優雅な主人は罠がお好き/3

 館の一階にある診療室。白いレースのカーテンが、穏やかな陽光の夢想曲メロトライを踊るようにそよ風に揺れる。

 優雅でありながら人を惑わすような男の声と、晴れやかな女の声が、きちんと距離を取りながら交わされていた。

「……となったんです」

「そうですか」

 庭のかしの木に巻きつくように咲くクレマチスの、青やピンクの花びらたちが、四角く切り取られた窓の外からのぞいている。

「……もあったんです」

 本の並びの手前で、紺の長い髪を後ろでわざともたつかせて、リボンで束ねている崇剛が優雅に微笑んでいた。

「えぇ」

 スマートに椅子の上で足を組み、そこへ置かれた両手首にあるカフスボタンは、高貴な地位の象徴と言われる、ロイヤルブルーサファイアが気品高く輝いていた。

 神に選ばれし者を表すような、神秘へと導く魅了的な紫がかった青。

 崇剛の水色の瞳には四十代半ばのシックな服装を着た女が映っていた。春らしさを感じさせるピンクの透けるようなスカーフを首に巻き、清々しい表情だった。

「先生、本当にありがとうございました」

 頭を丁寧に下げられた崇剛の背後にある机の上には、様々な本がブックエンドの間てひしめき合っていた。

 白魔術、召喚魔法、呪術、魔道具、アロマ、などなど……。世界各地から取り寄せたもので、言語は全てバラバラ。

 それでも、人の会話を鮮明に思い出せるほどの記憶力の持ち主には、辞書も丸覚えで、一度見れば本は仕事の効果的な背景――小道具として使われる。

 人に対する態度もきちんとしていて、今はヒーラーとして、崇剛はにこやかに微笑んでいた。

「いいえ、ご自身のお力です」

 机の上にあらかじめ用意したあった透明な袋を手に取った。その中には、茶緑を下地として、ところどころにマゼンダやカナリア色の花びらが入っていた。

「こちらは伊勢崎さんに合わせて、調合したハーブティーです」

「あら、まあ! ありがとうございます」

 崇剛からの突然のプレゼントを、女は嬉しそうに受け取った。

 それが診療終了と言うように、崇剛は組んでいたロングブーツの足を戻し、椅子から優雅に立ち上がった。

 伊勢崎もつられるように椅子から離れ、ドアへ向かって歩き出す。


 人の心を癒す仕事――。

 患者に恋愛感情を持たれるという事故が、ヒーラーのまわりでは多発する。雰囲気は貴族的で中性的ながら、少しだけ男性寄りの崇剛。

 人混みを歩けば、老若男女が振り返るほど絶美な男。時には同性にまで好意を持たれることもある。

 もちろん、女性の患者は例外なく彼に魅了される。伊勢崎ももれることなく、ドアへと一緒に歩き出した崇剛の物腰を瞳の端で捉えて、頬を赤らめた。

 崇剛はドアの横に立ち、神経質で綺麗な手で扉を開けて横へよけ、患者を先に通した。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 舞い上がっている四十代半ばの女からすると、ヒーラーの言動はレディーファーストに見えるのだ。

 伊勢崎が頭を下げると、瑠璃色の貴族服の内ポケットに忍ばせている魔除のローズマリーの香りが、女にまとわりつくように広がった。

 ヒーラーは患者を見送るために廊下へ出て、後ろ手でドアを閉めながら、この場所で患者によく言われる言葉に備えた。

 予想を裏切らず、伊勢崎は問いかける。

「先生、されていらっしゃるんですか?」

「いいえ、していませんよ」

 結婚歴のない綺麗な男が目の前にいる――。伊勢崎は戸惑い気味に質問を重ねる。

「あのぅ……どなたか、いい方はいらっしゃるんですか?」

「いいえ、いませんよ」

 恋人のいない綺麗な男が目の前にいる――。四十代半ばの女は大きく息を吸い込んで、手をかけようとした。

「それでは、今度一緒に新しくできた喫茶店にでも行きませんか?」

 わかりやすい女を前にして、崇剛のもうひとつの職業が威力を発揮するのだった。

「お誘いいただいて光栄ですが、遠慮させていただきます。神父である私は神に身も心も捧げました。ですから、聖書を読むことは赦されても、人を愛することは赦されていません」

