Beginning time/1

 一年前の芽吹きの春。

 その象徴。黄色いちょうがヒラヒラと飛んでゆく――


 綺麗に整備された石畳の上を春風が吹き抜け、砂埃すなぼこりが舞う。

 細い車輪が横切りながら、チリンチリンとベルの鳴る音が入り乱れると、蝶は輪舞曲ロンドを楽しげに踊るようにすり抜けてゆく。

 一段高くなった歩道には、様々な靴の音が足早に通り過ぎて近づいてくる往来おうらい。首都という雑路を作り出していた。

 人と自転車の流れの脇で、馬のひずめが乾いたリズムを刻み、重く大きな車輪が石畳を削るように横切ってゆく。

 左右から交差する馬車の川。向こう岸にある赤レンガの立派な塀は巨大な山脈が長く連なっているようだった。


 正門の柱には黒を背景に、金の筋がつづる文字――治安省。

 大陸の東に位置する、人口五千万の小さな国――花冠国かかんこく。そこの犯罪を取り締まる機関。


 独自の文化を遂げた和と洋――着物や袴姿、西洋ドレスや貴族服が織りなす人混み。時折数人が道からそれて、重厚感漂う門の奥へと吸い込まれてゆく。

 スミレが可愛らしい顔を見せるロータリーの植え込みには、銀の旗ポールが空へとそびえ立つ。国旗と治安省の旗が空の中で、弾劾だんがいの風格を放っていた。

 入り口から蝶はそれて、建物沿いに植え込みの間を通り過ぎてゆくと、規則正しく並ぶ四角い窓が現れた。

 私服と警官のような制服を着た人々が、デスクに座って何かをしたり、紙を手に持ち、話し合っている姿が活気的な空気を織り成していた。

 柱を何本か見送る形で奥へさらに入ってゆくと、建物の一番端の部屋へたどり着いた。優美に飛んでいた蝶は、雷が落ちたかのような衝撃で一気に目が覚めたようだった。


 見てはいけないものを見てしまったように、蝶はくるっと向きを変えて、どこかへ飛んでいってしまった。

 そこはさっきまでとはまったく違い、全体的に黄ばんだ空間。人はいるのだが生気せいき皆無かいむ

 窓から入り込んだ風は春の平和な匂いが混じっているのに、部屋へ入った途端、濁った空気のおかげで穏やかさは一瞬にして破壊された。

 乱雑に置かれたファイルや資料の山。その谷間にいる職員たちはどこかぼんやりとしていて、吐く息はやる気ゼロ。


 ここは治安省の末端組織――聖霊せいれい寮。

 目には見えないもの、幽霊――心霊関係の事件を取り扱う部署。

 通常では取り締まれない事件は、全てここへ回ってくる。その量は膨大。手つかずになり、机の上に放置されっぱなしのまま。

 引き継がれることも忘れ去られ、未解決の事件の数々。それでも平和に世の中は動いている。


 いわゆる、治安省の墓場――。

 ここに回されたら最後。二度と表舞台には立てない。

 きちんと整列された机に死んだような目をして、事件をだらだらとやり過ごしている職員たち。


 その一角で、異彩を放っている男がいた。少し厚みのあるひび割れた唇で、タバコサイズの葉巻――ミニシガリロから青白い煙が上がる。

 苦味と辛味が舌にストレートパンチを鋭く与える。くわえタバコのようにしていると、柔らかい灰がぽろっと床へ落ちた。

 トレードマークのカウボーイハット。そのツバを指先で上げ、さっきから目の前にある小さな缶を、穴があくほど思いっきりガンくれていた。その瞳はブルーグレーの意思の強い眼光。

