逢魔が時

 穏やかな春風が軽快なワルツを踊る。遠くで半円を描く地平線。誰もが感嘆してしまう景色。

 ついさっきまではそうだった。何もかもが正常に動いていた。

 だが今は吹く風はどこまでも冷たい。真綿のふりをして鎖のように重々しく、体にまとわりつくよう。

 頭上に広がる空は、西のほうにオレンジ色の綺麗な夕映が広がるが、東へ目を向けると、闇が禍々まがまがしく侵食し始めていた。


 ――逢魔おうまが時。

 昼と夜が交差する夕暮れ時には、人ではないものが現れると言う。

 命あるものが生きる現世うつしよ

 死後の世界である常世とこよ

 ふたつをつなぐ扉が開く時間帯。いつ、怪奇や心霊現象が起きてもおかしくはない。


 油断を少しでもすれば、色濃く現れた影――空間の歪みにとらわれてしまいそうな山道。

 この世と完全に引き離された闇へと押しやられてしまう。孤独と恐怖が待ち受ける不吉と化した時分じぶん。おどろおどろしい霊界への口がばっくり空いていそうだった。

 引き込まれたら最期さいご正気しょうきな世界へと二度と戻れないように、知らぬ間にこぎ出す死出の旅路。その波止場にすでに立っているかもしれない。戦戦慄慄せんせんりつりつ

