第24話 読み合いの末に(一)
訓練はなぜかアントニーの屋敷にある屋内運動場が使われた。
軍事訓練は個人レッスンで、教官はチャン・リー本人だった。リーは髪を後ろで縛り、緑色の綿のパンツに、クリーム色の地味な上着を着ていた。
ジョセフかアントニーが、リーの所属する組織の上得意だった。あるいは、ジョセフがリーの所属する組織に出資している可能性が高い。
どちらにしろ、ウリエル一族が絡むと、ろくな結末がないので、深くは聞きたくなかった。絶対、藪を突ついて蛇を出す行為になる。
「まずは基礎体力を知りたいね」とリーが申し出た。
趣味でクロスカントリー・スキーをやっていたので、体力には、ちょっとだけ自信があった。
雪原七十㎞は制限タイム内なら、余裕で完走できる。スクワット五百回、懸垂五十回もいける。
訓練を開始すると、すぐに思い知らさられた。走り込み、腕立て、腹筋、スクワット、懸垂、何をするにも、リーのペースは等々力には早過ぎた。
リーは映画で見るような汚い言葉遣いもしなければ、殴りもしない。
何度も「もっと早くするね」「遅いね」と催促された。リーのスピードに合わせたら、二時間掛からずに限界が来た。
リーがせっかちなのか、軍人級のトレーニング強度では普通の速度なのかは不明。
要求される運動量は、マイペースならこなせるが、速度を求められると、従いていけなかった。
リーは等々力と同じ運動量をこなしたが、息を切らせることは一切なかった。リーが左近に広東語で何か話していた。
何を言っているかは広東語なのでわからないが、空気から、だいたい理解できる。
「こいつは、予想以上に酷い」「日本の男は、こんなに鈍臭いのか」「この男、たぶん死ぬよ」「他に適任者はいないのか」的な不満を、リーが静かに左近に並べているのだろう。
左近は言い方を変えているが「任せてください。きっとうまくいきますよ」的な言葉で宥めている。
等々力は激しく脈打つ自分の心臓の音を聞きながら、リーから依頼を解除してくれる事態を心の底から望んだ。
リーのペースは、辛すぎる。けれども、リーは一緒に運動していなかったかのように振舞っている。リーのペースで訓練が一週間も続くなら、脱走したい。
けれども、リーから逃げきるのは、不可能だ。リーの纏っている空気から、伝わってくる。リーは、仕事のできる人間で、裏切りは許さないタイプだ。逃げれば、軍曹より先に狙撃されて、あの世行きだ。
リーが広東語訛りのある日本語で命令した。
「休むの、よくないね。あと、十周する、よろしい。できるだけ速くね」
等々力は半ば
ガニーとリー両方に接した等々力だから、わかる。おそらく、単純に狙撃の腕だけなら、リーのほうが上だ。ただ、誘拐、潜入工作、防諜活動など、柔軟性が要求される仕事なら、ガニーのほうがうまく適応できる。
現に前回も予期しないトラブルで事態が悪い方向に転がっても、ガニーは焦って無理に動かなかった。動かない判断をするほうが難しい時もある。ガニーならリーが予想しない位置から狙撃するかもしれない。
左近が評した五分五分の戦いは、あながち間違いではない。だからこそ、影武者が必要だとリーは判断した。
もし、ガニーがリーの影武者である等々力を狙ったとする。
リーなら、ガニーが等々力を狙撃するより先に仕留められる可能性がある。もし、軍曹が裏をかいても、ガニーが等々力を誤認して狙撃すれば場所が割れる。裏を掻いてリーを仕留めたと思っているガニーを狙撃するのなら確実だ。
無理なら諦めればいい。影武者作戦はリー自身の弱みを把握した上で確実に生き残るための妥当な手段だ。
とはいえ、影武者にとっては実に有難くないお客さんだ。リーの頭の中では、等々力が撃たれたほうが遙かに安全に仕事を遂行できる。
十周を終えて、人工芝の上に倒れ込んだ。
「すいません、少し休みを」と息も絶え絶えに申告した。
リーが時計を睨みながら口を尖らせた。
「遅いね。遅すぎるよ。たった十周するのに、十五分以上も掛かるって、どういうことよ。やる気ないのか」
リーは続けざまに広東語で三十秒くらい捲くし立てて、どこかへ行ってしまった。
左近が横に座って「もう少し、どうにかできないの」と呆れ顔で発言した。
「じゃあ、あんたがやってみろよ」と文句を言いたいが、呼吸するだけで精一杯だった。
しばらくして、呼吸が落ち着くと、左近にリーが何と口にしたのか尋ねた。
「午後から、銃の扱いを教えるから、それまで休んでいいって」
等々力が休んでいると、アントニーが見学にやってきた。
「やあ、影武者君。調子はどうだい」
アントニーの相手はしたくなかった。でも、場所を借りているので、無視はできない。
「ああ、最悪だよ」とだけ答えた。
アントニーが楽しそうな顔で「なら、助けてあげようか」と申し出た。
今回の仕事にアントニーが介入する余地はない。
どうせ、面白半分、からかい半分だろう。
等々力は、どうにでもなれとばかりに返事をした。
「できるものなら、助けてもらいたいね」とだけ口にして、場所を移動した。
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