7665日の物語

@ryukokoro

長編小説 猫との出会いが物語の始まりだった


風に舞う霧雨の振る中、傘を手に持って学校に向かう途中のゴミ収集場所。木製電柱の下、毎週火曜と金曜がゴミの日と決まっている。

前の晩から出す人や、分別をしない人もいる。ビール瓶が袋から飛び出している。いくら何でもこりゃあひどい。

酒屋さんに持って行けば一本五円になるであろうに。


駄菓子屋さんで五円あればアイスクリームガムが買えた。

アイスクリームガムとは丸い色付きのガムが紙製の箱の中からボタンを押すと出てくるもので、出てくる色によって一〇円分とか二〇円分とかのお菓子と交換できる。もちろんハズレの白玉もある。五円握りしめてボタンを押す子供にとっては一世一代の大博打だ。


後ろ髪をひかれる思いで学校へと歩を進める。

まだ今の様にカラスの被害に逢わない為に、

『収集所にはネットをかぶせましょう!』 とか 

『ゴミは各市町村指定の中身の見える透明な袋で出す事!』

なんていう取り決めもなかった。

前日に終電に間に合わなかったサラリーマンだろうか。

ゴミの中で幸せそうな顔をして寝ている。表情を見る限り彼にぴったりの枕だったのであろう。うっすら笑顔を浮かべて霧雨の中大いびきだ。


僕の学校はマンモス小学校と呼ばれていて、地域でも有名だった。

クラスに生徒は四十六人。一年生の僕にとって最初は迷ったものだ。

クラスが十三クラス(教室)。一年生だけでこの数である。ベビーブームだったこともあり、子供が多い時代だ。

新品の重たいランドセルにおんぶされて登校していた頃は他の学年の教室に行ってしまう事もザラにあった。

校舎がまるで巨大迷路である。廊下の窓から校門を見て何とかそこまで辿り着き、用務員さんに教室までの行き方を教えてもらうなんてこともしばしばあった。その後は教室までダッシュである。


しかも高学年ほど地面に近い(校舎は四階建て)教室で、小学年は四階。「体が小さいうちに足腰鍛えておきなさい」という事だったのか。

そういえば体操の授業に『うさぎ跳びで校庭二周』というものがあった。

今の時代にこんな事をしようものなら、教育委員会やら保護者会やらそれこそ頭のおかしいモンスターピアレンツたる人が怒鳴り込んで来た事だろう。『児童虐待だ!!』って。

マンモス小学校だけに校庭もだだっ広ければ、校舎もでかかった。それ故にみんなヘトヘトになりながらも「うさぎ跳び校庭二周」はこなしていたし、先生に文句を言う子供なんていなかった。

そんなことしようものなら出席簿の角の硬い所で頭を叩かれるか、先生が書いているカランコロンと音がする、今では一部の旅館のお手洗い位でしか見かけなくなった木製の平下駄でこれまたゴツンとされる。

学校における児童虐待なんて聞いたことが無かった

(あったのに知らなかっただけかもしれないが)

むしろ、「昨日の夜、先生の家でご飯食べさせてもらった!」なんて聞こうものなら、その特別扱いが羨ましかった。


この時代は夏でも冬でも半ズボンを履いている男の子なんて珍しくなかったし、いつも同じボロボロのTシャツを着ている、経済的に余裕のない子を『あいついつも同じの着てる』なんて虐める様な風潮もなかった。そんな子供は沢山いたのだ。


学校の先生にため口なんてもってのほか!嫌われる先生はいたものの、先生は先生。そこはみんなしっかりと崇拝とまではいかないまでも一線を引いていた、だって先生だもの。だから羨ましかったし、本気で叱ってくれるから頬をひっぱたかれても当たり前だと思った。

時代背景を考えると、戦後の高度経済成長期に頑張った大人達が税金で作ってくれた施設である。文句を言うなんてとんでもない!というのは今の僕なら理解できるし、あの上級生の家が貧乏であった事も合点がいく。


最近見ないが、あの頃の子供はスライムみたいな緑色の鼻を垂らしている人が多かった。僕には医学の知識がないので、それが良い事なのか悪い事なのかは判らないが、少なくとも青っぱなの時代の方が今と比べてはるかに健康だった! というのはいろいろな側面をみてもわかる。

