其の六 タキガワ様

 甲田領に潜入してかれこれ七日になる。いよいよ明日以降、甲田軍の召集が予想される日へと入る。日が暮れはじめ次第に周囲が暗くなってきたが、空を見上げてみればそこには丸い月が浮かんでおり、世界をぼんやりと照らしている。今夜は真っ暗闇にはならなそうだ。


「もう人も通らんだろう。晩飯の支度でもせんか?」


 ガクがそう言った。じつは今日は、ガクが兎を獲ってきていた。いつも食事は山菜ばかりだったので、今夜は久しぶりのご馳走なのだ。ガクによると明日にも軍が動くかもしれないので、今夜は景気付けなのだそうだ。


「ああ、そうしよう。じゃあ俺が火を起こすから、ガクは調理を頼むよ」


 エンもそう同意して、人目に付きにくい森の奥へと場所を移そうとしたその時、二人に緊張が走った。街道に人の気配を感じたのだ。

 二人は地に伏せて、草の隙間から街道の様子を観察した。すると、農民らしき姿の男が走ってゆくのが見えた。普通に考えれば、これは帰宅に遅れた農民が家路を急いでいるだけだ。軍の召集が近いということを除けば、夕暮れに人が走っていても不思議なことではない。


「どう思う?」


「正直、これだけでは怪しむ理由にならないな」


 ガクの答えはもっともだ。エンもこれだけでは動く気になれない。


「仕方がない。念のためもう少しだけここで見張ってみるか」


 ここで今日の調査から戻ったトキも合流した。事情を話すとトキも地に伏せ、ガクは木に登った。

 エンは街道を凝視しつつ、隣に伏せるトキに今夜は兎が用意されていることを語った。するとトキは目を輝かせ、見張りをそっちのけで尋ねてくる。


「兎は何匹獲ったんだ?」

「三匹だから、一人一匹だな」


「その兎どもは、けっこうデカかったか?」

「兎の大きさなんて、どれも同じようなもんだろ」


「ガクのやつ、いつの間に兎用の罠なんて仕掛けてたんだ」

「兎の首に血が固まってたから、剣で突いて仕留めたんだと思うぜ」


「兎を食うときのコツがあってな、」


『ダメだこいつ、兎の話しかしねぇ。もう兎を食うことしか考えていない。うちの組長は肉をチラつかされると、これほどポンコツになるのか……』


 そんな問答をしているうちに、またも街道をこちらへと向かってくる人の気配を察知した。


「トキ、兎ちゃんはお預けだ、これは調べておいた方がいい」


 ── なんて悲しそうな顔をするんだトキよ。そして何で俺は、こんな奴より級が下なんだ。

 エンはトキの相手をするのをやめて、街道を通過する者を監視する。

 通りかかったのは商人風な身なりの男だった。男は足早に歩いている。先ほどの農民に続いてのこの男である。さすがにこれは不自然だ。


「どこかの忍かもしれない。 俺はあいつをつけてみる。ガクは・・・」


 木の方を見上げたが、ガクが居ない。彼も異常を察してすでに動いたのだろうか。だが今は、それを気にしている余裕はない。


「トキは俺が戻らなくても、何かを感じたら報告に走れ!」


 そうトキに告げるとエンは草むらを飛び出し、商人風の男の後を追った。日がすっかり暮れて辺りは暗くなっているが、幸いにも今宵は月明かりがある。これなら商人とは少し距離をとって追うことができる。


 エンは音をたてず、なるべく物陰を利用して動いた。忍の養成所で習った基本に忠実な追跡である。男は街道をまっすぐ城へ向かうと予想していたが、街道から右の脇道へと入った。


 ── この道は!?


