第26話 読み合いの末に(三)

 等々力は遠くの左近に声を掛けた。


「左近さん、すいません。ちょっと、準備に時間が掛かりそうなので、腕を下ろして待っていてください」


 等々力は座禅を組むように座った。等々力が知るうえで、こんな、状況で狙撃可能人物は一人。


 名前は死神・神龍(シェンロン)。神龍は世界で累計発行部数五千万部を超える漫画『ワンショット・ミリオン$』の主人公。実際には存在しない人物。


『ワンショット・ミリオン$』では、神龍が似たような状況に置かれて狙撃を成功させる『道化の報酬』と呼ばれる回が存在した。でも、実際にいない人物に成り済まし、なおかつ技術まで真似できるのだろうか。


(こうなったら、やるしかない。神龍になってやる)


 等々力は瞑想した。リーの空気と軍曹の空気からプロ特有のエッセンスを抽出。その後、コミックで読んだ神龍の気配を重ねようとするが、中々うまくいかない。


 等々力は「焦るな、焦るな。神龍よ、降りて来てくれ」と祈った。どれほど、時間が経ったかわからない。リーが「いつまで、そうしている」と苛立って迫ってきた。


 リーが迫った時、暗闇の中、何かがやって来る足音を聞いた。等々力は静かに強い口調で「静かに黙って」とリーに命令した。


 よく、アーティストが「神が降りて来る」との発言を聞くが、嘘だと思っていた。だが、何かが降りて来るとは、今のような状況を言うのだと確信した。


 足音は近づいて来るに従って姿を持つ。やってきたのは無精髭を生やした、三十代後半の中肉中背の男性。よれよれのクリーム色のトレンチコートを着てショートの黒髪をボサボサにしている。


 一見すると、頼りない中年男性だ。ところが、瞳の奥は暗く、危険な色を隠す。間違いなく神龍だ。


 神龍は依頼人と会う時に必ず口にする「少し、待たせちまったかな」のセリフを等々力に掛けてきた。神龍と等々力が重なった。


 等々力が目を開けた。視界の横にリーの突きつけるマカロフPMが見えた。等々力の身体が動く前に、リーが動物的反射神経で飛びのいた。


 リーの顔には緊張が漲っていた。明らかに強敵と対峙した時の顔だ。

 等々力が口を開くと、神龍らしい渋い言葉が出た。


「狙撃対象は百八十m先に離れた一ドル硬貨。条件はドラグノフを使用する、で間違いないか」


 リーは「そうだよ」と強気で答えた。だが、リーの顔には明らかに狼狽の色が浮かんでいた。


 等々力はドラグノフを確認すると、立ったまま構えて、横目でリーに淡々と言葉を掛けた。


「俺のワン・ショット百万ドルだが、本当にいいんだな」

 リーが何かに怯んだまま顔で答えた。


「ああ、できるならね。ただ、失敗したら死んでもらうね」

 左近が腕を上げてコインを掲げた


 等々力は銃を構えたまま、静かにリーに言葉を返した。

「承知した。一発でも失敗したら、遠慮なく引き金を引け」


 等々力はそこで一度、狙撃姿勢を解除する。

 リーが「やっぱり、できないだろう」と、余裕を取り戻した顔をした。


 等々力はリーを見て、『道化の報酬』で神龍が口にしたのと全く同じセリフを自然と口にした


「後で言った、言わないで、揉めるのは嫌だから、最後に確認をしておく。コインは無生物だ。死亡はない。二発当てたら、二百万ドル払ってもらう」


 リーが、「なんだと」いわんばかりに驚いた。


 それは、そうだろう。弾が当ったコインが静止しているとは思えない。おそらく、空中を跳ねる。予測できない方向に空中を跳ねる直径三㎝に満たない物体に、もう一度、弾丸を当てる。できれば神業だ。


 リーが言葉を挟む前に銃を構えて、等々力は自然に引き金を引いた。

 弾丸がコインに当った。空中に跳ね上がったコインの動きがスローで見えた。等々力の身体に纏った神龍の空気が体を動かした。


 銃口をわずかに上げて、穴の開いたコインを照準に捉えて二発目を放った。


 二発目の弾丸が当ったコインは二つに割れた。ここで辞めるのが無難なのはわかっているが、漫画の神龍は辞めなかった。


 等々力はさらに割れたコインの半分に三発目の弾丸を撃ち込んで半分になったコインを砕いた。スコープを通して、コインと砕けたコインの残骸が落ちる煌きが見えた。


 等々力は銃を構えたまま、平然と口にした。

「コインに三回、弾を当てた。ワン・ショット百万ドル。約束通り、三百万ドルいただこう」


 リーは唖然としていた。


 それはそうだろう。やった本人が言うのだから間違いないが、もう、一千万ドル払うから同じ狙撃をしろと言われても、できない。これは、年末ジャンボに三回当る以上の奇跡だ。神龍から等々力に戻ろうとしたが、戻れなかった。


 神龍となった等々力は、自身の意思に反して言葉が出た。

「聞こえなかったか? 三百万ドルだ」


 等々力は制御できなくなった自分の言葉に非常に狼狽した。

(まずい、非常にまずい)


『道化の報酬』では、予想だにしない結果になった依頼人は、三百万ドルを用意していなかった。


 払えない依頼人は身の危険を感じて銃を神龍に向ける。だが、神龍は弾丸を避けて、依頼人と護衛をその場で撃ち殺す。


 弾丸を避けられるわけがない。普通なら、等々力にプロのリーが殺せるわけがない。


 わけがないのだが、このままではリーが死ぬ予感がしてならない。でも、等々力の意志では神龍の状態が解除できなかった。


 満面の笑みでアントニーが拍手した。


「素晴らしいショットだった。まさか、本当にコミック通りのショットが見られるとは思わなかったよ。これは三百万ドルを出しても見る価値があるね。確か、コミックでは神龍への支払いは、現金でなくてもいいんだったよね。柴田」


 柴田はアントニーに声を掛けられると、小切手張を取り出した。アントニーはその場で三百万ドルの小切手を切って差し出した。


 小切手を受け取ると、神龍は満足したのか等々力の中から消えた。


 等々力はその場に座り込むと、汗が全身から噴出してきた。能力の限界が来たと感じた。


『ワンショット・ミリオン$』は世界で五千万部も売れている作品なのでアントニーが読んでいてもおかしくない。中でも『道化の報酬』はメジャーなエピソードだ。


 アントニーはきっと目の前の事態を予測していて、リーをけしかけた。アントニーは存在しない人物になれるか等々力を試した。


 左近が証拠の一ドル硬貨だった破片をもって戻ってきた。

 リーも異常な事態から正気に戻ったのか、等々力と肩を組んで小声で発言した。


「お前、ホント、すごいやつだったあるな。どうだ、わたしの妾にならないか」


 日本語として『妾』の使い方が違う気がする。けれども、今は言葉を正す気分ではなかった。精神的疲労感が、半端ではなかった。


 等々力は力なくリーを振りほどく。ふらふらになりながら、立ち上がり「帰ろう」と左近を促した。異常に疲れた。もう、やりたくない。


 背後でリーが元気良く叫んだ。

「じゃあ、三日後。よろしく頼む、あるよ」


「三日後だって、急過ぎる」と抗議したかったが止めた。所詮、三日では等々力としてなら、狙撃の練習は意味がない。リーの空気は掴んだ。死神・神龍にはもう一度なれないかもしれないが、鷹の目・リーになら成り済ませる。とにかく、今は帰って早く休みたい。

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