第19話
金曜日になった。
1週間が過ぎようとしていた。
「匡孝次移動だってさ」
「あー待って、ナツ、プリント」
匡孝が差し出した紙を吉井は受け取った。授業の合間の移動は慌ただしい。
「なっつきい、せんせーが荷物持ってくれって!」
「はあ?なんだよー」
「腰痛めたんだとー」
「はあ⁉」
面倒くさそうに吉井は呟いて匡孝を振り返る。
「悪い先行ってて匡孝、んで席取っといてくれ」
「わかった」
教室の出入口で吉井と別れ、匡孝はクラスの連中と廊下を歩いた。ふと視線を感じて目を上げると、その先には姫野がいた。
あ、と思った、目が合う瞬間に逸らされる。あからさまな態度に匡孝は胸の奥が軋んだ気がしたが、気付かないふりをした。目を逸らしたままの姫野の前を通り過ぎる。ただそれだけだ。
ほかには何もないが、背後に感じる視線を振りほどくように、匡孝はしっかりと前だけを見ていた。
姫野はあれから匡孝に近づいて来なくなった。予想通りというべきか、姫野の性格上そう来るだろうと分かっていた事だったので匡孝は落胆しなかった。期待しなかった分傷つかずに済んだのだと自分に折り合いをつけた。
市倉に問われた時、匡孝は姫野と喧嘩をしたとしか言えなかった。彼はそれ以上深く踏み込まずにただ聞いてくれた。それが匡孝にはありがたかった。
吉井には迷いもあったが打ち明けた。誤魔化せることは出来ないと自分自身をよく分かっていたからだ。
「ごめん遅くに、悪いんだけど、出られるかな。顔見て話したいことがあって」
決断したなら実行は早い方がいい。姫野と決別したその夜、コンタットからの帰りの遅い時間に、匡孝は駅前に吉井を呼び出した。
いいよ、と言ってやって来た吉井は、あっけないほど簡単に匡孝の告白を受け入れた。
拍子抜けするほどに、実に、あっさりと。あーそう、と念願のパフェをかき込んで頷いた。
そして困惑する匡孝に首を傾げさえもした。
「え、だから何?」
だからなに?
だからなにってなんだ。
「えー、と?…ナツ、あれ?」
「ん?」
「え?」
なにこれ。
本人でさえも受け入れるのに相当の苦悩を伴ったというのになんだこのあっさりした感じ。匡孝が誘ったコーヒーショップの甘そうなオレンジショコラパフェなるものを前に、身長180センチの男子高校生は幸せいっぱいだという顔をしている。嫌悪などみじんもない。ちなみに匡孝の前にはコーヒーが、手つかずのまま置かれている。
「え何、オレがそんなの気にすると思ったのか?」
「だって…」
「おまえに変わりはないだろ?何が好きでもいいだろ」
匡孝が言葉を返せずにいると、パフェをぺろりと完食した吉井は人好きのする顔で笑った。
「どうってことない、気にするな」
そこでようやく肩の力が抜け、椅子の背に崩れるように匡孝はもたれかかった。はー、と深く息をついた匡孝を見て、吉井はにやりと笑う。緊張したかと問われて、うん、と匡孝は頷いた。
「するよ…、だってこんなこと、普通じゃないよ」
「真面目だな匡孝」
吉井は傍を通りかかった店員を呼び止めてコーヒーを注文した。
「今日ハルと揉めたんだろ、で、もしかして…この事ハルにも言ったんだろ?」
「え、なんで分かんの…」
目を丸くした匡孝を見て、吉井は背もたれに寄りかかり腕を組んだ。
「ハルがすげえ顔してウチの部室に籠って、あんまり鬱陶しいから理由聞いたら、自分のしたことに匡孝が怒って喧嘩したって、それだけ白状した」
「…そっか」
「まああいつのことはどうでもいいだろ」
その言い草に匡孝は吹き出した。吉井も声を上げて笑い、運ばれてきたコーヒーを受け取った。匡孝も冷たくなってしまったコーヒーに口をつける。ひどく喉が渇いていたのだと、その時になって気がついた。
「匡孝がオレに言ってくれて嬉しいよ。おまえいつも、ひとの事頼んないだろ。あてにもしないし、自分で何でもやろうとする。悪いことも全部引き受けるだろ」
