第六話

 下町の繁華街を、肩を並べて歩く男が二人。夏子の事故当日に神明を取り調べた警察官――文彦とその相棒の慎太郎である。


 その夜もいつもと変わらず繁華街は人で溢れていた。特に歩行者天国となっているその道は、歩く度に人にぶち当たるほど混み合っている。


「ちょちょ、文彦さん早いですって」


 滝壺のような人の渦の中、文彦は鯉の滝登りの如く、流れに逆らい歩いていく。不思議なことに人と接触している様子はない。対して相棒の慎太郎は、行き交う人々にことごとく邪魔をされ、思うように足が進まない。どんどん引き離され二人の間に距離が開いていく。


「ちょっと、文彦さん! 〝きょう〟を使ってるんですか? ズルいで――フアブッ」

 慎太郎が泣きそうな声で懇願した瞬間、いつの間に引き返したのか、眼の前に文彦が現れ、慎太郎の口をゴツい左手で覆うようにして塞いだ。


「その話は口にだすなーやッ、口どころか思ってもいかん! ええな!」

 慎太郎は文彦に口を抑えられたまま、ブンブンと首を縦に振った。文彦が神妙な慎太郎の表情を見てようやく手を話すと、慎太郎はプファーっと、息を継いで言った。

「で、でも、いくらなんでも、思うだけって言いすぎじゃないですか?」

「だめじゃーや。あんとき、やむなくお前に話したのは、あの状況でお前を見捨てられんかったからじゃ。せっかく助けた命、大事にせいや」

「はい、文彦さん。あの時は本当にありがとうございました。この傷を見るたび……」

 慎太郎は自分の眉毛をさするようにしてそういった。慎太郎の左眉毛は半分切れてケロイドのようになっていた。


「ワシの立場は話したろう? 色々微妙なんじゃ。もう一度いうが、ワシと関わっている同族の人間は、人と思わんほうがええ。ワシの力などおよそ目に見えるものじゃ――」


 人懐っこい文彦の顔から、表情が消えた。彼はドスの利いた低い声で念を押す様に言った。


「ええか慎太郎。本当に怖いものは目に見えん。覚えとけ」

 慎太郎は、ゴクリとつばを飲んだ。

 

 繁華街を抜けると、あれほどいた人の波は潮が引くように消え失せた。しかし、混雑していないかというとそうではない。入り組んだ道は、道幅が細くなるとその分人口密度が上がる。そうなると、すこぶる歩きにくい。


「地図で確認した限り、もっと近そうだったのにえらく遠く感じますね」

 慎太郎は、身を捩るようにして人を躱しながら歩いている。しかし少し前を行く文彦は、相変わらずスムーズだ。何もしていないようでも人と接触することはない。まるで相手が無意識に避けているようだ。


「ここらへんは、先の震災の復興が中途半端でな。こんな感じで道が入り組んで商売しにくいんじゃ。なんせ車両もはいれない有様で、仕入れもままならんらしい。だから安くてうまい店が多いちゅう話じゃ」

「え? なんでです? やりにくいんじゃないですか?」

「家賃が安いからな――お? あの店だ」


〝BARアサルト〟

 今にも倒壊しそうな古いビルの二階に、その店はあった。

 

 慎太郎は店の前にたち、入り口を丹念に観察した。

 古びたビルには似つかわしくない、スチール製の頑丈なドアが嵌め込んである。

「最近、補強した?」

 などと呟いていた慎太郎は、ふと思い出したように文彦に尋ねた。

「前から気になっていたんのですが」

「ん? なんじゃ」

「先日、能古見中央病院で、亀尾神明に声をかけた時、名を律儀に名乗りましたよね? なんであんなことしたんですか?」

「ああ、あれかぁ。まあ驚いて反射的に、じゃが確かに不用意じゃったのう。すまんかったな」

「いえ、でも本当にそれだけです? ほら文彦さんは時々人の心を読んだような、そんな行動取るじゃないですか? だから気になっていて。それに、あの亀尾って男、取り調べをやろうとした途端、お偉い人たちから待ったがかかったじゃないですか? あれ、絶対変ですよね」

 文彦は、ああと一息考えて、

「あの男か。ワシが思うに奴は既に別件でマークされちょるんだろ。最近の病院まわりは利権の巣窟じゃからのう。公安が好きなネタじゃ」

「なるほど。それなら署長の態度も納得できますね。公安は原則秘密主義ですし」

 考え込む慎太郎の背中を文彦がポンと叩いた。

「まあええ、切り替えていこうや。よし、踏み込むぞ!」

 そう言って、ドアノブに手をかけ、勢いよく引いた。


 チャリンチャリン!


