優雅な主人は罠がお好き/2

 順調な回復を見せているような崇剛だったが、神経質な手で瞳を覆って、中性的な唇からはかなげな声がもれた。


「――めまいが少し残っているみたいです」


 ブランデーの瓶へ視線を落としたが、執事から見えないところで、冷静な水色の瞳には悪戯好きな少年とまったく同じ光が微かに宿った。

 メシアが発する強い力の影響でよく倒れる崇剛。気を失っている彼をいつも運ぶ涼介は、驚いた顔をした。

「最近物騒になったってこの間話してたよな。それが原因か?」

 執事は少し前かがみになる。主人の長い髪のせいで、体調の良くない女性に、男が近づいたみたいな、シチュエーションへと知らずのうちになっていた。

 策略家は本のページをパラパラとめくるように、好機がめぐってくるのを待つ。

「それから脱力感もあるみたいです」

 涼介はさらに前に身を乗り出し、ひどく心配した。

「今までそんなことなかったじゃないか。お前無理しすぎなんじゃないのか?」

 崇剛は利き手とは反対の指先でこめかみを抑え、涼介が立っている側のそれはフリーにしておく。

「熱もあるかもしれませんね」

「どれ? 触らせてみろ」

 執事は無防備に主人の額に向かって腕を伸ばし始めた。水色の冷静な瞳がチャンスは見逃さないというように、ついっと細められる。

(罠にはまっていただいて光栄です――)

 わざと自分から遠く――斜向かいにある涼介の右手首を、自分の右手でしっかりとつかみ、素早く崇剛の膝の上――白いシーツの海へ斜めに引き寄せる。

「っ!」

 反動でバランスを崩した涼介の体を扱うのは簡単だった。ひねるように引っ張り続け、執事の前後がコマが回転したように空中で逆になり、彼が背中に強い痛みを感じると、

「っ!」

 主人の膝の上に、執事が仰向けで倒れ込んでいた。思わず目を閉じた涼介が状況を把握する前に、中性的な雰囲気の崇剛は顔を上からのぞき込み、戸惑わせ感のある独特の声を響かせた。


「――あなたと私のふたりきり。これから、私の望むままにあなたの身も心も、私へと捧げていただきましょうか?」


 涼介を拘束しているのは今は右手首だけ。冷血なほど勝利を欲しがる主人は執事が逃げられないよう、次の手を素早く打つ。

 涼介の右手首を引っ張ったまま、反対の手を彼の脇に置くと、ぐっとベッドのへこむ場所が変わった。これで執事は主人の膝の上からずれ落ちることができなくなった。

 上質なシルクのブラウスは、洗いざらしのシャツの上へ身を乗り出す。そうして、執事は主人の膝の上から起き上がることも許されなくなった。

 涼介が目を開けると、逆立ちしているように相手が逆さまになっていた。主従関係を超えて、膝枕をしていた執事に主人がキスする前みたいなシチュエーションだった。


 冷静な水色の瞳。

 と、

 純粋なベビーブルーの瞳。


 が吸いついてしまうように、お互いを見つめあって、唇は動くこともなかった。

「…………」

「…………」

 春の日差しの中で小鳥のさえずりがする健全な外とは違い、魔法か何かで切り離されたみたいに、色欲漂う夜のようになってしまった主人の寝室。

 双方の呼吸と匂いが、男ふたりだけの部屋で混じり合う。春風が強く吹くと、崇剛の長い髪が、シーツの上でさらさらと揺れ動いた。

 執事が額に冷や汗をかくと、主人が執事を押し倒しているように見えてしまう、男ふたりだけの寝室。

「さっ!」

 涼介が話し出そうとすると、崇剛の髪を束ねていたターコイズブルーのリボンがちょうどはずれ、紺の長いそれが涼介の頬に落ちてくすぐった。

「っ……」

 執事は思わず変な悲鳴を上げそうになったが、囚われの身の彼はかぶりをぷるぷると振るが、主人の髪の絶妙な感触に悪寒が走りながら、結婚指輪をしている手でシーツをキツく握りしめる。

「さ……」

 ターコイズブルーのリボンがベッドの上に、絡み合う蛇――エロティックを連想させるようにサラサラと解けて落ちた。 

 戸惑いという言葉が戸惑ってしまうほど、もつれた言葉が執事から出てくる。

「さ、ささ……さ、捧げるってどういうことだ?」

 罠を仕掛けた主人の頭脳は今も正常に稼動中。さっき確認した時刻のデータを使う。


まどか――子供は来ませんからね。あなたと私だけで、をしましょうか?」


 万事休す。亮介は思い出した。五歳の息子は十三時から十五時までは昼寝をするのが日課。男ふたりでこの格好で大人の話……。想像するだけで、執事の胸はバクバクと早鐘を打ち出した。

