢。あいつにかかわるな」
「どうして? ダークは勝負相手だけれど、
私の口答えが気に入らなかったらしく、ジャックは、
「あいつを見ていると嫌な予感がする……。あのへんてこなお茶会のあいだ、オレは伯爵と昔どこかで会ったことがあるような気がしていた」
「ダークとあなたが? 身分がちがうのに、いったいどこで?」
この国は、身分格差社会だ。
身分によって住みかとなる地区や行動範囲が異なるので、平民と貴族はほとんど
平民は、平民同士。貴族は、貴族同士で人間関係を広げていくのだ。
だからこそ、ジャックとダークが知り合いだったというのは考えにくい。
「はっきりと思い出せない。よみがえったあとのことは全て覚えているから、イーストエンドに行くよりさらに前だ……」
言葉を切ったジャックは、
「それに、伯爵は死んだ経験もないのに
「それは、ヒスイ殿が従者にいるからよ」
決めつけはよくないと、私は上体を起こして反論した。
「悪魔の子がふつうの人間と変わらないって、ダークは知っているのよ」
「身内に信頼できる悪魔の子がいたとして、オレたちもそういう人格かまでは分からない。だが、伯爵はそこまで確認せずに『お嬢の代わりに
ジャックは、警戒心をかき立てられたらしく、サーベルの柄に指をかけた。
「オレは、一人で男爵家をたてなおしたお嬢に
リデル男爵家は、良心をもってして裏から国を守ってきたが、そうでない相手に同じ仕事を任せれば、あっというまに恐怖がこの国を支配するだろう。
もしも私が
相手が、政治にかかわる貴族ならなおのこと、この国の
モブだったら誰と結婚してもいいわけではないのだ。
ダークのことだって、もろもろの事情で警戒するべきだと理解している。
けれど、なぜだろう。私の心にはダークが善人だと信じたい気持ちがあった。
「落ち着いて、ジャック。誰であろうと、国を操ろうと
「伯爵は、すでに女王に取り入っている。お嬢も知っているはずだ」
そう言われて、私は二の句がつげなくなってしまった。
元よりリデル男爵家に目をつけていたダークが、後ろ盾の少ない少女当主の存在を知り、乗っ取るために政略婚をけしかけたのだとしたら。
いかにも貴族らしいやり口だと言える。
(やはりダークは、私の気持ちを利用しようとしているの……?)
警察署のなかで抱いた不安が、息を吹き返したようにふくらんできた。
悲しいとも寂しいともつかない複雑な気持ちに、肺が押し潰されそうだ。
感情にはたいてい色があるけれど、これは無色透明で、温度もなくて、雲のように
このままでは、まともに呼吸なんてできやしない。
(なんなの、この気持ちは……)
苦しい胸に手を当てると、ジャックは私が嫌悪感をもったと誤解したらしい。
さらに念を押してくる。
「あいつは、ただの貴族じゃない。だから、お嬢――」
ジャックに肩を押されて、私はベッドに倒された。
顔の横で上向けた私の手に、みずからの手を重ねたジャックは、上体を倒して顔を近づけてくる。
これ、私が目を閉じたらキスされてしまうんじゃないだろうか。
体を硬くすると、ジャックは文字通り、目と鼻の先で止まった。
「自分から伯爵に近づくなよ。いいな?」
「わ、わかった。気を付けるわ……!」
私はコクコクと、それしかできない人形みたいに頷く。
そんな私を見て、ジャックは愛おしげに目を細めた。
そして、何もせずに起き上がる。
(あれ?)
私は心のなかで首を傾げた。
ここは乙女ゲームの世界のはず。
私は主人公で、ジャックは攻略対象キャラクターだ。
選択肢は出なくても、恋に落ちる関係性はある。
それだけは揺るがないはずなのに、どうしてこのシチュエーションで唇を
「それじゃ、見回りにいってくる。安心しておやすみ、お嬢」
「お、おやすみなさい……」
拍子抜けでジャックを見送った私は、ああ、と打ちのめされた。
(私のこの人生では、ジャックとの恋は進められないんだわ……)
町中でジャックの好感度を上げたら、暴走馬車の事故に
つまりは、ジャックとの恋を実らせようとすると、選択肢をミスしたとみなされて、『アリス』の死亡エンドへの道が開いてしまうということだ。
(どれだけ想ったとしても、この先に結ばれる未来はないなんて!)
ジャックを『乙女ゲーム史上最高の推し!』とあがめながら、何度も何度も同じルートを繰り返して、胸をときめかせてきた私には、あまりにも
「ジャック……」
私は、ふかふかの枕に顔を押しつけて唇をかむ。
じわりと浮かぶ涙は、自分では止められそうにない。
「……私、あなたが好きだった。毎日想わない日がないくらい、ほんとうに、大好きだったの……」
大きな失恋をした私は、その晩、声をころして泣いた。
私の心を知ってか知らずか、雨は明け方まで降りつづいて、泣き声をかき消してくれたのだった。
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