プラスチック・ブレイン
ellipsis
第一話
彼女に言わせると、
「顔を構成するパーツは、イケメンのそれなのだけど、集まるとなぜか残念になる」
らしい。
そういうことだから、亀尾神明の眉毛はイケメンのそれである。その眉毛をキュッうと、中心に寄せて彼は、
「まじかよ」
といった。
彼の前には、二つのお猪口がちょこんと並べられている。そのうちの一つが3万円、もう片方が3千円である。彼はその価格を聞いてまず驚いた。そしてそのお猪口から立ち昇る香りを、やはりイケメンの鼻で吸引し、
「まじかよ。さっぱりわからん」
ミニマリストが好みそうな、上質で最低限の物が置かれたキッチンと、機能的に整頓されたその部屋は、間取りは狭くても窮屈さはない。
ダイニングの中央に据えられたテーブル、神明の対面には、飛び切りの美女――サキが神明を見つめていた。まるでAIが作ったような出来すぎた容貌だが、敢えて欠点を言えば、口元以外表情がない。
「で、違いはわかる? 山田と雄町、水平だね」
サキがそういうと、カピバラの神明は首を左右に振る。
「サキならそりゃわかるだろうけどさ。同じ蔵の米違いとかさ、分かる気が微塵も、そりゃもうミジンコほどもないね」
そう言って二つのお猪口に口をつけた。
「うん、やっぱりだ。まったく分からん」
「わからない? 二択なのに? 山田と雄町の違いというのもあるけど、ぜんぜん違うでしょ?」
「まー寝起きだからというのもあるさ……しっかし、なにその3万って? 四合でしょ」
「気前のいいお客さんがいてさ。昨日の残り物だよ。それでも味がわからないなんて、貴重な酒を流しに流した気分だわ。そもそも、利き酒したいと言ったのは君でしょ。今から仕事だってのに」
「何度も言うけどさ、僕の場合、僅かな飲酒で作業効率が3倍上がるんだよ。3倍だぜ。これは統計データで証明されている事実なんだ」
「そんな、呑んだくれ医者にはかかりたくないわね」
「き、今日は研究、臨床の時は流石に飲まないって……あ、今日は違ったか」
レース越しの朝の日差しが、モニターの端を照らした。サキは、軽いため息をつきながら、モニターのミュートを解除した。
「まだやってるねぇ。昨日は感慨ひとしおだったのだけど、こう報道が過熱すると流石にね」
それは日本人、脳外科医
――PPCS手術、人間の脳細胞を人工物に置換することにより様々な脳疾患を治療する画期的な治療方法。倫理的な問題はもちろん制度上の分類さえどう解釈していいか揉めている状態で、未だに臨床、治験扱いだ。正式な認可はおりていない。しかし手術の有効性から、なし崩し的に実施されて五年、かなりの数の手術が行われていた。
とはいえ、未だに脳という人間の根源たる臓器を人工物に変える事に対する反対意見は根強く、ノーベル賞に反対する保守派層の反発は大きい。
モニターに脳科学者伊豆天明の顔がバストアップで表示された所で、サキはモニターを閉じて神明に質問した。
「やっぱりノーベル賞は欲しかった? 一応、世の科学者の目標なんでしょ?」
神明は笑って答えた。
「よせやい。僕の顔は公衆の面前に出して良いレベルじゃないよ。それに有名になるのが目標なんて、つまらない人生だよね」
「ほほう。なら君はどんな崇高な目標とかあるのかな?」
神明はそう言われ、「目標……は決まってるじゃん」と言って少し照れた。
「ま、あれだ。世界平和だよ。世の中から脳疾患をなくしたい。PPCSにはその可能性がある」
「世界平和ねぇ。ふーん」
サキは鼻歌でも歌うように軽やかに鼻を鳴らすと、
「ところでその股間の膨らみは、何なのかな?」
神明は照れ臭そうにポケットに手をいれると、指輪の入った小箱を開けた。
「まじかよ。いやぁ。そのーまいったなぁ。もっとドラマチックに渡そうと思っていたのだけどな。君は内縁のままでいいといったけど、もう五年だろ? けじめをつけたいんだ。そのーなんだ。受け取ってくれるかな?」
早速指輪をはめようとした神明は、サキの指を見てえっと小さく叫んだ。
「おいおい、どうしたんだよ、それ」
サキの薬指には一本の細い線のような傷が入っていた。明らかに刃物傷だとわかる。
「あれ? いつの間に、全く気づかなかったわ。さっきお弁当作った時、切っちゃったんでしょうね」
「切ったって、そんな簡単に、ちょいと見せて」