 来客を知らせる呼び鈴が鳴り、カウンターでグラスを拭いていたとびきりの美人――サキがにこやかに笑った。


「いらっしゃい」

「すみません、少しお話を聞かせてもらえないかね?」


 文彦は胸ポケットに手を入れながらそういった。





「まじかよ。この人混みは」


 亀尾神明は、繁華街の人混みの中をもみくちゃにされながら進んでいた。

「いっそ、迷ったことにして、ばっくれ……いや、そりやいかんだろ。人混みは理由にならんね。もし言い訳になるとしたら、なんか爆発事故とか?……」

 神明はぷるぷると首を横に振る。

「なーにを考えてんだ僕は」

 

 神明が指定された店の前についたのは、待ち合わせ時間よりも十五分ほど遅れた頃だった。


「なんとか、間に合って――はないけど良しとしよう」


 その店は繁華街の中心とはいえ、奥まった裏路地にあって、酷く草臥れたビルの一階にあった。高く掲げられた、少し右下に垂れ下がった看板には、なにやら謎の文字が書かれている。


「えらくボロい店だなぁ。あの院長のセレクトとは思えんぞ? しっかし、きったない看板だねぇ。中国語? 野味? 毛鶏蛋、なんだ金が三つの漢字って? なんて読むんだ?」

 すぐに端末で翻訳してみる。

「え? 鳥の雛、セミ? まじかよ」

 困惑しながら、能古見からのメッセージを確認し、店が間違っていないことを確認すると、ため息一つ、意を決してドアを開けた。


 店内は入り口から見て縦一列にカウンターが十席ほど、テーブル席はなく、一番奥に座敷があるだけだ。その座敷に能古見が座っており、遠目に神明を見つけ、こっちだと、手をブンブンと振っている。神明の顔にハテナが点灯した。


(院長、妙に明るいな)


 神明の脳裏に、あの事件以来の落ち込んだ能古見の姿がフラッシュバックする。


(僕の場合はサキがいてくれたからということはあるけど、院長は奥さん亡くして久しいからなぁ。しかも一番近い人を自分の手で……あーもしかしてずいぶん早くにきて、そいで、忘れたい気持ちが逸り、呑みに走って、そいで、既に仕上がってる? から?)


 と、思いつつ、遅れたことをわびて座敷に上がった。すると能古見は張りのある声でいった。

「いや、俺も少し遅れてな。今ついた所だ。まずはビールだろ? 料理は任せろ。ここは旨いぞ」


 能古見の勢いに押されていると、すぐにビールが運ばれてきた。グラスを重ねると間もなく、料理が運ばれてきて、狭いテーブルがいっぱいになった。


 神明はそれを見て及び腰になる。料理のビジュアルが酷かったからだ。


(なんだこれ? もろに虫がいるぞ。こっちは何だ? 脳みそ? いや、これは見慣れてるけどね。だが断る! 無理無理無理、脳は仕事だが、食べもんじゃない)


 などと思案していると、能古見はおもむろに胸ポケットからデータディスクを取り出して言った。生体認証装置が備えられたセキュアディスクだ。


「神明、お前にプレゼントだ」

 神明がなんのデータか尋ねると、能古見は不敵に笑った。 


「聞いて驚け、例のやつだ。外傷による麻痺の治験に関する書類。

 目を通してくれ、まあ送信しても良かったんだが、説明無しでは渡せんやつだからな。手渡しの方が早い。

 既に対象者の絞り込みも済んでいる。むろん、サキさんの名前も入っているぞ」


 神明が驚き、目を丸くしていると、能古見は満足そうな顔で言った。


「サキさんを対象者にいれる入れないは、当然、お前の自由だ。サキさんと十分話し合ってくれ。

 ああ、それと今回のプロジェクトの責任者はお前だ。すべての裁量権はお前にある。その方がやりやすいだろう?」


 神明が喜びと疑惑の目でディスクを見ていると、能古見は眼の前の虫を掴み、口の中に放り込んだ。そして、ほほを膨らませながら、むしゃむしゃと咀嚼すると、ビールを流し込み、

