第6話
翌朝、英人が言っていたお目当のカフェに朝食を食べに行った。朝だというのに周りはカップルで賑わっている。お店の外装は確かに可愛らしく、男一人では入りにくいのも理解できた。詩緒里はパンとポーチドエッグの朝食プレートを、英人はそれにパンケーキを追加して頼み、少しずつ分け合った。美味しそうに食べている彼の姿をみて、普段はきちんと仕事をしているんだなと思うとより愛らしかった。これまでの彼の恋人もこういう部分に惹かれたんだろうなと思い、不意に口に出た。
「聞いたことなかったんだけどさ、英人は過去どんな人とつきあってたの?」
「んー今聞く?」
英人は笑って言った。
「そうだなぁ。割と年上が多いかなぁ。」
パンケーキの解体に集中しながら答えた。皿の上でジャムと生クリームが混ざり合ってぐちゃぐちゃになっている。以前、英人は片親でほとんど歳の離れた姉に育てられたと話していたことを思い出した。
「そうなんだ、なんかしっかりしてるからあまりそんな感じがしなかった。」
「それよく言われる!付き合う前はそうでもないんだけど、付き合うと結構甘えられることが多いかも。だけどなんでか結局は振られちゃうことが多いんだよね。詩緒里は?」
詩緒里はどきりとした。
「わたしはまぁ普通に付き合って普通に別れる感じかな」
「ふーん、詩緒里のいう普通ってレベル高そう」
英人は顔をくしゃっとしながら言い、それ以上突っ込むことはしなかった。
店を出た後、近所の家具屋や服屋を、食べ歩きをしながら回った。公園で遊ぶ家族やベンチに座っているカップルと一緒に、穏やかな街の景色を作り上げていると思うと詩緒里はとても嬉しかった。すれ違った人が誰々に似ているとか、あの店のイヤリングが可愛かったとか、来週の女子会では誰に会うかなど、思いついたことを喋れる居心地の良さを確かめながら少しずつ終わっていく今日を惜しんだ。
近くの駅まで送ってもらっている最中、詩緒里の頭にふと昨夜に英人が言いよどんでいたことがよぎった。詩緒里は今だったら気軽に聞けると思った。
「ねぇねぇ昨日寝る時にさ、なんか言いたそうだったじゃん?あれほんとはなんだったの?」
詩緒里は下から英人をのぞき見ていたずらっぽくたずねた。英人は顎をさすり、何だっけとつぶやき、空を見ていた。昨晩のように焦る様子もなかった。
「あぁ、おれさぁ、詩緒里のやつを食べてみたいんだ。」
英人はさらっと答えた。
「え?」
「だから詩緒里のHミートが食べたいなって」
一瞬何を耳にしたのかわからなかった。そしてすぐさまたずねたことを後悔した。詩緒里は背中が一気に汗ばむのを感じ、動揺がバレないように左の袖口を指でなぞり平静を装った。しかしどう反応するのが正解か自分でもわからなかった。好きな人の名状しがたい欲求に対して嫌悪感とも断言できない何かが胸を疼いた。
「…それって…結構……かなり、やばいことだよね?」
「いや、…そう、だね。」
緊張感を察したのか、英人の口調が一気に重くなった。
「普段から思ってんの?」
少しだけ語勢が強くなる。
「いや、今まで、こんなことしたいって思ったことなかったんだけど。」
ひとつずつ言葉を選んでいるようだった。
「なんだろ…今までより…詩緒里をもっと近くで感じたいというか…。あぁダメだ、ごめん話せば話すほど気持ち悪くなるんだけど」
詩緒里は何も言えなかった。
「…こんなところで話す事じゃなかったよな」
英人は努めて明るく言った。
「………………」
「……ごめん、引いたよね…」
「………引いたっていうか」
「…………」
沈黙が続く。詩緒里はずっとHミートはどこか遠くのもので、自分の私生活と交わることなく、関係ないものだと思っていた。そしてまさかこんな形で日常に食い込んでくるとは思っていなかった。
「…うん。……ちょっと、…無理かも。…ごめんね。」
回らない頭を必死に稼働させて出てきた言葉がこれだけだった。
「そうだよね、困らせてごめん。もう忘れて!」
