第15話
今日の市倉はいつものよれよれの黒いスウェットの上にあちこち擦り切れた黒い革のジャケット、下は細身のジーンズを履いていた。ゆるく波打つ真っ黒い髪が目元に落ちている。すごく似合っている。すごくいい、とても。だがしかし…
匡孝はため息をついた。
「そのビーサンはどうにかなんないの?」
よもやそれしか持っていないというわけでもあるまいに。どんなに素敵な格好をしようともビーサンはないんじゃないの、と匡孝は市倉の前にお冷を置いた。
「せんせー靴持ってないとか…」
「んなわけねえだろ」
渡したメニューを広げながら市倉は心外だと即答した。だよねえ、と匡孝が肩をすくめて席を離れようとすると、市倉がオーダーを告げた。「オムレツミートソーススパゲティ、大盛りで」
振り返った匡孝はこちらを見る市倉と目が合ってどきりとする。
「大盛りね、了解」と言って差し出されたメニューを受け取った。
「オムミート大盛りでーす」
厨房に向かって声を掛けると顔を覗かせた浜村が返事を返す。それから匡孝に顔を寄せるようにして言った。
「知り合いか?」市倉に案内した席はカウンターの正面だった。厨房から匡孝と市倉のやり取りを聞いていたらしく、浜村は興味を引かれたような顔をしていた。
「うん、先生。高校の」
「担任?」大丈夫か、と浜村は小声になる。匡孝は首を振って笑った。
「国語のせんせー。だいじょーぶ、うちバイト禁止じゃないし」
同じように潜めた声で言うと浜村は頷いて調理に戻っていった。
店に残っていた客の1組がレジに向かうと、何組かの客もつられたように帰り支度を始めた。匡孝はレジに立ち、それぞれの客に対応する。
「ありがとうございましたー」
ごちそうさま、と帰っていく客の顔は皆にこやかだ。穏やかに返される挨拶に匡孝の頬が綻んでゆく。この時間が匡孝は好きだ。日常のほんの少し先にあるささやかな喜びが、胸の中の冷えた場所を暖めてくれているような気がしていた。
店内には2組の客が食後の余韻を楽しんでいる。アフターも出し終わった頃、市倉のオーダーが出来上がり、匡孝は厨房の入口でそれを受け取った。
「あとこれな」と浜村は同じメニューの皿をもうひとつ匡孝に渡した。「おまえも一緒に食えよ」
「えっ」いいの、と匡孝は驚く。
「テーブルに座って食ってこい。こっちはもうラストだから、看板は俺が片しとくわ」
浜村はそう言って裏口の方から外に出て行った。匡孝は市倉のテーブルに皿を運んだ。
「先生お待たせー」
オムレツミート大盛りです、と市倉の前に置く。
「旨そうだな」
「うまいよー、で、俺も」
と言って反対側に自分の皿を置いて椅子を引いて座ると市倉がフォークを取る手が止まった。
「浜さんが、あ、シェフが、一緒に食べてこいって」
「そうか」
口元が笑う。大きな手で持つフォークは匡孝のと同じなのに小さく見えるから不思議だ。
「チーズかける?」と匡孝は粉チーズを差し出す。頷いた市倉に手渡そうとしたがかけろと身振りで促されて、適当に皿の上で容器を振った。雪のような粉チーズがミートソースをかけられたオムレツの上に降り注ぐ。
「まだ?」
「うーん、まだ」市倉が面白そうに見ている。
手が震えそうなんだけど。
さらさらとチーズは積もっていく。
「まだ⁉」
「あーおまえ、辛抱足りねえなあ…ほら」市倉が片手で匡孝の手ごと掴んで容器をぶん、と勢いよく振ると、どばあ、と粉チーズがどか雪のように勢いよく落ちた。
「おわっ」
「うわなにしてんの⁉」
ひいい、とふたりして声を上げ、匡孝は慌てて手を引っ込めた。しかし別の意味で匡孝は引き攣りそうになっていた。
今、いまっ、手、手が…!
手が。
市倉は肩を揺すって笑い出した。
「おまえも食えって」
「もお最悪だよっ」
重なった手が火を吹きそうだ。
かけすぎたチーズを市倉は匡孝の皿にフォークですくって移しだした。匡孝は真っ赤になってしまった顔を誤魔化すように、市倉に怒ってみせる。ふと目が合って次第に可笑しくなって匡孝は笑ってしまった。
「旨い」
一口食べた市倉が驚いたように呟く。
「でしょ?俺もこれ好き」
匡孝もチーズまみれのそれを頬張って、嬉しくて笑って市倉を見た。
「そうか」
と市倉は目を細めた。
食べた皿を下げコーヒーをセットする。手慣れたその動きを見て市倉がふうん、と感心したように言った。
「様になってるな」
カウンターの正面の席を匡孝は見る。ゆっくりと水を飲む市倉の姿がなんだか見慣れない。同じテーブルで食事をしたときはそうは思わなかったのに、不思議なものだ。
「でしょ」
店内にはもう市倉しか客はいない。匡孝が食事をしている間に残っていた2組の客も帰っていった。レジは浜村が請け負ってくれた。その浜村は今厨房で明日の仕込みをしている。
「はいどーぞ」
淹れたコーヒーを市倉の分だけテーブルの上に置く。匡孝にはまだ仕事が残っているのでカウンターの上に置いておいた。作業をしながら飲めばいいのだ。浜村の分も淹れ、厨房に持って行った。
「江藤」
離れた壁際のテーブルの皿を片付けていると市倉が言った。「何時に上がる?」
え、と匡孝は驚く。何時?
「あ…えっと、片付け終わったら、だけど」
市倉はコーヒーを啜りながら頷いた。
「じゃあ外にいるから、声かけろ」
「えっ?」
意図がつかめず問い返したが市倉は答えなかった。
ぐい、と市倉はコーヒーを飲み干し、席を立った。その足でカウンターに向かうと、奥から音を聞きつけた浜村が出てきてレジにつく。あ、と匡孝は思った。
「ありがとうございます、1080円ですね」
「どうも、江藤がお世話になってます」
なんだかどこかで聞いたようなセリフを市倉が言う。先生っ、と匡孝が声を上げると、大きな男ふたりがレジを挟んで頭を下げて名乗り合っていた。
「いえこちらこそ、よく働いてくれて助かってますよ」
「そうですか。お役に立っているようで」
「いやあ、もう、いてくれないと困るくらいです」
「浜さんっ」
「だと、良かったな江藤」
自分の事を言われて恥ずかしくて声を上げた匡孝に、市倉は振り向いて穏やかに、少しからかうようにそう言った。
「ごちそうさまでした。江藤、外で煙草吸ってるから」
「え、あ、うん?」
吸ってるから?
「待っててやるから、しっかり働けよ」
そう言って市倉はジャケットのポケットから携帯灰皿を取り出して、ひらりと匡孝に振ってみせた。
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