第二話
3ヶ月後。
伊豆天明の妻、夏子の転落事故から3ヶ月が経過した。
その夜、繁華街から少し離れた、高級料理店が建ち並ぶ街の一画で、亀尾神明は、ポツンとひとり立ち尽くしていた。
「入口……どこにあるんだ?」
中華料理の店であるはずのその場所には、すべすべの大理石で四方を囲まれた、立方体が設置されているだけだ。それは山から切り出し、ピカピカに磨き上げた単なる巨石のようだった。
「しかしよくもまあー。ここまでピカピカに磨けるものだ。つなぎ目すらないじゃん。どーやってんだこれ?」
そう言って滑らかな表面に頬を当ててスリスリしてみる。あまりのツルツル具合に思わず顔がほころんだ。すると後ろの方から肩をポンポンと叩かれた。
「え?」
振り向くと、ギャルソン風の男が、すまし顔で立っていた。
「お客様、入口がわかりにくくて申し訳ありません」
神明が建物の入口だと思っていた場所は実は裏手で、立方体だと思われた物は、大理石で出来た屏風を組み合わせたような構造物だった。神明が案内されるまま、店の表にまわると、入口は屏風の隙間のようになっていて、背の低い雑草――よく見ると高級そうな植木が植えてある。屏風の隙間から、間接照明のような形で暖色系の光が溢れていた。
神明が恐る恐る中に入ると、
「まじかよ」
思わず声が漏れた。
そこは綺麗に手入れされた植木が生い茂る、壮大な庭園だった。天井は開放され夜空が広がっている。あちこちに嗜好を凝らしたオブジェクトが配置され、景観にアクセントを与えている。
「まるでテーマパークだ」
顎を上げて上下左右とキョロキョロと落ち着きない神明は、端から見れば御上りさんだ。
「流石おえらいさんが使う店は違うなぁ」
背の高い目隠し用の植木で囲まれている小道を抜けると、中華丸テーブルを中心とした広くもなく狭くもない隔絶された空間が開けた。そこには既に男女三人が座っていた。真っ先にビールを飲んでいた大柄の男――能古見大一郎が神明に気づき、ここだここだと手を振った。能古見は還暦手前のイケオヤジと言った風体だ。髪はふさふさで、エネルギーに満ち溢れた表情をしている。
「ずいぶんとワイルドな部屋ですね。今日は晴れて良かったです」
テーブルに駆け寄った神明がそう言うと、能古見は手に持っていたビールをテーブルに置いて言った。
「ここは屋根付きだぞ。色が変わる硝子が張ってあるらしい。プロジェクションマッピングもできるそうだから、何なら青空に変えてもらうか?」
「え? まじで? そうは見えないですが、あ……ひゃー、ホントだ天井高いな」
「それより、遅いぞ神明、待ちきれずフライングしていた所だ」
「すみません」
神明は、能古見の隣に座っている女性が誰か分かると、少し硬い表情で軽く会釈した。
「花菱さんも、しばらくぶりですね。申し訳ありません、女性をおまたせしてしまって」
能古見の隣にいた年齢不詳の女性――花菱は、男前の声でいった。
「構わんよ。私のことは女性と思わんでも宜しい。もっとも内心そうは思っていないだろう」
花菱はそういって苦笑いした。彼女の体つきは、街を歩く男なら誰もが振り返る素晴らしいプロポーションだ。それは服の上からもわかる。
しかし顔の方はというと、敢えて一言でいうと、少し形の崩れた猛禽類。男を怯えさせる恐ろしさがある。とても恋愛対象になる顔ではない。そんな花菱と神明の対峙は絵面でいうと、獰猛な鷹と怯えるカピバラ。存在感からして対局の存在だ。
そういう圧を感じた神明がたじろいでいると、能古見が早く座れと催促した。すると神明に背を向けていた男が、
「お久しぶりですね、亀尾君」
振り返りながらそういった。伊豆天明だった。神明はそれが分かると、口を開く前に深々と会釈した。
「先生。この度は非常に残念で、なんとお詫びして良いか」
伏せたまま、いつまでも顔を上げそうもない神明に、能古見はまあまあ気楽にとフォローを入れた。
「だからなぁ、お前が気にすることは何も無い。ありゃ事故だ。そうだろ? な、天明」
能古見がそういうと、伊豆天明は無言のままゆっくりと頷いた。
