其の七 逃避行
すぐに足を取られる茂みから走りやすい道へと飛び出して、エンは駆けに駆けた。追っ手に姿をさらす危険があろうとも、既に敵には見つかっているのだから道を走るのが最も速い。
「くそっ、タチバナさん、話が違うじゃないか!」
エンの視界に敵の姿はまだ見えてはいないが、間違いなく敵に追われている自分の現状に、走りながらもこうして愚痴がこぼれる。
とはいえこの現状は、タチバナにとっても想定外であろう。そして今、このような想定外の状況が発生している事実を知っている者もまた、濃武の里方ではエン一人なのである。
なんとかして知らせねばなるまい。今回のお仕事の成功の鍵どころか乙村氏の命運までもが、今やエンがこのまま逃げ切れるかにかかっている。そんな重圧にうんざりしながら、起伏のある森道を駆ける。
エンは森道が上り坂になっていく地点に到達した。木の葉に光が遮られ真っ暗だった森道の空が開け、月明かりを浴びた。ここは地形が起伏しているために森の木々よりも少しだけ位地が高くなる場所で、道の右側は山肌だが、左側はこの森道で唯一の遠くを見渡せる地点となる。ただし、見渡せるとはいっても、目に入る景色は密集した森の木々の葉による一面の深い緑の海ばかりなのだが。
ここでエンは息を整えつつ左後方の森を見た。森の道というのは真っ直ぐなものではなく、エンのいるこの位置からだと兵たちが集結していた練兵場の方角は左後方となるのだ。
暗い夜の森が、その方向だけは闇が淡かった。練兵場に敷かれたかがり火の明かりが、空を照らしているからだ。そんな淡い闇は、左後方から後方へとこぼれだして、かすかに揺れているように感じる。
あの黒い軍団は出動準備が既に整っていた。きっと足の速い者がすでにエンの追尾のために先発し、続いてあの軍全体も追っ手を兼ねて動き出したのだろう。
小者一人に対してあまりにも強大な追跡に身震いしながらも、必死で森を駆け抜けたエンは追っ手に迫られることなく森道の出口にまで到達した。そのまま森道を飛び出して街道へと入る。
街道は右が甲田城、左が丙谷・乙村との領境である。迷わず左へ曲がったエンの背後から叫び声が上がった。
ここまでは予測や想像の中の住人でしかなかった追っ手の存在が、現実的なものになった瞬間であった。
『そうか、敵は練兵場から城方向の道にも追っ手を出していたんだ。そして先に街道から森道へと回り込んで、俺を挟み撃ちにする意図だったのか…… 』
森道で敵が追いついて来なかったのは、下手に追いたててエンが別動隊より先に森道を抜けるのを避けるために、あえて速度を抑えていたのかもしれない。
『危なかった! 休まず森道を逃げてきて本当に良かった』
追いつかれたら命は無いという厳しい現実に堪えながらひた走るエンだが、とにかく考えることを止めない冷静さがまだ残っている。
エンはあの黒い軍の行動を予測した。
あの軍は、ほぼ間違いなく丙谷領を目指す。というのも、今もし甲田軍が丙谷ではなく乙村領へと攻め込んだとすると、手薄になった甲田領を丙谷に突かれる可能性があるのだ。毎年この時期には丙谷も軍を起こして甲田領を目指すことを、あの軍も知っているはずなのだから。
さすがに二正面作戦はやりたくはない甲田軍は、まずは丙谷領を速攻で制圧し、情報が乙村氏へ届いて対応される前に、返す刀で乙村を攻める。おそらくこの流れで台本を書いているだろう。
『奴らは俺のことも丙谷の忍だと思っているだろう。だから俺が知らせて迎撃態勢を敷かれる前に、俺と一緒に丙谷領になだれ込もうとしている』
丙谷領で甲田と丙谷を衝突させることが濃武の里の狙いなのだから、この流れは願ったり叶ったりともいえる。
『見た限り、タキガワ様の軍勢は武装した侍の部隊だった。日頃から鍛練を重ねて戦闘訓練をやってる侍が相手では、速さも体力も勝てる気がしない』
重い装備の分で何とかまだ追いつかれてはいないが、エンにはこのまま丙谷領まで逃げ切る自信はない。
『いっそ乙村領へ逃げるか?』
このまま進めば、この先で街道は二手に分かれる。直進で丙谷領、左折が乙村領へのルートとなる。
エンは頭の中で、助かる可能性が高そうな乙村領への道を進んだ場合の未来を想像してみた。
『もし左へ進んだら、俺が丙谷の忍じゃはないことがバレるかもしれない。するとあの軍は警戒して、丙谷領への進軍も止めてしまうかもしれない』
そうなると、作戦が崩れてしまうという予想だ。
さらに想像力を働かせてみる。
『そして最悪は、あの黒い軍勢を乙村領へと引き込んでしまうことだ。丙谷より先にあの軍と戦って、乙村勢が無事で済むとは思えない。乙村が生き延びるために雇った忍のせいで乙村が滅ぶ。そんなことになったら…… きっと俺も責任を負って死ぬことになるんだろうな』
どちらの道を選んでも死に至る結末が色濃い。どうせどちらも望み薄なら、今やっているお仕事をやれるところまでやってみる方が賢明に思えた。こうして腹が決まると、エンの思考はまだ見ぬ丙谷領へと向かう。
