第20話
朝が来て、いつものようにひとり分の朝食の支度をする。誰もいない部屋、誰の声もしない、しんと寒いリビング。音が欲しくてテレビをつける。湯を沸かす間に顔を洗い、服を着替える。カーテンを開けると外はいい天気だった。
誰もいなくても、匡孝は家族がいた時と同じように毎朝のルーティンを繰り返す。寂しいわけじゃない。そうすることが必要だったからだ。
パンを焼きながらコーヒーを淹れる。漂う香りに昨夜の事を思い出して、匡孝は笑みを零した。時計を見ると9時を回っている。市倉は今日人に会うと言っていた。もう出掛けた頃だろうな、と匡孝は思った。
花を買うかどうか考えた末に自分の柄ではないと思いやめた。性に合わないことはしないに限るものだ。
受付で教えてもらった階でエレベーターを降り、部屋を探した。前回とは部屋が移動になったとかで、そのフロアには初めて足を踏み入れた。
305、と記された部屋の入口に名前を見つける。個室と聞いていたが…
それでも、控えめに市倉は病室の扉をノックした。
はーい、と間延びした声に、扉に手を掛ける。スライド式のそれは音もなく開いた。天井からの吊り下げ式のようだった。最近の病院はどこもこんな感じだな、とどうでもいいことを思う。
「
呼びかけると、ベッドの上で上半身を起こしていたその人は、読んでいた本から目を上げてにっこりと笑った。
「やあ市倉君、いらっしゃい」
「お久しぶりです」
眼鏡の奥の目は、変わらずに柔らかく微笑んでいた。出会ったころと同じ温和な物腰はいつも市倉を暖かく迎えてくれる。市倉は歳を重ねるごとにその懐の大きさを改めて感じていた。この人がいなければ、今の自分はいなかったはずだ。
「甘いもの持ってきましたよ、ちゃんと許可取ってね」
「それを待ってたんだよ」
と、市倉の前任者である草場は目を輝かせた。この上なく幸せそうに皺だらけの顔をさらに皺くちゃにして笑うその頬の輪郭が、前来た時よりも削げていて、市倉は胸が痛んだ。しかし顔に出さないようにして──平静を装った。
「お茶、淹れましょうかね」
「ありがとう。その緑の缶ので淹れてもらえるかな」
「はいはい…」
市倉の前任である草場は、元々は市倉の高校時代の恩師だった。市倉が大学に進み、教員資格を持ちながらそのまま前職である大学付随の研究室に籍を置いてからも交流は長く続いていた。
草場が病に倒れ長期に教職を離れなければならなくなった時、同じくして市倉もある事情を抱え職場を離れざるを得なくなっていた。その市倉の現状を知った草場が自分の後任を引き受けてはくれまいかと理事長を伴って市倉に打診をしてきたのは、今年の4月の事だった。
「おっ、これ美味しいねえ!すごく美味しいよ市倉君!」
コンタットのケーキを頬張りながら草場は感動に震えていた。
「俺のも食いますか」
「いやーそれはダメじゃないの」
「黙ってれば分からんでしょう」
真顔で恐ろしいことを言うねえ、と眉を下げた草場はそれでも市倉のケーキに手を伸ばした。苦笑しながら市倉は空になった皿を自分の前に引き取り、来る前に自販機で買ってきた缶コーヒーを啜った。恩師は筋金入りの紅茶党で、コーヒーと言えばカフェオレの砂糖たっぷりのものと信じていた。当然病室に無糖コーヒーなどはなく、買ってきて正解だったと市倉は長年の付き合いの勘を我ながら称賛した。
「あーこれも好きな味だ。旨いなあ」
草場が惜しむように食べているのは匡孝とコンビニの外で食べた、あのクリームチーズと林檎のケーキだった。市倉もそのケーキは好きだ。あの時の光景がふと甦り、思い出して知らず市倉は笑っていた。「旨いでしょう」
立ち上がり、部屋に備え付けの給湯台で草場のために紅茶を淹れなおしながら、市倉は言った。
「それ、うちの生徒がバイトしてる店のなんですよ。小さな店だけど、旨い食事を出すんです」
「へえ、そうなんだねえ、生徒が…きみも行くの?」
「時々」
「そうか」
そう言って草場は嬉しそうに笑った。「きみが楽しそうで私も嬉しいよ」