 隣にある山の背に、昼の象徴である太陽が進軍してきた夜に、威力を奪われたように追いやられてゆく。

 影は最高潮に長くなり、ふたつの急いでいるそれが、乾いた土の上で無防備にゆらゆらと伸びていた。

 身を引き裂くような風は、谷底へと誘い込むように狂臭きょうしゅうを放つ。


 前を歩いていた、登山服を着た男が少しだけ振り返った。

「気をつけろよ」

「えぇ」

 男のあとから恐る恐るついてくる女の眼下には、黒い海のように見える雑木林が、はるか下で強風にあおられていた。

 一歩一歩慎重に足を踏み出すたびに、山肌を小石が転がり落ちてゆく。地獄の底よりも深くへ堕ちてゆくような断崖絶壁。

 ハイキングコースで転落用の柵があったが、夕闇に怯えているようで、役に立たないみたいだった。

 日が落ちてしまえば、転落の危険性は高まる。と判断するのは当然だ。男と女は夜がやって来る前に、急いで下山しようとしていた。

 崖と反対側ではうっそうとした雑木林がざわめき立てる。少し前までは陽気な旋律を奏でていた、鳥のさえずりも不自然なほど身を潜めていた。

 ふたりが通るたび、小石が落下の一途をたどる絶壁からは十分距離を開けて、男と女は登山口を目指す。

「そこ、滑りやすいからな」

「えぇ」

 ガラス細工のような繊細で美しい花が根元から抜かれ、男の背負うリュックのサイドポケットに囚われの身になっていた。

 風向きは谷から雑木林へと追いやるように吹いていた。落ちるはずのない歩き方。


 だがしかし――


 突然何の前触れもなく、真正面から後ろへ地面を削り取るように、砂埃をともなって、烈風がふたりの間を駆け抜けていった。

 風圧で足を踏み出すのが困難になり、女は砂が目に入り思わずつむった。

「っ!」


 その時だった――


 待っていたと言うように、右肩を後ろから強くつかまれたのは。

「え……?」

 女は自分の体が背後へ傾いた気がした。しかし、自分たち以外の気配はなく、誰もいないはず。


 それでもおかしいと思った彼女は、後ろへゆっくり振り返った――

 ところが人どころか虫一匹もいなかった。上りのハイキングコースが広がるだけ。

「変ね……?」

 首を傾げて前へ向こうとした。


 けれども――

 何かに引っかかったように、女の足がふともつれた。足元に段差があるわけでも、石が転がっているでもない。

 それなのに、誰かに足首をつかまれたように、地面の端――谷底へあっという間に引きずり込まれ、

「きゃぁぁぁぁっっ!!!!」

 あちこちの山肌に、女の悲鳴がガラスの破片が突き刺さったように響き渡った。男はビクッとして、素早く後ろへ振り返る。

「なっ!?!?」

 そこには、転落防止柵の隙間から身を半分、断崖絶壁に乗り出している女の姿があった。

「真里っ!!」

 今度は男が女の名を呼ぶ声が、山中にこだました。慌てて走り寄り、男は女に手を伸ばしたが、かすかに触れただけで無情にもすり抜けた。

「真里ーーーーっっ!!!!」

 男の悲鳴があちこちの山々で弾け散って、女という白い花びらがひとつ、谷底へ無残に、何の声を出すこともなく落ちていった――


    *


 ――治安省、聖霊寮。

 相変わらずうず高く積まれた未解決事件がつまった資料の山。合間にいるゾンビみたいな職員たち。

 スリラー、ホラーという言葉がぴったり来る部屋。その中のデスクのひとつで、国立はある事件資料を広げていた。

 カウボーイハットのツバは落ちてこないように、ゴツい指先でつままれている。鋭いブルーグレーの眼光は、紙に穴があくほど差し込まれていた。

 タバコの煙に汚染された空気を吸い込みながら、心霊刑事は古い事件を前にして、しゃがれた声でつぶやく。


「度重なる転落死亡事故? 多額の保険金? また、オレの目がおかしくなってのか? 現場げんじょうが一ミリもずれてねぇ、どんな玄人くろうとだ? マッチしすぎだろ」


 保険金をかけた人を連れていって、故意に落とした。それが普通の見解だ。罪科寮第一課から回ってきたと記載があった。

 場所がまったく同じ。そうなると、

「お化けさんの仕業ってか?」

 銀の薄っぺらい灰皿に乗せられていたミニシガリロ。国立はそれを取り上げ、青白い煙を口から吐き出す。

「かよ、肉体に宿ってる魂の仕業ってこともあるぜ?」

 幽霊ではなく、邪神界の魂がターゲットであり、国立は捜査範囲を勝手に狭めては、事件がお蔵入りしかねないと心得ていた。

 心霊刑事として、駆け抜けてきた一年とちょっと。その中で手に入れた勘という名の経験値。それを使ってこの事件を見つけ出した。

 手つかずになっている未解決の案件から、重要性が高いと判断したのだ。変色した紙にデコピンを食らわせる。

「初見はシンプル。がよ、本質は複雑っつうのはよくあるぜ。お化けさんの世界にはよ」

 幽霊が絡む以上、資料に載っている――今の時代の人物だけで起きている事件とは限らない。

 悩む。迷う。自身に幾度も問いかける。この事件の糸口がどこにあるのか。資料の隅々まで、鋭い眼光でアリ一匹見逃さないよう探し続ける。

「何がどうなって――」

「また新しい事件っすか?」

 左遷されたあの日から、日に一度は必ず国立のところへやって来る、若い男の声が割って入ってきた。

「あぁ?」

 ブルーグレーの鋭い瞳からは事件資料が消え失せ、気だるそうに視線をそっちへやる。

 そこには罪科寮から慕ってくれている二十代前半の若い男がいた。親指を立てて、全然オッケーですみたいに微笑んだ。

「兄貴ならすぐに解決っすよ!」

 軽々しく言いやがってと、兄貴は思う。机の上に並べてあった四枚の写真を、太いシルバーリングをはめた、人差し指の第二関節で、心霊刑事は左からトントンと順番に叩いてゆく。


「どれがじゃさんか、どれがせいさんか、わかんねぇんだよ。どいつしょっぴいて、歌わせりゃいいんだ?」


 さすが一年も仕事をしてきただけあって、兄貴の言葉は言い慣れたもんだった。

 それにしても、幽霊を感じる力はあっても、国立には見えないし、話もできない。邪神界の者によって人は幻を見せられる。嘘を事実だと思い込まされることなど簡単に起きるのだ。

 誰も乗っていないはずの救急車が走っているのを見た。人が入れるはずのない隙間に誰かいた。

 落ち着いて考えれば起こり得ない。それなのに、人は信じて恐怖に陥る。そんなふうに騙されて冤罪えんざいをかけたのでは、心霊刑事としては失格だ。

 それに比べて男は、心霊現象など映画か何かのフィクションだと思っている。シナリオ通りに進んでいけば、結末が絶対にある。

 若い男は気楽な気持ちで、国立に聞き返した。

「兄貴でも解けない事件なんてあるっすか?」

「オレはシャバだ。聖霊師じゃねぇ」


 輪廻転生は――魂の歴史。


 犯人をにらむことはできても、罪の重さは測りしれない。国立はそういう事件に数多あまた出会ってきた。

「ファイナルはやつらに手渡さねぇと、裁ける機関はねぇからな、現世うつしよにはよ」

 幽霊を逮捕して判決を下すことは、物理的に無理だ。だからこそ、聖霊師の存在が必要なのだ。

 彼らが心の声を聞いて判断した上で犯人逮捕――いや邪神界――悪の世界から足を洗わせるのである。

 一年ほど前に何かに導かれるように霊感を身につけた国立。そんな兄貴に向かって、若い男はニヤニヤした。

「霊媒体質じゃないっすか、思いっきり。三十過ぎてから開眼する――」

「受けろ、ジャンピング ハイキック!」

 古い回転椅子に今日もしっかり座っている国立は、若いのの言葉を素早くさえぎり、聖霊寮の不浄な空気にしゃがれた声をひずませた。

「おっす!」

 若い男は顔の前で両手を構え、また笑いの前振りをスルーしていった。ウェスタンブーツはスチールデスクをガツンと横蹴りする。

「座ってる状態でできるか! アホ。オレが飛び上がって、てめぇの頭に蹴り入れんだろうが!