 やがて男はたどり着いた。今自身が立たされている状況――いや気持ちを表現できる言葉に。

 これ以上ないくらいあきれたため息をつき、喧嘩っ早そうな雑な声が葉巻の横からスレ出た。


「ドン引きだ……」


 埃だらけの机の上に乗せられた小さな缶。太いシルバーリングがはめられた指二本で挟み持ち、もう何回やったのかわからない仕草をした。

 鉄を熱して切断するような鋭い眼光を浴びせならぐるっと一回りさせた。やがて出てくるコーヒー豆のデザインと文字を、あちこちから眺める。


 目を凝らす。流し目。上目遣い。上から目線。目を細める……。

 とにかく目の動きというものは全てやってみた。


 しかし、どうやって見てもその文字は変わらない。そうして、男はこの結論にたどり着いた。

「オレの目がおかしくなってんのか?」

 自身を疑い始めた彼は、目の前で展開されている事件の真相へと迫った。


「どっからどう見てもだ……」


 なんてことはない。無糖の缶コーヒーが机の上に乗っているという、よくある話だった。

 しかし、国立くにたち 彰彦あきひこ、三十八歳。二メートルに迫る背丈で、ガッチリとした体格にとっては死活問題なのだ。

 話す言葉に横文字をわざと入れる癖あり、変な風に短縮したりと、少々遊び心を持っている、この男。

 藤色の少し長めの耳にかかる短髪で、ハングリー精神旺盛なハンサムな顔立ち。

 性格は粗野そやで男気があり、面倒見がいいところが同性に慕われ、この名前で国立はよく呼ばれる。

「すまないっす、……」

 男らしい大きな体が古い回転椅子をきしませている隣で、これまた喧嘩っ早そうな二十代ぐらいの男が所在なさげに立っていた。

 そうして、国立の趣味――プロレスの技をかけるが出る。椅子にしっかりと、と座っている状態で、兄貴は口の端だけでふっと笑い、

「てめぇ、回し蹴りバックだ!」

「わかったす!」

 若い男はボクサーのように両手を前に構えて、技を受ける体勢を整えた。

 オレが笑いの前振りをしたのにスルーしやがって――と、国立は心の中で思いながら、

ジョークだ」

 節々のはっきりした指で、笑いを取ることも好きな兄貴は、若い男の額にデコピンした。

「座ってる状態でできるか! アホ」

「すまないっす」

 男は構えを解いて、ペコリと頭を下げた。


 国立の脳裏で再生される、回し蹴りバックが。椅子から不意に立ち上がり、片足を後ろへ蹴り上げるようにして、体をひねりキックをお見舞いし、若い男が何もかもなぎ倒して、聖霊寮の壁に叩きつけられる――。


 片手で慣れた感じで缶を開け、葉巻は銀の薄っぺらい灰皿へ置かれた。無糖の缶コーヒーが口に運ばれ、琥珀色をした液体が体の中に入ってゆくが、国立はボッコボコにノックアウトされた。

「はぁ〜、苦ぇ……」

 飲んでしまったばかりに、耐えがたい味覚に翻弄ほんろうされるしかな運命で、思わず声がもれ出た。

 自分の体を侵食するような、酸味と苦味を追い払うため、葉巻をまたくわえると、若い男が顔をのぞき込んできた。

「早く戻ってくれっすよ」

「あぁ?」

 暑くて仕方がないというような気だるい声で、国立は聞き返した。灰皿に葉巻をこすりつけて火を消す。

 両腕を頭の後ろへ回し、足を男らしく直角にして横向きに組んだ。椅子に押しかかると、ギギーと濁った悲鳴みたいなものが上がった。

 長さの違うペンダントヘッドが厚い胸板の上で、チャラチャラと音を歪ませ、兄貴はやっと口を開いた。

「もう戻れねぇだろ」

 来年で四十代に突入する国立はどこかあきらめ気味に言った。若い男は両手を胸の前できつく握りしめて、若さ全開で突っ走ろうとする。

「そんなことないっすよ!」

 国立は全ての光から逃げるように、帽子のツバを深く引っ張った。縦社会で起きる理不尽な出来事を口にする。

「やつの胸ぐら、つかんじまったんだからよ」


 真っ暗になった視界でなぞる――。


 国立は先週まで聖霊寮とは違う、罪科寮ざいかりょう第一課にいた。殺人事件などを扱う、治安省の花形。

 数々の事件を、闇から明るみへと引っ張り出し、次々と功績を上げてきた国立。しかし、ほんの些細なことで、有力な政治家に顔が利く上司に楯突き、ここへ左遷させんされた。

「兄貴は悪くないじゃないっすか?」

 椅子を後ろへ大きく引き、ウェスタンブールの両足を机の上にどかっと乗せると、かかと部分についているギザギザの金属――スパーが引っかき傷を作った。

 よどみ切っている空気を、ごうれば郷に従えで吸い込み、左遷刑事は納得できないながらも前向きに取ってみた。

「運命――なんじゃねぇのか?」

「かっこいいっす、兄貴!」

 言葉のチョイスに惚れ直した男は、聖霊寮の死んだような人々にかつを入れるように、大きなかけ声をかけた。

 兄貴にはカンフル剤となって、国立は反対側へサッと身をよじりながら、

「……てめぇ、それ受け取りやがれ」

 ミニシガリロの高級な箱は、シルバーリングをした手から若い男へ無造作に投げられた。

 兄貴は心の中でひどく後悔する。

(言ってから気づいたけどよ。オレ何言っちまってんだ? 恥ずかしいから、こっち見やがんなよ)

