飯山さんとデート?①
六月も終わりが近づいたころ。暖かい、というよりはもはや暑くなりつつある日曜日の朝。惰性で歯を磨いているとポケットの中でスマホが振動した。飯山からの連絡だ。
『今日暇?』
絵文字もスタンプもない、飯山らしい文章だが、俺は動揺して歯ブラシが口から落ちかけた。慌てて口を漱ぎ、アプリを開いた。
飯山とは何度か連絡をしていたが、人間らしいメッセージが送られてきたのは初めてだった。普段何が送られてきていたかと言えば、ゲームニュースのURLがほとんどで、意味ある文章はこれが初めてだ。恐らく飯山を知らない人からすればゲームニュースbotだと思うことだろう。
『ああ、暇だけど、どうかしたか?』
『尾形が前言ってたクレープとかパンケーキとか、食べてみたいと思って』
俺は目を疑った。ゲームに日々明け暮れている飯山からの、クレープが食べたいとのお誘いだった。どういう風の吹き回しなのだろうかと思っているうちに、次のメッセージが送られてきた。
『あと都内のゲーセンにVRゲーが出てるみたいだから、どう?』
その返事に俺は安堵した。パンケーキやクレープの興味が、ゲームに勝る飯山の姿はあまり見たくないと思った。だが、同時に少し落胆を覚えている自分がいた。俺は、その落胆の正体を知るよりも先に「ゲームをしに行くんだな、それでこそ飯山だ」とネガティブ感情を誤魔化す。
『いいよ。学校近くの駅前集合でいいか』
『うん。極力マッハで。すぐ準備して。外出準備RTAスタート』
RTA、ゲームでのリアルタイムアタック、つまり実際にクリアまでの時間を測定するやり方だ。俺は飯山のジョークににやけながらも不安を感じた。飯山のこのセンスではゲームにもネットにも疎い人間とコミュニケーションをする際はさぞや苦労するだろう。しかし、飯山が一般人に理解しがたい冗談を吐くのは俺が相手だからである、と考えると苦笑がこぼれた。
飯山にそこまで急かす意図があるとは思えないが、俺は準備を急ぐことにした。自由にゲームができない飯山にとって、今回の外出は胸弾むイベントのはずだ。飯山の心情を察するならば、一秒でも早く遊びたい、一秒でも長く遊びたい。そう思っていることだろう。俺は衣服が詰め込まれたカラーボックスから適当な衣服を引っ張り出した。ろくな確認もしないで袖に手を通すと、玄関へと下り、靴を履いた。これでいつでも外出できる。しかし、ふと確認するとポケットに財布がなかった。どうやら自室に置きっぱなしにしたようだ。
自室に戻ろうという振り向きざま、俺は玄関に置かれた姿見で自分のファッションを目にした。猫柄のTシャツとダボダボのチノパン。髪の毛は申し訳程度に整えられているが、正直、不潔の二文字が頭をよぎった。
「あー、うん。まあ……」
ダメだ。こんな格好で飯山には会えない。
俺は自室に戻ると、カラーボックスを全開にして、いよいよ真剣に服の物色を始めた。きっと飯山はなにも気にせずに来るだろう。なにも思わず、いつも通りのテンションで「おはよ、尾形」と挨拶をしてくるだろう。俺の格好とか少しも気にしないだろう。しかし、飯山と、遊びと言えど二人きりというTPOに対して、手を抜いた格好をするのは俺の矜持に反した。加えて、飯山に対して無礼だとも感じた。飯山がそう思わなかったとしても。
俺は見苦しくない組み合わせを頭の中で考えながらも急いで衣服を取り出した。ゆったりとした紺のTシャツとデニム。この服に着替えて、髪の毛は適当にワックスで整えればそこまで見苦しいことにはならないだろう。俺はワックスを頭に散らしながら、早歩きで家を出た。駅に向かいながら髪の毛を整えるのは行儀が悪いかもしれないが、タイムアタックとしてはなかなか正解の動きだろう。
駅には10分とかからず到着した。小さな駅なので、俺は、なんとなくパーカー姿の飯山を想像しながら辺りを見回したが、どこにも飯山の姿はなかった。そういえば飯山とは結構な回数遊んでいるけれども、彼女の私服を見たことは一度もなかった。もしかしたら、彼女の姿を見落としているかもしれない。俺は連絡をしようとスマホを取り出したが、スマホの画面に触れて、自分の手がべたついていることに気づいた。先ほどのワックスが、見た目は透明ながらも、手のひらのあちこちに潜んでいるのが分かる。俺の爪はそれほど長くもないのに、指との隙間に白い油が入りこんでいた。これは汚い。
ぱっと見た辺りで飯山の姿は見当たらなかった。仮にいたとしても手を洗うくらいは問題ないだろう。俺は駅構内のトイレの洗面台を利用して、ついでにあまりに適当なセットをされた毛髪たちを整えた。笑うにも笑えないボサボサの髪形を、飯山に見られなかったのは救いだ。