 練兵場と思われる広場へと続く道だ。城へ向かわれるよりも、はるかに危険な想像が湧いてくる。


『まさか甲田軍はすでに集結を始めている? しかし、隣領を相手に朝ではなく夕暮れに集結しているのなら、甲田は夜間行軍で丙谷領を強襲でもするつもりなのか』


 そのような積極的な軍事行動など、話に聞く甲田軍とはずいぶんと異なる。そこでエンは少し危険度を下げた想像へと変えてみる。


『領民には朝までに集合がかかっていて、早く来た者には食事が振る舞われるとか? もしくはその準備のために、事前に集まっている者がいるのかもしれない』


 年中行事で睨み合いをする連中である。こちらの想像の方がしっくりくる。いずれにせよ甲田軍の出陣は、今夜から明日で決まりだ。


 道を進むにつれて森が深くなってきた。せっかくの月明かりも、地表にはもうほとんど届かない。

 気配を追うように進むエンの遙か前方に小さな光が見えた。エンはその光の方に向かって足を進める。その小さな光は、時おり消えてはまた光る。光の源とエンとの間に、追っている商人風の男がいる証拠だ。

 やがて近づくにつれて、光が大きく見えるようになってきた。遠目に人影を視認できる距離にまで近づいた。


『かがり火か』


 光の正体は、無数のかがり火の炎だった。甲田勢は、やはりあの練兵場に集結しようとしているということか。

 エンは練兵場の手前で、道脇の草むらへ飛び込んだ。灯りで照らされると姿が目立ってしまうため、これ以上は道を通って練兵場へは近寄れないのだ。できる限り音を立てぬよう草をかき分けて、練兵場の様子を覗くことができる場所まで進んでいく。


 練兵場の様子をうかがえる場所まで来た。この辺りの草は、身をかがめているエンの頭より背が高い。そんな草を前面に少しだけ残し、その隙間から練兵場を覗いた。

 そこでは中央を大きく囲むように大量のかがり火が焚かれており、この練兵場だけがまるで昼間のような明るさに照らされている。


「そんな……」


 目を疑う光景だった。

 兵数はおよそ三百、その全員が統一された黒塗りの甲冑で身を包んでいる。


『これって甲田の農民が集まったものじゃない。全軍が統一された軍装ということは、こいつら全員武士だ』


 いつものように農民を招集して甲田軍を編成したのなら、彼らは自前の武具を持ち寄るため、兵装はばらばらなはずなのだ。それがこのように統一された部隊を甲田家が抱えているとは思えない。

 その精悍な軍団は、四方から照らす火の明かりを反射して、黒いはずの甲冑が輝いて見える。

 広場に陣幕はなく、兵がこうして整列しているということは、今にも出動する気満々だということが見てとれる。


『そうか、これがタキガワ様!?』


 すべてを察したエンの背中が震える。


『甲田も同じ事を考えてたんだ。奴らもどこかの強国に従う手土産に隣国を獲ろうとしている。ただし、乙村とやり方が違うのは、甲田は自分の手を汚さず、強国の援軍にそれをやらせようとしている』


 甲田の選択には虫唾が走る思いではあるが、それよりもエンは背中の震えがもはや全身を覆って抑えきれないものになっていることを自覚していた。


『この場所はまずい。 あれが強国から派遣された全員が侍の精鋭部隊ならば、俺が見た農民も商人もタキガワ様の忍。当然タキガワ様自身の能力も高いと考えれば、周囲にも警戒の網を張っているはず。 ここに居ては見つかる、いやすでに補足されているかもしれない』


 きっかけを見つけるまでこの場で息を殺すべきか、それとも今すぐ駆けて逃げ出すべきか。決めかねたエンは胸に手を当てて、今までにない心臓の動悸を抑えるように練兵場内を観察した。

 すると視界の中に、エンがここまで追ってきた商人姿の男が動いているのが分かった。男は一人の侍の前で地に膝をついた。

 エンは急いで遠筒を取り出して覗き込む。この位置からだと商人は横顔となるが、これだけ明るければ読唇術で口は読める。

 男は侍にこう言った。


「お顔をこちらに向けたまま、お聞き下さい。

 甲田領内に入ったあたりから、それがしをつけて来た者がおります。其奴は今、西側入口横の茂みに潜伏しておりますが、どの・・・」


 そこまで口を読んだ瞬間、エンは後ろを向いて走りだしていた。

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