 背を向けている国立の心情がわかって、若い男はゲラゲラ笑い出した。

「そこでマジボケっすか!」

 ウェスタンブーツのスパーは不浄な空気を引き裂くように素早く床へ下された。国立は机の上に乗っていた資料の山をつかみ、若い男へ向かって軽く投げつける。

「うるせぇ! 受けろ、ランニング エルボー!」

「おっす!」

 若い男は両手を握って構えを取った。パサパサと紙が床へ落ちる音に、国立の雑な声が混じる。

「ジョークだ。座ってる状態でできるか! アホ」

 その名の通り、助走をつけて肘で攻撃する技。兄貴は今もがっつり着席中だった。

 落ちた資料はそのままに、国立は机の上から一枚の写真をつかんで、空中でピラピラと見せびらかした。

「墓場は墓場で、違う角度からいろいろ見れんぜ」

「兄貴らしいっすね、その言葉」

 素直に褒められて、居心地が悪くなった国立は、恥ずかしさを隠すために、スチールデスクの足に蹴りをガツンと入れた。

「ごちゃごちゃ言ってねぇで、てめぇ仕事に戻りやがれ!」

「また来るっす!」

 威勢よく言って、若い男は部屋から去っていこうとする。その背中に、さっきの凝視事件が二度と起きないよう、兄貴は釘を刺した。

「今度やったら、ドロップキックだ!」

「おっす」

 若い男は一旦振り返り、軽快に答えて聖霊寮から廊下へ飛び出していった。不浄な空気の中で、兄貴はひとりごちる。


「オレは甘党だ。無糖のコーヒー買ってきやがって……」


 おごってやるからと言って、お金を渡したのに、違うものを買ってこられるという珍事。文句のひとつぐらい出てしまうのだった。

 手に持っていた写真を、帽子の下からのぞき込む。気品漂う男がひとり写っている。鋭いブルーグレーの眼光は、机の上に広げてある資料に落とされた。

崇剛すがた ラハイアット……三十二歳。出生不明……」

 足を軸にして椅子を左右に回しながら、さらに情報を追ってゆく。

庭崎にわさき市……ベルダージュ荘在住。……聖霊師、神父」

 ずいぶんと浮世離れした職業をいくつもする男で、罪科寮にいた国立がどんなに理解しようと努力しても、右から左へとデータが抜けていってしまうのだった。

 そうして、聖霊寮でしか知り得ない、ディープな世界へと入ってゆく。

「霊、天使が霊視可能。除霊。短剣ダガー使用による浄化」

 霊感はまったく持っておらず、その手の話も半信半疑。国立は非日常を前にして、胡散うさん臭そうに部屋を見渡す。

「聖霊師……。悪霊を倒す職業……てか。映画かなんかみてぇだな」

 信じてもいないスピリチュアルワールドで、国立は精神まで左遷されたようだった。

 他の聖霊師の経歴も疑わしいものばかりだったが、極めつけがこの男しか持っていないスキルだった。国立は思わず、吐息をもらす。


千里眼せんりがん特殊能力メシア……」


 しかしそれよりも、おかしいものを若い男が来る前に、左遷刑事は見つけていた。反対の手を伸ばし、タバコの火が落ちて焼け焦げ、茶色く変色した紙をもう一枚つかんだ。

「がよ、これもオレの目がおかしくなってのか?」

 崇剛のデータが印字された紙を、国立は今度穴が開くほど見つめていたが、やがてしゃがれた声でボソッと言った。


って字に見えんだよな……」


 いくら見えないものを信じていなくても、国立もさすがに違和感を強く抱いた。

「お化けさんにゃ、毒は効かねぇだろ、どうなってんだ?」

 辻褄つじつまが合っていないし、たとえそうだとしても、それはそれで危険な人物だ。急に寒気がした気がして、無糖の缶コーヒーに手を伸ばし、苦味と酸味で気持ちを入れ替えた。