トイレから戻り、再び駅構内を見渡すが、景色はあまり変わっていないように思えた。若い男たちがコンビニ前で何かを話していたり、初老の女性が電話で待ち合わせの相手を探している。……どこにも飯山らしき姿はない。
『着いたけど、もういる?』
飯山に確認を取ると、メッセはすぐに返ってきた。
『さすがにリアルだと尾形に勝てない。今、家出たところだから待って』
飯山は割と準備に時間をかけたようだ。もしかしたら、朝起きて一番に思いついた計画なのかもしれない。寝ぼけ眼で俺に連絡を取る飯山を想像して、すぐに俺は邪念を払うように頭を振った。朝起きて飯山がすぐに考えたのは俺の事ではなくゲームのことだ。あとクレープとパンケーキ。ゲーム、クレープ、パンケーキ……。そんな風に脳内を落ち着かせようとしても、勘違いしているだろう可能性を俺は否定できなかった。
……飯山は俺にだいぶ好意を寄せてくれているのではないか。
もしこれが普通の女子との約束だったら、俺は好意を寄せられている、と考えるところだが、相手は飯山だ。ブログなんかで取り上げられている好意のサインだとかドラマにある恋愛物語は正直参考にならないし、飯山には不適切だろう。
そうやって悶々としているうち、後ろから肩を叩かれた。
「おはよ、尾形」
声で飯山だと分かった。
「おう、おは――」
声の方へと振り向けば、そこにパーカー姿の飯山がいるはずだった。しかし、予想外だったかそれ以外のなにかか、俺の思考は一瞬の停止を余儀なくされた。
アホ毛は健在ながらも整えられた髪。デニムのショートパンツに黒いTシャツ。上には薄手の緑のコートを羽織っていた。コートの裾が、露わにされた膝をちらちらと隠していた。靴はマットな質感の黒いブーツで、いつもより飯山の背丈を伸ばしており、飯山と顔の距離が近く感じた。
「えっ……飯山めっちゃ……」
かわいいと言いかけて、言い方を考えた。
「……おしゃれだな」
万一、かわいいと言ったらキモいと言われる未来が見えたので、俺は言葉を濁した。キモいという言葉はこの前の昼休みの時だけで充分だ。
言葉の間に気づかなかったのであろう飯山は、褒められて、したり顔を浮かべた。
「ありがと。尾形もさすが陽キャじゃん。おしゃれゲーマーだよ」
「やめろ、ゲーマーにその形容詞が付くと――」
「キモい、でしょ? わかるわかる。つまり私もキモいわけだ」
飯山は妙に誇らしげだった。ゲーマーをキモいというくせにかっこいいと憧憬の色を行動や言葉ににじませるいつもの飯山の癖。もうすっかり慣れてしまった俺には言及する気はなかった。
「まさか私みたいなのがこんな私服だとは思わなかったでしょ」
「ああ、七分袖のコートとか持ってるとは思わなかった」
これは素直な感想だった。俺の頭の中ではせいぜいワンピースが関の山だろうと思っていたが、飯山はどうやら一通り、いやそれどころか自分に似合うファッションというものを把握しているようだった。俺は飯山に陽キャと称されていたがおしゃれは並大抵の人間だ。それよりは全然レベルが高い。
しかし、飯山は俺の言葉にこてん、と首を傾げた。
「七分袖……?」
「えっ、あの、手首が見える袖の長さ……七分袖って言わないのかもしかして」
俺は不安になりながら聞いた。俺の中の知識はもしかしたら時代遅れとまではいかないにしても流行遅れなのかもしれなかった。
飯山は少し自分のコートの袖口を眺める。眉を潜めて凝視をし、何かを考えているようだったが、あー、あー、と声を出した。
「ああ、うん、そうも言うよね! 七分袖!」
俺は飯山の動作を少し怪訝に思ってコートを眺めていた。流行遅れだとして、それほどまでに理解に時間がいるだろうか? ふと、飯山のコートの裏地にちらりと白いものが見えた。まさかな、と思ったが、一応確認をしてみることにした。
「……。飯山さん、ちょっとモモンガみたくバサーッてしてもらえます?」
「ん? こう?」
広げられたコートの右手側。そこには真新しい値札がくっついていた。俺は額に手を当てた。
どうしよう。これは推測だが、飯山は最近この服を買ったみたいだ。
俺はこの事を伝えようかどうか迷った。迷ったからこのポーズをさせた。ちょっとおちょくってやろうかな、と考えていたのだ。しかし、先ほど見せた飯山のどや顔を見て、気が変わった。あれを見る限りこの事で飯山を弄ってしまったら、彼女のメンタルは結構なダメージを負うと思った。友人と遊びに行くだろうからと服をわざわざ買いそろえ、意外とおしゃれだろうとアピールする飯山の心情を想像するとこの状況の打開とは別の思考が湧いた。可愛い。俺はその感情のせいで緩んだ口元を手で軽く抑え、いかにも飯山のファッションを評価しているようにして誤魔化した。
