第21話

 無意識に握りこんでいた市倉のセーターが引っ張られ、指の間から抜けていった。匡孝の目の前を塞ぐように市倉の背中がある。

「ああ、久しぶり」

 抑揚のない声で市倉が言った。長い前髪が目元を隠していてその表情はよく分からない。後ろから見上げた匡孝の目に、一瞬、市倉が奥歯を噛み締めたように見えたのは──気のせいだろうか。

 りいはにっこりと笑った。

「私ここにケーキ買いに来たんだけど、まさかエイくんがいるなんて思わなかった」

 匡孝はその言葉に手を握りしめた。

 嘘だ。

 ふと、りいが今気がついたとでも言いたげな顔で首を傾げた。

「その子誰?」

 りいの視線は匡孝に向けられていた。視界は市倉の体で半分以上隠されているが、痛いほど感じる視線に匡孝の体が粟立った。

「ここのバイトの子だよね?」

 探るようにその美しい目が細められる。「それに、エイくんの生徒だよね?」

 ──そうか。

 匡孝は思い出した。

『その制服ってさあ立星?』

 あれは、りいの友人だ。

 あの頃いつも連れ立ってやって来ていた、──そうだ、なぜか毎回匡孝に背を向けて座っていた…

 市倉の背に匡孝は手を伸ばす。無意識にその服をまた掴んでいた。

「よく知ってるんだな」

 ふふ、とりいが笑った。

「エイくんが高校にいるなんてね、変だよねえ」

 先生なんて笑えるね、とりいは無邪気に続けた。

「な──」

 なんだその言い方。

「そうだな…、でも良かったよ。ちょうど連絡しようと思ってたんだ」

 匡孝は市倉を見上げた。けれど背中に隠されるようにされていて、その表情は見えなかった。

「ほんと?私も会いたかった!」

 目を輝かせてりいは市倉に駆け寄りその右手をぎゅっと両手で握りしめた。酷いことを言っている自覚がないのか、市倉には意味が分からなかったのか、目の前の光景に匡孝は愕然とする。

 りいが市倉の手を引っ張り、ぐいと引き寄せた。セーターを掴んでいた匡孝の手が市倉から離される。りいは、背の高い市倉を上目に見上げて甘く笑った。

「でも今日はもう帰らないと。ね、駅まで送ってくれる?」それとも、とりいは続けた。「この子と用事でもあった?」

 ちらりと匡孝を見る。

「でも久しぶりなんだし、いいよね?」

 ねだる声は甘い。

 ぞくっと匡孝の背筋が震えた。あの声だ。あの声で市倉を憎いと言っていたくせに。

「いいよ」と市倉は言い、匡孝を振り返った。

「悪いけど今日は帰るよ。シェフによろしく言ってくれ」

「あ…」

 匡孝を見下ろす顔は穏やかに微笑んでいる。視線を合わせた一瞬、その目の中に何かが見えた気がした。しかしそれを探ろうとした匡孝にりいの声が掛かり、掻き消えていく。

「ごめんね、そういうわけだから。でも学校で毎日会えるんだから別にいいよね」

 宙に浮いてしまった匡孝の手を市倉がちらりと見た。けれどそのまま、行こうとりいの肩に手を掛けた。

「──」

 そのときの気持ちを何と言っていいか分からない。

 ただ、心臓が握りつぶされたかのように痛んだ。

 市倉はこちらをもう見ていない。

 待って、と思った。

 ──行かないで。

「せん──」

 りいの視線が、肩越しに匡孝を捉えている。

 匡孝は声を詰まらせた。

 促され歩き出したりいのそれは、嘲笑うように美しく弧を描いて歪んでいた。



「江藤?」

 気がつくと浜村が匡孝の顔を覗き込んでいた。

「え?」

 匡孝は顔を上げた。

「不味かったか?」

 そう言われて匡孝はようやく自分が今浜村と食事をしていたのだと思い出した。

「あ、うん、違う」

 握りしめたまま宙で止まっていたフォークで皿の中のパイ生地を掬った。クリスマスに出す予定の牛肉のパイ包み焼き、フランス料理の定番のおもてなしメニューだ。何でもできる浜村のそれは見た目も美しく、それでいて家庭的な感じに仕上がっていた。

