第三話

 濃紺のスポーツクーペが、

 都市高を飛ぶように爆走していた。


 いや、爆走というには生ぬるい、

 周りの車がまるで止まっているかのような、

 異常な速度――暴走だった。


「ち、ちょい、酒神様。いま壁を走ってません?」

 神明は、青い顔で運転席のサキに言った。

 右や左にハンドルを切るサキは、サングラスをかけ涼しい顔だ。

 大きなカーブが生み出す遠心力を利用し、垂直に立ち上がる防音壁に張りつく。そうなると前方に障害物はない。あっという間に数十台がはるか後方に消えていく。バケットシートのツーシーターは、見た目そのままジェットコースターだ。神明は、吐きそうになるが、しかしすぐにそれを呑み込み、重力に逆らい端末を操作する。

「だ、大丈夫。隠蔽処置は完璧、証拠は残らないよ。とにかく急いで」


 常識外れの車速であっても、神明の表情は不安で溢れていた。


(人工脳細胞が感電によって異常をきたしたのなら洒落にならないぞ。静電対策はされているけど、感電までは想定されていない。そして万一疑似脳細胞が機能停止したら……)


 神明は病院から電話で簡単な説明を受けていた。カルテも端末内に転送済みだ。それによると天明の事故は、実験室での感電による一時的な心停止。事故当時の状況はよくわからないが、感電自体で損傷した臓器はない、ただ意識が戻らない状態が続いているということだった。

 神明は、

「正常に見えても、何が起きるかわかりません。人工脳細胞が予期しない誤動作をするかもしれないからです。念の為人工心肺を準備していてください」

 と指示を出してある。


 能古見中央病院についた神明は、サキに、

「ヘリの3倍は早かったよ。助かった」

 と、礼を言って伊豆の元に急いだ。

 



 数日後。


 伊豆の意識は未だに戻っていなかった。あれ以来寝たきりの状態だ。その日、神明は能古見中央病院内の、五十人は入れるかという、大きな会議室で、現在までの伊豆の病状を能古見と数名の医師に説明していた。


「――というわけで、PPCS疑似脳細胞への感電による損傷は、ほぼないに等しい状態です。もちろん心停止による重篤な脳細胞の損傷は認められません」

 神明の説明に、その場の皆の表情が曇った。医師の一人が質問した。

「大枠はわかった。しかしその状況だと、体にはなんの異常もないわけだね? ならば伊豆先生の意識が戻らないのはなぜなんだ?」

 神明は即答できなかった。そして、

「原因は……わかりません」

 唇を噛みしめた。

 すると、参加者の中で一人だけスーツを着ている男が、

「わかりました」

 と口を開いた。還暦前後と思われるその男の発する声はまさに鶴の一声、支配者のそれだ。参加者の全員が振り返り、彼を凝視する。

「亀尾先生、よくやってくださいました。後は、我々の医療チームに引き継がせていただきます。能古見さん、良いですね?」

 能古見が渋々頷くと、男は満足そうに頷いた。手元の書類をまとめると、軽く挨拶をして席をたった。他の医師も、金魚のフンのようにそれに続いた。男は去り際に能古見の方を振り返った。


「そうそう、マスコミの方は私から釘を差しておきますよ。安心してください」


 そして会議は終了し、能古見と神明だけが部屋に残った。能古見がすまなさそうに言った。

「神明は直接会うのは初めてだったな。あの人が、納口尚比古のうぐちなおひこさん、先々代、病院の設立時から関わってきた一族でな。お歴々の中でも重鎮、私についで第二番目の株主だ。特に彼は政財界へのパイプが太い。頼りになる代わりに、逆らえんのだよ。スマンな」

「いえ、私が何もできなかったのも事実ですので」

 そう言って肩を落とす神明の背中を、ポンポンと叩いて能古見は言った。

「代わりと言っては何だが、天明の治療に関しての発言権は残しておく。治療データへのアクセス権も確保しておくので自由にしていい。ま、止めても無駄とはわかっているがね。言いたいのはとにかく神明、お前をサポートする。どうか」