「うん、旨い! そらお前も遠慮なくやってくれ。今日は俺の奢りだ」


 神明は虫を避け、隣の謎肉の方に箸を伸ばした。口にいれると、

「う、うまい!」

 思わず声が出た。

「なんといいますか、馬のような、でも物凄く滑らかな舌触りで、臭みもないですね……」

 そう言ってまじまじと肉を見てみる。鮮やかな赤身肉だ。

「もしや、これ犬?」

 能古見はガハハと笑った。

「違う違う、だだ犬もこの店で食べればうまいぞ。特に皮付きの三枚肉は絶品だ。足りなかったら追加で注文しようか?」

 神明は追加は不要と答え、恐る恐る聞いてみた。

「それで院長、これはなんのお肉で?」

「なんだ、食べて分からんのか? ロバだよロバ。かなりメジャーな肉なんで面白みはないがな」


 神明は少しホッとした。そして脳みそと虫を避けて無難な物を食べていく。すると能古見は、神明の皿に虫をぽんと投げて、偏食はいかんぞ。と意地悪そうに笑った。仕方なくかぶりつく。

 口の中でサクッと殻が砕け、中からじわっと旨味が広がる。

「あ……うまい」

「だろ?」

「なんか、磯野の風味がないエビのような、食べたことのない不思議な感じですね」

「ここのセミは仕入れが良いらしいからな。なんでも香木の根で育つやつを厳選しているらしい」

 神明がポリポリとセミを頬張りビールを飲んでいると、能古見が唐突に切り出した。


「あのなぁ、神明。お前にゃ近々、研究所の所長になってもらいたいのだ」

「え?」

 神明は、口のセミが気管に入りそうになりむせ返る。


「い、伊豆先生の後任ってことですか? それはちょっと……先輩の方々がいる中で、僕なんかでは」


「まあ、聞け。PPCSは、既にハードウェアとしての技術は固まりつつある。求められる要件は満たされつつあるんだ。わかるだろ? 敢えて言えば安全性の確保、いまからは後ろ向きの研究だな。しかしソフトウェアは違う」