今ほど建物もなく野山が遊び場、防空壕の名残の洞窟が秘密基地だった。お腹の中に虫がいる子も当たり前にいたし、ザリガニ釣りをして殻をむいて食べた、秘密基地でガマガエルも調理?してみんなで食べたりしていた。荒野のような野原を走り回っては肥溜めにはまり、井戸水を汲んで洗い流しても臭いは消えなくて、生えているヨモギをモグモグ噛んで吐き出したものを身体に擦り付けてまるで体臭のキツイご婦人が大量にブランド香水を振りかけるが如く、友達同士塗りたくった。楽しい思い出だ(笑)


だいぶわき道にそれてしまった。話を元に戻す。七六六五日前のあの日、サラリーマンが眠っていた寝ていた場所とは全く別の場所にある電信柱の下にある収集場所でかすかに聞こえる音。子供のころに比べて格段に衛生的になって、もちろん集められたごみ袋にはカラス防護ネットが掛けられているその中からその音はかすかに、でも確実に聞こえた。

何の音だろう、いやーまさかね・・・なんて通勤の為に駅へ向かう僕の足をその音は止めさせた。何だかすごく通り過ぎ行くことに後悔しそうな気がしたのだ。あの日の様な霧雨ではなく、まとまった雨量の中、傘に当たるボツボツという雨音が耳障りだ。


「よし!」と傘を置き、集団登校する小学生の「なに?あの人・・・」みたいな視線を痛く感じながら、僕はネットをどかして音のする袋を探し漁った。半透明のゴミ袋の中に不自然に新聞紙ばかりが入っている袋がいくつかあった。うっすら中身が見えるだけに、「見られたくない物を捨てる時はこういう捨て方をする女性が多い」

というのは某ニュース紙で読んだことがあった。女性の下着とか出てきたら完全に変態で犯罪者じゃないか。

なんて考えながらゴソゴソしていると、


『ちょっといい?君何してるの?怪しい人がいるって通報あったんだけど』

と警察の方。そりゃそうだ。雨の中スーツずぶ濡れで朝からごみ収集場所をゴソゴソしているんだから。

『いや、音が聞こえるんですよ!だから探しているんです!』

『何の音?みんなそういう言い訳するんだよ。警察署で話聞くから』

『いや、本当ですって。そうじゃなきゃこんな雨の中探さないでしょ!』

『逆にさ、隠しておいたもの捨てられちゃって探してるとか?(笑)』


この言葉にさすがにちょっと頭にきた僕は、

『おい、黙って見とけ!何も出てこなかったら署でも何処でも行ってやる』

『君、公務執行妨害で現行犯逮捕するよ?』

『手も触れず悪態もついていない市民を公務執行妨害で現行犯逮捕だと?行政府として市民からの通報に駆けつける職務姿勢は敬意を表するが、さっきの(笑)は違うだろ!君こそ勉強不足ではないのかね?失礼だろ!』


と言い放ち、音の発信源をとうとう僕は見つけた。これがただの音の出るオモチャだったらどうしよう。いや、でも何かしら出て来てくれれば疑いも晴れるし、自分自身スッキリする。

そう自分に言い聞かせながら、警察官の覗き込む視線をうっとうしいな・・・と思いながら硬く縛られた口の横を破いて中身を取り出すと、新聞紙にくるまれて更にコンビニの袋に入れられた命がそこにはあった。


生まれて間もない状態で遺棄されたのだろう。三匹の内、二匹は死んでいた。

『ほら、あったじゃん!』と普通は出そうなものだが、僕の口から出た言葉は、『近くの獣医さん、どこですか?! 早く!!』だった。助けなきゃ!!それだけだった。


『獣医さん?振り向いたらあるけど・・・』

そう警察官に言われ、急いで消えそうな命を運び込むべく、開業前の診療所のインターホンを押した。

『すいません!診ていただきたいんです!!すいません!!』

何度もインターホンを押し、何度も声を掛けた。返答はない・・・。

ここで汚名返上、名誉挽回とばかりにでてきた先程の警察官。

『朝早くからすいません、〇〇署の警察です。開けていただけますか?』

驚くことにものの数秒で出てきた。

『はいはい、何かありましたか?』

簡単に経緯を説明し診ていただけることになりました。


ここで沸き起こる疑問点・・・

① なぜゴミと一緒に捨てられていたのか

② 探し始めてすぐのタイミングで誰が通報したのか

③ なぜ警察の問いかけにはすぐに反応したのか

④ そしてなぜ、すぐ裏が獣医さんだったのか・・・


これらは一般市民である私は安易に触れない事にする。そしてその後どうなったのかも知る由もない。なぜならこの時応急処置のみしてもらい、僕は別の知り合いの獣医さんを訪ねたからだ。