 能古見は深々と頭を下げた。


「確かに伊豆は、今や日本の宝だ、彼の業績がこれから先多くの人を救うことになるだろう。だが、身も知らぬ人たちの事など知らん。そんな奴らが助かっても、肝心の伊豆が助からんのならなんにもならんのだ。頼む、天明を助けてやってくれ」

「院長……」

 神明は続く言葉を飲み込んだ。能古見は伏したまま言葉を続けた。

「神明……医療従事者として失格だろうが、それでもいい、違法でもなんでもいい。ぜひ協力して欲しい」

 


 能古見中央病院は、他の系列病院とはまるで違って、新薬などの研究及びその臨床試験が主な業務だ。その為研究所が併設されている。臨床試験以外の一般患者は受け入れてないのだが、それは建前で、中には有名人や権力者など、あまり一般病院に入りたくない人々の、受け皿としての病床もあった。

 それはこの病院の医療体制が最先端のもので、安心して入院できるというメリットと、PPCSを始めとする、他の病院では根治不可能な疾患も、場合によっては可能だからであった。ガンワクチンは今や多くの病院で合成可能だ。しかしPPCS手術ができるのは能古見中央病医院だけなのだ。


 そういった理由で、能古見中央病院は病床の数に対し入院患者は非常に少ない。そのため深夜の病棟は、照明は暗く静かで、廃墟のような不気味さがあった。


 その病棟の廊下を、まるで幽霊のように彷徨う人影があった。その人影が、今まさに、トイレをすませて病室戻る途中のひとりの入院患者と接触しようとしていた。


「ひえっ! お、おばけ?」

 入院患者の男は、目玉が溢れんばかりに驚いた。

 が、

 すぐに相手が人だとわかり、ほっと胸をなでおろした。

「脅かすない、ただでさえ、きしょい夜中の病院で、紛らわしいわ」

 その男、出くわしたのが弱々しい老人だと気づいて、急に態度がデカくなった。しかしその老人の顔に見覚えがある。


「あんさん、もしやノーベル賞とった、確か……伊豆なんちゃら?」

 まじまじと顔を覗き込んだ。老人は確かに伊豆天明だとわかった。しかし胡乱な瞳から、およそ人間の知性を感じられない。よく見たら口元からはよだれが垂れている。


(ありゃーまさかの、そっくりさん? それにしても似てはるなぁ。まあーなんか危なそうや。早よ退散しよ)


 そのまま伊豆に背を向け立ち去ろうとした。その時、


 ガコン!


 後頭部に衝撃が走り、危うく前につんのめりそうになる。伊豆をみて確信する。伊豆は右手を振りかぶり殴りかかったのだ。


「ちょちょちょ、あんさん、なにさらすねん」


 大声で文句を言った。しかし、伊豆は、その言を聞くこともなく、拳を振りかぶり、もう一発、大ぶりのパンチを繰り出す。

 そのパンチは、拳が座っておらず、猫パンチのようでもあるが、裏拳のようでもあった。要するにメチャクチャなのである。


 患者の男は、とっさに左手を立てガードするが、物凄い衝撃と共に枯れ木の折れる、パキッという音がした。

「アタッ!」

 ズキッという鈍い痛みがあり、患者の男は只事ではないと感じた。しかも相手――伊豆の手を見ると不自然な向きに曲がっている。

「え、えー? なんなんや」

 患者の男は酷く混乱し、慌てて逃げようとして、いつの間にか後ろにいた男――白衣を着た医師にぶち当たった。


「はいはーい、落ち着いてくださいね」

 にこやかに笑う医師が、患者の男を押さえつけると同時に、どこから湧いたか複数の医師が、伊豆を羽交い締めにして、プシュ、と麻酔薬らしき針なし注射を押し付けた。


「ああ、先生でしたか。何なんですかこれは? あの人、ノーベル賞とった人に似てるんやけど」

 患者の男がそういうと、医師はにこやかに笑って、プシュっと、針なし注射を患者の男に押し付けた。患者の男はすぐさま昏倒した。

 

