第14話


 部屋の明かりがついていないことは、予想していた事だった。見上げた先のマンションの自分の家、暗いままのリビングのベランダ。

 匡孝は深く息を吸って──吐いた。

 落胆などしない。

 分かっていたはずだ。

 母が今日帰ってはこないと──

 よく分かっていた。



「佐凪?…うん、今帰ったとこ、──うん、そっか、…ははっなんだよそれ」

 入ったリビングは冷たく、匡孝は携帯で佐凪と話しながら身震いした。寒い。エアコンのリモコンを探してスイッチを押した。肩にかけていた荷物を床に放って、自分も体を放り出すようにソファに座り込んだ。

「うん、うん分かってる…大丈夫、今日は賄い豪華にしてもらったし、もう腹いっぱい」

 いいなあ、と静かな空間に電話越しの佐凪の声が漏れていく。夕飯を食べたなどというのは嘘で、あれから何も口にしていない。冷蔵庫の中には食料はあるはずだが、疲労ばかりが体中に重くのしかかっていて、匡孝はまるで空腹を感じなかった。

「うん、ああ、また連絡するって…祖母ちゃんと拓巳によろしく言っといて、うん、じゃあおやすみ」

 通話を切った瞬間、張り詰めていた糸が切れたように匡孝はソファの上に崩れ落ちた。

「はー……──」

 匡孝は腕で顔を覆った。

 全身から力が抜けていく。やはり無自覚に緊張していたのだろうか。

 自分は何に期待していたのだろう。

 1週間前、匡孝は母親にメールを送った。母に連絡を入れたのは実に1年ぶりの事だった。知っていた電話も携帯もすでに繋がらなくなっており、思い当たる連絡先に片っ端から当たり、ようやく今生きているメールアドレスを探し出した。それが約1か月前の事だ。そして誕生日の1週間前に、話があるから帰ってきてほしいと今日の日付けを添えてメッセージを送った。

 返事はなかった。

 届いたかどうかも分からない。

 もし届いていたとしても母にはやはり意味のないことだったのだろう。1年前に佐凪と拓巳が祖母の家に行くと当時の携帯の留守録に残した時でさえ、なんの音沙汰もなかったのだ。

 17の歳を迎える今日に──もしも母が帰って来てくれたなら、高校を卒業したらこの家を出ると──あなたとは縁を切りたいのだと、匡孝は言っておきたかった。

 それを、顔を見て言いたかったのだ。

 それだけだ。たったそれだけ。それだけで良かったのに、会うことさえもままならないものを家族だと呼ぶのは笑えると、匡孝は顔を覆ったまま口元を歪ませた。


 *


「いらっしゃいませ」

 こんにちは、とにこやかに返されて匡孝も笑顔になった。空いている席に案内し、厨房に駆け込んでシェフを手伝う。いつもの土曜日だ。翌日、匡孝はコンタットにいた。

「江藤出来た、これ、7番な」

「はーい」

 店は11時半に開店して間もなく満席になり、昼時を過ぎた今も8割の席が埋まっていた。土曜日はランチメニューがないのでその分楽だが、提供メニューは増えるので慌ただしいことに変わりはないのだった。よくもまあ今まで浜村はこの忙しさをひとりで乗り越えてきたものだ。戦力はもう1人いるにはいるが、伝説の名誉監督並みのレアキャラなのでその存在は無きに等しい。

 つまりは当てに出来ないと言うことだ。

 今日も裏口にしゃがんでいたな、と匡孝は思い出した。

 一体何をしているんだか。

「ありがとうございましたー」

 昼営業の最後の客となった常連の年配夫婦を送り出しながら、匡孝がガラス戸の外で手を振る。夫婦の孫なのだと、今日遊びに来ているからと連れて来ていた5歳ほどの男の子が匡孝を振り返って、はにかんだように手を振り返してくれた。