『おいおい、こいつぁ危ないぞ・・・?』

『そんな事は判ってる!!だからお前の所に来たんだろ!!』

『わーかった。やれるだけの事はやってみる。でもよ、ダメ元だぞ。大丈夫でもそうでなくても電話するから、お前は取り敢えず会社行け。クビになっても知らねーぞ?』

『そんな事は言われなくても解ってる!いいからこの子何とかしろよ!』

『おい、お前・・・うるせーよ。こっちは毎日救っては死なれの繰り返しなんだよ。救いたいにきまってるだろうが!!いいから行け!!』

気が付けばさっき僕が警察官に抱いていた感情と同じものを彼にも抱かせていた。

僕は無力だ・・・


二日後の深夜、彼から電話があった。

『お前、責任もって面倒みられるんだろうな?』

『当たり前だ。それよりどうだったんだ?』

『面倒みられるかどうか訊いてるのに悲しいお知らせする馬鹿がいるか?面倒みるんならそれなりの手続きとか避妊とか、今の内から考えとかないといけないからよ』『助けてくれてありがとう』

素直に言葉に出た。

『おいおい、本当に大変なのはこれからだぞ?引き取りに来い。説明してやるから。そして俺を寝かせろ。ポカリとサンドイッチ買ってきてくれ』

不眠不休で今にも消えそうな灯と闘って、彼は見事に火をともらせた。

僕はただただ感謝の念でいっぱいな気持ちでコンビニに走った。

迎えに行き受け取ると、確かに鼓動が聞こえる。


よかった、本当によかった。 でも本当の闘いはここからだった。

知り合いの獣医に出してもらった、人間でいう粉ミルク。少しだけ溶かして体温位に温め、針の無い注射器みたいなものでゆっくり飲ませる。

『いいか、ギャーギャー鳴いても一日に五回までな。』

助かってホッとした。とはいうものの、まだ生かし続けられる自信が無い。怖いのだ。この小さな命をパーカーの中にまるで有袋類であるかのように自分のお腹に包み、静かに眠っている姿を見ていつの間にか夢を見ていた。


あれは幼なかったころ。そう、先に書いた霧雨の小学生のころ。うさぎ跳びで校庭二周していた頃の話。学校からの帰り道にいつものように野原を駆け回って秘密基地に帰り、帽子いっぱいの拾い集めたドングリを机と称した大きな石の上に広げた時、防空壕跡の奥から音がした。


実は学校から『防空壕跡には近づいてはいけません』と指導があったのだが子供からしたらそんなの知った事では無い。ここを秘密基地と決めたら秘密基地なのだ。

何の音?と耳をそばだててみる。「イイイイー!」 何かそんな風に聞こえた。んー、コウモリかな?と思い子供ながらにちょっと怖い気持ちを抑えながら暗い方に石を投げてみると

ミィ・・・ミィ・・・ と今度は確かに聞こえた。 非常に高い音で。


あれ!!ネコいるんじゃない? 仲間と見に奥まで入っていくと父さんの緩くなったランニングシャツみたいなものに包まれて子猫がいた。

僕らは喜んだ。猫を見つけた事に喜んだのではなく、宝物を見つけた!!という感じだ。ここで仲間同士、緊急首脳会談がはじまった。


『ネコちゃん、どうする?』  『みんな!ここで育てようぜ!』『何食べるかな』 『よし!給食のパン持ってこよう!!』子猫である。パンなどまだ食べない。大人は理性的にそう考えるだろうがそこは子供である。子猫が給食のコッペパンをモグモグ食べて元気になってくれると、そこにいる誰もが思った。