 考えを引き戻そうと口の中のものに集中する。

「美味しい…」

 ため息まじりに呟くと浜村は笑った。

「酒は飲ませられないからな、炭酸水で我慢しろよ」そういう俺もだけど、と言いながらそれぞれのグラスに炭酸水を満たしていく。

「去年はさあ、普通に牛肉のタリアータっつってステーキっぽくしたんだけど、年配の人多いから今年は変えてみたんだよなあ」

「どうしよう、やっぱどっちも美味しいんだけど」

「こないだ鴨って言ったろうが」

「うーん…」

 いけない。

 考えに沈んでしまうと思い出しそうで、匡孝は慌てて炭酸水を飲んだ。考えたくない、思い出したくない。手が──

 市倉のあの手がりいに触れていた。

「江藤っ」

「え、うわっ!」

 飲んでいたはずの炭酸水がエプロンを濡らしていた。どうやら口を離した後もグラスを無意識に傾けてしまったようで、匡孝は焦って立ち上がった。

「ごめっ、あ、拭くもの…っ」

「ほらほらこれで拭け。落ち着けって」

 浜村から渡されたタオルで胸元がかなり濡れてしまったエプロンを拭こうとすると、こっち、とタオルを取り上げられ、浜村に顎や首を拭われた。終わった後にようやくエプロンは外せば済むことだったと思い当たった。予備はバックヤードに置いてあるのだった。

「ごめん浜さん、ありがと…ぼうっとしてた」

「大丈夫か?」

 うん、と匡孝は頷いた。そうしてまたグラスを掴んでこくりと飲んだ。

「せんせーいなくて寂しいか」

 ぶほっ!

「っ、ちがっ」

 浜村はおかしそうに笑った。おまえ顔に出るもんなあ、と言われ、匡孝はいたたまれなくなる。再び濡れてしまった口元を拭い、目を逸らして皿の中のものを黙々と口に運んだ。

 浜村は喉の奥で笑っていたが、それ以上は聞かずに食事を続けた。やがてぽつりと匡孝は呟いた。

「あのさあ浜さん」

 ん、と鴨肉を骨から切り取ろうとしていた浜村が目を上げた。

「その人が嫌いなのに好きなふりをしてる人がいて、それをその人は知らなくて、俺は知ってるんだけど…それってその人に言った方がいいと思う?」

「はあ?」と浜村は首を傾げた。「代名詞が多すぎて分からん」と笑った。そしてふと真顔になった。

「それってさっきの女?」

「え?」

 浜村は口元を歪めた。「先生と一緒に行ったあの女子の事か?」

 窓から見ていたと浜村は言った。

 匡孝はこくりと頷いた。

「あのふたりって付き合ってんのか?」

「いや…なんか久しぶりとかって、言ってて」

 そこまで言って匡孝は気がついた。そうだ、付き合ってたのかもしれないのだ。なぜそのことに思い至らなかったのだろう。

 ずっとそうではないと、なぜか確信していた。

「あの人うちに前よく来てた。その時、俺聞いちゃって、多分だけど…先生の事を悪く言ってた」

「ふうん」

 憎いと言ったくせに、甘い声で連れて行ってしまった。

 こっちを見て笑っていた。

 忘れられない。

 別れ際に見た市倉の顔が蘇る。目が合った一瞬、いつもとどこか違っていたように見えたのはなぜだろう。彼女がいたから、市倉も匡孝に対する態度を変えたのだろうか。なぜ。

 俺が好きだって言ったから?