「すまないっす!」

 若いのはペコリと頭を下げた。

「好きでなったんじゃねぇ。オレはガキか。見えねぇもん、フィーリングするようになってちまって。純真無垢ってか」

 神だか何だか知らないが、珍奇なものを自分にくれた野郎に、兄貴はことあるごとに文句を言っていた。

 聖霊寮のよどんだ空気に喝が入り、同僚たちは一瞬びくついたが、いつものことだった。ウェスタンスタイルで決めている男は机を蹴ったり、物を投げたりと色々雑なのだ。

 一年前から始まった爆音の原因を突き止めて、他の職員たちはすぐに死んだような目で、それぞれ時間をつぶし始めた。

 若い男は興味深そうに、国立の手元をのぞき込む。そうして、四枚の写真を見つけ、聖霊寮の応接セットを時々訪れて、高貴な花を咲かせてゆく男を思い浮かべた。

「あの人んとこ持っていくんすか?」

「崇剛には頼れねぇ。やっこさん、ここんとこ出ずっぱりだ。またぶっ倒れんぜ」

 国立は少し厚みがある唇にミニシガリロを挟み、青白い煙を黄昏気味にふかす。

 邪神界の手口は巧妙になり続けていて、メシア保有者の崇剛でないと、解決できない事件が増えてきた。

 目に見えないが、誰かの命がいつも隣り合わせの事件たち。それなのに、他の職員は何もしない。そんな中でもひとり勇猛に立ち向かっている兄貴。

 その背中をいつも見てきた若い男は目をキラキラ輝かせた。

「兄貴、優しいっすね!」

袈裟斬けさぎりチョップ!」


 後輩のトゲトゲ頭に、国立の手が直角にスリッパでスパーンと叩くように落とされた。心霊刑事の胸元で、ふたつのペンダントヘッドがチャラチャラとぶつかり合う。

 プロレスの技をまともに食らった男は顔を歪めて、頭を思わず両手で押さえた。

いてぇっ!」

「チョップは座っててもできんぜ」

 フェイントをかけた国立は満足げに微笑んだ。軽く息を吐いて、葉巻を灰皿に投げ置く。

「とりあえず、他の聖霊師あたっか」

 兄貴は手に持っていた事件データの紙を机の上は少し乱暴に置いた。すると、砂漠を猛スピードで走り込んできて、急に止まったようにちりが舞い上がった。


 ひと段落した会話――。

 若い男は両手にひとつずつ持っていた缶コーヒーを、右手のだけをさっと差し出す。

「買ってきたっす!」

 受け取ったはずみで、缶にシルバーリングが当たり、カチャンという音が聖霊寮の不浄な空気ににじんだ。それはまるで、何かの試合が始まるゴングが鳴ったようだった。

 男らしい厚い胸板の前へ缶を持ってくる。出てきた文字が文字なだけに、穴があくほどよく凝視する。

 三十八歳の国立。視力は極々良好。老眼の走りかと言えば、今のところ支障なし。

 缶コーヒーとキスでもするのかを思うほど、顔の近くへ持ってきた。焦点が合わないことで、ある意味文字化けを起こす。

 そうして今度は、銀河系の一番外側を回る惑星のように、手を最大限に離して、その文字をブルーグレーの鋭い瞳に映してみた。

 だがしかし、その文字は一年前と変わることなく同じだった。国立のガサツな声があのセリフをリバイバルさせる。


「オレの目がおかしくなってんのか?」

「おう?」

「てめぇ、また無糖買ってきやがって!」


 国立は缶コーヒーを、若い男へ向かって豪速球で投げつけた。キャッチした男は自分の持っている缶とそれを見比べて、すぐさま左手を差し出す。

「間違ったっす! これは俺んす」

 無糖を飲む若造の胸を、兄貴は手の甲で軽くトントンと叩いた。

「ガキのくせに、無糖なんかドリンクしやがって」

 カフェラテを渡しながら、若い男はにやけながら軽いジャブを放ってくる。

「兄貴もそろそろ卒業したらどうっすか?」

「うるせぇ! オレは味覚がガキのまんまなんだっつうの!」

 国立は今もしっかり座ったまま、技の名前を叫んだ。

「受けろ、シャイニング ウィザード!」

「おっす!」

 若い男は両手をキツく握りしめ、構えの姿勢を取った。

 しかし、兄貴は放置して片手で缶を開け、シガーケースをジーパンから取り出した。慣れた感じでロックを右手だけではずす。