『学校戻って、給食のおばちゃんにパン貰ってくるわ!きっとネコちゃんお腹すいてるから!!』

この何の根拠もない発言に全員一致でウンウンと頷いた。それどころか「メロスは必ず帰ってくる!!」と言わんばかりに見送った。

待っても待っても帰ってこなかった。

『あいつおばちゃんに怒られてるのかな?』

『いや、ひょっとしたらパン無くて、家に何か取りに戻ってるんじゃね?』


後日談。そもそもこの基地に全員集合した理由は、テストが帰ってきて「一番合計点数の多かった奴がドングリを全部もらえる」という趣旨だった。その為にドングリを一生懸命集めた事も、テストの点数を見せ合う事も子猫の存在でみんな忘れていた。食べ物を取りに帰った彼は案の定、給食のパンは残っておらず、サザエさんの「お魚咥えたドラ猫♬」というフレーズを思い出して煮干しを取りに帰ったところ、「テスト見せなさい」と親御さんから半ば監禁されて集合場所に帰ってこられなかったのだ。


「秋の日は釣瓶落とし」という。日も沈んで暗くなってきて、気温も下がってきた。秘密基地では別の会談が開かれる。『どうする?』『このままほっといたら死んじゃうかもよ?』『ええ、ネコちゃん可哀想じゃん!』『じゃあ誰か持って帰る?』『・・・ウチ、アパートだから・・・』『俺んち犬がいるから・・・』『私のとこお母さんが猫嫌いって言ってた・・・』


紆余曲折を経て『じゃあ僕連れて帰るよ。僕んち長屋だし、お隣さんも猫いるし。エサ貰えるかもしれないし!!』

『おおーー!!!』と僕はまるでヒーローの様にパチパチと拍手を浴びた。

帰ってこない彼の事はもうみんな忘れている。今は子猫を連れて帰ることになった僕への称賛で、何だか誇らしかった。

どこのおじさんのランニングか判らない布ごと、僕はまるで水がいっぱい入った器から水がこぼれない様に運ぶがごとく、慎重に両手で暗くなった帰り道を歩いた。「あれ、ネコちゃんがおかしい・・」鳴かなくなってきた。


さっきまでミィミィと鳴いていたのに・・子供ながらに確実に弱っている事はわかった。大切に抱えてそれでいて少し足早に家に向かった。少し広めのドブ川をピョンと飛び越え、裏路地を抜けると家までの近道だ。僕はネコちゃんを大切に抱えたまま、親にみてもらおう!と近道で急いだ。

家に近づくにつれ、すっかり暗くなったにも拘らず家が何だか変に明るい。何だろう?経験のない明りにちょっと心躍らせながら家に近づくと黄色いヒモがはってあり、家に入れない。なんだ?この通せんぼは?その周りを沢山の赤い光がピカピカしている。「パトカーだ!!」僕は小躍りして喜んだ。毎日お手伝いして五円を貯めて、トミカのミニカーを買った(実際には買ってもらったのだが)くらい、僕はパトカーが大好きだ。

しかも綺麗な赤いライト(赤色灯)が回っているのを見たのは初めてだ。

『かっっけーー!!!』←格好いい と目をキラキラさせて近づくと警察官に止められた。『ああ、ぼく。この黄色いヒモの中入っちゃだめだから』周りを見ると黄色いヒモの周りを囲むように大人たちがいっぱいいた。野次馬ってやつだ。


そんな事も知らない僕は憧れの眼差しで警察官に言う。

『おまわりさん、でもこれじゃ家に入れない。』

今でも覚えている。

その一言で周りの大人たちの空気が一変した事を。これは子供でも分かった。

図書室で読んだことがある。神様がエイヤ!と杖を振り上げると、海が割れて道ができる。そんな感じに大人達がササーと両脇に離れて道ができた。僕は本を読むのが好きで図書室にはよく通っていたから国語の点数はいつも満点だった。結果ネコちゃんの事があったので忘れておいて来てしまったが

ドングリは僕が全部もらえる!という点数だった。あの本の様に道ができたものだから、まるで神様にでもなったようにちょっと嬉しかった。


『そう、ここの家の子?君名前は?』『かざま りゅうじ です!!』

ここでも褒めてもらいたい気分で元気よく答えたのだが、警察官は暗い顔をして『ちょっとこっちに来てくれる?』とネコちゃんを持った僕の手を引いて黄色い線の中に入れてくれた。『それ、何持ってるの?』『秘密基地で見つけたネコちゃんです。弱ってるからお父さんとお母さんに見てもらおうと思って帰ってきました!』『そっか。パトカー乗ろうか』 


