Sacred Dagger/1
人気のない雑木林――
生い茂る木々の隙間から差し込む陽光。それはレースのカーテンのようにひどく
それでいて、
建物全体をキツく拘束するツタはくすんだ茶緑。抵抗力はとうに限界を迎え、壁は無残にも崩れ落ちている。
内壁の板はあちこち
穏やかな春風漂う昼なのに、
申し訳なさそうに差し込む光の中で、埃が人を惑わせる妖精のように、キラキラと舞い踊るのは
真正面奥――祭壇へと続く
床一面を覆う大理石は、輝きなどとうに失せていて、濁った水たまりのような不透明さだった。
両脇に幾重にも連なる山脈なような参列席。
荘厳と神聖の象徴――ステンドグラス。
色とりどりの宝石のような美しさは、月日という研磨剤でくすみ切り、砂埃がこびりついていて、威厳と癒しの玉座から引きずり下ろされたようだった。
現在進行形の不浄と過去の純潔が混在する聖堂。怪奇的でありながら幻想的。
人が来るような場所ではなかったが、祭壇の右側、一番前の参列席に線の細い男が座っていた。両肘をテーブルの上につき、両手は額の前で組まれている。
手のひらには、肌身離さず首から下げているロザリオが握られ、神への祈りを半刻ほど静かに捧げていた。
しかし、目を閉じているはずの、男には不思議なことにこう見えていた。
(――浮遊霊が……集まってきてしましましたね)
まぶたはゆっくりと開けられ、冷静な瞳が景色の色を吸い込んだ。
ロザリオは上質なブラウスと肌の間に、慣れた感じで落とされる。両方の手のひらを天井へ向けたまま顔と同じ高さへ上げ、優雅に降参のポーズを取った。
「困りましたね」
左腰に挿してある――Sacred Dagger――聖なる短剣の
そうして、ずば抜けた霊感――を使う。
すぐに触れるチャンネルを変え、
影のある水色の瞳は、マグマをも瞬間凍結させるほどの冷たさで、氷の
男の名は、崇剛 ラハイアット、三十二歳。神父で聖霊師。
濃く淡い、真逆の絶妙で吸い込まれそうな青――瑠璃色。それを基調とする貴族服に身を包む、崇剛の百八十七センチの体躯は決して運動には向かない。
時折、崩れた建物からの隙間風が、崇剛の優雅なオーラに彩色され、まるで舞踏会でダンスを申し込むように
しなやかでツヤのある紺の髪は、背中の半分までの長さで、崇剛の心のうちを表すように、わざともたつかせ感を出して、後ろでひとつに束ねているリボンはターコイズブルー。
まとめきれなかった
まだぼんやりとしている浮遊霊たち。
ダガーを持ったままの手は、物質界と霊界のものがぶつかることなく、白い細身のズボンに入れられ、中にあったものを取り出した。
丸く小さいそれは、わざとくすみを持たせた鈴色の
冷静な水色の瞳はほんの少しだけ落とされ、
(十三時四十三分二十六秒)
崇剛が時刻を確認するのは、小さい頃からの癖のようなものだった。時計はすぐにしまわれる。
優雅に微笑み、おどけた感――芯があるのに
「――そんなに、私に構ってほしいのですか? 仕方がありませんね。そちらをすることが、私は嫌いではありませんからね」
参列席からスマートに立ち上がり、茶色いロングブーツのかかとをカツカツと鳴らしながら身廊へ出た。
左右の足を前後にずらし、クロスさせる寸前の細身をさらに強調するようなポーズを取る。
ダガーを挟む指先の力を慣れた感じで一旦抜き、重力に逆えず下に落ちてゆく柄を、逆手持ちにして身構えた。
そうして、優雅な聖霊師の中で奏でられる。
バッハ ミサ曲 ロ短調――
――Kyrie eleison/
いきなりのフォルティッシモで体中に響き渡る、幾重もの聖なる声は、低く暗い故意の不協和音。神聖と荘厳を創造し、悪との戦いを前にして、身を清めるような調べ。
神が選びし者に与えという
ジリジリと詰め寄られる間合い。
神父の中に流れ続けるミサ曲は、この祈りを捧げる。
――Qui tollis peccata mundi/世の罪を除きたもう。
生と死の狭間に絶妙なバランスで立たされ、悪霊と一人対峙する聖霊師。水色の瞳はついっと細められた。
「神の元へ帰らず、地上へと少しでもとどまった者は地獄行きです。それでは、行っていただきましょうか?」