だから、と吉井は照れたように目を伏せた。連絡もらってすごく嬉しかった、と。
「ハルとの事だって見当ついてたからな」
「…ありがとう夏生」
「ま、なんだって嬉しいけどさ」
市倉を好きになってから初めて自覚した、他人とは違う自分の性質を、あれだけ悩んでいたのが馬鹿らしくなるほどに、吉井はそうやってあっさりと受け入れてくれたのだった。
匡孝、と取っておいた隣の席に吉井が座る。並びの机の上に教科書を放り出しながら匡孝にそっと耳打ちした。
「あいつ鬱陶しいな」
それは姫野の事だと分かった。あれからずっともの言いたげに視線だけを寄越して決してこちらに近づいて来ない姫野に、吉井は呆れていた。
「ごめん」匡孝も吉井の耳元で声を潜めて謝った。
「そこで謝っちゃう?」といつものように吉井が笑った。
帰り際、市倉が匡孝を呼び止めた。昨日のうちに今日は補習は休みだと告げられていたので、何かと匡孝は首を傾げた。
「どうしたの先生」
とりあえずこっち、と国語準備室まで連れ立って歩き、市倉が鍵を開けるのを見ていた。
「江藤、今日ひとつ頼めるか?」
部屋の中に入ると、市倉はそう切り出した。すでに帰り支度を済ませていたようで、作業机の上には市倉の鞄と車の鍵、そして初めて見る市倉のコートがまとめて置いてあった。普段の軽装からその姿が想像出来なくて思わず見入っていると、市倉が鞄の中から財布らしきものを取り出して、五千円札を引き抜き、それを匡孝に差し出した。
「悪いがおまえんとこのケーキ、適当に見繕って買っておいてくれるか?明日人に会うのに持って行こうと思ったんだが、営業時間中に間に合いそうにない」
「あ、うん、いいけど」
「今から出ないとまずくて…悪い」
鷹揚な市倉には珍しく時間を気にしているようで、匡孝は安心させようとにっこりと笑ってみせた。
「全然大丈夫だよ、2つ?3つ?」
任せといて、と言うと、市倉の肩が少しだけほっとしたように緩んだ。
「ふた……あー、3つにするか…」
「はーい」
あ、と匡孝は思いついた。
「俺家までもってく?帰り道だし」
匡孝を見下ろして、市倉が眉を寄せた。
「…いや、コンビニにいてくれたら俺が行く。バイトが終わったら連絡しろ」
と言って手を差し出した。「携帯貸せ」
「は?」
「連絡先入れるから携帯渡せ」
はっとして匡孝は市倉を見た。ほら、と促す視線に、ポケットから携帯を取り出し、ロックを外してその手に載せた。市倉の指が画面を叩き滑るように番号を打ち込んでいく。そして自分の携帯に掛け、匡孝の番号を自分の携帯で確認してから、匡孝に返した。
「必ず連絡して、待ってて」
コートに袖を通しながら市倉は匡孝に念を押した。画面に出ている連絡先に市倉の名前が入っているのを見ながら、匡孝はうん、と頷いた。そっか、と呟く。
「先生の名前って
市倉衛。
最初に教師として紹介された時、匡孝は市倉の名をエイだと思ったのだ。
改まって確認する匡孝を見て、なんだ今更、と市倉が呆れたように笑った。
***
ありがとうございました、と最後の客を見送って、匡孝は看板を仕舞った。散らかっているテーブルの上を片付けて食洗機に入れていく。いつものように終業後の仕事をこなしていると、大沢がやって来た。江藤君、と呼ばれて匡孝は振り返る。
「お疲れさまです」
「お疲れさま。きみクリスマス入れるって言ってたけど、大丈夫なのか?」
シフト表らしきものを手に見ながら大沢は匡孝に尋ねた。たったふたりのスタッフにシフトも何もないものだが、何事にもきっちりとしている大沢はそういうところも手を抜かなかった。みっちりふたりの名前──もちろん浜村・江藤だ──で埋まった紙を匡孝に掲げてみせる。
「大丈夫です、特に予定もないし」
「そうなのか…?」
佐凪と拓巳にはクリスマスの後に会う約束をしている。佐凪は渋々といったところだが、それでもいいと言ってくれたので有り難かった。「家族とはまあ、後で会うので」