 触れている手首から伝わる脈拍が早くなっているのを知ると、主人は心の中で私服の時を迎えた。


(あなたが困るところを見たいのです。そちらが私の趣味ですからね)


 悪戯が過ぎる主人はそのままかがみ込んで、涼介が言葉に突っかかりやすい体勢――キスができそうな距離へわざと迫った。

 執事は頭の中が真っ白になりそうになる。

(っていうか、どうしてお前が俺を押し倒してるみたいになってるんだ!)

 そこで、涼介はやっと気づいた、今までの会話が罠だったと。策略か神父によって、BL要素満載で、懺悔ざんげタイムがさりげなくやってきてしまっていた。

 そうとわかれば、怖いものなどない。押し倒されているみたいな涼介は劣勢ながらも、主人を見上げてため息をついた。

「お前さっき嘘ついただろう? だから俺に罠を仕掛けるな。策略してくるって、どんな神父だ!」

 時刻を秒単位まで記憶できる頭脳を持つ、主人は流暢に説明を始めた。


「嘘ではありませんよ。と言いましたからね。これらの言葉は確定ではなく、不確定要素を含むものです。ですから、嘘ではありません。それとも違うというのですか? それならば、涼介そちらの意味を体を交わらせて、私に教えていただけませんか?」


 言葉を自由自在に操り、自分の逃げ道を作る。それなのに、相手を着実にチェックメイトへ陥れ、平然と罠を張ってくる策略家神父を前にして、正直な涼介はあきれた顔をした。

「お前また、理論武装とBLの両方を使ってきて……。今日は何の懺悔だ?」

「なぜ、ブランデーを使ったのですか――?」


 策略的な主人が執事の不手際を、相手を困らせながら叱るの図として見事に完成していた。さっきまでとは違って、崇剛は涼介の瞳を真摯に見下ろす。

「二年前の七月十一日、金曜日にあなたには説明しましたよ。神父である私は過剰な飲酒はできないと。四十度以上もあるアルコールは口にしません」

って、何かと思ったら酒の話だったのか?」

「他にどのような話があるのですか?」

「そうだな……?」

 よからぬ妄想を考えていた執事は言葉につまり、主人はくすりと笑った。

「そちらはもうよいですから、なぜブランデーを使ったのですか?」

 次々に落ちてくる主人の長い髪を、涼介は顔を左右に傾けて払いながら、

「……プリンの香りづけに使ってたんだ」

 ふわふわと暖かな春風が入り込む窓を背にして、崇剛の冷静な水色の瞳はついっと細められた。


 おかしい――


 いくら正直で感覚的な執事でも、一度注意したことをたったひとつの理由で破ってくるのは可能性として低いと踏んだ。そうなると、

「理由はそちらだけですか?」

 会話を交わしながらも、数字で計算ができてしまうほど、崇剛の頭脳はデジタルだった。対する涼介は正直で、策略的な主人が欲しがっていた情報をすぐに渡してしまった。


「輸送の馬車が事故に遭ったらしくて、夕方までないんだ。前にもあったよな? いつだったか忘れたけど……」


 そう言う執事の上で、主人はどこまでも正確だった。うなずきだけを返しつつ、

「そうですか」


 一回目。先月、三月二十五日、金曜日、十五時三分五十六秒。

 二回目。先週、四月十五日、金曜日、十五時四分十七秒。

 これらの日時で、涼介は先ほどと同じことを、私に言いましたよ――。


 人は偶然だと思って、気にせず過ぎていってしまうが、幽霊や天使を見ることができる千里眼の持ち主――崇剛は懸念を覚えた。


 ――何かが起きているという可能性が出てくる。


 同時に優雅な策略家は反対の可能性もあると思う。あごに手を当て物思いにふける。必然だとしたら、そこにどんな事実があるのかと、土砂降りの雨のように、今までの記憶を脳裏に降らせる。