見るだけでも嬉しいのにパトカーに乗せてもらえる!何てラッキーな日だ。そしてきっとおまわりさんがネコちゃんを助けてくれるんだ!!そう思いながらウキウキとパトカーの後部座席に座った。テンションMAXだ。

いろんな見た事ない機械がいっぱいパトカーの中にはあった。無線でゴニョゴニョ言っているのも聞こえる。嬉しくなって後部座席に座って運転席側の機械をジロジロ見渡していた。ふと車外に目を向けると大人たちがこっちを見ている。


『ふふん、うらやましいんだな?』

憧れのパトカーに乗ったという優越感が僕をおかしな気分にさせていた。

どれくらい時間が経っただろう。僕の家でお引っ越し見たいな事がされている。ネコちゃんは大切に手に持っているが、僕の意識はパトカーから見える自分の家の方にいっている。大人の人達はどんどん増えてくる。不思議な事に不安は全くなく、ただただ、「なんだろう?」と思っていた記憶しかない。


僕のお父さんは大阪の人でお母さんは外国人(正確にはイギリスと台湾のハーフで日本国籍)で、名古屋という街に僕たち家族は住んでいる。そしてお父さんが生まれ育ったという大阪という所には行った事がない。だから友達が『おじいちゃんからお年玉もらった』とか『おばあちゃん家行ってきた』とかいう話を聞くと羨ましかった。所謂、親戚というものが僕には無かったのだ。加えて一人っ子で兄弟もいなかった。


いつもならお父さんはまだ帰ってきていない時間。お父さんはお仕事で朝早く家を出て夜遅くに帰ってくる。お父さんが帰ったら玄関に正座してお母さんと二人で「おかえりなさい!」をするのが僕の家の決まりだった。


でもパトカーの中から家をみると、お父さんの大切なスカイラインがある。「お父さん帰ってきてるんだ!!」毎週土曜日と日曜日は家にあるお風呂ではなく、近所の銭湯に通っていた。そこでお風呂上りに飲むフルーツ牛乳がたまらなく好きで、お父さんがたまに早く帰ってこられた時も水曜日以外なら銭湯に出かけていた(銭湯は水曜定休日)

今日この時間にお父さんが帰ってきているという事はフルーツ牛乳が飲めるんだ!! そんな事を考えながら家の方を見ているとおまわりさんが三人、それぞれハシゴに上って何かを下ろしているのが見えた。


子供というのは不思議なもので、興味を持って見だすと他の事は考えられなくなる。おまわりさん三人で何かを下ろしている光景が不思議でそこが自分の家であることも、今自分がパトカーに乗っている事も、野次馬がいっぱいいる事も考えなかった。ただ離れて「何かを下ろしている」事だけに意識を集中していた(昔から視力はあまりよくなかった)


ふと自分が手に持っているものに意識がいった。ネコちゃん!!もう声も聞こえない。さっきまで膨らんでは戻ってたお腹も動いていない。

『おまわりさん、ネコちゃんが動かないの!!』運転席に座っていた警察官に僕はと訴えた。『ん?そうなんだ。あとでもらってあげるから・・・』あとでもらってあげる?この言葉の意味するところがわからなかったが、おまわりさんがそう言ったって事は、「座ってて」という事だと子供なりに解釈した。そのうち遠足などでお弁当を食べるときに敷くシートの青くてすごく大きいものをおまわりさんたちが広げて、僕の家を目隠しした。

「なんだろ?なんで見えなくしちゃうんだろう?そうだ、家に帰らなきゃ」


この不自然な周りの行為にようやく僕は「帰宅する」という本質に気づく。『おまわりさん、僕家に帰らなきゃ。お父さんもお母さんも心配するし、今日はテストを見せなきゃいけないんです。』


『ん?うん・・・』


おまわりさんの返事。え、なんだろ?ネコちゃん持ってきちゃったから僕は警察署に連れていかれて牢屋に入れられるんじゃないかと心配になり『おまわりさん、ネコちゃん持って来ちゃってごめんなさい。可哀想だけどちゃんと元に戻してくるから。お家に帰らせてください』