「あれとの別れは辛かったのだけど、人はいずれそうなるものだから早いか遅いかの問題だね。人の命はもちろん、この世は常に変化している。この世界に等しく普遍は存在しない。ただ偉人ともなると、変わりゆく人の心に永遠に伝わり続けるわけで、それは不滅だと言える。
この世に普遍はなくとも不滅はある。
その点、彼女は私にとって、世界で一番の偉人というわけだ。何も悲観する必要はないよ」
他人が聞いたら少し疑うような臭いセリフを、伊豆天明は、本心から、疑いもなく、淀みなく、さらりと言った。そんな言葉だったが神明はウンウンとうなずいた。
そこへ神明の生ビールが運ばれてきた。早速、四人は乾杯をした。テーブルには中華料理らしく、旨そうな小皿料理が次々に運ばれてくる。
皆が料理の感想をそれぞれ口にし、それぞれに感動しながら食事していると、能古見が不意に神明に声をかけた。
「おい、神明。今日はかたいなぁ。緊張する面々じゃないだろ?」
神明は内心、
(怖い顔の人がいるんですけどね)
と口に出そうになるが、それをビールとともに流し込んだ。能古見は、そんな神明よりも、寧ろ伊豆の方を気にしながら話を続けた。
「お前が引っかかってるのは、すぐに夏子さんの事故を知らせなかった件だろ? あれは、そのだな――」
歯切れが悪い能古見を遮って、花菱が代わりに説明し始めた。
「本来ならまず真っ先に主治医の君に連絡すべきだった。だが既にどうしようもない状態だった。その上、ご遺体の状態があまり良くなく、見せるに忍びない、処置をしてからの方が良いということになった」
男前の声で事務的に話した花菱の説明に、能古見は頷いて補足した。
「お前に説明したら、どうせすぐに飛んで来るだろ?……あとを考えるとな」
能古見が言い終わっても神明は無言のままだった。伊豆も何も語らない。ため息をついて花菱が沈黙を破った。
「ビール大ジョッキ四つ追加」
『承知しました』
テーブルに備えられたAIが答えると、能古見は慌てて修正した。
「おいおい、大ジョッキはやめてくれ。自分は中ジョッキで」
「あ、僕もそれで」
能古見に続き、神明が注文を修正すると、伊豆は烏龍茶を頼んだ。
「天明、もう終了か? まだ序の口だろ?」
「大一郎、私自身PPCS被験者だと言うことを忘れたのかい?」
「そうか。あの事故からもう三年か。だが天明、PPCS脳の方が、耐アルコール性能は上だぞ」
「それでも無理はしない方がいいと思うよ」
「それはそうだが――まあいい。悪いが俺は飲ませてもらうぞ、たらふくな」
追加の飲み物が運ばれてきたところで、能古見が今更だがね、と言いつつ挨拶をしはじめた。伊豆のノーベル賞受賞のお祝いと、不幸へのお悔やみを当たり障りなく。加えて副院長――と言っても役職は取締役――の花菱への慰労を絡めて、それは能古見病院グループの総責任者として適切かつスムーズなものだった。
再度乾杯をした後、アルコールが入ったためか、少し表情が緩んだ神明が口を開いた。
「そういえはリッシモはどうしているんです?」
神明が尋ねると、能古見と花菱の表情が曇った。しかし答えたのは伊豆だ。
「彼は品川ラボだね。どうしても今日仕上げたい実験装置があってね。そういえば君はまだ品川には来たことがなかったね」
「ええ。あそこはリッシモの私的なラボなので、行く理由もなくて。先生は最近はあちらばかりですよね?」
神明がそういうと、能古見が割って入った。
「二人とも仕事の話はやめてくれんか。今や旧態然とした医療法人も廃止された。規制撤廃の嵐で病院も会社組織、株式会社だ。生存競争よろしく、生々しい話は毎年増えるばかりで、俺の気苦労は日に日に大きくなる」
「院長、それも仕事の話です」
花菱にたしなめられ、能古見はああそうだったとビールをあおった。
「まあ、そういう事だ。とにかく今日は忘れて飲もう。さっきは偉そうなことを言ったが、受賞にかこつけた単なる飲み会だ。そうそう、次は神明の結婚を祝わないとな。式はしないのだろう? どうだ、パーティ形式なら経費で出していいぞ」
能古見がそういうと、花菱が獰猛な顔をすこし引きつらせた。
