なぜ、イザナギノミコトは振り返ったか

いわのふ

なぜ、イザナギノミコトは振り返ったか

 日本神話のおはなしではイザナギノミコトという男神と、イザナミノミコトという女神が交わって様々な神が生まれたことになっている。


 イザナミは多くの神を生んだ。ところが、最後に生まれた子は炎の神、カグツチであった。イザナミは大やけどで死んでしまう。


 死んでしまうと黄泉の国に行く。黄泉の国にある食べ物を喰ってしまうと、もう地上には戻れない。完全な死の世界の住人になってしまう。そして、イザナミは黄泉の国の住人となった。


 愛するイザナミを取り返したくて、イザナギは黄泉の国に出向く。イザナミを連れ出すが、イザナミは「決して振り返るな」と言う。疑問には思ったが追っ手を振り払い、逃げるイザナギ。そして、ついにイザナギは振り返ってしまうのである。


 腐敗しはてたイザナミの姿を見て驚くとともに、イザナミは烈火のごとく怒り、多くの邪神がイザナギを襲い、やっとのことでこの世にイザナギは逃げてくるのである。


 ここまでが神話の概要。で、じゃあなぜイザナギは振り返ったのか。


 もうご存じとは思うが、この手の話は世界中にある。発祥はどうやら西の方、ローマとか中東とか言われているがそこから伝承したという説がある。一方で、同時多発的に世界中で同じようなおはなしができた、という説もある。“見るな”のタブーなどと呼ばれている。


 このお話は、人間の普遍性を語るものだと私は思う。“見るな”というのはこれ以上、追及してはいけない限界があり、人間はそれを超えると不幸になるよ、という啓示のように考えている。


 ふだん、見ることはできないのに、見たいものって何だろうか。私は考えるのである。それはもしかして、“人の心”だったりするのではないだろうか。


 人の心はどうしたって知ることはできない。想像することはできるが、一言であるとか表情とかそういったものからしか知ることはできない。言葉にしてだしたからといってそれが、本心かどうかなんてわかりはしない。


 知ることができない、そういうものを追求しようという心が人にはある。


 例えばだよ、物理でいうのなら不確定性原理というのがある。ものの“場所”と“速度”(正確には運動量)を同時に“見る”ことはできない。できないものをやろうとしたって無理だし、だったらするだけ不幸だ。


 “彼あるいは彼女は私のことを好きなのかもしれない”。そう思うのは自由だが、それを確認しようとすると覚悟がいる。知った結果だいたいは不幸になる。あるいは本当にすきではなくても相手の口から“そうだ”という回答を引き出すことができるかもしれない。そうして付き合いだしてから、浮気された、なんていうことだって考えられなくはない。


 で、思うわけだ。知ることというのは、つまり振り返って事実を確認しようというのは実は不幸を招き入れるようなものかもしれない。動物たちは決して“知ろう”などとはしない。今を生きる、それが彼らの生き方である。


 振り返る、ということは“予期された”事項が実現されていることを期待している行為なのではなかろうか。


 我々はいつも、予期されるであろう事実を予測し、そして不安になったりする。不安を振り切ろうとして振り返る。その結果は決して幸福なものとは限らないし、そうでないことの方が多い。


 予期することは現在の自分を不幸にすることが多い。であるのなら、予期して事実を確かめようなどとせず、目の前を見て暮らした方が幸せだ、そういう啓示であるように思えてならない。

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