ベソかきながら僕は警察官に懇願ともいえるお願いしをした。

『んー?ねこちゃんは大丈夫だよー。あとでもらってあげるからー』

再度こういわれた僕はただならぬ恐怖に襲われた。

『なんでおまわりさん、僕を帰してくれないんだろう。あの秘密基地、入っちゃいけませんって先生に言われてたのに入ったからかな・・・やっぱり今はおまわりさん優しいけど、牢屋に入れられて殴ったり蹴ったりされるのかな・・・』


僕は父親から日常的に虐待を受けて育った。普通の子供はグラグラして乳歯が抜け永久歯に生え代わるものだが、僕は虐待で前歯が上も下も無かった。寝ている時に踏みつけられて前歯が全部抜けてしまっていた。

そんな虐待の経験もあり、いま自分の置かれている状況からすごく怖くて痛い事をされる・・・という想像しかできず、しかも相手は父親ではなく警察官という事で、「とんでもない事をされる!!」←(ひどい偏見だ)

と恐怖から身体の震えが止まらず、気分が悪くなってきた。


『ぼく、大丈夫か?顔色悪いな。先に病院行こうか?』

『いえ、大丈夫です・・・』これまた恐怖のキーワードが出た。幼い頃というのは、「病院に行く」ということがとても恐怖だ。病院自体が怖いというのもあるが、親ならいざ知らず、たとえおまわりさんといえども「他人に病院に連れて行ってもらう」というのはとてつもない恐怖なのだ。

言い換えれば耐え難い罪悪感とでも表すべきか。


読者の皆様は幼い頃に車と接触した、自転車で転んだ、道を急いでいて見た目激しい怪我などをして、『大丈夫?病院いこうか?』などと声を掛けられて条件反射的に『いえ、大丈夫です!!』と罪悪感や恥ずかしさの否定感覚で口に出した経験はないだろうか。私は自転車で走っていて前輪から側溝にはまって一回転して転んだ時に、大人の方から『大丈夫?病院行こうか?』と言われ『だ・だ・大丈夫です。すみません!!』となぜこちらが謝らなければならない謂われは何もないのに、「穴があったらはいりたい」一心でお断りした事がある。そう考えると羞恥心なのだろうか。


話を戻す。この時警察官が言った、『ぼく、大丈夫か顔色悪いな。先に病院行こうか?』の『先に』というキーワードがこの後重要になってくるのだが、パトカーに乗せられ最初の誇らしげなウキウキ感から一転、疑心暗鬼➡パニックを起こしてしまっている僕には断る事が精いっぱいだった。どう考えてもこの子供の状況はおかしい。今の自分が警察官でも病院を奨める。


手には子猫の亡骸を持ち、家に帰る事を否定されパトカーに乗せられ、いつもは誰もいない自分の家の周りに大勢の人だかりができ、そしてブルーシートで自分の家を目隠しされているのだ。この先何が待っているのかなんて考える余裕はない、とにかく今が怖いのだ。だってこの時僕は恐怖から脂汗を掻きながら吐き気をこらえ、手に持っている子猫のこと

なんて忘れている。むしろ、「手に何かを持っている」こと自体に意識が無いのだ。それほどの訳の分からないパニック状態である。


やがて女性の警察官が二人来て、僕の両側に座った。僕はパトカーの後部座席で警察官に挟まれた。恐怖はマックスだ。

『ごめんなさい!算数のテストが七十二点だったことはちゃんとお父さんとお母さんに言いますから、お家に帰らせてください!!』


僕は体が小さく女の子みたいな顔をしていたため、よくいじめられた。小学生というのは男子よりも女子の方が力も強ければ口も強く、なにより団結力と正義感が半端なく強い。僕はいつも女子達に守ってもらっていた。

当然男子からするとこの状況は面白くない以外の何物でもない。小突かれては女子に守ってもらい、また陰で小突かれた。前歯がない事でも酷くいじめられ、「入れ歯」とあだ名をつけられた。実際に入れ歯なんて入れてないが、恐らく家庭で子供が見る祖父母が入れ歯を外した姿を想像してのあだ名だろう。子供というのは残酷で正直だ。


僕をいじめっ子から守っていてくれていた女子にお呼ばれされて、僕は女子達の家に良く遊びに行っていた。「いじめられっ子は本が友達」というのはあながち間違いではない。当時は今みたいにスマホやゲームが無かった為、逃げ込める場所が本しかなかったのだ。

