其の三 労務局

 労務局の入口をくぐると、受付には仏頂面の小太りな男が座っていた。髪を整えるために何を塗りたくっているのか、薄暗い屋内でもテラテラとした頭が目立つこの男に、エンはお仕事の説明会場の場所を尋ねた。


「あのぉ…… 【魚の骨】の説明会は何処ですか?」


 受付の男は、エンの顔を舐めるように見てから無愛想に答えた。


「南の離れの広間だよ」


【魚の骨】と言ったのは、今日説明会が開催されるお仕事の暗号名である。魚の骨という言葉自体に意味はない。


 中小の大名や領主ときには町の豪商など、彼らがこの厳しい戦国の世を生き抜いてゆくには、時に忍の力を必要とすることがある。そのような時は、日ノ本の各地に点在している忍の里へと商談を持ちかけ、忍の派遣を依頼するのが一般的である。


 濃武の里の労務局ではそのような商談が舞い込むと、里の忍として名簿に登録されている忍たちの中から、その商談内容の難易度に見合った実力の忍たちを選出する。選出を終えるとすぐに労務局から連絡係が出動し、なるべく選出された忍全員に直接会って、お仕事の説明会の日時と暗号名を伝えるのだ。約束の日時に労務局へとやってきた忍は、受付に暗号名を伝えるだけで会場へと通されるという流れになる。

 そのような回りくどいことをせずとも、当日に【●●案件説明会場→】と書いた貼り紙でもしておけばいいように思えるが、なんでも部外者が勝手に会場に紛れ込んで機密情報が漏えいすることを防ぐために、労務局が考えた仕組みなのだそうだ。


 エンは、忍業界のこういうところが嫌いだった。

 忍という人種は、すぐに暗号や合い言葉といったものを使いたがる。 誰が考えているのかは知らないが、【魚の骨】なんて暗号名はまだマシな方で、以前には【イバラのあばら】とか【腐ってない納豆】なんてものもあった。

 そんな合言葉を受付で言って、相手が「はあ?」となった場合の恥ずかしさを考えると、口にするのはとても勇気がいる。エンは本当にやめて欲しいと思っている。


 労務局の受付から奥へ抜けると、塀に囲まれた広い中庭に出る。そこには大きな母屋の他、いくつかの離れが建っていて、それらは渡り廊下でつながっている。

 エンは石畳を渡って離れの広間へと入った。


 ── 十二人ってとこか


 広間に集まっていた忍の数である。

 同期が一人、過去にお仕事で組んだことのある者が二人、付き合いは無くとも顔を見知っている程度の者なら半数以上になる。

 エンはこの里で育って、今では忍の寮で暮らし、受ける任務はいつも同じような潜伏調査となれば、顔見知りの忍が多くなるのは当然であろう。むしろ、こうして寄せ集められたときに、まだ知らない人が必ず一定数はいることが不思議なくらいだ。


 そこに労務局職員のタチバナが入ってきた。


「おつかれ様です。皆さん揃っているようですね」


 そう言って忍たちを見回しながら、タチバナは丁寧な挨拶と簡単な自己紹介を行った。

 このタチバナという職員は、眼鏡なる珍しいものを顔にかけた温和な人で、いつも物腰の低い話し方をする。そのためか、忍たちからの評判はすこぶる良い。

 噂によるとその昔、タチバナは侍であったという。武士だったにしては、今の彼からは威圧感や荒々しさというものが感じられないが、エンはまだお仕事の紹介と事後の報告の際にしか彼とは話をしたことがないので、噂の真相は知らない。そんなタチバナが、今回の案件の詳細を忍たちに説明する。


「今回の依頼主は乙村氏です。 依頼の内容は、乙村領に隣接する甲田氏と丙谷氏の領地へ潜入し、後に予定される戦へ向けての事前調査。そして、甲田氏と丙谷氏が武力衝突するように工作を行うことです。

 できれば両氏がぶつかる戦場の選定と、そこまでの誘導が依頼者側の希望だったのですが、これは無理があるためお断りしましたので、皆さんは無視してくださって結構です。

 ただし、両氏が武力衝突に入った際は、定期的な戦況報告を行うことを忘れないようにしてくださいね」


 戦の事前調査とは、軍勢が攻め込む予定の地や合戦が予想される場所へと事前に赴き、敵の防衛設備の有無や敵城へのルート確認、さらには領内の様子などを調査するものである。

