第4話

詩緒里は仕事を早めに済ませて、英人と夕食の約束をしている新宿へと向かった。

英人とは三ヶ月前にマッチングアプリで知り合った。恋愛に後ろ向きだった詩緒里を見かねた加奈が、詩緒里のスマホを取り上げアプリをダウンロードし、プロフィールテキストや加工済みの写真を登録したのだった。渋々始めた詩緒里が最初に出会ったのが英人だった。英人はIT企業に勤めており、加奈と同じ4歳下で、よく笑う人という印象を持った。また、年下であることを忘れるぐらい落ち着いた雰囲気を纏っていた。二人で初めて行った店は牡蠣が有名な居酒屋だった。食事をしている間、英人は詩緒里の緊張をくみ取ってか、牡蠣は中身がほぼ内臓だとか、グロデスクな見た目から予想できないこの美味は奇跡だの、薀蓄や彼なりの感想を一生懸命に熱弁していた。はじめこそその勢いに押されたものの、気づくと加奈と円香と接するように会話を楽しんでいた。詩緒里は異性と過ごしていて久しぶりに楽しいと思った。英人の着飾らない様子を見て、この人とならうまく付き合えるのではと思った。その後食事を重ね、3回目の食事の後、英人から緊張混じりの誠実な告白があった。一生懸命な彼を見て、詩緒里は少しだけもったいぶったあと受け入れた。そして今に至るまで、全く負担を感じさせない英人との付き合いを楽しんでいた。


「おつかれ!」

新宿駅の交番前で待っていた詩緒里の背後から突然、英人が声をかけ、驚いた詩緒里を見て喜んでいる。その顔を見ると詩緒里はムズムズする心地よさを感じた。

「何か食べたいものある?」

「んー、海鮮が食べたいかなぁ」

詩緒里は即答した。昼に見た加奈のHミートで少しだけ食傷気味だったからか、あっさりしたものが食べたかった。その話をすると英人はケラケラ笑った。

「詩緒里は苦手だもんね。でも案外食べ始めたら慣れるもんだよ。あ、ほら体にもいいしさ!」

そう言って、ビル上の大きなサイネージに映った広告を指差した。綺麗な女性が、ジムでのトレーニング終わりに、粉末状のHミートを水に溶かして飲んでいる。詩緒里も通勤途中によく見かける広告だが、グロデスクを排除した不自然な爽やかさと、街の景観に違和感なく溶け込んでいる馴れ馴れしさに違和感を抱いていた。しかし、英人と一緒に居るとなんてことないただの広告に感じた。

「あ、そう言えば、ちょうど行きたいところがあるんだよ!」

いつもは優柔不断な英人が珍しく提案するので二つ返事であとをついていった。

 店に向かう最中、手を引いてくれたり車道側を歩いてくれる英人のさりげない優しさに、詩緒里は恋人としての幸せを感じていた。


 それまでの恋愛において詩緒里はいわゆる都合のいい女だった。相手が真夜中に会いたいと電話があればタクシーで向かい、料理が食べたいとLINEがあればスーパーに寄って家まで作りにいき、求められればどのようなプレイも受け入れ、彼のあらゆる欲を満たしていた。友人には尽くしすぎだの依存しているだの言われたが、詩緒里にとっては好きな人に対する普通の行為だった。詩緒里は自分の中に相手へのまとまらない愛情や母性や、ノイズのように蓄積される憎悪を含む、ぐちゃぐちゃな部分があることを知っていたが、彼に尽くすことでその部分を排出することができた。痛みを伴いながらちぎり取り、彼氏という自分だけの器の中に少しずつ貯めていく感覚が自尊心を満たした。純粋な憎悪も不純な愛情も、雪と土が混じった積雪のようにすこしずつ沈めていく。そうすることで自分と彼氏のつながりを感じられ、またそれが歪だけれども愛情行為だと思っていた。しかしその実感とは裏腹に、恋愛関係が長く続くことはなく、いつも突然一方的に振られるのだった。理由はみな言い合わせたように「他に好きな人ができた」だった。

 こうなると詩緒里はいつも相手の器の不出来を責めた。自分の大事なかけらを継ぎ足していた器は、穴が空いていたどころかもともと汚物をため込んでいた痰壺だったのではとさえ感じられた。過去の彼氏はほとんどが復縁を求めてきたが詩緒里は一度も応じなかった。都度心からの嫌悪感を示した。それは自分が注いだ愛情に対してでもあった。そして詩緒里は徐々に男性というものはそういうものなのだろうと思い込んでいった。英人のことも、会うまでは同じたぐいの人間だろうと思っていた。しかし、実際に会って、話して、付き合っても彼の優しさは途切れることなく、さらにいうと幼い欲を求めてくることもなかった。これまでの恋人とは明白に違った健全な付き合いができていた。詩緒里はそれが嬉しかった。ただ少しだけ、自分は英人の中に何が残せているのだろうという不安があった。

「着いたよ」

 英人は立ち止まり繋いでいた詩緒里の手を優しく握って言った。

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