気づかないふりをするのは良しとして。どうやってあの値札を排除しようか。俺の頭はそれを考えた。まあ、放っておいてもいいかもしれないが、値札の存在にはいずれ気づいてしまうだろう。見られていないことを願うのも可能ではあるだろうが、今こんな態勢をさせてしまっているのだ。飯山は値札を見られていないという自分への言い訳がしづらくなる。
つまりあの値札をコートの裏地から撤退させないことには飯山に安寧は訪れない、ということで、それは俺も同様だ。一介の値札ごときに今日という日を邪魔されたくはない。
「もういい?」
飯山がばさりと手を下ろした。腕が疲れたようで、ぱたぱたとほぐすように遊ばせている。
「ああ、なんか、中に可愛い服着てるなって思ってさ、ありがと」
俺はとりあえず主目的からは誤魔化すことにした。これで飯山はコートの裏地には疑問を持たないはず。しかし、思案を再開しかけたとき、あれ? と自分の行動に疑問を持った。
俺、今かわいいって言ったな。ふっつうに言ってしまったな。
飯山がどんな表情を顔に表しているか、恐る恐る伺ってみると、飯山は目を丸くしてこちらを見ていた。
「あっ……えっと……」
飯山は目が合うと視線をふいと逸らした。
「ありがと……」
思っていた反応とは違った。面と向かってキモいと罵られることを想定していたが、まんざらでもなさそうだ。よかった。
「おしゃれゲーマーで陽キャの尾形に聞くんだけどさ……あの……コートない方がいいかな」
飯山が顔を逸らしたままそんなことを聞いた。きっと、中に可愛い服を着ていると伝えたことを意識しているのだろう。その時、俺はふとひらめいた。ここで飯山をそそのかせば、コートを脱いでくれるかもしれない。そうすれば、コートは俺の手に渡り、値札を取るチャンスが生まれる。
俺をおしゃれとしてはかなり高レベルであると信じて疑わない飯山に、それらしい言葉を並べた。
「そうだなぁ、今の季節、日中は暑くなるからコートは脱いじゃった方がいいかもしれないな。ただ、日が沈んでからはまだ少し冷えたりするし、時間が遅くなったり、あと室内寒かったりしたら着なおせばいいんじゃないか?」
「ん……確かに」
そう言って飯山はコートを脱ごうとする。よし、完璧に誘導入ったぞ。言っていたことは完全におしゃれ云々ではなく実用的な話だったけれども。
「あー、待って。コート、地面に擦れるといけないから支えるわ。というかそのまま脱いじゃっていいぞ」
「え……いいよ、わざわざ」
「まあまあ遠慮せずに、お嬢様」
俺は冗談めかしながら、コートを渡すように促す。飯山が脱ぐ間、手探りで値札の位置を確認すると、俺は家の鍵をポケットから取り出した。値札のプラスチック紐というのは結構切れない。服を買った際に面倒臭くて何度か手で引きちぎろうとしたが、服が傷んでしまったりした。その時に学んだのがこの方法だ。
鍵を通し、プラスチック紐をねじ切る。プラスチックだから引っ張る力には強くても、曲げる力には弱いのだろう。鍵を無心で回していると、簡単に切断することができるのだ。それはこの値札も例外ではなかった。
俺は怪しまれる要素を極力減らすために、飯山がこちらに振り向くまでにどうにか値札をねじ切り、そして取れた値札を飯山のコートのポケットに突っ込んでおいた。プラスチック紐は廃棄でいいだろう。
「ほい」
飯山に値札の取れたコートを渡す。
「あんがと。尾形は紳士だね」
その言葉に値札を取ろうとしたのかバレたかと、一瞬どきりとしたが、コートを持ったことに対してだと気づいた。そもそもそんな風に茶化されるのだったら杞憂だった、というだけの話だし、問題はなかった。
「レディには優しくしないとな」
「そんなキャラじゃないでしょ」
俺の大仰な動作が気に入ったのだろう。飯山は声を出して笑った。微塵も感づかれていないことに、俺は内心ほっとした。これで懸念するような要素はもうない。
「さて、と。電車乗りますか。都内まで行くんだよな?」
「うん。ここから30分くらい? めちゃくちゃ楽しみ」
とても嬉しそうな表情を浮かべた飯山に、俺は数度納得したように頷いた。
「ん……なに? その首コクコクは」
「あ、いやぁ……『それでこそ飯山』って思って」
「なにそれ、変なの」
飯山はおかしそうに笑った。確かに、意味が分からないだろう。俺も飯山につられて笑い、いやいや、いきなりクレープ食べたいなんて言うからさ、と事の顛末を説明することにした。
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