第七話

 時は少し戻って、亀尾神明が人混みをかき分けアサルトに向かっている頃。


 情報屋のインは、バーカウンターでビールを呑んでいた。その日の彼はスーツ姿だったのだが、それは表家業の探偵というよりは、詐欺師を連想させるような、そんな雰囲気を醸していた。


「待たせた」

 花菱は、男前の声でそういうと慣れた様子でインの隣に座った。


「仕事中は飲まなかったんじやないか?」

 花菱が聞くと、インは面倒くさそうに、

「ノンアルだ。俺は真面目だからな」

 と、答えた。花菱が何か言おうと口を開ける前に、

「で――今日は仕事のクレームかい?」

 先手を打ってきた。

「私は伊豆天明のゴシップネタをタレ込んでくれ――と伝えたはずだが」

 花菱が言った。

「ああーわかっている。ちゃんと仕事をしたさ。何が問題だ?」

「それをどうやって証明する?」

「疑り深い人だな。本人がああなったらしかたないだろ? そんなんじゃ男ができねぇ――」

 花菱が猛禽類の顔で睨みつけると、インは、「おっと、失敬」

 と、失笑した。

「まあぁーいい。あんたのクレームを受けようじゃないか。返金しよう」


 当然、と言わんばかりの花菱の表情を見ると、インはジョッキを口につけ、グビグビと喉を鳴らした。


「所でだ。実はとびきりのネタがあるんだが、どうだ? 買わないか?」

 花菱が興味ないと答えると、インは意味深に笑った。


「そうかい? 俺があんたに持ちかけるネタだぜ。だいたい分かるだろう? 聞いとかないと後悔するぜ?」

「今回はえらくもったいぶるな」


 インの態度には余裕が感じられた。


「今回の話、オタクの屋台骨を揺らすぜ。なんたって今の病院は完全な商業ビジネスだ。ビジネスには信用が一番だろ?」

「わかった。それでいくら欲しい?」

「特別割引だ。お得意様だからな」

 インは人差し指を一本立てた。

「なら、前回と相殺だ」

 するとインは首を横に振った。

「追加で一本だ」



 花菱は、インから受け取った書類にさっと目を通した途端、青くなって店を出た、インは愉快そうにそれを見届けるとバーのマスターに、

「同じやつをもう一杯」

 と追加を頼んだ。マスターはドラフトタワーがらビールをなみなみ注ぐと、インの前に差し出した。


インさん、良かったのかい? あの顔からすると、そのネタ、もっと取れたんじゃないのかい?」

 インはビールに口をつけると旨そうに、ごくごくと喉を鳴らした。

「2割が事実、3割が想像。残りは捏造だ。情報なんてそんなもんだ。そうかも知れないというリスクを大げさに伝えるだけで金になる。まあコンサルタント業だな。もっとも正当な値段がわからんとああなる。馬鹿な女だ」

 マスターは、なるほどと頷きながら言った。

「でもインさん、その想像の3割が本当だったらどうするね?」

 インは一瞬驚き、

「そんなうまい話はねぇヨ。そういう事がホイホイ起きるなら世の中もっと暮らしやすいさ。もちろん俺たちにとってみれば、だがな」

 といったが、少し考えて言い直した。


「まてよ。あの顔は……失敗したのか?」





 花菱が能古見病院近くの自宅に帰宅した時、彼女の表情は暗く落ち込んでいた。


 一人暮らしの部屋は、飾り気もなくただ広いだけの殺風景なものだった。めぼしい家具といえばソファーとテーブルぐらいだ。その大きめのソファーに寝転び、インから受け取った書類とデータディスクをテーブルに放り投げた。 