 先程まで伊豆を抑えていた医師の一人が、駆け寄ってきた。

「いいんですかね? この人、有名なお笑い芸人なんでしょ?」

「大丈夫だって、この注射で綺麗さっぱり、二時間分の記憶が飛びますから」

「でも、これ多分、骨にヒビ入ってますよ。骨折は流石に誤魔化せないでしょう」

「大丈夫だって、病院のトイレで派手にころんだことにしましょう。実は私、この人の担当でして、この人病室にお酒持ち込んでるの、知ってますからね」

「なるほど、そういうことか。じゃケツからアルコール入れて二日酔いにしときましょう。病室のお酒は我々が空に」

「あ、それ良いですね」


 そこへ納口尚比古が現れた。医師の一人が声をかける。

「理事長、起きていらしたのですか?」

「もう理事会はありませんよ。納口でお願いします」

 納口は恐縮する医師をよそに、ストレッチャーに載せられる伊豆を見てため息まじりに言った。

「それにしても困りましたね。これじゃ凶暴なサルを飼っているのと同じですね。とりあえずこれからは拘束衣を使うことにしましょう」

「拘束衣ですか……流石にそれは体裁というものが」

「ああ、そうですね。では麻酔を使いましょう」

「それも回復を妨げることになります」

「見込はないと思いますよ。見ればわかるでしょう? まあそこは能古見さんに判断して頂くしかありませんがね。とはいえ私としても伊豆君とは考え方が非常に近かったので残念の極みではありますが」


 澄ました顔でさらりと言った納口に、医師の一人、一番年少に見える男――今風吟いまかぜぎんが驚愕の表情でたずねた。


「そ、それは、まさか伊豆先生をころ、殺すって……で、ですが原因を究明しませんと。亀尾先生も頑張っていますし」

「原因? なぜそんな必要が?」

「それは、わずかな問題でも全世界、多数の人が手術をすれば必ず問題になる……まさか?」

「PPCS臨床Ⅲから先には進みませんよ。だから全世界の人が治療を受ける段階には至りません。君、今風さんでしたっけ?」

 若い医師――今風が首を縦に振ると、納口は子供を諭すように言った。

「良いですか今風さん。今の医療で患者が一番恐れる事はなんですか?」

「え? そ、それは痴呆等の脳疾患だと思います。ガンは大抵治りますから」

「では質問を変えましょう。QOLを著しく落とす原因はなんですか?」

 今風は、少し考えて、

「視力や聴力ですか?」

 と答えた。納口は人差し指を立てて尊大に、

「正解」

 と同意した。


「PPCS手術は今まで諦めるしかなかった痴呆、更には視聴力低下を根治できます」

「痴呆は、そうですが視聴力も……ですか?」

「そう。プラスチックで出来た脳は電子装置との親和性が高い。センサーとダイレクト接続可能なんですね。今、そういった研究もしています。もちろん従来の再生医療の延長でのアプローチもしていますが、それには脳神経接続が必要でこれもPPCS疑似神経細胞が必要です。恐らくどちらも数年と待たずに実用化できるでしょう。その肝になるのがPPCSというわけです」


 今風が驚いた様子で息をのんだ。

「確かに……ですがいくらなんでも数年とは技術的には可能でも、倫理的な問題もありますし」

 納口はチッチッチと人差し指を振った。

「臨床で十分、むしろ臨床の方が好ましいですね。希少性がある」

 納口はストレッチャーで運ばれる伊豆を見下すようにして言った。

「そう言うことに出資したい金持ちは世の中に沢山いるのですよ。彼らは金に糸目はつけません。そして成功者の多くはチャレンジャーです。可能性があれば賭けにでることができる。だから成功した」


 今風はゴクリとつばを飲んだ。

「わざと……臨床で止めておくのですか?」

「まさか、それは流れでしょう。ですが実際治験の手前が一番やりやすいのは事実ですね。とはいえ本質はそこではないのです。良いですか今風さん。

 人は簡単にやれる事を目標と呼びます。頑張ればもしかしたら実現できる、それが夢や希望です。そして――」


 納口は薄い眉の下の目を細めてほくそ笑む。


「夢と希望は金になる」

 


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