 これは、いざ自軍が攻め込んだ際に想定外の障壁がないようにすることを目的とするもので、忍の標準的なお仕事の一つなのだ。


 ここで、参加する忍たちの理解が深まるようにと、タチバナは最近の世の中の情勢と、今回のお仕事の依頼主である乙村氏の事情を語り出した。


「ほんの三十年前までは、この日ノ本はお上に任命された守護大名が各国に配置され、その大名の下で国の土地を細分化し、それぞれを領主たちが治めていました。依頼主の乙村氏やその敵となる甲田と丙谷、あの三家にとって時の流れは、そんな平穏な頃のまま止まっていたのです。

 しかし、今の世の時勢が彼らに停滞を許さなくなった。気が付けば有力大名が各地で勢力を拡大し、弱き者は淘汰される世となりました。

 そう、弱きは淘汰されるのです!

 日ノ本中の武家が、生き残るために勝って大きくなるか、いずれかの強国に従属するかの道を選んでいます」


 この美濃国においても支配者が何度も代わっていることは、エンたち忍も知っている。それにしても、タチバナの語る説明は、次第に演説めいたものになってきた。


「事ここに至って、乙村氏は危機感を抱いたようです。そして、賢明にも強国への従属のあり方を考えるようになった。

 というのも、今の弱小領主のまま従属しても、新たに所属した勢力の中での影響力は皆無、発言が誰の耳に入ることもないでしょう。やがて何かの機会に責任を負わされ、領地を召し上げられて終わりです。

 ならば、今のうちに戦国の領主らしく近隣の領土を制圧し、中規模の領地を有する地方の雄として従属を申し出ることで、今後の乙村家の生き残りを計る算段なのです」



 ──弱き者は淘汰される……か


 あの説明のくだりから、明らかにタチバナの声は熱を帯びた。タチバナがかつて侍だったという噂は本当なのだろう。おおかた淘汰された武家の次男といったところか。

 タチバナも自分の語りが熱くなっていることに気付いたようだ。少し間を置き、落ち着いた口調に戻して、乙村家からの依頼の詳細を話し出した。


「甲田氏と丙谷氏が軍勢をくり出して睨み合うのは、もはや年中行事と化しておりまして、毎年六月に行われるそうです。

 そこで皆さんはまず、彼らが軍事行動を起こす前に領地に潜入して、領内の事前調査を行ってください。そして彼らの軍勢の編成が始まったら、それら軍の動きを監視。タイミングを見計らって撹乱に入ります。皆さんは、なるべく甲田軍が丙谷領に攻め込むように工作してください。これは両家を消耗させるのが狙いです。

 期を見て乙村氏の軍勢が手薄になった甲田領へと攻め込み、城を落とした勢いで丙谷領にも攻め込む手はずとなっています。

 我々のお仕事は、乙村軍が甲田領に入るまで。最低でも乙村軍が甲田城を落とせたら、完了報酬が入ります」



 説明会場をあとにしたエンが再び受付の横を通る。そのまま外へ出てゆくエンの背中に受付の男の鋭い視線が刺さった。いつも睨みつけてくるこの小太りの男。印象の悪い男だが、きっと受付だけではなく警備の職務も兼ねていて、不審者の侵入を防ぐべく、通る者へは威圧的な睨みをきかせているのだろうとエンは考えるようにしている。睨まれているのが自分だけであると悲しいので、それ以上は考えないようにもしている。


 労務局の門を出た。堅苦しい場から解放されたエンは、身体を伸ばしながら頭上の空を見上げた。その薄い青は春の午後らしい爽やかな空だった。


『茶屋に寄っていこうかな』


 労務局には里外からの客も訪れるため、里の入口からそう遠くない場所に建っている。なので里の外側に在るサヨの茶屋にも近い。


 守秘義務というものがあって、実行前のお仕事の内容を語ることはできないので、サヨには新しいお仕事で明朝出かけることだけ話しておいた。


「アンタの能力を活かして頑張っといで」


 仕事の前にはいつも笑顔でこう言ってくれるサヨの言葉を、家族のいないエンは姉からの言葉のような気持ちで聞いている。


 今日もエンはいつもの長椅子に陣取り、茶屋の前を通る見慣れた街道を眺めた。

 日差しが暖かい。時おり流れるゆるやかな風が、木々の枝先だけをわずかに揺らしている。旅日和なはずなのだけど、峠に人通りは少なかった。

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