第13話

 座りの悪い椅子の中で匡孝は身動いだ。

 目の前では高い声で女の子達がきゃあきゃあと楽しそうに話しては一向に決まらないメニューを眺めている。気づかれないように匡孝はそっとため息を落とした。

 どうしてこんなことになってしまったのか。

 引きずられるようにして放り込まれた店の中にはすでに女の子ふたりが待機していて、挨拶もそこそこに半個室の席へと押し込まれた。文句のひとつも言わせない隙のなさと手際の良さに呆れるほかない。姫野はきっとこの為に用意周到に計画を立てていたのだ。

 そう、言い出したあの時にはすでにこの手段に持ち込もうと画策していたに違いない。

『ちかの事、いいって言ってる子知ってるんだけど』

 もっと…注意すべきだったのだ。

「はー…」

 3人が盛り上がっている隙に何度目かのため息をこぼした。とたんに隣の姫野が匡孝の足を踏みつけた。うっと呻いた匡孝に、笑顔のまま姫野がメニューを見ろと促してくる。

「ちか決まったのかよ?これ美味いんだって、ね?」

 と言って匡孝の正面に座っている女の子に相槌を促す。はにかみながら頷いた女の子は、姫野の言っていた『匡孝をいいと思っている女の子』だ。

 そして、匡孝の最も苦手とするタイプの女の子でもあった。

 ふわふわのカールした髪、上向いた長い睫毛、ピンク色に染まった頬、艶のある唇、上目に見てくる──少しだけ期待の込もった視線。まずい。とても。

「あー…俺はね…、えーと、じゃあ、こっちがいいかな…」

 期待を逸らす為に匡孝は敢えて彼女がオススメしたものとは別のものを指した。彼女の目が少しだけ曇る。しかしそれだって充分譲歩した上でのことで、ふわふわパンケーキがウリだと言うこの店に匡孝の好む甘さ控えめなものなど皆無である。

「えーこっちにしねえの?」

「いちご煮たのが苦手」

 ホントは食べれるけど。

「そっかあ匡孝君、じゃあいちごジャムとかもダメなの?」

 今そう言った!

「うん、駄目かな」

「えー甘いの嫌いだったの?ほかの店にすれば良かったかなあ」

「いや全然だいじょーぶだって、な!」

 肩を落とす女の子ふたりに姫野がすかさずフォローを入れる。な、と言って匡孝を見た目は笑っておらず、ぎゅーと足をまたしても踏まれてしまい、匡孝は引きつった笑顔でとりあえず場を繋いだ。

「あー…全然食べられないってことじゃなくて、パンケーキは好きだけど…」

「そうなの!」

「じゃ良かったよねえー」

 頷き合う女の子ふたりはそれだけで納得してしまったらしく、きゃあきゃあと喜んで、ようやく決まったそれぞれのものを注文し終えたのは、すでに店に入ってから20分は過ぎた頃だった。



「ここ予約取るのも大変なんだよねー」

「春人君ありがとー、みんなに写真撮って送っていいかな」

 テーブルに並べられたそれぞれのものは見た目も彩りも美しくて食べるのがもったいない程だった。早速彼女たちは携帯を取り出して写真を撮り始め、フォークを手にした男ふたりは手をつけるにつけられず、ひたすら待つしかない。何かの儀式かと呆気に取られた匡孝を横目に姫野はそんな事にも手慣れているようで、ひたすら笑顔で見守っている。これが女の子と言われればそうかもしれないが、匡孝には理解出来ないと思った。パンケーキに添えられたアイスクリームが見る間に形をなくし溶けていく。とろりと流れるそれに、匡孝はスプーンを差し出して構わずぱくりとひと口食べた。


 *


 匡孝が女の子を苦手だと思い始めたのは、中学生になった頃で、それは自身の母親の影響によるものが大きかった。特に甘い容姿──異性に好かれようとする意識を持った女の子が苦手だった。母親がそうだったからだ。

 甘い容姿、男に好かれようとする視線、異性を常に意識した身の振る舞い…

 匡孝の母親は美しい人で、しかし母である前に女であり、父親と結婚している時でもそれを変えなかった。匡孝の父親が1番下の拓巳が5歳を迎えた頃に家を出て行ったのも、3人の子供を置き去りにして家を空け仕事や自分自身を優先する母親を見限ったからだった。