 能古見は、真剣な顔で話しはじめた。





 一方、BARアサルトのカウンター。

 文彦の突然の来訪に、座っていた数人の客の視線が、文彦達に集まっていた。


 一瞬場が静まり返る。


「今日こそは白状してもらおうかのう」 

 文彦は、懐から小さな紙袋を取り出してそういった。

 カウンターのサキはそれを見て、ププッと吹き出した。

「今度は物で釣る作戦?」


 能古見はその紙包みを、サキに向かって、ビューン! と投げた。放り投げたのではなく投げつけたのである。


 しかしサキは全く動揺するわけではなく涼しい顔でバシッと受け止めた。カウンターから、おおーっ! 歓声が上がった。投げた本人の文彦もホッとして胸をなでおろした。


「そんなに私が心配なら、投げなきゃ良いのに」

「袋あけて見てみほ」

 文彦を言われて紙袋を開くとそこには、小さな木箱が入っていた。

「まさか、これ……私が食べたいと言った汐雲丹?」

「ああーそうじゃ。最高級の越前汐雲丹、それ一つでウンマンじゃーや。コレがワシにできる最大限のワイロじゃのう」

 そう言って文彦はカウンターに座った。

 すぐに、慎太郎がいまだ店の入口で固まっていることに気づく。

「おい、慎太郎、はよこっちに来い」

 慎太郎の目はハートになっていた。

「と、尊い」

「お前なぁ。とにかくこっち来て座れや」

「美しい」

「あのなぁ。駄目だこりゃ」

 文彦は、呆ける慎太郎の方をひっつかみ、無理やり座らせれる。

「ええか、慎太郎、こいつは既に売れとるんじゃ」

「売れてる? ご、ご結婚……されてると」

 うなだれる慎太郎に文彦はトドメの一撃を喰らわす。

「慎太郎、この顔よーく見てみろ。ちーと鼻が曲がってるじゃろうが? 覚えがないんか?」


 慎太郎は、まじまじとサキの顔を見て、

「げごげごっ」

 と、むせて椅子から転がり落ちた。

 そしてカウンターの下でガタガタ震えはじめた。

「まちがいない、能面の槍使い。七本槍の悪魔――必ず相手に先手を打たせ、自らが傷を追った後で、相手を殺す、計画的な正当防衛……」

 ブツブツと念仏のように、物騒な言葉を垂れ流す慎太郎。文彦は、

「いやいや、慎太郎、いくらサキでもそれほど人は殺っとらんぞ。たぶんな」

 と中途半端なフォローを入れる。

 すると、サキは冷ややかな目で文彦を睨みつけた。文彦は、その圧に思わずたじろいた。

「文彦さん? 営業妨害するなら、こちらも文彦さんの〝力〟の事、喋りますよ」

 サキの一言に、文彦は慌てた様子で声をひそめてささやいた。


「そ、そいつだけは勘弁してくれ。本当にあの事を知っているのはお前と慎太郎だけだ。

 慎太郎にはちょいと意地悪してのう。単に馴染みの店に飲みに行くとしか言っとらんかったんじゃ。だから混乱してこうなった。

 すまんすまん。とりあえずもう言わんからなんか飲ませてくれ」


 サキは、カウンターからバックヤードに入り、ゴソゴソとなにやら物色しているようだった。文彦はハッとして、慌てて声をかけた。

「すまん、薄給の身じゃけーの、高い酒はやめてくれ」

 バックヤードから小さく「ちっ」と舌打ちが聞こえたような気がした。


 文彦は脂汗を拭いた。





「今日は、ご馳走様でした」

 神明が能古見に、今日の礼を言ったのは最寄りの駅前だった。能古見は一瞬意外そうな顔をしたがすぐに納得したように頷いた。

「そうか、そうか。今からアサルトにいくのか? サキさんによろしく言っておいてくれ」

 そして、そそくさと立ち去ろうとした神明の腕をがっしりと掴んだ。

「神明、今日のこと真剣に考えてくれ。所長のポストは開けておくぞ」


 能古見と分かれた神明は、アサルトに行くために、再び繁華街の人混みの中に戻っていた。先程の聞いた能古見の話を思い出してあれこれ考える。


(まさか伊豆先生がそんな事を考えていたとは、素晴らしい事ではあるけど、政治的な問題も出てくるな。僕にできるのかなぁ)


 伊豆が研究の目標としていたのは、脳疾患の根絶だと神明は考えていた。しかし能古見は違うという。能古見は言った。


「天明が目指していたのは、再生医療に変わる、感覚器官の人工物への置き換えだ。そしてそれはいずれ全身に広がる。とどのつまり、最終的には、全ての人体の置換、つまり永遠の命だ」


(確かに、伊豆先生ならそれを考えていないはずはない。PPCSは脳組織と機械のインターフェイスを提供できる。だから先生は納口理事と……)


 神明は、近年特に納口と伊豆が密接に連携していた事を思い出した。そして、

(リッシモはどう考えていたのだろう? リッシモは特に倫理に疎い。納口理事はなにを考えているかわからない。先生がいない今、やばくね?)


 人混みに揉まれながらふと歩みを止めた。


(おいおい、まじかよ。普通に考えておかしいぞ。永遠の命? まさか、未来すぎだろ)


 いつの間にか、笑いだしていた。右から左から、前から歩いていく人が後ろに消えていく。


「とにかく、今はサキの麻痺を取ることに専念しよう。それが一番重要だよな」

 そういったその時、後ろの暗がりから、ニュッと大きな手が伸びて、神明の後頭部にトンとあたった。バランスを崩して倒れ込んでしまう。両手をついてしまうがすぐに立ち上がった。

「あいたた、飲みすぎたかな? 情ねぇ」

 接触したと思われる人物は既にいない。目を閉じてふっと一息、平衡感覚を確認する。


「うん。それほどでもないな。ま、でもアサルトでは程々にしておこう。ゆっくり休みながら歩いていくか」 




 再び、アサルトのバーカウンター。

 そこには、焼き印が押された木箱がうやうやしく鎮座していた。それを取り囲むように人々が、息を潜めて見守っている。開封の儀である。


「よし、開けるぞ」


 木箱が開くと同時に、周りからため息が漏れた。

「これが雲丹?」

「朱肉みたい」

「なんか分からんペーストだけど、なんか凄そう」

「これ百グラムもない感じだよね? これでウンマン?」

 文彦は黒い手袋をしている右手ではなく、手袋をしていない左の指を三本上げた。

「え? そんなに?」

 驚く慎太郎をよそに、サキはほんの少しづつ、汐雲丹を小皿にとってカウンターの客に差し出した。同時におちょこを添えて、全員回った所で酒を出した。

「雲丹の強烈な磯の香りには、これでしょう」

「それ、どこのお酒?」

 カウンターの客がサキに聞くと、

「北海道のお酒ですよ。銘柄は――」

 と酒の説明をはじめた。

 ウニの濃厚な味を邪魔しないよう、敢えてサラリとしたクリアーで、しかしそれでいて僅かに残る甘さと切れを作る、程よい苦みのバランスが大事だということだ。北海道にはそういうお酒が多いという。


「なるほどね。北海道は海の幸の宝庫だからそうなのかな?」

「うんちくは良いからノモノモ」


 などと皆がじれはじめたので、早速乾杯をする。

 ズラリとカウンターに並んだ面々が一斉に、シンクロナイズドスイミングしてるかのように、雲丹を口に運び、

 ついで盃に口をつけ、ぐいっと開けた。そして、全く同時に、


「「うまーーぃ」」


「何だこの、ほんのちょびっと楊枝の先ほどの雲丹の、濃縮された存在感」

「そうそう、しかも酒と合わさると、磯の香りが更に増幅されて」

「ああー、口はまったりとした旨味。鼻に抜ける磯風」


「「俺達は今、海にいる!」」


 口々に大げさな感想を述べるカウンターの面々。彼らを愉快そうに眺めるサキを見た文彦が、感慨深げにポツリ、

「ちゃんと笑えるようになっちょるのう。能面みたいな、あのサキがのう」


 その瞬間、まるでライフルから発射された弾丸のようなものが、文彦の頬をかすめ、後方の壁に突き刺さった。


 文彦は目を丸くして弾道を確認する。壁にはフォークが煙を出して突き刺さっていた。隣にいた慎太郎は無言のまま、盃を床に落とした。無論あまりの早業に、他の客は全く気づいていない。


「そ、そのう、それでじゃ。ワイロを送ったわけだから、ええ加減教えてくれんかの? あの噂は本当なんか?」


 文彦が恐る恐る言うと、サキは汐雲丹をパクッと食べ、酒を流し込んだ。頬はほんのりピンク色だ。


「そうですね。いいですよ。なんでもどうぞ」

「で、結局、お相手は気質かたぎなんじゃろうな?」

「ええ、もちろん――」

 そう言いかけてサキは、

「多分」

 と付け加えた。

「おいおい、まあ人の恋路はなんとやら、じゃがのーワシはお前さんを――ま、長い付き合いじゃけの、あんまり心配かけるなや」

「お相手は、お医者さんですよ。でも新婚とかじゃないですから。もう五年も一緒に暮らしてますよ」

「お前、五年ってこの店が五年前だから、その前からの知り合いか? もしやその鼻を治してくれた整形外科医かの?」

「違いますよ。五年前にこの店のお客さんとして来てもらったのが始まりですね」

「ほう、じゃ出会って数ヶ月で同棲か。お前さんもやるのう」

 サキは、文彦の言葉に首を横に振った。

「出会った当日から同棲ですね」

 文彦は目を丸くして驚いた。


「あったその日から同棲? わやするのう。びっくりしたわ。ところで医者ってのはわかった。そのお医者の名前は何なんじゃ? もしかしたら知らない間にお世話になっとるかもしれんからな」


「亀尾、旦那は亀尾神明といいます。能古見中央病院勤務ですね。特殊な病院だから、普通の人は診察しませんよ」


 その瞬間、文彦の顔から表情が消えた。 


 チャリンチャリン!