 その姿が見えなくなるまで見送ってから、匡孝は外の白い扉を軽く閉め(全部閉ざさないのは大沢の指示だ)、中に入ってガラス戸を閉めた。これで昼の部は終わりだ。

「お腹すいたー」

「何食う?あー豚ロース余ってるわ、カツ丼にするか?」

「する、するする!」

 匡孝はテーブルの上の皿を片付けながら目を輝かせた。

「了解」と浜村は可笑しそうに笑った。

 出来上がったカツ丼を浜村と厨房で向き合って頬張る。美味しすぎて匡孝はじわっと涙目になった。「旨すぎる…」

「だろ?」

 浜村の作る料理はなんでも美味しかった。絶妙な味加減、塩の塩梅や甘さの程度が匡孝の好みに合っていて、どれだけでも食べられそうな気がする。

「浜さんすごい、俺こんな風に作れないよ?」

「コツさえ掴めばどってことないだろ。後で紙やるよ」

 浜村と大沢には匡孝の家の事情をある程度教えている。匡孝が料理をすることもその理由を含めて知っているので、浜村は匡孝が特に美味しいと言ったものを覚えていて、後でよくレシピを書いてくれた。

「うん、ありがとう」

 匡孝は笑って頷いた。添えられた屑野菜の浅漬けも美味しい。箸が止まらなくなりそうで困るなと匡孝は思った。

「浜さんてなんでも出来るよね」

「あー、そうだなあ、最初に働いてたとこがそうだったからなあ」

 ふうん、と匡孝は返す。「どこ?」

「ホテル」

 最後のひと口をかきこんで浜村は水を飲んだ。

「とにかくでっけえホテルの厨房で色んな奴がいて、そこで仕込まれたんだよ。何でも出来なきゃいけない状況でさ、仕方なくってやつ。まあそれが良かったんだろうけどな」

 今あるのはそのお陰だと浜村は言った。

「楽しかった?」最後にとっておいたカツの一切れを匡孝は頬張る。

「楽しかったよ?でもやってるときはただ目の前のことをこなしていくことで頭いっぱいで、楽しむヨユーなんかなくてさあ、楽しいって思えだしたのは3年ぐらい経ってからだったかなあ」懐かしむように浜村は目を細めた。そうそう、と思い出したように付け加える。「大沢に会ったのもその頃だったっけか、あいつ、今とあんま変わんなかったわ」

 え、と匡孝は目を剥く。今と変わらないって…それ、社会人として大丈夫だったのか?と、言うより──

「てんちょお、料理人だったの⁉」

 わはは、と浜村は笑った。

「あー違う違う!あいつな、雇い主の方!あいつがリョーリなんか出来るわけねえじゃん!今と変わんねえ引きこもりだったんだよ」

「そうなんだ…」雇い主、という言葉に目が丸くなる。

「リョーリっておまえ…!」あははははは、と浜村は体を折り曲げて腹を抱えて笑った。まあ確かに、あれは料理人ではない。

 ぷっ、と匡孝も吹き出した。

「浜さん笑いすぎじゃんっ」

「いやも―だめだわ…」

 ひとしきり大沢を笑いのネタにして、夜の仕込みもすっかり忘れ、ふたりして厨房で笑い転げていた。



 仕込みを大幅に遅らせて始まった夜の部は相変わらずの忙しさだった。半分以上埋まった席に座る人たちは今日は常連が多く新規の客は少なめだ。穏やかな人の話し声、笑い声、さざめく暖かな空間。匡孝は下げてきた皿を洗い、アフターのためのコーヒーをセットする。ちりん、と入口の鈴が鳴った。

「いらっしゃいま、せ…」

 もうそろそろオーダーストップとなる時刻だ。これが最後のお客さんかな、と匡孝は手を止めて顔を上げ、驚いて目を瞠った。

「まだいいか?」

 とカウンターの前に立った市倉は、見上げる匡孝を見て、なんだその顔は、と笑った。

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