 そう言いながら、彼の心の奥底で、痛みという針玉が駆け抜けてゆく、ひどい傷跡を残しながら。


(想うことも……赦されていません)


 伊勢崎は残念がる自分の気持ちを隠すために、わざと明るく言った。

「……そうですか」

 それでも足りなくて、話題転換をしようと、立ち止まっている廊下から見えるいくつものドアを見渡す。

「部屋がずいぶんあるんですね?」

「えぇ、カラーセラピーなどに使うものですから……」

 崇剛のロングブーツのかかとは心地よいリズムを刻みながら、出口へと案内し始めた。

「家の中に庭園があるという噂を耳にしましたが……」

 肩幅はそれなりにあるのに、わざともたつかせて縛っている紺の長い髪のせいで、女性とも男性とも取れない。

 神秘的な策略家で、神父で、ヒーラーで、メシア保有者という複数の顔を持つ。そんな男の後ろ姿が魅惑的に、伊勢崎の瞳に映っていた。

 崇剛はふと立ち止まって、後ろからついてくる患者へ振り返った。紺の後れ毛が衝動で、いざないという罠へ導くように怪しく揺れる。

 屋内庭園の話に、彼は「えぇ」とうなずき、

「先代が庭師をしておりましたので、家の中にも緑を取り入れたいという意向で、そちらのような部屋はありますよ」

 紺の髪が揺れ動く様に、伊勢崎はドキッとして、それを隠すために窓の向こうに広がる暖流という春の香り海で、様々な色調が咲き乱れる庭を眺めた。

 シャンパングラスを満たしたような淡い紫のデルフィニムとワルツでも踊るような、陽気な笑顔を浮かべているチューリップたち。

 黄色いベールをかぶった花嫁――菜の花に祝福するライスシャワーのような桜の花びらは淡雪のように舞い散っている。

 ラハイアット家は昔からの大富豪。崇剛の家には涼介の他に使用人や召使が何人もいて、もちろん庭師もいた。

(お庭も綺麗だから、庭園もきっと美しいでしょうね)