英人はそう言うと来週二人で行く予定のカフェの話をはじめ、さきほどの数十秒が綺麗に切り取られたように日常に戻った。英人本人も違和感を感じているはずだが、英人の心情を慮れないほどに詩緒里の中でわだかまりが残った。これまで、英人は詩緒里の意向を汲み取った上で求めてくることしかなかった。詩緒里が手を繋ぎたいときや触れたいとき、英人はそれを察して応じてくれる。昨晩もそうだった。しかし今初めて、詩緒里を度外視した欲求を露わにした。詩緒里は顔を出した彼の歪なそれを受け入れることができなかった。過去何度も恋人の欲望に応じてきた詩緒里にとって、目の前の最愛の人の欲望をすんなり受け入れられないことが信じられなかった。しかし、恋人の肉を食べたいだなんて狂気じみている。到底受け入れられるものではなく、英人に対して初めて抱く安心感とかけ離れた感情だった。ただそれは嫌悪感ではなかった。詩緒里はその感覚に思い当たりがあった。受け入れがたい欲求のきっさきが自分に向けられて初めて、遠い昔に葬られていた記憶の断片が浮き上がってきた。それは、全く関係ない文脈のはずだった。詩緒里は困惑しながらも、自分の口の端がほんの少しだけ上がっていることに気がついた。
小学5年生だったある日、風邪をひいて学校を休んでいた詩緒里は、リビングに敷いた布団から火照った顔を出してテレビを見ていた。詩緒里は昔から学校を休んだ日に楽しみにしていた番組があった。NHKで放送されていた虫に関する15分番組で、毎回一種類の虫を取り上げ、四択問題のクイズが出題されるという内容だった。その日も高熱を忘れて、放送をまだかまだかと心待ちにしていた。興味のない工作番組が終わった後、ついにあのおなじみのオープニングが流れ、上半身を起こして視聴する体勢を作った。詩緒里はきれいなチョウチョやかっこいいカブトムシの問題を期待していたが、その日はカマキリの回だった。詩緒里はカマキリが苦手だった。痩身長躯で不自然なほどに小さい頭に、針を刺したら何かが出てきそうなでっぷりと詰まった腹部のアンバランスさが不気味だった。チャンネルを変えようとも思ったがクイズが始まると怖いもの見たさだろうか、食い入るように見ていた。番組の進行役であるアロハシャツを着たカマキリのキャラクターが、カマキリ同士の交尾が終わると、オスとメスの間で何が起きるかを四択問題で出題した。詩緒里は薄眼でテレビを見ながら、考えもせず行方を見守った。メスがオスを食べるというショッキングな内容だったが、詩緒里の内に湧いたのは好奇心だった。詩緒里はカマキリのメスがなぜ、大好きなオスを食べるのだろうか不思議に思った。体温をはかりにきた母に尋ねたが、虫が嫌いな母がカマキリのことなど知るはずもなく、「きっと好き過ぎるんじゃないかな」と困った顔をしながら答えるだけであった。幼少ながらもその返答に満足できなかったが、それ以上知るすべもなく疑念を胸の内にしまった。
そのまましばらくたち、虫に対する興味もカマキリへの好奇心もすっかり失っていた高校生の時、授業中パラパラとめくっていた生物の資料集の共食いの項目が目に飛び込んできた。同じ種類の動物が互いに食べ合う行為の例としてカマキリが載っていた。懐かしくも妙な好奇心がおし寄せて来た。あの時知ることができなかった答えの端っこがつかめそうだった。詩緒里は何かに取り憑かれたかのように、スマホで“カマキリ 共食い”と検索した。すると検索結果には子供向けのテレビ番組では放送できないようなグロデスクな画像、映像が溢れた。あの時と同じように薄眼で見ていたものの、気がつくとまた見入っていた。動画のコメント蘭には、メスはオスを食べることで栄養を摂取し卵の発育をよくするという説明が書かれていた。子孫を残す確率を高めるため、メスだけでなくオスとしてもメリットがあるのだという。オスはなんの得もしていないように見えるのに、よくできてるなぁと感心した。それと同時に詩緒里は最近できた彼氏に対する自分の振る舞いを重ね合わせていることに気がついた。時々お弁当を作ってあげたり、登校する時、家に迎えに行ってあげたりと、自分はどちらかというとオスっぽいなと詩緒里は思ったが、カマキリのように自分の肉体を差し出すほどの愛ではないなと自答した。進化の過程で何万年もかけて獲得したこの行動は、ひょっとすると究極的な愛の結晶なんじゃないだろうかと思えた。詩緒里はなんとなく、その瞬間のカマキリのオスはどんな心境なのだろうと疑問に思った。そもそも感情があるかもわからないが、もしあるとしたらどういう気持ちで己を差し出しているのだろう。それは愛が極まった至福な状態なのか、それとも苦悶に満ちた感情なのか。そればかりはネットで調べてもでてくるはずがなかった。英人からの思いもしない欲望がこの一連の記憶を蘇らせ、日常とかけ離れたテーマであるはずなのにやけに親近感を抱いてしまったことを、なぜか詩緒里は全くショックに思わなかった。
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