『もしもこのまま倒されることなく丙谷領に入れたなら、敵の標的は俺じゃなくなる。領地の制圧と城を落とすことが最優先になるはずで、俺みたいな小者一人なんて、どうでもよくなるだろう』
ここがエンの一縷の望みである。ただし、実現は絶望的であることもエンは知っている。すでに疲れてきていて、自分の足色が鈍ってきていることを自覚しているからだ。
そしてついに、エンは追っ手の姿を視界に捉えるに至った。
エンがその姿を確認した追っ手は二人。兜こそかぶっていないが、黒い胴丸に黒い額当、腰に短めの刀、手には弓を持っているように見える。比較的軽装な者が移動も速いのだろう。
街道の分岐点に差し掛かった。迷わず直進して、丙谷領へと向かう。
体力の面から、この辺りの地形が意外に平坦なことが幸いなのだが、そんな道が次第にうねり出した。追っ手との距離は、約三十歩といったところか。
ここで追っ手は器用にも、走りながら弓に矢をつがえだした。
「夜道を走りながら射る矢なんて、そうそう当たるかよ!」
放たれた矢は低い軌道で、エンより後方に落ちた。そら見ろと言いたいところだが…… 正直なところ、もしも彼らが走りながらの射的を訓練された兵であったらと内心ドキドキしていた。
さらに兵は二つ目の矢を射た。
この時ちょうどエンは、うねる道に沿って左へと曲がるように走ったため、矢はかすめることもなく右に大きく外れた。
敵は第三射も外した。
射る度に狙いが絞られてきているような気もするが、射る際に敵の速度が少し落ちるのがエンには好都合だ。さっさとエンに追いついて二人がかりで組み伏せるのが確実なのに、あえて射倒そうとするのは彼らのこだわりなのか、それともこちらの何かを警戒してくれているのか。
ここでエンはふと、こういった追撃への対応の仕方について、過去に何かの書物で読んだことがあるのを思い出した。たしかその書物には、このような事が書かれてあった。
・追っ手の速度には個人差があるので、追っ手同士の距離が開くまで逃げる。
・そして追っ手同士の距離が離れたところで振り返り、追いついてくる順に各個撃破する。
・こうすることで、『一対多』の数的不利を『一対一』の互角の闘いに持ち込むことができる。
「くそっ、敵より速くて強いのが前提じゃねぇか! あの作者め、ぜったい実践したことねぇだろ」
エンが実戦で使えない知識を嘆いている後方で、敵はまたも矢をつがえている。先程から追っ手は二人揃って矢を射てきたのだが、今回は左の追っ手だけが矢をつがえたかと思うと、足を止めてから矢を放った。
── マズい!?
おそらく正確な射撃が来る。しかも右の追っ手は走り続けているので、エンも止まって振り返って矢をかわすという訳にもいかない。
ギュン
矢は耳元をかすめてエンを追い抜いていった。
「こわっ ……でも当たらなかった」
自分が生きるも死ぬも、後ろの侍が自分に矢を当てるかどうか次第である。そんな生殺与奪の権利を一方的に握られた状況の中にあっても、こうして相手が矢を外すことで殺す権利を行使し損ねたことが分かると、自然に口元がほころぶ。
絶望的なまま何も好転しないこの状況で笑っている自分に気づき、気が触れたのではないかと自嘲する。
『笑うしかないってのは、こういうことか』
街道は並木道となった。
季節によっては美しい道なのかもしれないが、夜に通ったのでは情緒や風情など微塵も無い。むしろ木の葉で月明かりが遮断された道は、暗い洞窟に入ったようなものだった。
矢を無駄にはしたくないであろう追っ手が、暗い並木道では射てこないと予測できる点では、エンにとっては都合の良い環境となった。
エンは道の脇を注視しつつ走る。並木道が見えた時から探しているものがあるのだ。
『あった!』
前方に見えたのは、木陰で休憩ができるようにと置かれた腰かけ用の石。そこでエンは懐から小さな棒のようなものを取り出した。それは忍が仲間との合図に使う木製の笛である。
エンは腰かけ石の横を通り過ぎるタイミングで、笛を放り投げた。笛が空中でゆっくりと弧を描いて落ちていくその軌道は、この暗がりでは誰の目でも追えはしない。
カツン!
笛が石に当たって決して大きくはない音を発したのは、ちょうど先頭の追っ手が石の横に差し掛かった時だった。
突然、右に音を聞いた侍は、咄嗟に停止して身構えた。強い者ほど不自然な音は聞き流さないものだ。
数秒の間があって、もう一人の追っ手が彼に追いつくと、彼らは再びエンの追跡を続行した。
エンにとっては苦肉の策だったが、これで改めて追っ手との距離は約三十歩に開いた。
やがて並木道は大きなカーブに差し掛かった。このカーブを曲がる間、追跡者はエンの姿を一時的に見失うことになる。だが、いち早くカーブを曲がりきったエンの前方に人の気配があった。
── 誰かいる!?
エンは慌てて足を止めた。
周囲は闇であるためよく見えないが、感じた人の気配は一人ではない。それは二人や三人ですらなく、すれ違う隙間も無いほど大勢の人間がエンの行く手を塞いでいたのだ。
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