「座ってる状態でできるか! アホ」

 茶色の細長な縦線がぎっちりとつまっていて、甘く苦い香りが鼻腔へ滑り込んできた。細いミニシガリロを折らないように、静かにケースから抜き取る。

「助走してから、てめぇの足を踏み台にしてオレの膝が入んだろ!」

 取ってもらえない笑いの前振り。というか、スルーするという前振りを返されているのかと勘繰るほど、若造ははずしてゆくのだった。

「すまないっす!」

 謝ってくるところを見ると、マジボケのようだ。

 ミニシガリロは鋭いブルーグレーの眼光の前で、クルクルと回されながら、ジェットライターの火でムラなく炙られる。灼熱色の炎ができ上がると、国立は反対側を口にくわえた。

 芳醇な煙を吸い込む。肺に入れず、吐き出したと当時に、

「てめぇ仕事しやがれ。税金、無駄に使ってんじゃねぇよ」

「また来るっす!」

 若い男は缶を握りしめたまま、自分の部署へ全速力で戻っていった。

 古い回転椅子をギシギシと軋ませて、男らし足を直角に組み、国立は葉巻を持つ肘を机の上に気だるく乗せた。


「何つうんだ? このバッドなフィーリング……」

 真っ黒なペンキが自分のまわりを塗りたくってゆくような感じがした。

「今までのコロシとはディファレント……」


 転落死亡事故。何度振り払っても、霊感と刑事の勘に引っかかるのだ。


 柔らかい灰がぽろっと床の上に落ちても、鋭いブルーグレーの眼光は事件資料に向けられっぱなしだった。

「どいつがどいつに殺されたんだ?」

 四枚の写真を順番に叩いてゆく。カツンカツンと太いシルバーリングで犯人に近づいてゆくように。

「まぁ、ノーマルに考えりゃ星はこいつだろ」

 唯一男のものを取り上げた。しょっぴいたというように、机の上に手裏剣のように写真をシュッと投げ置く。

 椅子を後ろへ大きく引き、ウェスタンブーツの両足をデスクの上にどかっと乗せた。見えない世界へと挑むように、黄ばんだ天井へ向けられる鋭い眼光。

「がよ、常世ってのは複雑怪奇だ。邪さんは足の引っ張り合いっと」

 自分のことしか考えていない人間の集まりは、やけに滑稽こっけいだと国立は思う。

 肉体は嘘をつくことができるが、魂――心は本性が無防備にあらわになる。心霊刑事――国立は本当の人間の闇にいくつも出会ってきた。

 もうすぐ幽霊たちの時間が訪れる夜へと移りゆく、オレンジ色の夕暮れを眺めた、山積みの事件資料に囲まれながら。

「やっぱダヒドフに限んな」

 もともと香水会社が製造した、他の銘柄よりも香り高い葉巻。

 ウェスタンスタイルで決めている、ガタイのいい男は春の洛陽を背負い、くわえたミニシガリロからは青白い煙がゆらゆらと立ち昇る。


 黄昏た男のロマン――

 ドバーッ!

 両脇に積み上げてあった資料の山が雪崩を起こした。まったく解放されない、一年以上囚われっぱなしの、忘却と放置という名の崩壊劇。

「どうやったら、この呪縛から逃れられんだ?」

 どか雪が積もったみたいな白い紙の山から、ウェスタンブーツの足を抜き取る。スチールデスクを蹴り飛ばし、国立は鼻でふっと笑う。

 そうして、ミニシガリロを口から手に持ち替え、紙の一枚にそうっと近づけた。


「燃やすか、こいつでよ。たら、呪いとかれしになんだろ」


 小さな灼熱色はメラメラと紙に燃え移り、黒い輪を描いてあっという間に広がり、聖霊寮ならず、治安省が全焼。そうして、国立は平和という名の国へ無事に帰り、王子として優雅な暮らし――


 放火罪を起こそうとしていた心霊刑事はふと手を止めた。

「何言ってんだ? オレ。しょうに合わねぇ、って……」

 国立は悪寒が走り、プルプルと身を震わせて、もう一度スチールデスクを蹴飛ばした。

 心霊刑事の鋭いブルーグレーの瞳には、夕暮れの空を飛んでゆくカラスが、地味に笑っているように、カーカーと鳴きながら飛んでゆく姿が映っていた。

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