優雅な声が不浄な空気に舞うと、それが合図というように、悪霊との間に張り詰めていた空気が一気に崩れた。
「それがほしい……」
霊力は地位や名誉と同じであるばかりか、自身のエネルギーにもなる価値あるもの――メシアの千里眼。我先に手に入れようと、浮遊霊が白く透き通った手を一斉に伸ばしてきた。
「昼間ですから瑠璃さんはいませんので、お願いします」
魂を成仏させるためには、崇剛はいつも二人三脚。いや三人四脚なのだが、誰かが出てこないまま戦況は動き出してしまった。
白い手のひとつが崇剛の右腕に伸びそうになった。ダガーで銀色の一直線を描き、鮮やかに斬り裂く。
「ウギャ〜ッ!!」
叫び声が体の内側――脳の奥にこびりつく。気を狂わせるような悲鳴だが、悪霊との戦闘など日常茶飯事の崇剛は強い精神で跳ね飛ばす。
冷静な水色の瞳は微動だにせず、悪霊を数センチの距離で見ても恐れやしない。
しかし、青白い幽霊の手は煙のようにゆらゆらと揺れ、あっという間に原型へと戻った。
「あなたは正神界なのですね。ですから、こちらが効かないのですね。あなたの動きを封じることは、私にはできません」
邪神界と戦うために、神から与えられた力。味方である正神界には効かない。
「っ!」
次に襲いかかってきた手には、聖なるたダガーはしっかりと刺さった。
「グオーッッ!!」
「邪神界のまま転生したということですね。すなわち、悪に魂を売りさばき、罪を償わずに生まれ変わった」
正神界が闇へ葬り去られそうなご時世では、人殺しをしようと何だろうと、罪は問われることなく、平然と人生を歩めてしまう。
崇剛は持ち手を変えず、左手でダガーの柄を取る仕草をする。するとそれは、ふたつに分身し、左手には何も刺さっていない刃物が現れた。
悪霊を刺した右手はそのままに、壁を手の横で叩く要領でダガーごとはずし、燭台の下にある木片へ向かって突き放した。
聖霊師の紺の長い髪が、振動で
ズバンッ!
壁に
悪霊に囲まれた神父は、ロングブーツのかかとを濁っている大理石の上で、砂埃のズズッという雑音をともなって反転する。
上着に忍ばせている魔除のローズマリーの香りがほのかに立ち上る。今度は祭壇を正面にして立ち、聖霊師は幽霊に優雅に微笑んで見せた。
「あなたはこちらがお望みですよね?」
霊力の集まっている場所ははっきりと濃くなる。勝利をほしがる崇剛は血も涙もなく相手の急所――弱点をついてくる。
迫ってきた霊ののど元をえぐるようにダガーで突き刺し、ダーツの矢を投げる要領で、真正面へ向かって冷酷無残に射放った。
死霊という特急列車の通過をホームから見送るように、冷静な水色の瞳から霊はみるみる遠くなっていき、ひび割れたステンドグラスは、
ガシャンッッッ!!!!
ダガーから発せられるメシアの強い力で、派手に砕け散った。再び左腰元の鞘にしまったままの物質界のダガーへと手をかけ、霊界のものを取り出す。
左手に刃物を握ったまま自分の右肩へ向かって、自傷行為につながりそうな勢いで振り下ろし、
「そちらから来ると思っていましたよ」
「ウワッ!!」
苦痛の声が上がるが、幽霊の白い手に刺さるだけで、一瞬ゆらっと揺れてすぐに元へ戻ってしまった。
自分の体に浮遊霊の手がかけられてしまったが、優雅な聖霊師はなぜかくすりと笑う。
「困りましたね。正神界だったのですね、あなたは」
神父の体はぐらっと後ろへ傾き、そのまま四方八方から別の手たちが伸びてきて、肉体から魂が無理やり引きずり出された。
重力のかかる感覚が軽くなり、すぐ目の前に瑠璃色の貴族服を着た自分の後ろ姿が立っていた。
まるで糸が切れた操り人形のように床に崩れ落ち、自分を自分が見ている状況下でも、聖霊師の崇剛は優雅に微笑む。
「幽体離脱ですか。さて、どのようにしましょうか?」
このままでは死という出口のない迷路へと、悪霊たちによって投げ込まれてしまう。
メシアという霊力の高いものに惹かれ、浮遊霊は次々と集まってきてしまい、敵の数は最初の倍以上になっていた。
しかし、焦りという感情を簡単に抑え込める、崇剛の冷静な頭脳は絶えず正常に稼動中。
(そうですね……? こちらのようにしましょうか?)