「全く次から次へと。こんなの見せたら彼は……」


 と、ちょうどその時、携帯端末に電話が入った。発信元は能古見中央病院のスタッフルームからだった。


「なんですって? 亀尾先生が? わかった今すぐ行く」


 そう言って電話を切ろうとして、続く言葉を聞いて手が震えた。


「わ、わかった。とりあえず、例の薬を投与して、もちろんこっそりだ。……あ、いや、眠剤もいれてくれ」



 花菱が病院につくと、真っ先に能古見の居室に向かった。能古見はソファーに横になっていた。 


「容態は?」

 花菱が聞くと、そばにいた看護師が聞いた。

「PPCSの手術中です」

「いえ、そうではなくて――まあいい。はじめから経緯を説明して」

 

「はい、亀尾先生を運んできたのは誰か知らない人でした。突然エントランスに現れて、あと10分以内に処置をしないと助からない、と言い残して立ち去りました」


 看護師は、神明が運ばれてきてからの出来事を順を追い説明しはじめた。


 能古見中央病院は、昼夜を問わず、研究が行われている研究施設と、24時間対応できる臨床専用病棟を備えた施設である。

 一般診療も救急受け入れも拒否するが、できないわけではない。受け入れ義務がないからやらないだけだ。


 よって、その日も連絡を受けた当直医師は、急患を受けつけてしまった看護師に対して、

「馬鹿野郎、そんな患者なんて早く追い出せ!」

 と、怒鳴ったらしい。

 しかし、患者が神明だとわかると、

「今すぐ、処置室に運んで! 早く! 早く!」

 手のひら返しだったという。 


 その後、救命処置が施され、病状を確認すると同時に、能古見に連絡を取った。

 能古見はたまたま病院に戻っていたため、すぐに対応できたのだが、無論酔っていたのである。

 しかし病状を確認して、一気に酔いが醒めるほど動転する。


「なぜこうなった? なんでここまでひどい状態になるのだ? ついさっきまでは……」


 神明の脳は小脳から脳幹にかけて、内部の組織が破壊されたような状態だったらしい。神明の自己申告は正確で、処置が遅れたら致命傷だったろう。

 そして通常だったら打つ手がないこの状態だが、幸いにもこのケースで有効な治療方法があった。


 PPCSつまり脳細胞置換手術である。


 ただしこの場合、30パーセントの置換が必要だった。当然違法である、その上治験の許可を取る時間もない。


 能古見はそれでも、

「何としても、どんな事をしても、必ず助けるんだ」 

 と、怒鳴り散らしたらしい。


 PPCSの準備作業はマニュアルはあるものの、事実上神明とリッシモが仕切っていた。

 つまり、今確実を考えるとリッシモしかいないのだ。

 そこで能古見は、リッシモを品川から呼び寄せた。それもドクターヘリを使って。まさになりふり構わない対応だった。そのかいあって、手術は無事にはじめることができ、現在進行系で行われているという。無論、人の手を介さない自動手術だ。


「花菱さんには随時連絡を入れていたのですけど、なぜかつながらなくて」


 看護師がそういうと、花菱はそれには答えず、

「それで院長は、PPCSがスタートした時、力が抜けたようになって動けなくなった。と?」

「はい」

 そこまで聞いた花菱は、目頭を抑えるようにしてソファーにもたれかかった。

「亀尾先生についてはもう運を天に任せるしかない。それより能古見院長の方が心配だ」

 看護師も同意して頷いた。

「軽い鬱状態かと思っていましたが、症状が酷くなっていますね。もしかして双極性障害ですか?」


 花菱は、ポケットに手を入れたまま、天を仰いだ。


「二型だと思う。軽度だと思っていたが、私が甘かった。こうなると暫く休養していただくしかないのだけれど」


 その手にはインから手に入れたディスクを握りしめていた。


(困った。とても話せる状況じゃない)


 眉間にシワを寄せてソファーに横たわる能古見を見た。穏やかな顔で眠る能古見を見て表情が緩む。


「そこの貴方。院長をベッドに移動させる、手伝って」


 神明の意識が戻るのはそれから二日後の事だった。






 



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