 離婚後、母親は絶えず男の元に転がり込み、家に寄り付かなくなった。家に戻ってくる時は男と別れた時と決まっていて、しかしそれも長くは続かず、すぐにまた姿を消した。世間でいうところのそれはネグレクトなのだと知ったのは匡孝が中学生になった時──母親がほぼ家に戻らなくなって2年が過ぎていた。その時にはもう子供達と母親の関係は他人以下となっていた。

 その状態に祖母が気付くまで4つ下の妹と5つ下の弟の面倒を見てきたのは匡孝だ。高額の収入を得る仕事をしている母親は、子供に金銭面で困ることだけはさせなかったので、その点で言えば匡孝達兄妹は幸運であったと言えた。

 母親は美容関係の医師をしており(匡孝にはそれが一体どんなものなのか知る由もない)、大きな名のある病院に呼ばれてはそこで雇われるということを繰り返していた。いわゆる勤務医というもので、自分の医院などは持たず、声が掛かり条件さえ合えばそちらに籍を置くといった具合だ。それは本人の生き方そのものを表しているようで、匡孝は奇妙なものだと思ったものだ。

 自分の体や見た目だけで世の中を渡り歩く母親、子供になんの関心も抱かず、男の前でだけ甘ったるい匂いを振りまく母親は、匡孝にとって気味の悪い生き物でしかなかった。それはやがて女性というもの全てに適応されてゆき──特に母親と同じ匂いを持つ女の子を、やがて匡孝は得体の知れないものだと認識した。

 笑顔の裏に、何を隠しているのか分かったものではない。

 本当に、匡孝には触れることもかなわないような、そんな気持ちを──むろん姫野が知るはずもない。知らせたところで、どんな女の子にも優しく接する姫野に理解してもらえるなどとは匡孝は微塵も思ってはいなかった。

「…──あま」

 匡孝の前に座っている女の子──侑里ゆうりは無邪気に隣の女の子──姫野の知り合いだという千明ちあきとパンケーキを交換しあいながら笑っている。仲が良さそうだな、と思った。匡孝とて女友達がいないわけではない。だが、数少ないその全員が皆、女らしさを微塵も感じさせないような、男勝りの女性ばかりだった。こんな、ふわふわとして頼りないような一番苦手とする女の子を、匡孝はどうしたらいいのか分からない。

「んーやっぱサイコーだねー」

 名目は匡孝の誕生日祝いだったが、もはやその様相はなく、完全にこれは合コンだ。じゃなきゃダブルデートか?付き合ってもなく興味も抱けない女の子と甘いパンケーキを一緒に食べるのはどんな修行だ。

 早く帰りたい。

 市倉に会いたい、と匡孝は皿の中のブルーベリーソースをかき回しながら思った。

「ちかこれやる」

 姫野がその上に自分のパンケーキを切り取って置いた。チョコレートがまぶされたそれは間違いなくブルーベリーソースに合わないと思われる。

「自分で食えよ」

「いいじゃん、取り替えっこ。なーちかのもちょーだい」

「やめろっ」

 侑里が笑った。

「匡孝君て春人君にちかって呼ばれてるのー?かわいい、私も呼んでいい?」

「は…」

 匡孝は驚いて声も出なかった。

 今日、

 さっき知り合ったばっかじゃん⁉︎

「えー私もー」とすかさず千明も言い出した。

「ねえいいかな?」

 いいわけない。いいわけない。

「ちか君、ちか君ってほんとかわいいよね」

「は?」

 かわいい?

 しかも、いいって言ってないのに!

 千明はじっと匡孝を見て感心したように言った。ね、と侑里に同意を求める。うんうん、と小刻みに頷いて侑里は上目に匡孝を見て頬を染めた。

「髪もふわふわしてて柔らかそうだし、肌つるつる…何かつけたりしてるの」

「し──してない…」

 ふふ、と侑里が笑った。

「そっかあ、元がいいんだもんね。背も高いし華奢だしすっごくモテそう。ちか君て、お母さん似?」

「──」

 その瞬間、ぐっ、と喉の奥で何かが詰まった気がした。指先からすうっと血の気が引いていく。震えそうになり、ぎゅっと強く握り込んで、匡孝は無理矢理に呼吸を呑み込んだ。

「ど、かな…あんまりよく分かんないけど」

「男の子はお母さんに似るっていうもんねー」

「じゃあお母さんも綺麗な人なんだねーうわーいいなあ!うちなんかもう、ただのおばさんだよー?」

「うちもだよー」

 女の子達の声がどこか遠くに聞こえる。それに交じる姫野の笑い声がひどく鬱陶しかった。

 心臓が急き立てられるようにとくとくと早くなっていく。

 匡孝は強張る指先でフォークを握りしめ皿の中のパンケーキの欠片をすくった。それを口の中に押し込んで笑い、動揺を知られまいと誤魔化した。



 その後予備校に行くという千明に合わせて1時間ほどで場はお開きとなった。店の入り口で別れ、これから用事があると言い出した姫野に押しつけられるようにして匡孝は侑里と駅までの道を歩く。用事があるなどと言うのは姫野の出任せで、ようは匡孝と侑里をふたりきりにしようというのが見え見えだった。