「形式上、亀尾さんは、能古見グループの子会社である研究所の社員です。経費処理できるわけないでしょう?」
「そんなの形だけだろう? 同じ敷地内にあるし、建物もつながっているじゃないか?」
「あれは賃貸契約です。院長、わかっているのに絡み酒ですか?」
「いや、真剣だぞ。それぐらい神明の病院に対する貢献度を考えれば同然の話だ。そりやリッシモがいなかったら、PPCSは後50年は遅れたろう。しかし神明、お前がいなかったらそもそも完成してなかった。お前の代わりは、誰もなれないんだ」
能古見はそういうと手元のビールをぐいっと飲み干して、すまなさそうに言葉を続けた。
「あの事さえなかったら、神明もノーベル賞受賞できたのにな。何か恩返しをしたいのは山々だが」
神明は、ふさぎ込むような能古見を見て、ガタッと椅子から立ち上がり、身を乗り出して言った。
「い、院長、そりゃ考えすぎですよ。そもそも僕が表舞台に立てないのは過去の過ち、自業自得なわけで……」
その時、伊豆の携帯端末が着信を告げた。伊豆は電話に出ると嬉しそうな顔でいった。
「皆さん、品川でトラブルがあったようなんです。リッシモが困っているので中座させていただきますよ。亀尾君、またゆっくり」
伊豆はそう言い残すと、そそくさと退席してしまった。
取り残された神明は、不思議そうに能古見に訊ねた。
「あんなに慌てて、何があったのでしょうか?」
「さぁな。神明も知っているとは思うが、天明が抱えてるプロジェクトは三つ程ある。だが、品川案件はそれとは別枠だ。リッシモが管理していて、俺も把握してなくてな」
「院長でも把握してないんですか?」
「ああ、目鼻がついてから正式にプロジェクト化を提案するそうだ。その時詳細を説明すると言っているが、少し怪しいな」
「怪しいといいますと?」
「天明の悪い癖だ。倫理的に問題あっても、面白ければ首を突っ込みたがる。まあリッシモには負けるが、あの二人がタッグを組めば怪しさ倍増だ」
「いえ、伊豆先生はそんな」
「本当にそうか? リッシモもいるんだぞ」
「そ、それは……」
それを聞いてきた花菱が、いつの間にか頼んでいた三杯目の大ジョッキを豪快にあおった。ドン! と乱暴にテーブルに置くと、
「今日は、仕事の話は無しだ」
そう凄んだ。顔が少し赤く、酔っている様子だった。神明は、顔圧に圧倒され、引きつった笑みを浮かべた。
(まじかよ。男前過ぎる。苦手だなぁこの人は)
◆
翌朝、神明がサキにおはようの挨拶をした時、ダイニングテーブルの上の弁当箱に気づいた。
「あーごめん、今日さ、自宅勤務なんだ」
「あら、じゃ弁当は家で食べるしかないわね」
「そうだ、なら弁当をつまみに昼飲みしよう、一緒にな」
「いいわね」
「冷や飯と日本酒は相性いいんだろ? それ試そう」
「少し塩辛いほうが良いわ。一つはごま塩と、そうね、冷蔵庫にウニ瓶があったね、もう一つはウニと和えてみようか?」
「おっ、良いねぇ。そりゃ旨そうだ。いっそ冷蔵庫の漬けも食べちゃおう」
「それ店の仕込みだから駄目よ」
「えーちょびっとならいでしよ? ね、お願い」
その時、神明の電話が鳴った。彼は着信元を見て、ため息をついた。
(また面倒事かな?)
だが電話の内容はそれ以上のものだった。
『伊豆天明に妻の殺害容疑がかかっている。ゴシップネタとしてタレこんだ奴がいるようだ』
「なんですって?」
事情を聞いていた神明の隣で今度はサキの電話がなった。すると、電話中の神明にサキが、
「その電話すぐに切って」
と言った。ただならぬ雰囲気に、神明が送話ミュートして、
「どうしたの?」
と聞いた。
「伊豆先生が事故で危篤みたい。すぐに病院に来て欲しいらしいわ。話し中だったのでこっちに電話してきた。よっぽどじゃない?」
動揺を隠せない神明は、
「早くいかないと、タクシーを呼んで」
とサキに言って、着替えをはじめた。
するとサキは、
「私が車で送るわ、私はドクターヘリより早いわよ」
と涼しい顔でそういった。
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