僕は三国志が好きだった。中でも「横山光輝先生の三国志」。学校の図書館に置かれている漫画だった。何回も何回も読み、その内には活字の三国志を読み漁った。


その後のブームは「狐狸庵先生こと、遠藤周作先生」の小説だ。これは学校の図書室には無かったので、市の図書館に毎日のように通っては読み漁った。中でも「海と毒薬」は何回も読んだ。判らない漢字は横に国語辞典を置いて調べながら読んだ。こんな日常だったので学校の勉強は別段ノートを書かなくても、教科書にちょいちょいと線を引く程度で各教科ほぼ満点だった。大人が読んでも難しい本を読み漁っていた僕にとって、先生が小学生にわかるように教えてくれる授業は、「次のテストはここね!」と教えてくれている様だった

(決して先生のレベルを云々言うものではない)

だから女子達に人気があった。乱暴で無骨な男子に比べ、弱弱しくも勉強は出来て、先生の言いたい事を子供目線で解説できるからだ。その話を子供から聞いて『風間君、お誕生会に招待したら?』などと女の子の催し(ひな祭りやクリスマス会)等も呼んでもらえた。


男の子が来るとあって、お邪魔するお家のお母さんは娘以上に張り切ってお部屋や廊下もピカピカ、すごいご馳走、ケーキに紅茶など、貧乏長屋の僕には楽園だった。あちこち女子のお家に招待される度、『○○ちゃん、風間君と結婚したら幸せになれるわよ♪』とお母さん達からよく揶揄われたものだ。

そんな状況だったから、「算数のテストが七十二点だったこと」は僕にとっては怒られる以外の何物でもない大事件だったのだ。

それを聞いた両脇の婦警さんは『あはは、大丈夫よ。風間君ね、お熱があるの。いま学校でハクションしてる子多いでしょ?きっと風間君も風邪ひいちゃったのよ。それでお母さんからお医者さんに連れて行って。ってお願いされたから、一緒に行こうと思って。お母さんとおまわりさんはお友達なの。おまわりさんにもきみと同じ年の女の子がいるのよー。』と右の婦警さん。


今度は左の若い婦警さんが『先ずは手に持っているニャンコ、お姉さんが助けてあげてもいいかな?風間君が今から行く病院は、ネコちゃんは入れないの。私や君みたいな人間専門のお医者さんだからね。ほら、食べ物屋さんとかでもニャンコやワンコはいないでしょ?』

気づくと婦警さんが僕の頭をなで、優しく手を握ってくれている。子供というのは単純なもので、一気に全身の力が抜け婦警さんの言葉全てを信じた。

『あ・・・だから今ちょっと気持ち悪いのかな・・・』

『そうそう、だって風間君お熱あって風邪ひいてるんだもの。お姉さん達が特別にパトカーで送ってあげる。お姉さんたちと一緒にいこ♬』


そこからどうやって病院についてどうなったのかははっきり覚えていない。

気が付くと左腕に点滴の針が刺されていて、眠っていたようだ。

点滴は肺炎で入院した幼稚園の時にしたことがあったから、腕に刺されているものが点滴であることは判ったし、自分が寝ているサラサラしたシーツのベッドが病院のベッドであることも理解した。ふと横を見るとさっきの若い方の婦警さんと看護師さんが椅子に座って僕を見ていた。

『あ、風間君良く寝たねー。おはよう!』

『お、おはようございます・・・』何時なのかもわからない。カーテンが閉められているので、外が明るいのか暗いのかもわからなかった。勿論何時間寝ていたのかなんてわかる由もない。ただ、病院というと独特のアルコール的な臭いという固定概念を覆すように、その空間はすこしいい匂いだったことは覚えている。

『お腹すいたでしょう?お子様ランチ持ってきてもらうから、それまでお姉さんがリンゴむいてあげる。いきなりお子様ランチ食べたらお腹がびっくりしちゃうからね(笑)』 


いま考えると不自然極まりない。

病室で入院している子供にお子様ランチ?婦警さんがリンゴを剥いてくれる?そしてなぜ自分はここにいる? 