 市倉はりいが…好きなんだろうか。

『まさか、知り合いだよ』

 分からない。

 青くなったり赤くなったりする匡孝を眺めながら浜村は言った。

「言わなくてもいいんじゃないか」

「え…」

 浜村は匡孝の皿から牛肉の一切れをフォークで攫って口に入れた。もぐもぐと噛んで飲み込んだ後、厨房から客席の窓の外を見て言った。

「案外気がついてんじゃないのかね、あの人…」

 そんなに鈍い人には見えなかったけどな、と浜村は思った。

 でもあれは…

「何?」

 匡孝にはよく聞こえなかったらしい。ふうん、と浜村は匡孝の顔をまじまじと見た。

「おまえ童貞だろ」

 ぶはっ!

「なっ、な、なっ…!」

 いや、思い通りの反応だよ。

 真っ赤になって水を吹いた匡孝に浜村はニッと笑った。

「あの人は大人だから平気ってこと」

「はあ⁉」

 なにそれ、と匡孝が涙目で言うのを浜村は頬杖をついてにやにやと眺めた。

「童貞には分かるまいよ」

「どっ、ていどーてい言うなーっ!」

 茹で上がった顔で匡孝が声を上げた。

 かわいいバイトをからかうのは楽しい。これで少しは気分が浮上したのなら言うことはない。くすくすと笑いながら、しかし浜村は窓の外に見たあのときの光景を思い出していた。

 振り向いて悠然と匡孝に見せつけたあの笑顔。

 あれは駄目だろう。

(俺ならとっとと正体暴くかもだけどな)

 どういう事情があるのかは知らないが、あれは一筋縄ではいきそうにないと、浜村は市倉に深く同情した。



「じゃあまた連絡するよ」

「うん、私も」

 改札の前で別れた後ろ姿が人波に消えていく。

 それを確かめて、市倉は携帯を取り出して引き返した。大股で人の流れに逆らいながら足早に歩き、記憶したその番号を呼び出した。



 ホームの隅にあるベンチに座り足を組んだ。短いスカートから覗くすらりとした足を見せつけるかのようなきわどい仕草に、通りかかる男達がたじろぐ様子を感じながらも、りいは無表情に手にした携帯を操作していた。

 その目に周りは映っていない。

 予定していたメッセージをひとつ送り、返ってくるのを待った。既読。すぐに返事は届き、願っていた言葉を引き出せたことに満足すると、りいはホームを降りた。一度物陰で立ち止まる。用心をするに越したことはない。辺りをそっと見回して、もういないことを確かめてから、今しがた通ったばかりの改札へと戻った。


***


「はい、──うん、伝えときますね。…はい、じゃあ気をつけて。お疲れさまでした」

 電話を切ると、大沢何だって?と浜村が聞いてきた。

「まだ帰れないって。遅くなるからふたりとも先に上がっといてくれって言ってたけど」

「へえそう?」終業後の厨房でふたりは片付けに追われていた。浜村は鼻歌を歌いながら随分と上機嫌なようで、匡孝の伝言に頷いている。その機嫌の良さが休憩時間の後からずっと続いていて、原因はあの時の会話なんだろうと思うと匡孝はなんだか複雑だ。からかわれたり恥ずかしかったり、今日は…なんだか色々あって疲れてしまった。

 カウンターを拭きながら、いつにない疲労感にだーっと深くため息を吐くと、浜村が呼んでいた。

「江藤、えーとう」

「はい?」

「先生に飯持ってくか?」

 え、と匡孝は目を丸くした。

「大沢の分余ってるし、どうせ今日はもう食わないだろうし。持ってくんなら弁当みたいにするけど?家知ってんだろ?」

「あ、あーうん、知ってる…けど」

 匡孝は言い淀んだ。

 でも、もしかしたら…

「先生、いないかも」

「は?」

「いやだって、…あのままどっか行ったかもしれないし」

「そりゃねえだろ」

 断言した浜村に匡孝はなんで、と首を傾げた。

「どーする?やめとくか」

 テイクアウト用の容器をひらひら振りながら浜村は匡孝に聞いた。

「えー、えーとっ」

 今近づいたら余計なものを見るかもしれないのに。でも、いやしかし…

「おーい?」

 匡孝は市倉の別れ際の顔を思い出した。あの時見た何かを知りたいと思った。

 そして結局、行くと答えたのだった。

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