市倉は振り返り、一瞬目を丸くしたが、ふっとそれを緩めてそうですね、と言った。目の前のこの小さな老人が、どれだけ自分の事を心配してくれたか、その心を砕いてくれていたか知っていたからだ。
「楽しいです。慕ってくれる生徒も、まあ、出来て…」
ほう、と草場は驚いたように声を上げた。目を丸くして見るので、市倉は苦笑した。
「変ですかね」
「まさか、そんなわけないだろう」
そう言って草場は目を伏せた。
「慕われるのはきみの優しさゆえだ。きみはもっと、人と関わるべき人間だよ」慈愛に満ちた目で市倉を見つめる。それは何年たっても変わらない、あの頃と同じものだった。「きっとその子もきみのいいところを見抜いているんだよ」
「どうでしょうね」と肩を竦めた。
草場の言葉は面映ゆく、まるで自分の内側をさらけ出し丸裸にされたような気分になる。
ベッドのそばの大きな窓の外はよく晴れていた。雲のない青空。中庭に面しているのか、時折子供のはしゃぐような声が聞こえて来る。そういえばこの病院の隣は大きな公園になっていたか。
静かな個室の中、ふと会話が途切れる。草場がゆっくりと紅茶を飲み、市倉は冷めた缶コーヒーを手の中で弄んだ。
「市倉君、私はもう戻れそうにないんだ」
市倉ははっとして顔を上げた。
「電話で話した時にはまだ検査結果待ちだったんでね、ああいう言い方をしたが…どうやら引き際が来たようだよ」
そう言って草場は掛けていた眼鏡を外し、ベッドの上の食事用テーブルの上に置いた。ゆっくりと時間をかけて行うその動作は、市倉に落ち着きを取り戻させるための時間稼ぎのようでもあった。ようやく市倉は声を絞り出した。
「そう、ですか」
「うん、まあ、歳も歳だからねえ。仕方がない…誰もがいつかはそうなるものだし」
草場は淡々と他人事のように言った。思わず聞こうとして──市倉はやめた。
聞いてどうなる?何が出来るわけでもないのに。
言葉を呑み込んだ市倉を見て、草場は察したようだった。
「あと1年ほどだそうだよ」
老人だから進行はゆっくりなんだって、と草場は笑った。頬が歪みそうになるのを市倉は堪えた。
「市倉君」
「はい」
「私はきみにこのまま立星にいて欲しいと思っているんだよ。理事長とも話したが、彼も同じ気持ちだそうだ。正職員としてきみを迎えたいと」
それは願ってもない申し出だった。自分にはもったいないほどの言葉だ。
立星高校の理事長は草場の大学の同期で古い友人でもある。教師の道に早々に見切りをつけ、経営者として教育に携わることを選んだ人だった。市倉の窮地に、草場とともに手を差し伸べてくれた。
自分にはまだ、温かな手が向けられている。
市倉は手の中の缶をゆっくりと回した。
「昨日、研究室に行ってきました」
「ああ、そのようだね」
草場にはすでに知らされていたのだろう、特段驚いたふうでもなく、老人は頷いた。
「連絡があったよ…きみの名誉は、取り戻せたようだね」
そうですね、と市倉は言った。しかしすべてが元に戻るわけはないと、互いにその先の言葉は言わずとも分かっていた。
「決着をつけようと思います」
「そうか」
「上手くいくと願ってください」
草場は頷いた。「私はいつだってきみの味方だよ」
一度失ったものは同じ形で取り戻せない。
粉々に砕け散り、壊れてしまった信頼は小さなかけらを失くしたままだ。いつかまた崩れていく。同じ事を繰り返すわけにはいかなかった。
看護師が検温に来て、部屋の中に廊下のざわめきが入ってくる。行き交う足音、院内アナウンス、誰かを呼ぶ声。扉1枚向こうに広がる日常。閉ざしてしまうにはあまりにも早い。
再びふたりきりになり、世界には静寂が戻って来た。けれどもう、同じ静けさではない。外の世界は名残のようにそこにとどまっていた。
「戻るのかい?」
と、やがて草場は市倉に問いかけた。
どうするのかは自分次第だ。
答えは分かっているのに確証を求めている。変なところで信用がないなと、市倉は肩を竦めて笑ってみせた。