「そうか?学生なんだから友達とかと騒がないのか?」
「はは、みんな彼女とかでしょー?」匡孝が笑ってみせると大沢はそういうものか、と納得していた。「じゃあ頼むよ」
「はい」
「メニューの試作はどうなった?」
大沢が浜村に言うと、浜村は匡孝に視線を寄越した。「江藤は鴨だったな」
匡孝は頷く。「牛肉のパイも美味しかったけど、鴨が良かったかなあ…」
なるほどね、と大沢は頷いてずり落ちてくる眼鏡を指で押し上げた。
「じゃあ明日もう一度食べて決めよう。江藤君、上がっていいよ」
「ケーキ忘れるなよー」と浜村が厨房の奥から声を上げる。
はあい、と言ってショウケースの隅に用意しておいたテイクアウトの箱を取り出して手提げ袋に入れる。カウンターで集計を始めた大沢に会釈して、浜村にお疲れさまでした、と言った。
「また明日頼むな、気をつけて」
浜村の言葉に頷いて、匡孝はコンタットを後にした。
市倉は帰路についていた。話自体はすぐに終わったが向かった先は遠くにあった。何ヶ所かで渋滞にはまり、ようやく抜け出せはしたが匡孝が上がる時間にはどうやっても間に合いそうにない。連絡を入れようと片手に携帯を持つ。ハンドルを握りながらどこかで止まるタイミングを見計らっていた。
市倉は深く息をついた。
電話でもよかった事をわざわざ出向いて行ったのは、確かに正解だった。時間をかけた分の収穫は大きかった。これで次の一手が打てるだろう。
市倉が先の信号を見た。黄色、うまくいけば連絡出来そうだ。そう思った時携帯が鳴った。
匡孝からだ。赤信号になりブレーキを踏む。
「せんせー?今終わったよ」
「お疲れ、悪い、あと30分はかかりそうだ」
匡孝の笑う声が聞こえる。外から掛けているのか、その後ろに外気の音が混じっている。
「いいよ、コンビニにいるから」
「ああ」
「じゃあ後で」
「気をつけて」
おかしそうに笑って匡孝は電話を切った。その声が妙に耳に残り、市倉は手を伸ばしてFMをつけた。どこかで聞いたような曲が流れだす。
信号は青になっていた。
…急ぐか、とアクセルを踏み込んだ。
コンビニの時計が22時を指しても市倉は現れなかった。確認した携帯の通話記録は21時13分を記していて、もう50分近く前だが、それから連絡はなかった。匡孝は雑誌コーナーをうろうろとさまよい、目の前のガラス窓の外に目を凝らす。窓からの明かりに浮かぶ道、時々自転車が通り過ぎる。
店員がこちらを気にして伺っている。様子を探るような仕草も気になった。この時間によく来るのでお互い顔は知っているが、やはりただの店員と客に過ぎない。1時間余りも立ち読みをしている匡孝に何がしか声をかけるべきなのかと、20代後半の男性店員は先ほどから思案しているようだった。まあ気持ちは分からなくもないが。
もう限界かな。
とりあえず匡孝は読んでいた雑誌を戻し、その場から離れた。菓子コーナーで目に付いた菓子を取り、レジに持っていきテイクアウトのコーヒーを注文する。目線を寄越していた店員が対応してくれた。
「ありがとうございました…?」
なぜか語尾に疑問符が付いたそれを返され、匡孝は会釈をして店の外に出た。とたんに冷たい風が頬に当たり身震いする。どれだけ店内が暖かかったか知れた。手に持っているケーキ箱を見た。多めに保冷剤を入れておいて正解だったと思った。
「さて…」
コンビニの外壁に寄りかかりコーヒーを飲んだ。金曜日の夜だ、時間帯を考えればどこかで渋滞に引っかかっている可能性は高い。電話を掛けても出られないだろう。
じっと立っていると足先から冷えてくる。かといってまた店内に戻るわけにもいかず、なんとなく匡孝は半分ほど入ったコーヒーを片手にふらりと歩き出した。コンビニの前の道は幹線道路から脇に逸れた一本道だ。抜け道などではなく、大通りからこちらに入って来た車はこのあたりに住む者と相場は決まっていた。匡孝は来た道をゆっくりと辿った。とりあえず十字路まで行って戻って来よう、コンビニの明かりが見えるところまでなら、大したことじゃない。市倉が車で来るにしてもこちらから来るだろう。すれ違うかもしれないし。