 …分かりやすいヤツ。

 駅までのほんの10分に満たない道を侑里と肩を並べて歩く。日が暮れた空は暗く深い青に染まり端の方が燃えるように赤くなっている。暗い色の藍の中に星がいくつか光っていて、大通りに添った外灯が点り始めていた。

「ちか君、あのね、また会えるかな…?」

 駅まであと少しというところで侑里が匡孝を見上げて言った。頬が寒さのためか薄くピンク色になっている。期待を込めて自分を見る目に匡孝は少したじろいだ。侑里には自信があるのだ。自分の甘やかな容姿が、異性に対してどれほど魅力的であるのかを。

「だめかな?」

 それでも、次の誘いを女の子の方から言いだすのはかなり勇気のいることだろう。それは、分かってはいるが…

 自分に好意を抱く彼女に同じ気持ちで応えることは出来ないと、匡孝は知っている。

「…ごめん」

 侑里の顔がすうっと曇った。え、と漏れた呟きで、彼女にとってそれは予想外の答えだったのだと匡孝は思った。

「だめなの?」

「俺は…」侑里の目をまっすぐに見る。「俺は、きみじゃ駄目なんだ」

 ふたりとも足は既に止まっていた。駅の手前、家路を急ぐ人が行き交う道の端で見つめ合う。揺らぐ侑里の瞳が、コーヒーショップのガラス窓から溢れる光に光っている。

「でも、もう一度でいいから、会って?」

 そう言ったその目の中には、まだどこか自信があった。好かれているという自信。匡孝はゆるく首を振った。「何度会っても、きっと同じだよ」

「そんなこと分からないでしょ?」

 侑里は匡孝の言葉を切るように遮った。

「なにも私の事知らないのに、だめだなんておかしいよ」

 だから、と言いかけた匡孝の袖を侑里はぎゅっと掴んだ。

「何──」咄嗟に振りほどこうとして、その力の強さに匡孝は目を見張った。

「連絡先教えて、ちか君」

 そのすがるような目が。

 何かとだぶっていく。

「ねえ、また会おうよ…?」

 ゾッ、と匡孝の全身に鳥肌が立った。

『ちか君てお母さん似?』

 それは──

「ちか君!」

 匡孝は侑里の手を振りほどいていた。掴まれていた制服の袖を自分の手でぎゅっとちぎり取るように掴み、侑里を見た。

「悪いけどもう会わないから」

 早口でそれだけ言うと匡孝は侑里を置いて走りだした。ちか君、と侑里が呼んだ気がしたが構わず走り続けた。すれ違う人が何事かと目を向けていたが、どうでもいい事だ。駅に着き改札を抜けた瞬間、匡孝は目を見開いた。

 ──りいが、今匡孝が抜けた改札を出て行ったのだ。匡孝は振り向いた。人の流れに逆らって立つ匡孝に皆が迷惑そうにぶつかっていく。明るい駅構内の中をりいはあっという間に出て行った。そして、そのまままっすぐに歩いて行く…

「──」

 この町にりいは住んでいる。

 たった駅ふたつ隣。

 立ち尽くす匡孝の肩に見知らぬ誰かがぶつかって、匡孝は我に返った。怪訝に睨みつけられて、すみませんと小さく返し、人の流れに乗ってホームへと出た。

 追いかけたかったけれど、今日はもう、無理だ。匡孝にはまだやらなければならないことが残っている。自分の誕生日に、匡孝はある賭けをしていた。

 それをまだ確かめていない。

 匡孝は両手の指先が震えているのに気づいた。それはりいに突然出会ったためか、それとも──

 侑里の言葉が胸を抉る。

 侑里の自分を見つめる視線が、表情が、あの顔が、重なっていく。

 俺も、あんな風に先生を見ているのだろうか。あんな風に、あんな──母のような顔で。

「……っ」

 電車がホームに入って来た。ホームにあふれる人が流れ乗り込みやがて電車は出て行った。人がいなくなってまた電車がやって来ても、匡孝はそこから動けずにしばらく立ち尽くしていた。

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