 伊勢崎は庭の美しさに感嘆を覚え、思わず吐息をもらして、興味津々な顔を崇剛へ向けた。

「拝見させていただいても、よろしいですか?」

 スケージュール帳を持ち歩く必要もない、崇剛は記憶で確認して、

「えぇ、構いませんよ」

 優雅に微笑み、診療所の出口を通り過ぎ、廊下をそのまままっすぐ進んだ。

 斜めに差し込む日差しに、瑠璃色の貴族服が通り過ぎるたびに、柱と窓でいんようを織り成しながら青系の千変万化――濃淡を、人を惑わせるように不規則にリフレインする。

 エレガントな歩みから生み出される、カツカツという音が不意に消えると、そこには大きなりガラスが、秘密という魅惑を持って立っていた。

 崇剛の神経質な手で、明るみへと引っ張り出されるように押し開けられると、安眠へと導くような優しい香りが廊下へあふれ出てきた。

「ラベンダーですか?」

「えぇ」

 崇剛はさらにガラスを押し開け、男性らしく片手で軽々と支えた。優雅なヒーラーの紳士的な態度に、伊勢崎は女としての喜びを感じる。

「あ、ありがとうございます」

 部屋をのぞくと、目の前に広がった。あたり一面に咲き乱れるラベンダーの楽園という名を持つ紫の大海原。そこに浮かぶ、堪能という孤島の立派なウッドデッキ。

 屋敷の中とは思えないほどの広さがある屋内庭園。伊勢崎は両手を胸の前で組んで、思わず感動のため息をもらした。

「まぁ、素敵!」

 デッキチェアを見つけて、女は崇剛へ振り返る。

「ここでお茶を飲んだら心が癒されますね?」

「そうかもしれませんね」

 磨りガラスに片腕でもたれかかっている崇剛が優雅に微笑むと、どこかの国の王子がお姫様をエレガントにもてなしているようだった。

 めくるめく夢の世界みたいで、伊勢崎は思わす口をぽかんと開けた。

「はぁ……」

 他人を魅了していることさえも、冷静な頭脳でスマートに交わし、崇剛は磨りガラスをさっと閉めた。

「ラベンダーにはリラックス効果がありますから、そちらのようになりやすいでしょうね」

 ヒーラーは再び診療所の出口へと向かう、ロングブーツのかかとを鳴らしながら。優雅と悪戯が言葉遊びを、策略家にもたらした。


「私などは読書をしながら、永遠のせい――死を連想させる静穏せいおんという睡郷すいきょういざなわれてしまうことがありますよ」


 患者はふらふらとあとに続く。

 崇剛が白馬に乗って素晴らしい馬術で近寄り、自分をさらって行ってくれたら、どんなに幸せだろうと思い、伊勢崎はぼんやりと、長身の貴族服を着た男の後ろ姿に見惚みとれてしまうのだった。

「そうなんですか……」

 さっき通り過ぎた診療所の出口までやって来て、崇剛は立ち止まり、伊勢崎へと振り返った。スマートにドアを開け、

「それではご自愛ください」

「はい……」

 伊勢崎の心は名残惜しいと言う言葉が大行進していた。それでも何とか理性で逆らい、かなり厚みがある――数十万は入っているであろう封筒を、ヒーラーへ差し出す。

「こちらが謝礼です」

「ありがとうございます」

 崇剛が素直に報酬を受け取ると、舞踏会のワルツがふと鳴り止んだように、優雅にこうべを垂れた。

 伊勢崎は外の芝生をパンプスで踏むと、心苦しくも最後の挨拶をする。

「本当にありがとうございました」

 ステンドグラスをはめ込んだドアはパタンと閉まり、ヒーラーとしての仕事を終えた崇剛はほっと一息ついた。sシルクのブラウスの上からロザリオを握りしめて、そっと目を閉じる。


しゅよ、私にこのような恵みをお与えくださって、ありがとうございます」


 診療室へ戻って、中身を取り出すこともせず、そのまま金庫の中へしまう。

 防犯という名のワンタイムパスワードのように、暗証番号を毎回変えて厳重なロックの向こうにある寝室へ封筒を眠らせた。数字に異様に強い崇剛には、思い出せないという事件とは無縁だった。

 座り心地の良い椅子に座ると、女の声が外から聞こえてくる。

「精が出ますね!」

 視線を上げた崇剛の冷静な水色の瞳に映ったのは、

「伊勢崎さん……」

「はい!」

 それに応えたのは、聞き慣れているはつらつとして少し鼻にかかる声だった。

「涼介……」

 立ち話を始めたふたりには構わず、崇剛は椅子に座り直し、冷静な頭脳を使って、カルテに診療結果を書き込む。自身には必要がないが、患者に説明する時に必要となる記録書だ。


 四月十八日、月曜日――。


 ポケットから慣れた感じで懐中時計を取り出し、マリンブルーの針を読み取る。


 十五時四十七分十一秒――。スピリチュアルとの関連はなし。


 すぐに話は終わるものだと思っていたが、そのまま伊勢崎は庭に居残っていた。

「何が植ってるんですか?」

「これですか?」

 話が一向に止む気配はなく、崇剛はあごに手を当てて冷静な瞳をついっと細め、思考をめぐらす――。


 伊勢崎さんは、涼介に今度話かけています。

 彼女には話を伸ばすという傾向があるみたいです。

 彼女はご結婚されていましたよね?

