第5話
新宿駅から歌舞伎町を抜け、新大久保の手前にあったそのお店はおしゃれな海鮮居酒屋だった。店に入ると、大きな生け簀にヒラメやカワハギなど色々な魚が泳いでいるのが見えた。周囲のテーブルを見回すと、舟型の皿に新鮮な刺身がたくさん盛られている。店員の案内でカウンター席に座った。
「この前先輩に教えてもらって、その時すごい美味しくて。詩緒里も連れてきたいと思ってたんだ」
おしぼりで手を拭きながら英人は言った。
「こんなところあったんだね、ほんとお刺身が美味しそう!」
「びっくりするぐらい美味しいよ!注文した後に生け簀から揚げた魚を目の前でさばいてくれるんだよ。」
隣の席のお客さんに運ばれる料理を目で追いながら、英人は嬉しそうに言った。
注文が通るたびに目の前のまな板でイワシやエビなどが〆られていた。英人が頼んだエビの活き造りは、砕氷に一尾のエビの頭部と腹部が置かれた状態で出てきた。身体が切断されているのに触覚も尻尾も元気に動いている。恐る恐る手を伸ばすが、ビクビクと小刻みに腹部が動いていてなかなか触れられない。英人は怯んでいる詩緒里の姿を楽しそうに見ていた。そんな視線を感じつつ、隣で同じ活き造りを頼んでいる若いカップルの声が聞こえてきた。
「うわー!すごーい!動いてる!」
楽しそうにしていたが、予想以上に動くエビに彼女が小さくこぼした。
「でも、ちょっとかわいそうだよね。」
すると彼氏はさも当たり前のことを諭すように言った。
「そう?美味しく食べられるんだから幸せだと思うよ」
エビと格闘しながらその話を聞いていた詩緒里は、食べられる側はそんな悠長なこと思ってられないんじゃないだろうかと思った。英人の手ほどきの元、扱いにだいぶ慣れた詩緒里は、手際良く腹部の殻を剥けるようになった。徐々に動きが鈍くなっている皿の上の頭部と目があった気がしたが、すぐに美味の快感にかき消された。
店を出る時、二人はほどよく酔っ払っていた
「これからどうする?」
英人がいった。
「どうしよっか?」
詩緒里はわかりつつ白を切った。英人は一拍おいて言った。
「明日特に用事なかったら、俺の家でもう一杯飲もうよ」
詩緒里は頷いてこたえた。英人の家は、新宿から十五分ほどで到着する下北沢駅からほど近いマンションだった。
駅からの帰り道、まだ飲み足りない英人は、コンビニで赤ワインを買って家に向かった。付き合ってから三回目の英人の部屋は、いつも通り片付けるところも見当たらないほど綺麗だった。椅子もテーブルも棚も同じ家具メーカーで揃えている。まだ新しいのか爽やかな木の香りがした。英人は大好物だと言うコンビーフとジャガイモを慣れた手つきで炒め、ワインと一緒に楽しんだ。映画や音楽、詩緒里の会社での出来事や今日の夕食の感想など話はなかなか尽きなかった。酔いもまわり、話も一通り終わった後、ソファに移り、詩緒里は英人の肩に身体を預けた。詩緒里の手の甲をなでていた英人は体を引き寄せた。先ほどとは違う艶やかな雰囲気を纏っていた。指、掌、唇と少しずつ触れあう面積が増えていき、二人はベッドに移動して情を交わした。英人は壊れやすいものに接するかのように、詩緒里を大事に扱った。詩緒里はこれほどまでに大きな充足感に包まれたのは初めてだった。今まで味わったことのない愉悦に深く沈んでいった。
顔を洗いに洗面所に向かう英人を見送った後、詩緒里はほのかに漂う残り香を惜しみつつ、天井をうすく眺めて余韻に浸っていた。これまでの彼氏とは全く異なる英人との恋愛。嬉しさと満足感でいっぱいの頭の中に、英人に何もしてあげられてないのではという不安が少しずつ侵食していった。いつも癒やしをもらってるのは自分の方だと強く認識してるが故に、二人の不均衡が気になった。詩緒里は英人の彼女とたらしめる証拠や実感がほしかった。そのためには何かしてあげたいという解決策しか思いつかなかった。しかし、まだ出会って3ヶ月程度。英人の気持ちがわからないのも事実だった。ひょっとしたら彼はこの関係が心地いいのかもしれない。詩緒里はゆっくりと距離を測りながら彼が好きなようにさせてあげようと思った。
洗面所から戻ってきた英人は少しだけ緊張した面持ちをしていた。しかし深刻な様子ではなく、告白前のようなソワソワした雰囲気だった。
「どうしたの?」
詩緒里は訊ねた。
「ん?」
英人の声が少しだけうわずった。
「いやなんか言いたそうだから」
「あ、そうね」
英人はいつもと違う表情で余裕なく笑った。
「ええーと、うん、ちょっと言いにくいんだけど。」
「なに?」
詩緒里も笑顔を作って聞いた。
「自分がこういうこと言うとは思わなかった、いや今も思ってないんだけど、、」
「だから何よ」
「んー、」
「ほら言ってみ?」
「そうだね、あー、そう、明日も詩緒里とどこか行きたいなって思って、、」
「ん?明日?」
はぐらかされたのは明らかだった。
「明日は大丈夫だけど、他になんかあるんじゃないの?」
詩緒里はおどけていったが、内心とても気になっていた。
深刻な話ではない気がしたが、英人の喉元まできている言葉が今の幸せに影を落とすのだけは嫌だった。
「ほんとこれだけだよ、ちょっと行きたいところがあるんだけど、一人じゃ行きにくくて。」
詩緒里はその言葉が嬉しかったが、とうとうその日は英人が言いかけた何かを聴くことはなかった。
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