同じ次元となった悪霊の手を、細く神経質なそれで直接剥がしながら、青白い触手の群れを次々とダガーで迎え撃つ。
「左右両方でしょうか!」
素早くダガーを分身させ、同時に短剣二本が銃口から放たれた弾丸のように、宙で鉛色の尾を引きながら離れてゆく。
「どちらも邪神界だったみたいです」
ふたつの悪霊が爆風を巻き起こしつつ、濁った大理石の上を横滑りしていき、祭壇と、
ズバンッ!
ガシャンッ!
ステンドグラスにそれぞれ磔となった。
それにしても、戦闘開始時に願った誰かは未だに出てこない。戦況は劣勢に傾きつつある。
「仕方がありませんね。あの方にも困ったものです」
神父の手に素早く握られた新しいダガー。次々に襲いかかる浮遊霊を縦横無尽にさけながら、聖霊師はあきれたように、天へ向かって問いかけた。
「どのような可能性を導き出されたのですか?」
可能性――
崇剛の思考回路を形作る言葉。
不浄な霊界で優雅な声が舞うが、それでも誰もこない。崇剛は霊を斬り裂きながら少しずつあとずさって、とうとう壁際へ追い詰められてしまった。
古い聖堂とはいえ、聖なる結界がうっすらと張られている。神に与えられたメシアを持っている崇剛は、もれずにそれに体をさえぎられてしまい、絶体絶命のピンチを迎えた。
手がふたつ同時に伸びてきて、聖霊師は両手首に手錠をかけられたようにつかまれてしまった。そのまま壁に強く押しつけられ、中性的な唇から思わず苦痛の吐息がもれる。
「くっ!」
優雅な神父は多くの悪霊に拘束されてしまった。手首をロープか何かで縛られたように、頭上高くへ無理やり持ち上げられる。
袖口で優美を
「っ……!」
聖霊師が持っていられなくなったダガーが強制的に戦闘不能へを追いやられる。ストンと床に落ち、縦に突き刺さった。
「苦しめばいい……」
「悲しめばいい……」
「死ねばいい……」
丸腰で無防備となってしまった神父へ、悪霊の青白い口から浴びせられる
死という
悪霊たちの怪力で、両腕はさらに高くへと引き上げられ、茶色いロングブーツは床から離れ、屈辱的な拷問を容易に想像させる吊り責めの形となった。
幽霊たちの優越感が
「それが寄越せ……」
「それがほしい……」
このままでは、本当の意味で犯さる――
(困りましたね。
自由が奪われた神父の冷静な水色の瞳はついっと細められた、至福の時というように。
(ですが、こちらで、勝つ可能性が非常に上がりましたね)
この場を乗り切るために、崇剛はわざと今の状況へと自分自身を陥れていた。つまりは冷静な策略家の聖なる
「それがほしい……」
崇剛の魂底へと向かって、次々に青白い手は濁流のように伸びてきて、霊力とメシアを根こそぎ奪われるそうになった。
どこの世界からもいなくなる――消滅。
それでも、崇剛の優雅な笑みは絶えることなく、恐怖という文字は己の辞書にあるが、冷静な頭脳で簡単に封印してしまえる、千里眼の持ち主は姿を現さない人へ問いかける。
「こちらのままでは、私が天へ召されますが、よろしいのですか?」
彼の中で勝算が上がってゆく。
魂の姿形――霊体。神――
敵の数が多すぎて、体を左右へねじさけてを繰り返しているうちに、霊体の髪を束ねていたターコイズブルーのリボンは、スルスルと床へ落ちた。
紺の長い髪はとけ、崇剛は急に女性的になってしまった。悪霊たちから死という強姦を受けているような有様だった。
しかしまだ、聖霊師は優雅に微笑み続け、冷静な瞳にはどうしようもないほどの数の悪霊を映しながら、
「また何か他のことをされているのですか?」
その時だった――
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