 窓から一望できるかすみに沈む街へと、崇剛は視線を落とし、春風に紺の長い髪を揺らす。

 執事を捕獲した――押し倒したままのような主人。

 未だ自分を襲うような格好で覆いかぶさっている崇剛に、涼介は真剣なベビーブルーの視線をやって、さっきより声のトーンを低くした。


「お前、つかむ相手――を間違ってるだろう」


 崇剛は珍しく不思議そうな顔を、執事へ向け、

「そちらの言葉はどのような意味ですか?」

「俺がお前のこと知らないわけないだろう――?」


 三十二歳の男の心臓がドクンと大きく脈を打った。こんな体験は幼い頃以来ない。全てを成功させるようにいつも計算し尽くしてきた。

 そんな崇剛だったが、彼にも弱点があり、そこをつかれてどんな時も流暢に話す彼は言葉を失った。

「…………」

 そうして、逆立ちしたような格好のまま、男ふたりの視線はぶつかり合い、ガッチリと動かなくなった。静寂が広がる――。

「…………」

「…………」


 氷柱という先のとがった鋭い崇剛の冷静な瞳。

 それに負けないほどの熱意を持った涼介の純粋な瞳。


 ふたりの目の色が混じり合ってしまうほど見つめ合う。サイドテーブルに置いてあった時計の秒針が、触れ合っているお互いの手首の脈とシンクロするように、カチカチと刻んでゆく。

 長い髪のせいで女性のような主人は、どこからどう見ても男性的な執事をベッドの上で押し倒し続ける。

「…………」

「…………」

 今にもキスをしそうにかがみ込んだまま、男ふたりきりの寝室でそれぞれの想いを胸に立ち止まっていた。

 しかしそれでも、策略的な主人は冷静な頭脳を駆使して逃げ道を作った。いつも通り優雅に微笑み、執事の耳元で吐息まじりにささやく。


「私が愛しているのは、あなた――かもしれませんよ」

「なっ!?」

 主人の思惑通り、執事はびっくりして一瞬固まったその隙に、崇剛はすっと身を引いた。涼介は負けじとすぐに気を取り直して、大声で猛抗議する。

「どうして男のお前に、俺が愛されるんだ!」

 崇剛は今頃時刻に気づいた振りをして、おどけたふうに言う。

「おや? もうこんなですか」

 執事が口にしている言い方――を策略的に真似して、素知らぬふりでベッドボードへシルクのブラウスの背中をつけた。

 話をはぐらかされてしまった、涼介は額に手をやり、うなるように吐き捨てた。


「この、BL神父!」


 懺悔から解放された執事はベッドから跳ね起きて、主人は何事もなかったように、ベッドから足を床へたらし、


「ありがとうございます――」


 なぜかお礼を言ってきた崇剛に向かって、涼介はまたかみたいな顔をして、あきれ返った。

「だから、褒めてない!」

 ロングブーツをはき直している神父の乱れた髪を見下ろしながら、執事は主人の身を案じて問いかける。

「もう行くのか?」

「えぇ、十五時から患者が見えますからね」

 ターコイズブルーのリボンを少し柔らかい唇でくわえ、主人は鏡の中をのぞき込む。髪をブラシで整え、束ねようとして口からリボンを引き抜き、崇剛らしい言葉が色めき立った。

「約束は約束です。守らなくてはいけません――」

 ルールはルール。几帳面な策略家。椅子の背もたれにもたれ掛けさせられていた、瑠璃色の上着を手に取り、慣れた感じで袖を通している崇剛の横顔に、涼介は心配そうな顔で引き留めようとする。

「今日ぐらいは休んだっていいんじゃないのか?」

「できませんよ」

 首を横へゆっくり振った崇剛の思考回路は、チェスのゲームでもするように展開する。

(今から十五個前の会話は、涼介が言いました――)


『輸送の馬車が事故に遭ったらしくて、夕方までないんだ。前にもあったよな? いつだったか忘れたけど……』


 人の言った内容を一字一句覚えていて、順番も全て記憶している人並外れた頭脳の持ち主が崇剛だった。優雅な主人は正直な執事に命令を下す。

「そちらよりも、ワインのほうをお願いしますよ」

「わかった」

 素直に了承した涼介は、ワインに一手間加える注文を受け、その主人は廊下へ出て寝室のドアはパタンと閉まった。

 イライラと涼介は部屋の中を行ったり来たりしていたが、やがて足を止めて、扉をじっとにらみ、

「この慈愛バカ神父! 少しは自分のことも大切にしろ!」

 執事は主人に聞こえるどころか、春風舞うベルダージュ荘中に響くように毒舌を吐いた。

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