優雅な主人は罠がお好き/1

 海と空を表す青色――

 灰土はいどを混ぜ込み、くすみを持たせた鉄紺てつこん色の波が打ち寄せては引いてゆく。

 遠くで半円を描く水平線の上には、神という本物の天賦てんぷの才が大気というキャンパスに、創作力を大胆かつ繊細にぶつけたブルートパーズの空があった。

 科学と宗教のような両極性の象徴。そんな青の乱反射が、海面へいつくしみの聖なる光としてきらめいていた。

 滑らかな砂肌を見せる隆起海岸には、外国からの大きな船が尾を並べ、屈強な男たちによって積荷のコンテナが運び出される。

「ん〜! よいしょ、よいしょ〜っ!」

 コロと呼ばれる丸太が並ぶ上を、ローラーブレードをするように荷馬車へと荷物が運ばれてゆく、活気ある港町。

 積荷たちが馬車へ乗り込むと、御者が馬にむちをくれ、中心街へ向かって大きな車輪は石畳を削るように回り出す。

 整然と鎮座する倉庫の群れを抜けると、街ゆく人や自転車の細い車輪と行き交い、馬車は追い越しをかけ始めた。


 花冠国の南に位置する山間の町――庭崎市。

 馬車の行手を阻むものは交差点の信号くらい。電力がほとんど存在していないこの国では、線路と電線というラインが地面にも空にも引っかき傷を残していなかった。

 車を所有しているのは富裕層のみ。一般人の遠距離移動は馬車。というわけで、排気ガスで空気が濁ることもないのだ。

 神からの贈り物である正常な空気中に漂うのは、人の話声と車輪が石畳を踏む音だけ。科学技術は姿形もなく、遠い未来の出来事。

 平家ひらやばかりの街並みから御者は空を仰ぎ見る。右手には新緑の山々が女性のような柔らかな曲線美で横たわっていた。

 人々から称賛を受けてやまない山肌は、木々の一本一本までがはっきりと輪郭をを繊細な画家のように描いていた。


 まだ変わらない信号待ち――。御者は反対側へ顔を向け、口にくわえられたシケモクの向こうに映る町外れにある、小高い丘を視線でたどりのぼる。

 一階建ての家屋が多い中、二階建ての美しい赤レンガの西洋風建物が、威厳ある立派な玉座に鎮座するように、堂々と街を見下ろす形で異彩を放っていた。

 あちこち破れた帽子のツバをつかみ、御者は声をしゃがれさせた。


はらいのやかたか……」


 非日常的な言葉が街の雑路に入り込むと同時に、パチンという鞭の音が響き、馬車は荷物という重厚な客を乗せて、石畳の上をガタゴトと再び走り出す。


 路面に散らばっていたガラスの破片たちを置き去りにして、遠ざかっていった。


 交差点の角にある軒下から、一羽のツバメが翼を広げ上空へと舞い上がる。春風に乗って、赤レンガの建物へとブルートパース色の空を滑るように飛んでゆく。

 鉄色を帯びた紺の翼は、一年ぶりに会いにきた友人と顔を合わせるのに、丘の上へと喜びの飛線ひせんを引いていくようだった。

 鳥の小さな瞳には広い敷地に悠然と佇む、祓いの館と異名をつけられた――ベルダージュ荘が映っていた。


 数百年前、当時有名だった建築家が洋式建築を積極的に取り入れた別荘地。しかしながら、景色も居心地のよくすぐに住居区となり、現在に至る。

 二百年前ほどに、別大陸の東に位置するシュトライツ王国から婿を取っために、花冠国としては非常に珍しい、横文字の姓――ラハイアットとなったのである。

 春風を招き入れるように開け放たれた窓たちから、部屋の家具たちが横顔を見せていた。

 建築家の友人から譲り受けた、高級な外国産のものばかり。和テイストの家具は初めて招待された客のように、所在なさげにしていた。

 ツバメはくるっと回転して、のんびりと日向ぼっこしている白いテーブルチェアで羽休めをしようと、高度を急降下させた。

 昼寝シエスタへと誘う、微睡まどろみを覚えるような穏やかな風景の中に、誰かのむせる声が突如響き渡った。

「ゴホッ!」

 驚いた鳥はバサバサと飛び去り、館の二階にある主人――崇剛の寝室から漂う匂いを嗅いだ。息がつまるようでいて、ドライフルーツやナッツの甘いアルコールの香りがツバメの頬をかすめていった。