***
午後15時近く、忙しなく続いた客足も落ち着いてきた。昼営業のオーダーストップは15時だ。遅くとも16時には一旦店を閉める。今日はその時間に遅い昼食と早めの夕食を兼ねて試作メニューを食べることした。珍しいことに大沢は夜まで外出で不在だが、それはいつもと同じことなので問題ではなかった。
「はーい」
呼ばれたテーブルにケーキメニューを持って行き、匡孝はオーダーを取ってカウンターに入った。ドリンクを準備してショウケースを覗く。残り少なくなったケーキのひとつを取り出して皿に載せた。客のいるテーブルは3つ、そのどれもが食事を終えた後のひと時を楽しんでいる。匡孝は厨房の浜村に声を掛けた。
「浜さーん、甘夏ジャムのタルトもうないよー」
おー、と厨房で作業をしている浜村が返事をした。「じゃあ今日はもう終わりだな、夜は他のを用意するわ」
「はーい」
トレイの上にすべてをセットして匡孝はテーブルに向かった。
「お待たせしましたー」
その後波が引くように客は1組2組と帰っていき、最後のテーブルの客も立ち上がった。
「ありがとうございました」
いつも来てくれる常連の年配の夫婦だ。会計をしながら匡孝は夫婦と軽く世間話をした。ふたりを見送ろうと匡孝は一緒に外に出た。
「また来てくださいね」
「またね江藤くん、クリスマス楽しみにしてるね」
風邪引かないようにしてね、と奥さんに気遣われ、はい、と匡孝は返した。仲良く帰っていくふたりの後ろ姿に手を振った。ちょうど16時だった。これで昼は終わりだ。
ん、と伸びをして、匡孝は店内に戻ろうと踵を返した。が、前庭を踏む足音に振り返る。市倉がこちらに歩いて来るところだった。
「お疲れさん」
匡孝は笑った。「こんちわ先生、用事済んだんだ?」
「ああ、さっきな」
市倉は細身のジーンズに紺のざっくりとしたセーターを着て手には革のジャケット、足元は珍しくスウェードのショートブーツを履いていた。なるほど、ちゃんと人に会う格好だ。髪は相変わらず洗いっぱなしのようだが、普通に立派な私服になんだかおかしくなって匡孝の頬が緩んだ。
「ちゃんと靴だね」
匡孝の視線の先を見て市倉も笑った。
「さすがに今日はビーサンじゃまずいからな」
「帰るの?コーヒー飲んでく?」
「ん、いや、もう終わりだろ」
これからコンビニでも寄って帰ると市倉は言った。
「ケーキありがとうな。すごく喜んでたよ」
「そっか、よかったね」
「俺の分まで食われたよ」
匡孝が声を上げて笑っていると、おーいと呼ぶ声がしてガラス戸が開いた。浜村がひょいと半身を覗かせる。
「先生いらっしゃい」
「こんにちは」
浜村が匡孝を見た。「中に入ってもらえよ」
「あ、うん」
「いや──」
市倉が辞するよりも先に浜村が言った。
「今から俺ら飯なんで一緒にどうですか、早めの夕飯ってことで、試作もあるんで良かったら意見聞かせてくださいよ」
「いやでも──」
市倉が言い淀むと、いいからいいからと浜村は言い捨ててさっさと中に戻って行った。匡孝と市倉は顔を見合わせた。なんとも言えない顔で市倉は匡孝を見下ろして苦笑した。
「…俺がいて、あの店長は大丈夫なのか?」
あの店長とは大沢の事だ。まさかストーカーだと勘違いされたままではなかろうか。
匡孝は平気、と言った。「今日は夜までいないよ」
「そうなのか?」
店長なのに?という疑問が市倉の顔に浮かんだのを見て匡孝は笑った。行こう、と市倉の腕を掴んで促した。手のひらにセーターの柔らかな感触が広がる。触れた箇所が温かくて、自分の手が冷たかったことに気付く。
江藤、と市倉が言いかけた時、その声はした。
「──エイくん」
匡孝は振り返った。
横にいる市倉がゆっくりと振り返る。ふたりの視線の先には、暮れる橙色の日差しの中で柔らかく微笑む人が──コンタットの前庭に立っていた。
淡い逆光に暗い顔の中、その瞳だけが濡れたように白い。
匡孝の全身から血の気が引いた。
「久しぶりだね、エイくん。元気そう…」
と、唇を笑んだ形のままで、りいは言った。
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