「触らぬ神にたたりなしってか……」

 崇剛とおさらばするために、紙を持つ手を下へだらっと垂らした。しかし、刑事の勘に何かが引っかかり、再び眼前に持ってきた。

「がよ、何だ?」

 黄ばんだ壁。よどんだ空気。ゾンビみたいな同僚たち。不浄の代名詞と言ってもいい空間。

 その水面みなもに一石投じたように聖なる波紋で浄化したようだった。崇剛の写真がその石のような感じがした。

「このストレンジ感覚フィーリングは……」

 一瞬まわりの色形がゆがみ、今までの人生で感じたこともない、別の感覚が引き出されたような気がした。

 自分を包み込む世界――いや宇宙そのものが次元の違うチャンネルへと無理やり変えられてしまったようだった。

 何とも言えない体験で、国立はしばらく考えながら、あちこちに視線を乱れ飛ばしていた。

 さっきまで平気で過ごせた聖霊寮だったが、今は重く息苦しい。何かが違う。うまく説明はつかないが。

 黄ばんだ部屋と不浄な空気。死んだような目をしている同僚たちは相変わらずで、特に変わった様子もない。

「気のせいか……」

 二口でギブアップした無糖のコーヒーを、灰皿へざばっとかけた。

 罪科寮では敏腕刑事だったが、聖霊寮では新人。それなのに、態度デカデカで椅子に浅く座り、ウェスタンブーツの両足を机の上へ放り投げた。

 昼寝をする要領で帽子を顔の正面へずらし、両手を腹の上で軽く組む。目を閉じてゆったりと呼吸をしながら、ここ一週間のことをまぶたの裏でなぞる。

(飼い殺し、墓場だ。他じゃ扱えねぇ代物しろもんばっか、適当に回してきやがって)

 炎天下でさらにあぶられるように熱風に吹かれる、うだるような暑さ。どうしようもなく気だるいようなため息をもらす。

「はぁ〜……」

 遠くのほうでさっきからまったく仕事をせず、談笑している声が聞こえてくる。

(だいたい、ここにいる野郎ども、オレ含めて霊感なんて珍奇なものは持ってねぇだろ。っつうことは、聖霊師に頼まねぇと、仕事は進まねぇってことだ)

 一週間近く軽くさらってきた事件の記録が頭の中で迫ってきては、あっという間に遠ざかってゆく。

普通ノーマルに考えりゃ事故だろ、全部オールここにあんのは)

 国立は足をどさっと乱暴に落として、無造作に積まれた紙の山から一枚無理やり引っ張り出した。

 放置と忘却の彼方かなたという名がふさわしい紙の塔が、絶妙にバランスを崩す。それを気にすることなく、国立の鋭い眼光は紙へと向けられた。

「度重なる衝突事故。多額の保険金……」

 投げ捨てるように事件資料は机の上に乗りそびれて、床へ向かってひらひらと舞い散った。節々のはっきりした指先で、藤色の頭をガシガシと強くかく。

「れは、あっちじゃねぇのか? 保険金目当ての当たり屋だろ、ノーマルに考えりゃ。ってのがお化けさんとか関わんのか?」


 あのトンネルで、あのカーブで事故が多発する。よく聞く話だが、見通しが良くないのが理由だろう。

 バカバカしくなってしまい、机の下で足を乱暴に組み替えた。同僚がビクッとしているのを放置して、国立はまた長いため息をつく。

「はぁ〜……。オレはシャバだからよ。聖霊師の気持ちもわかんねぇし、生きてる世界が異質ディファレントだろ」

 否定するつもりはないが、受け入れるつもりもない。四十近くにもなると、そうそう他人の意見に流されなくなってくるものだ。

 ポケットから銀のシガーケースを取り出し、右手のひらでロックを外してパカっと開くと、赤茶のミニシガリロはどこにもなかった。

 後悔先に立たずで、国立は藤色の短髪をガシガシとかき上げる。

「さっきのが最後ファイナルってか。あげちまったもんはしょうがねぇしな。タバコでしのぐか」

 ミニシガリロは高級品。デーパトなどに行かないと手に入らない。

 国立は椅子から気だるそうに立ち上がって、ウェスタンブーツのスパーをかちゃかちゃと鳴らしながら、タバコの煙でモヤがかかっている聖霊寮の部屋から出ていった。

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