第10話:夜のレイズ支部
顔を上げて首を曲げながら個室の壁に掛けてある時計に目を向ける。
「あっ! も、もうこんな時間、早く帰らなきゃ! ……あれ、鍵ってどうするんだっけ?」
レイズ支部の鍵はエルフィンとヴィルが持っている。そのためどちらから必ず最後まで残って仕事をしていたり職員の手伝いをしていることがある。
しかし個室にいたアヤは二人に手伝ってもらったわけではなく、扉の外からは物音一つ聞こえない。
「……も、もしかして、忘れ去られちゃった!?」
資料を片付けて立ち上がると慌てて扉を開ける。
廊下は電気が消えており暗くなっており、裏口につながる廊下も真っ暗。
しかし、事務所につながる廊下の先からは微かに光が漏れていた。
「……誰か、いる?」
恐る恐る足を進め、曲がり角からそーっと顔を覗かせる。
机には誰もいない――だが、奥の長椅子からは誰かが横になっているのか片足だけが飛び出しているのが見えた。
ゆっくりと近づき上から覗き込むと――
「……ヴィル先輩?」
長椅子にはヴィルが腕を頭の後ろで組んで枕にして眠っていた。
アヤの記憶では職員に誘われて飲み会に行ったと思っていたのだが、何故ここにいるのか、何故ここで寝ているのか疑問が頭を駆け巡る。
だが、そんな疑問はすぐに吹き飛んでしまった。
「……」
アヤの視線は――思考は、目の前で寝ているヴィルの寝顔に持っていかれていた。
視線を逸らすことができずにただただ見つめてしまう。
掛け時計の音だけが室内に響き、時間だけが一定のリズムで進んでいく。
どれだけそうしていただろうか。アヤとしてはこの時間が無限に続けばいいと思っていたかもしれない。
「――……んん……んっ?」
態勢を直そうと動いた拍子に目を覚ましたヴィルは、上から覗き込んでいるアヤと目が合ってしまった。
「……」
「……」
「……何をしているんだ?」
「……ご! ごめんなさいですはい!」
「いや、語尾がおかしくなってるんだが」
顔を真っ赤にして慌てふためくアヤとは対照的に、平静を装いツッコミを入れているヴィル。
「勉強は終わったのか?」
「は、はい! 全部読み終わりました!」
「そうか。ふああああぁぁ……寝みぃ」
「……あの、先輩?」
「なんだ?」
アヤは申し訳なさそうな声で口を開く。
「の、飲み会は?」
「ここにいるんだぞ、行ってるわけないだろう」
「……私のせいですか?」
レイズ支部の鍵はヴィルとエルフィンしか持っていない。アヤが勉強をしていることを知っていたヴィルがわざわざ残ってくれたと考えるのは当然のことだ。
「そんなわけがあるか」
「えっ? で、でも……」
「俺とエルは飲み会の場合、どちらかしか行かないって決めてるんだよ」
「そ、そうなんですか?」
「二人とも飲んで翌日仕事にならなかったら大問題だからな。まあ、エルに限ってそんなことはないだろうが、一応俺たちで決めた約束事だからな」
今のレイズ支部ではヴィルとエルフィン、必ずどちらか一人は出勤することになっている。それはまだまだ平の職員だけに全てを任せるわけにはいかないと考えているからだ。
お互いに酒には飲まれないようにと意識しているものの、最低限の予防策として飲み会には二人で参加しないことを決めていた。
「前回は俺が参加したから、今回はエルが参加したってことだ」
「……そ、そうでしたか」
少しの安堵と、少しの悲しみ。
ほんの少し、本当に少しだけだが、自分のために残ってくれていたのかと期待してしまった。
「……で、でもこんな時間まで待たせてしまって、すみませんでした」
「家に帰ってもやることないしな、気にするな」
大きく伸びをして体をほぐしたヴィルだったが、その視線は落ち込み下を向くアヤに向いている。
何気なく、上げた手を自然と降ろしながら――
「……ふぇ」
「……気にするなって言ってるだろう?」
下を向きちょうどいい位置にあったアヤの頭をポンポンと叩く。
あまりの恥ずかしさに顔を上げることができなくなっていたアヤだったが――自分でやったにもかかわらずヴィルの顔の方が真っ赤に染まっていた。
(……お、俺は何をやっているんだ! ってか自分でもよく分からんぞ!)
自然の行動で頭をポンポンしてしまったヴィルだが、人生の中で女性の頭をポンポンしたのは今日が初めてだった。
自分でも驚きの行動に心臓をバクバクさせていたのだが、アヤの顔がこちらを見ようと動いたのを感じ取るとすかさず背を向けて顔を隠す。
「さ、さっさと帰るぞ! 俺は眠いんだよ!」
「は、はい! すみません!」
突然の大声に慌てたアヤは荷物をまとめるとすぐに帰り支度を済ませる。
ヴィルと一緒にレイズ支部を出て戸締りまで確認すると、二人はその場で分かれた。
帰り道はお互いに顔を真っ赤にしていたのだが、夜の暗闇と顔を照らす赤みを帯びた街灯によって誰にも気づかれることはなかった。
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