広がる光の輪の中を歩く。輪郭は徐々にぼやけてゆき、黄色い光は境界線をおぼろに失って、深い藍の闇へと溶けていく。混じっていく。心許なくなった明かりを背に感じながら匡孝は人の気配を感じて立ち止まった。ぼんやりと見える暗がりの先に十字路の外灯、足早に通り過ぎる人影が角を曲がり消えていく。
深く息をつくと煙のように白くなった。自転車が背後から来て匡孝を追い越していく。なぜか、先に進む気を失くしていた。
戻ろう、と思って匡孝はくるりと踵を返した。
なんだか俯いてしまい、とぼとぼと歩く。
やっぱもっかい中に入っとこうかな…今度はちゃんと待ち合わせですって言おうかなあ…
寒いし。
──あ、でもケーキが。
道の真ん中で考えていると、背後から車の走行音がして匡孝は脇によけた。
スッと、匡孝を追い越した車がコンビニの入口手前で止まる。ドアが開いて降りてきたのは市倉だった。
「江藤!悪い、遅くなった…!」
ひどく焦った声で髪をかき上げた。はっとして匡孝は駆け寄った。
「いいよ、渋滞?」
「あーもう、参った…」と言って市倉は眉を顰めた。なんだかひどく疲れた顔をしていたので匡孝は手にしていたコーヒーを差し出した。「半分残ってるけどいる?」
「いる」もう冷めてるけど、と付け加えると冷たくていいと市倉はそれをひったくるようにして口をつけた。一息に飲み干して深く息をつく。それを見て匡孝は手提げ袋を差し出した。
「はいこれ、ケーキ。保冷剤たくさん入れてたから多分大丈夫だよ」
「ああ、助かったよ。ありがとう」
市倉は受け取って、後部座席にあった鞄とコートの間にそれを置いた。「甘党な人なんでな、喜ぶよ」
「そっか、よかった」
じゃあ、と匡孝が言おうとすると市倉が乗れ、と言った。「送るから乗れ」
はい?
「だ、大丈夫だよ、えっと」えーと、女の子じゃないし。
変に遠慮する匡孝を、先に乗りこんだ市倉が助手席のドアを開けて促す。
「江藤、もう遅いから」
乗って、と視線で訴えられて、匡孝はおずおずと鞄を胸に抱えて助手席に乗り込んだ。ばたん、とドアを閉めるとゆっくりと車は走り出した。
車の中は煙草の匂いがしなくて、暖かかった。
小さな音で知らない外国の曲がかかっている。
「こんな時間になって悪かったな」
「いいよ…平気」市倉の横顔に匡孝は笑う。
「そうか?」
「うん」
じゃあ、と市倉はコンビニの駐車場に車を乗り入れ、ぐるりと方向転換した。来た道に車を向ける。
「夕飯まだだからちょっと付き合え」
「えっ⁉」
少しドライブでもするか、と市倉が言った。その前に家に寄ってケーキを冷蔵庫に入れないとな、と横を向くと、驚いて目を丸くしたままの匡孝に市倉は吹き出した。
***
ずっと暗がりの中から伺う目がある。
車の音がして、その人影はそっと闇に隠れた。
息を殺して待つ。
アパートの駐車場に停車するとエンジンを掛けたまま運転席から男が降りてくる。
すぐにそうだと分かった。
男はひとりではなかった。
ポケットの中から携帯を取り出し、慎重に構えた。これは絶好の機会だった。
車内灯がついた車内に身をかがめ、後部座席から袋を取り出して、助手席に座る人とひとことふたこと交わしてからアパートの階段を上がり、男は自室に入っていった。そしてすぐに男はまた外に出てくる。鍵をかけて階段を下り、車に乗り込んで出て行った。テールランプが闇の中で赤く光る。小さくなっていく。
携帯の画面の中には目指すものが映っている。上出来だ。
やがてそれが完全に見えなくなったころ、人影は揺れるように立ち上がり、車の消えた方向へと歩き去った。
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