第6話 牛肉のお刺身
珍しいものを食べさせるところがある。
牛肉の刺身があるんだ。
と、父が言うので家族で出かけた。
そこは、カウンターしかない小さい居酒屋で、どう見ても家族で訪れるような店構えではなかった。母は、そんなところに小さな子どもを連れて来たくなかったのだろう、いい顔をしてなかった。私達が美味しいと言って食べたので、さらに複雑な顔で見ていた。
そんなことがあった年も終わり、お正月を迎えた。
三が日の間に家族で祖父母の家へお年賀の挨拶に向かうのが習慣だった。父方は近所だったけれども母方は車で40分くらいの距離であった。
母の実家は、古くて大きい。玄関を入ると広い土間があって、畳に上がるところには大きな大黒柱があった。反対側に向かうと、少し薄暗いが広い台所もある。
私達兄弟は、上がりこんだら、隠れんぼや鬼ごっこを始めて駆け回る。大黒柱の周りをちびくろサンボみたいだと叫びながらぐるぐると回った。
適当なところで両親から招集がかかる。儀式の時間だ。
床の間の前でお屠蘇を頂き、新年のご挨拶。お年玉を受け取り終了。その後は、大きな座卓を囲み、おせち料理を皆で頂くのだ。
私達が座って待っていると、祖母は牛刺が綺麗にならんだお皿を出してきた。ふぐの刺身みたいに綺麗に並んでいたのを覚えている。
私達は美味しいと平らげた。
それ以来、毎年にお正月には、祖母が準備して待っていた。
おせち料理だと幼い子供が美味しいと食べそうなものは少ない。黒豆にだし巻き卵、かまぼこくらいだっただろう。祖母は何か孫が喜ぶものをと思ったに違いない。わざわざ、近所のお肉屋さんに聞いて予め頼んでいたようだった。
そんなお正月が何年か続いた。
母は、父が牛刺を食べさせに子供たちを居酒屋に連れて行ったことを、祖母に話したのだろうと思う。たぶん、それは愚痴でしかなかった。母が祖母がお皿を出してきた時、驚いた顔をしていたからだ。
当時は、お肉が新鮮でないとお腹が痛くなる程度な認識で、食中毒のリスクは気にはしてなかった。幸い私達はなんともなかった。
最近、子供が座れない高さの椅子に座るカウンター席しかない、埃っぽい居酒屋に入って飲んでいると気がついた。たぶん、あの時、父は母に食べさせたかったのだろうと。兄のリハビリと私と弟の3人の子供の世話に追われていた母に。
数十年立たないと空気を読めない鈍い私は、父に似たのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます