第五話
片口
――酒器のなかでも存在感の薄い酒器。
一番有名な酒器といえばもちろん盃。これがなければ酒をのむことができない。
良い酒器は香りをブーストする点ばかり強調されるが、実はそれだけではない。舌と接するその接点の機能は侮れないものだ。薄い呑み口は味を感じる味蕾の面積を広くするが、厚い呑み口は保温性に優れる。
徳利、銚子、ぐい呑み、
「――というけどさ。でもねぇ。片口って、要らんよね。錫製なら味の変化を楽しめるかもだけど、単なる陶器とくりゃ」
神明はダイニングテーブルの上で、溶けた氷のようにダレていた。眼の前にはお猪口と片口があって、片口には日本酒がなみなみと注いである。時刻は昼下がり、全開の窓からは季節外れの陽光が燦々と射し込んで、ダレる神明の背中をやんわり温めていた。その背中にそっと手を沿わせてサキが言った。
「デキャンタの働きもあるのよ。ワインと同じで、空気に触れさせると味が変化するわ」
「おいおい、酒神さまよー。こないだ日本酒の香りはワインと違ってあっという間に飛んじゃうって教えてくれたじゃないか? あれって嘘なの?」
サキは、口角を上げた。
「これは魔法の片口なのよ」
「えーなんだ、そりゃ」
サキは片口からお猪口に酒を注いで、呑むように勧めた。
「え? なにこれ。うまいなぁ。本当に魔法がかかってるみたいだよ」
驚く神明を背中にして、サキは冷蔵庫の中を物色した。取り出したのは昨晩から仕込んでいたマグロの漬けだった。
「これいっちゃおか」
「それ店の仕込みじゃないの?」
「いいんじゃない? 記念日だよ」
「え? なんだっけ?」
「んー、なんだろ?」
「なんだそりゃ?」
サキは、マグロ漬けを包丁できりわけると、手作りの漬物や、山椒の佃煮、大根膾など手早く盛り付けた。エプロンを取って席についた。
御膳上々、さあー呑みましょ。
「それ言うなら、御膳上等でしょ?」
神明が言った。
「自分で作って上等はね」
サキが笑う。
片口に注ぐ酒は、注ぐたびにあっという間に蒸発していく。
「魔法の片口いうけどね。単に穴開きじゃねーの?」
と神明が笑う。サキはまた酒を注いで、
「あ、それ良いわね。減酒になる。こっそり穴かけとこうかな」
日差しが少し和らいで、少し肌寒くなってきた。
サキが窓を閉めに席を立った時、神明がちょっと待って、と呼び止めた。
「どうしたの?」
サキが聞くと、神明はテーブルに座ったまま、窓の外をじっと凝視している。
「見えない? 蕾だよ。ほら」
二階の窓から、手が届きそうなところにある桜の枝のその先を、神明が指さしている。よく見ると、ポツポツと蕾が膨らんでいた。
「おら、桜の蕾」
「あらほんと、すぐに桜も咲くね」
「サキがこの桜を気にいったからこの部屋に決めたのだけど、その甲斐があったねぇ」
「えー。違うでしょ? あなたが自宅の窓から花見したいっていうのものだから」
「そうだっけ?」
「でも――桜が一番好きかも」
サキはベランダにでて、手すりにもたれかかると、桜の枝に手を伸ばした。
「早く咲かないかな」
神明もベランダに出てサキと同じ様に手すりにもたれかかる。二人の肩が触れ合った。
「早く呑みたいねぇ」
神明が休暇を取って2日が過ぎた。煩わしいメディアは一切見ていない。部屋の中にはライトなボサノバが流れていてゆったりした時間が流れていた。
神明が、ふと思い出したように、
「あ、いけね」
とベットから飛び起きた。隣に寝ていたサキが、どうしたの? と聞いた。
「いやね。公安の仕事が今回のゴタゴタで、のびのびになっていた」
「仕事?」
「ああ、伊豆先生のゴシップネタを流した奴の特定だね。今更意味がないとは思うけど、依頼は依頼だからね。嘱託員の辛いところさ」
神明はそう言って、ベッドサイドに置いてある大きめの携帯端末を手に取った。電話帳から、〝YURI〟と表示された連絡先を選択した。肩に乗っかるようにして覗き込んだサキが、
「なに? 女の人の名前?」
と、聞くと神明は笑って答えた。
「これは音声認証システムだよ。公安のオリジナルシステムで、開発者の娘さんの名前を取ったらしいね。あれを動かす時は事前許可がいるから」
電話口からピーと言う留守番電話のような応答音が流れた。
「亀尾神明です。IGシステムの使用許可をお願いします」
『使用者本人を確認しました。IGシステムの使用を許可します』
電話口からガイダンスが流れると、神明はすぐに電話を切った。
「今からシステムを起動するんで、端末の電源は切ったほうが良いよ。まあ気休め程度ではあるけど」
神明がそういうと、サキは自分の端末の電源を切りながら、不思議そうに言った。
「それってすべての携帯に影響が出るの?」
「全部じゃないね。ただここら一帯の端末は、影響をうけるよ。まあちょびっとだけ電池が減るくらいの微々たるもんだけど、伊豆先生の関係者とシステムから判断されると、データ抜かれるかもしれないから。気持ち悪いでしょ?」
神明はそう言うと、ベットに寝転んだまま作業に取り掛かる。
「さてと、IG起動――調べたいのは伊豆先生のゴシップを誰が流したか、ということだから――関係者の通話履歴、メッセージを全部吸い出して、公安のサーバーに送り、基地局の行動履歴監視カメラと照合ーっと。あとはAIに任せて」
一通り作業が終わると、一旦端末を閉じてベットの中で伸びをした。
「ホントすごいわね、そのシステム。全世界の携帯の中のデータを好きなだけ取れるって」
「全世界じゃないさ。日本だけだね。メッセンジャーアプリを入れてないとだめなんだ。まあほとんどの端末には入ってるけど、端末のデータは公安のデータと合わせることで価値が出るからね。海外は対象外だ」
「でもそんなウイルスアプリが入っていたらいつかバレそうなものだけど」
「古典的なコードインジェクション、それもメッセンジャーとOS二つのアプリが、同時に吐き出すコードがマージされて初めて有効になるものだから。単体だと発見されたとしてもバグとしか処理されないね。AI隆盛の現代では先ずバレない、でも――」
「でも?」
「いや、なんでもない。お、結果が出たみたいだ」
神明は端末のバイブで、処理が終わったことを知りすぐに端末を開いた。
「なになに、私立探偵の
神明はベットから跳ねるようにして起き上がると、端末を凝視した。サキがどうしたの? と尋ねると、
「い、いや。なんでもない。とにかく仕事は終わりだ。データは公安に自動記録されているからね。後はAIが作った報告書を手直しするだけだから後でいい」
そう言って布団をかぶった。
◆
「じゃ、おでんの火は後一時間で落としてね。冷めているうちに味がしみるから。つまみ食いしちゃ駄目よ」
サキはそう言って玄関ドアを開きながら、部屋の方を振り返った。玄関マットの上のパジャマ姿の神明を見て、プッと笑う。
「まるで魂が抜けたみたいね」
「あ、ああ」
生返事をする神明の髪は、寝癖で逆だちリーゼントのようになっていた。しかも寝ぼけて視点が定まらない。つまり寝ぼけた不良カピバラだ。サキが笑うのも無理はない。
「ほんと、妄想の世界に囚われて抜け出せなくなった――なんだっけそういう映画あったわよね? その人みたい」
「なに? そんな映画あったっけ?」
「あったわよ。随分前に一緒に見たでしょ。気になるならタイトル調べてメールするね。じゃ」
そう言って、ドアを閉めた。
玄関マットの上で、神明は、
「妄想、妄想、なんだっけ」
とつぶやいていて、ふっと目に生気が戻る。
「妄想? せん妄か?」
そう言って、遮光カーテンの中の仕事部屋に走った。神明の目にVRヘッドギアのデータが飛び交い、情報の渦の中に埋もれていく。ひとしきり時間が過ぎた後、ふーっとため息をついた。
「夏子さんの麻痺が、何らかの認知症障害によるせん妄の類かと思ったけど……つまり麻痺していると錯覚を起こしていて、動かないと思い込んでいた。確かに認知機能の低下はあるな。あまりにもナチュラルに低下してるんで見落としていた。……しかし……万が一そういった動かないと思い込むような、特殊な脳障害だった場合、伊豆先生の奇行も、似たようなものだったかもしれないな。となると、治療法はあったはずだ。もしそうなら――」
神明は、暗室から出て、テーブルに座った。
「能古見院長は、殺人者ということになる。ただ今となっては確かめる手段がないし、確かめた所で誰も幸せにはなれない……か」
そう呟いた途端、電話がかかってきた。能古見からだ。
「噂をすれば、ねぇ。今はあーんまり話したくないんだけど」
電話の内容は、明日飲もうというお誘いだった。電話を切ったあと、
「なんだよ。まさかのサシ飲み? 断れんかなぁ。無理だよなぁ。二日酔いだから……って理由にならんか。上司の誘いを当たり障りのなく断る完璧な理由って、神経接続推論より難しいなぁ」
神明はこれ以上ないくらい気乗りしない様子で、深い溜め息をついた。
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