 春の訪れを告げる渡り鳥が飛び去っていった窓枠の内側では、サイドテーブルに独特のボディーラインをした瓶がサイドテーブルに乗っていた。

 香水か何かと勘違いするようなシルバーの曲線が織りなすエレガントなそれに、形作られる三日月型を琥珀色がでていた。

 味覚と臭覚が現実へと引き戻され、アルコールの気化がのどをえぐるように襲ってきた。

「……ゴホッ!」

 次に聴覚が目覚め、毎日聞いているはつらとしているが、少し鼻にかかる青年の声がすぐそばに近づいた。

「目が覚めたかっ?!」

「ゴホッ!」

 強いアルコールが空気中へ蒸発してゆく過程で起こるのどのじりじり感。苦味と甘みの混じった芳香な液体が、器官というトンネルを急降下し、灼熱を体のあちこちへ放射する。

「ゴホッ! ゴホッ!」

 止められない咳の苦痛の中で、閉じているまぶたの裏で、静音という闇から戻ってきた頭脳を使い、崇剛は今の状況をいち早く解析し始めた――。


 十三時七分五十九秒、私は旧聖堂へ行った。

 祈りを捧げていると、浮遊霊が集まってきた。

 十三時四十三分二十六秒、それらと対峙し始めた。


 ラジュ天使によって、悪霊が浄化され――


「……ゴホッ!」


 そちらのあとの記憶がありません。

 従って――


 真っ暗な視界のまま、触覚が最後に戻り、手に伝わるさらっとした感触を見つけた。

 自分の体を包み込む柔らかなもの。あごや頬で感じながら、咳をし続ける崇剛の中で、脳裏で導き出した可能性と事実がどんどん合致してゆく。

「ゴホッ!」


 気つけ薬として、ブランデーを私に飲ませたという可能性が76.43%。

 彼は別のことでもそちらを使いますからね――


 アルコールがやっとのどから引き、誰がそばにいるのか予測しながら、崇剛のまぶたはピクピクと微動していたかと思うと、冷静な水色の瞳が正体をゆっくりと現した。

 その視線の先には、ひまわり色の少し硬めの短髪。ベビーブルーのはつらつとし、正直という代名詞がよく似合う瞳。

 線の細い崇剛など軽々と運べてしまう、主人よりもガタイいのいい百九十センチ越えの長身を持つ執事が、心配そうな顔でこっちをのぞき込んでいた。

 その顔立ちは主人に負けず劣らず整っていた。男らしくスポーツマンタイプなところが違うが。

 横たわるベッドの上に、紺の長い髪が淫らに枕元にもつれ込んでいた。それに構うことなく、アルコールで熱せられたひどくかすれた声で、崇剛は執事の名を口にした。

「……涼介」

 主人はそう言いながらも、執事を注意したい――叱りたいことが出てきた。弄び感が生活の全てに出ている崇剛はすぐには言わず、ターゲット――執事に悟られないよう、ポーカフェイスで機会をうかがう。

 瞳の焦点が近すぎたり、遠すぎたりしながら見渡し確認してゆく。はっきりと輪郭を持たないまま、窓の位置からカーテンの色。天井の汚れやベッドの上……自室の寝室だと崇剛はすぐに弾き出した。

 部屋の調度品の位置は全て覚えている、感覚が何センチ何ミリなのかまで。右側にサイドテーブルがあり、その上には少しくすんだ金色のバラの装飾を持つ置き時計があった。

 主人のいつもの癖が出るが、執事にわからないように寝返りを打つ振りをして、しっかりと時刻を確認。

(十四時三十七分五十六秒)


