其の拾 割の合わぬお仕事

 報告会を終えて労務局を出たエンは、両手を上げて「んん――」と伸びをする。

 そんなエンの正面、里の本通りを見覚えのある顔が横切ってゆくのが見えた。それがシノであるとすぐに判ったが、とくに声をかけようとは思わなかった。そのまま通り過ぎていだろうと見送るエンだったが、シノの方もエンの姿に気が付いたようだ。シノは笑顔でエンの方へ走り寄ってきた。


「ねぇねぇ、エン先輩」


「何だよ?」


「先輩って、仲間の忍を囮にして、敵の軍隊をおびき寄せたって本当ですか?」


「するかっ! そんなこと。 誰だよ、そんなこと言ってんのは!」


「えぇー、違うんですかぁ? 最近では例の二領地が滅ぼされた話題になったら、だいたいセンパイの名が出るんですよ」


 乙村氏と丙谷氏が滅んだという情報は、すでに美濃国中を駆け巡っていた。弱小だったとはいえ、近隣の領国の勢力図が変わったというのは、里の住人たちにもインパクトがあったようで、その影に濃武の里の忍の姿があったことは、様々な憶測を呼んだ。

 ただ、そういった噂話に戸は立てられないものだとはいえ、エンとしては噂の伝わり方が気に入らない。道を歩いていても、噂を元にしてエンに話しかけてくる者が増えた。


「エン君、領主を欺して軍勢を誘い出したらしいな。でもどうやって領主に接触したんだい?」


 ── おいおい、何の話だ……


「おぅエン、岐阜の殿様の軍を連れてきて三郡を滅ぼしたらしいな。スゲェことするな、お前」


『・・・・・・・・

 鼠級の所業じゃねーな、もはや。 そんなあらぬ噂も享受しますから、噂に見合った虎級あたりに昇級させてもらえませんかね』


 そんな噂をネタに話しかけてくる連中の相手にもうんざりしているエンはシノと別れると、里の出口へと向かって歩きだした。


 エンはあの夜、丙谷軍を誘導してきたガクと戦場で会ったことは、労務局への報告でも話さなかった。同じ組の仲間と殺し合いをしましたとは言いたくなかったのだ。

 エンが言わずとも、里は目付を通じて事実を知っているのかもしれないが、この事によるエンへの追求はないだろう。

 里から依頼主の敵方へと内通者を出してしまい、作戦が筒抜けになった事は、里としては信用問題だからだ。また、結果的にそれが丙谷氏と甲田氏の戦闘につながったため、戦略目標を果たしたことにもなる。里としては高度な作戦の一環で、内通を使ったと苦しい言い訳をするしかないが、できれば表沙汰にはしたくないはずだ。

 丙谷側への潜入を担当した組の調査にて、ガクの死体は確認されていた。あの夜、甲田領で領民の動きに異常を察したガクは単独で偵察に出るも、夜間の戦闘に巻き込まれて死んだとされている。



 いつもの茶屋に客はいなかった。

 退屈そうに街道を眺めていたサヨだったが、エンの姿に気付くと、エンを送り出したときと同じ微笑みで迎えた。


「おかえりなさい。ひと回り大きくなって帰ってくるのかと思ったら…… あんた少しやつれたんじゃない?」


「サヨちゃん!」


 「ただいま」くらい言うのかと思ったら、いきなり大声で名前を呼ばれて、サヨはビクッと肩をふるわせてしまった。


「な、なによ」


「俺は今回、死ぬかと思ったんだよ!」


「は? …… そ、そうなの?」


「そう、めちゃくちゃ怖かったんだよ!」


「う、うん……」


 この謎の情緒での訴えかけに、どう返事をすればよいのか分からないサヨは、うなずいて話を聞くくらいしかできない。


「サヨちゃん!」


「はい?」


 サヨを見るエンの目は、なぜが涙が溢れんばかりに潤んでいる。


 ──えぇー……


 あまりの温度の差に、すっかり引いてしまっているサヨに、エンは訴える。


「俺にもっと優しく……甘やかしてくれよ!」


 失笑ものの要求ではあるが、なるほど今回のお仕事はエンにとって、さぞかし緊張の連続だったのだろう。それがここまで心安まる人も場所もなく、安らぎを求めてサヨの所までやってきた可愛げのある弟がそこにいることに気付いた。


「分かったわよ」


 サヨはいつの間にか自分と同じくらいの身長になったエンの肩を軽く抱き寄せ、頭を優しく撫でた。


「よしよし。いっぱい頑張ったね。もう大丈夫だからね」


 この日のエンの言動は、これ以降エンをからかうネタとして、サヨのレパートリーに追加されたという。



第一章 ── 完 ──

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