傷口は見た目ほど深くなく、鋭利な包丁が逆に幸いしたのか、既に血は固まっていた。それでも神明は、すぐに消毒して絆創膏を丁寧に貼った。
「これでよし、と。普通の体じゃないんだから、十分注意してくれよ。全く――」
そう言いかけた神明の言葉は、サキの口づけで塞がれた。そんなサキに神明は半ば反射的に抱きついた。サキは言った。
「残念、もう時間だね」
「え? そんな時間? あ、本当だ」
神明は残念そうにいうと慌てて身支度を始めた。
「今日は、朝一番で検査が入っているんだ。ごめんな」
「もしかして検査って、伊豆先生の奥さんの夏子さん?」
「そうそう。あれ? 面識あったっけ?」
「あるも何も、彼女よく店に来てくれてたの。今もメッセージのやり取りもしてるわ。麻痺が広がってるんですって?」
「ああ、そうなんだ。だいぶ前から歩けない。一人だと車椅子にも乗れないね」
「え? そうなの? そこまで悪いとは言っていなかったのだけど。お酒をとっても美味しそうにのまれる方で、それでいてお強くて、上品なお顔で塩と升酒を豪快にやるものだから、店の中にもファンがいたのよ……歩けないの、そう」
サキはしばらく間をおいて、
「他人事じゃないわね」
といった。
「サキの麻痺は原因がはっきりしてるので大丈夫だよ。夏子さんの場合は原因がさっぱりわからないんだよね。個人情報とはいえ、伊豆先生がノーベル賞とったから、そのうち報道されるかもしれないなぁ。今の所先生は取材を控えているので――おっと、やべーマジで遅れる。じゃ」
神明は、そういうとバタバタと玄関から外に出たが、すぐ戻ってきて、
「忘れ物」
と、軽くキスをした。
「今日は店に寄るよ。じゃ、あとでな」
◆
神明はいつもと変わらないバスに乗り、いつもと変わらないバス停で降りた。バス停を降りるとすぐ目の前に彼の勤務先、能古見中央病院の正門がある。
神明は、正門と守衛の間にある通用門から中に入り、守衛に挨拶をした。すると正門の前で数台の車が止められているのが見えた。守衛の一人と何やら揉めているようだ。
「あーもしかしてあれ、報道関係者?」
「どうでしょうか? 例の件もありまして、今院内はとても混乱しているんですよ」
「例の件?」
神明は守衛の言葉が引っかかり聞き返したのだが、守衛は驚いた顔で、中で聞いて下さいと言葉を濁した。
神明は怪訝顔で門をくぐった。病院の敷地は広大で、病棟の他にも研究所や、非常時には病棟としても使える大型ホールまで併設されている。
神明は、病棟の方に向かい歩いていった。少し歩くと、胸ポケットの端末が着信を知らせた。発信元にはK(ケイ)の表示。それを見た神明は軽くため息をつく。そして歩きながら電話を取った。
「朝っぱらから珍しいですね。なにか急ぎの仕事ですか?」
間髪入れず電話口から返事があった。
『亀尾君、今どこにいる?』
「どこって、そりゃ病院ですよ」
『すぐに引き返せ。今日一日雲隠れしてくれ、ちょっと面倒なことになった』
「面倒って?」
『所轄が君を疑っているんだ』
「警察が僕を? なぜ?」
『伊豆天明の妻の主治医は君だろう? そして全身麻痺の診断したのも君だ』
「ええ、そうですが? なにか?」
『その彼女が飛び降り自殺したんだよ。動かないはずの自分の足でな』
「なんですって?」
『所轄が何を考えているかはわからんが、こちらとしては君が調書を取られること自体まず――』
〝飛び降りた〟その言葉以降の音量がやたら小さくなった。呆然とする神明は、後ろから声をかけられてハッと正気に戻った。
「亀尾神明さん、ですよね。こういうものです。ちーとばかし、お話を聞かせてくれんですかの」
神明のすぐ後ろには、いつの間にか小柄だが屈強そうな男が立っていて、そのすぐ後ろにひょろ長い男。小柄の男は少しよれた、ひょろ長い男はのりでバリバリのスーツを着ている。神明は振り向いた拍子に、小柄な男の、刈り上げられた針のような剛毛が鼻に入り、
ビクッ、
と痙攣するように仰け反った。
同時に声をかけた男の方も
ビクッ、大げさに驚いた。
男は反射的に詫びを入れる。
「す、すまん、すまんのう。いや驚かすつもりはなかったんじゃがのう。ワシは
文彦は手にしていた警察手帳を胸ポケットにしまうと、人懐っこい笑顔を浮かべた。
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