 文彦の表情の変化にサキが気づかなかったのは、来客を知らせるベルが鳴ったからだった。


「いらっしゃいませ」

 いつもと同じ挨拶をしたサキだが、そのトーンには微妙な変化があった。


 ドアを開けたのは、亀尾神明だった。


 それを見つけた文彦はぎょっとする。同時に自分を取り調べようとした警察官を見つけた神明の顔にも緊張が走った。


 数分後。


 文彦と神明は意気投合していた。


「なんじゃまさか、先生がサキの旦那だったとはな。あの能面が――のう、なんだゴホゴホ、うん」

 と、文彦。

「いえ、こちらこそ、サキから聞いてましたよ。昔、サキが戦った警察官の方が――あ、ゴホゴホうん」

 と、神明。

「僕なんて命を助けられました。この眉毛も――あ、いえ。そのゴホゴホ」

 と、慎太郎。

 三人がそれぞれ、サキの過去に触れないよう、遠回しに昔話をして勝手に盛り上がっていた。


 そんな中、突然、文彦が神明の変化に気づき「おやっ?」と小さく叫んだ。アルコールが程よく回った神明は、カピバラのような間抜け面で、

「どうしました?」

 同時に神明の鼻からツーっと血が流れた。

「お前さん……」

 文彦がそういうと、ドサッと神明が床に倒れ込んだ。


 サキがとっさにカウンターを飛び越え、神明の後ろに回り込む。抱きかかえると、サキの手にどこから出たのか血糊がべっとり付着した。

 サキは声にならない声を出して動揺している。神明がうなされるようになにかつぶやいているので、文彦が、サキを押しのけ耳を近づけて確認する。


「ここへは車は入れんじゃろう? 能古見中央病院へ救急車で運ぶなら、どのルートが最短じゃ?」

 文彦が聞くと、サキはまだ動揺が収まらず、オロオロしていた。文彦は、仕方なく、

 バシッ!

 とサキを平手打ちした。

 すると反射的に、

 バシッ! バシッ!

 と、往復で打たれた。倍返しだ。かなりの打撃だったが、文彦は平気な顔をしている。それを見たサキがハッと正気に戻った。


「お前さんが活を入れてくれたおかげで、踏ん切りがついたわ。先生はワシが運ぶ。ええな? 先生は早く運べば助かると言うちょる」

「運ぶって、あっ……でも文彦さん」

 文彦は、両目が微妙に閉じてしまう、下手くそなウインクをして言った。

「まかせとけ。揺れはせんしそのほうがはええ。慎太郎、一応、救急へ連絡頼む。大通りまででええ」


 文彦は、神明を背負う、のではなくお姫様抱っこで外に出た。

 大人一人、けして小柄ではない神明を、小柄な文彦がお姫様抱っこするのは見た目に違和感があるが、しかし文彦はまるで重さを感じていないと言った様子で、軽々と持ち上げている。

 そして、一階に降りる、のではなく非常階段を逆に登っていった。すぐに屋上に出ると周りを見渡して、

「くそう、ワシに勁覚けいかくがあれば。黒松の連中ならまだいいが、五ツ橋に見られたら、終いじゃな」


 そうつぶやくと、

 ひらり、

 隣の屋上にジャンプした。

 それはジャンプと言うより、飛行に近い大ジャンプだ。


 そして、

 フワッ

 と、音も立てずに隣のビルの屋上に着地する。


「うん、久々じゃけー調子でんかと思ったが、いけそーじやーや」


 文彦はそう言うと、ビルからビルに次々とジャンプしていく。飛び移る速度は増して、距離も徐々に長くなってきた。


 あっという間に車が通れないエリアを抜けて、大通りにでてしまった。しかし救急車は見当たらない。


「やっぱー救急より早かったか。仕方ない、あそこまでそんなにかからんじゃろ」


 目線の先には、能古見中央病院の立っている丘が見えた。


「3キロ、と言ったところか? 人目につかないルートを通っても十分じゃ」


 文彦は、神明の口から、15分以内に病院にいかないと恐らく駄目だ。と聞いていた。


「サキには流石に言えんかったな。そもそも車でも厳しい。じゃがワシが運べば別じゃーや」


 文彦はそういうと、大通りを避け、人通りの少ない路地の方へ上飛んでいった。


 繁華街を抜け、ビルの高さが不揃いになってくると、こんどは街灯や標識の上を足場に、八艘飛びよろしく、大又で歩くように飛んでいく。不思議な事に、足場にされた街灯や標識はピクリとも動かない。


「にしても、あんな慌てたサキをみたのは初めてじゃ。自分の両手を切り落とされても、慌てそうもない女がなぁ。先生、愛されちょるの」


 そう言うと、ニヤリと笑って夜の闇の中に消えていった。

 

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