 気を失う前に確認した最後の時刻は、十三時四十三分二十六秒。

 経過した時間――五十四分三十秒。

 その後悪霊と戦闘した。

 これらから導き出せること、そちらは……。


 優雅な策略家の異名を持つ主人は、数字という美しい規律がある世界の住人らしく、


 ラジュ天使が涼介に天啓を与え、私を助けに来た可能性が94.24%――

 そうして、さっきの可能性の数値を確実に変化させた。

 涼介が私にブランデーを飲ませたという可能性が先ほどから上がり、96.43%――


 それは、一秒もかからなほどのほんの一瞬の出来事だった。執事は無防備に主人を心配する。

「また倒れてたぞ、あの教会で。もう行くなって」

 真剣な眼差しで注意してきた男の名は、乙葉 涼介、二十八歳。崇剛の執事でありコック。崇剛とは対照的に体育会系で、かなりの感覚人間。

 直感がよく働き、ラジュ天使からそれをよく受けて、崇剛の危機を救いに来る。

 崇剛の元を訪れた最初の患者で、あることから助けてもらい、息子と一緒に住み込みで、ベルダージュ荘で執事とコックをすることとなった。

 はつらつさと優しさがトレードマーク。ただ左薬指の細いシルバーリングが、過去の悲劇でうれいを秘めていた。

 崇剛に恩義を感じており、立場以上に彼をいつも気遣っている。趣味は畑での野菜作りと料理。

 苦手な会話は男性同士の恋愛――BL系。崇剛に懺悔ざんげと称して、その手の話を意図的に振られ、しどろもどろする場面が多々あり。

 開け放たれた窓から、黄色の蝶がひらひらと舞い込んできた。サイドテーブルに置かれた三日月が横へ寝転がるような、二本足で立っている独特の瓶に、リボンを添えるように止まった。

 酔眼朦朧すいがんもうろうな世界の海中で、遊泳を楽しんでいる琥珀色をしたブランデー。正確にはコニャックを、冷静な水色の瞳の端に映したまま、執事の言った言葉から極めて重要なことに手をかけた。


 涼介が私にブランデーを飲ませたという可能性は上がり、97.76%――


 崇剛は心の中で、優雅に降参のポーズを取った。

(困った人ですね、あなたは)

 主人がさっきにらんだ通り、執事は手違いを起こしていたようだったが、まずそれには触れず、ゆっくりと起き上がった。崇剛の着ているシルクのブラウスで窓から差し込む春の優しい陽光が遊びまわる。

(十四時三十八分二十五秒)

 策略家の中で涼介を叱る方法が組み立てられてゆくが、とりあえずは、主人は助けれくれた執事に対して素直に謝罪した。

「そちらはまた、迷惑をかけてしまいましたね」

 崇剛は思う。話せば話すほど、自身の情報は漏洩すると。教会へ行ったと自分で言ってしまった執事の言葉から、ラジュが天啓を涼介に与えたという可能性は、以前のデータと足して百パーセント近くまで跳ね上がってしまった。

 そんなこととも知らず、珍しく素直に謝ってきた策略的な主人に、負担をかけまいと思って、涼介は何気なく話題を変えた。

「お前今日は、フォーティーワンだ。それでチャラにしてやる」

 ダーツの矢を投げる仕草をした。崇剛は何を言っているのかすぐに理解して、サイドテーブルのすぐ近くに立つ涼介に優雅な笑みを向けた。

「えぇ、構いませんよ」

 試合開始前にする挨拶を早々と交わす。グーに握った拳がベッドと床の境界線上で軽くぶつかり合った。

「どうして、何度も教会へ行くんだ?」

 心配しているような執事の前で、主人はまだかすれが残る声でもっともらしく言った。

「神から与えられた千里眼を持つ私の宿命です。ですから、この身を削ってでも悪霊をおびき出し、一人でも多く正神界へと戻るように浄化しているだけです」

 そう答える崇剛の心のうちは、


 私は限定的な言動は決して取りません。

 なぜなら、相手に手の内を知られることとなり、負ける可能性が上がってしまいますからね――


 冷徹なまでに合理主義者の彼は、常に言動は二つ以上の理由から起こしていた。

 回りくどい崇剛とは違って、正直な涼介。主人が罠を平然と張り巡らすのを毎日まざまざと見せつけられていて、執事は額に手のひらを当てて、盛大にため息をついて、いつもの口癖が出た。


「この、神父……」


 いつだって主人は平然と嘘をつくのだ。他にも理由があるのだろうと、涼介は気づいていたが、怪我人を追求するのも気が引けた。

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