 なぜ、他の異性に興味を持たれるのでしょう?

 夫婦仲がうまくいっていないのかもしれませんね。

 従って、私のところへまた同じ症状で訪れるという可能性は68.77%でしょうね――。


 カルテを全て書き終え、診療は本当に終了した。ヒーラーから館の主人へと戻り、崇剛は廊下へ再び出て二階の自室へと向かう。

「ハイビスカスティーでも、用意していただきましょうか?」

 居住区の上階へ行くため、茶色のロングブーツが優雅に階段を登り出した。


    *


 回春かいしゅんの香りがショパンを奏でるような、寝室とはまた違ったおもむきの自室。

 東に面した開き窓の前には、落ち着いた木々の緑を思わせるような深碧しんぺき色の大きなソファーを引き立たせるように、床にのんびりと横たわるつやのある暗い赤銅色の絨毯。

 アンティークという匂いが漂い出ている大きな楕円形のローテーブル。その上にガラスの食器が召使の手で手際よくセットされてゆく。

 もうひとつの窓辺には、赤みがかった茶色の曲線がモーションをかけるような足を持つ書斎机。羽ペンが風になびくたび、風見鶏のようにクルクルと回る。

 神世かみよを思わせるような青を基調とした、抽象的な絵画が壁一面を覆うようにかけられていた。

 茶色に近い黄色のゴシックなカーテンの間から、白波のように寄せては引いてを繰り返すレースのカーテン。

 瑠璃色の上着を椅子の背もたれにかけ、召使がハーブティーを用意している間、崇剛は両開きの窓枠に両手をつき、庭の一角にある家庭菜園を眺めていた。

 時折吹く春風で会話は途切れてしまうが、涼介のそばに伊勢崎が寄り、あれこれ話しては笑顔をお互い見せているのがよく見えた。

 街を一望できる遠くへ視線をやり、頬にかかってしまった後れ毛を神経質な指先で耳にかける。心が波立つ。

 大きな湾の向こうで海面がキラキラと乱反射を見せ、どっしりとした山肌が霞む背景に、小さな家々が並ぶ街並みを眺めながら、策略家はいつもと違うことをあぐねいていた。

「――崇剛様、準備が整いました」

 女の声で我に返った、館の主人は少しだけ振り返る。

「ありがとうございます」

「失礼いたします」

 丁寧に頭を下げ、メイド服は部屋から出て行った。

 ルビー色のガラスでできたティーカップが、テーブルの上で貴婦人のように、背筋をピンと伸ばして横座りしているようだった。

 優雅な貴公子と彼女がたわむれようとした時、庭から伊勢崎の声が漂ってきた。

「――それでは、失礼いたします」

 冷静な水色の瞳に陽光のシャワーが再び降り注ぐと、長話を終えたシックな女物の洋服が門へ向かって歩いてゆく後ろ姿があった。

 それを見送って、家庭菜園に残ったふたつの影を観察する。一人はさっきの涼介。もうひとつはとても小さく子供のもの。

 不意に吹き込んできた風で乱れた紺の髪を、神経質な手で耳にかけた。窓に背を向けて、聖なるダガーの鞘が巻きついている腰で寄りかかり、静かに目を閉じる。

 真っ暗になった視界で、優雅な聖霊師は物憂げに言葉を紡いだ。


「涼介も、いつかは誰かを再び愛し、こちらの館から出ていくのかもしれませんね。私は一人のまま……」


 違和感を抱いて、崇剛はくすりと笑う。すうっと開けたまぶたの向こうに、空色をした聖書から慈愛の光があふれ出ていた。


「……では、ありませんね。神――主がいらっしゃるのですから」


 なかめかしいほどの曲線美を持つロッキングチェアへ座る。全身を心地よく揺られながら、ロイヤルブルーサファイアのカフスボタンと、恋人の細く神経質な手をティーカップへ優雅に伸ばした。

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