でもその時は素直に嬉しかった。だって、お姉さんたちが優しくしてくれたから。嫌らしい気持ちではない。

何だかほっとしたような、純粋に子供として(甘えたい)気持ちだったのだろう。


はっきり覚えている。ケチャップベースのチキンライスに爪楊枝で作られた日本の国旗が立ててあり、ハンバーグ・赤ウィンナー・小さいひき肉の入ったオムレツ、その脇にオレンジゼリー。別にパックの牛乳もあった。僕は偏食が無かったしお腹はペコペコだったので一気にたいらげた。もちろん「いただきます」「ごちそうさまでした」はしっかりと言った。


『おぉーすごーい!男の子だねー!えらいぞー、全部食べたね』

なんだか誇らしかった。食事をして褒められることなんて普段ありえない。

『なんだ!その箸の持ちかたは!!』『ご飯粒を残すな!!』と家で叱られた経験ばかりだった。

『はーい、ごちそうさまねー。じゃあお姉さん片付けてくるから待っててねー』

え?家では食べたら自分の分は自分で洗う。なのにお姉さんが持ってきてくれて、食べたら褒めてくれて、お片付けもしてくれる。なんだ?この幸せは・・・。すごく不思議なポワーンとした気分になったのを覚えている。


カウンセラーとして日々過ごしている自分が今考えるに、恐らく点滴の中に少量の精神安定剤が入っていたのだろう。あの時の穏やかで幸せな気分は、きっとそうであろうと推測できる。

『風間君、お風呂入ってないでしょ?お家から着替え持ってきてあるから、点滴終わったらお風呂はいろっか。病院のお風呂って大きいんだよー』


僕は普段通っていた銭湯を思い出した。流石にそこまで大きくなかったが、いつもはシャンプーや石鹸を桶に入れて持って入ったのに、病院のお風呂はそれらが全部揃っていた。お湯に浸かっていると扉の向こうから看護師さんの声が聞こえた。

『風間くーん。脱いだもの洗濯しちゃうから、お家からお姉さんが持ってきてくれた綺麗なお洋服着てねー。お風呂出たらお姉さんと一緒にヤクルト飲もうねー。』

何という事だ!洗濯して脱水機かけて自分で干していたのに、それら全部を代わりにやってくれて、ヤクルト!!給食の時に余ったヤクルトはじゃんけんで取り合いになる。それをお風呂上りに貰える。


精神安定剤の効果なのか、あまりの非日常に脳が追い付いていないのか、僕は幸せいっぱいだった。 


そう、次の日の朝を迎えるまでは・・・


翌朝目覚めると部屋に1人。昨日お風呂あがってお姉さんとヤクルト飲んで学校の話をして・・フカフカのベッドに入って・・何を話していたのだろう。

いつの間にか眠っていた。というより寝かしつけられていた。次の日朝だという事は、カーテンの隙間から太陽の光が差し込んでいたので「朝?」という感覚だった。腕にはまた点滴が付けられていた。


『風間くーん、おっはよー!!』

昨日とは違う看護師さんだ。ニコニコしていて、また違ういい匂いがする・・・

『歯磨きしよっか!終わったら朝ごはん食べようね♬』

僕は上機嫌に『はい!!』と元気よく返事をし、カラカラと点滴のぶら下げられた棒と共に歯磨きした。

『よし!あっさごはん♬』すごく明るく綺麗なお姉さん。

『お姉さんも一緒に食べていい?』即答だった。『はい!!』嬉しかった。ただただこの夢のような日々と優しいお姉さんたちが嬉しかった。朝食も残さず食べ、談話室に

あった横山光輝先生のマンガ三国志を読んでいた時の事。


その時はやってきた。


優しいお姉さんが点滴を外し、僕の手を握ってくれた。ドキドキした。その後ろからコンコンとドアをノックする音が聞こえ、男の大人の人達が何人か入ってきた。お姉さんは

『だーいじょうぶだよ。みんなお姉さんの知ってる人だから♬』 

この一言にホッとしたのを覚えている。

男の大人達とお姉さんは何か話をして、お姉さんが僕に言った。

『風間くん、男の子だねー。お姉さん、手を繋いでてもいい?』

断る理由はなかった。こんなに優しいお姉さんなのだから。

その後、男の大人達はみんな部屋を出ていき、パトカーで両脇に座っていた女性のおまわりさんが部屋に入ってきた。


『風間くんおはよー。』僕は『おはようございます!!』と元気よく答えた。承認欲求だ。

『おっ!元気になったねー!! 今日はね、風間君に教えて欲しい事があるんだー。手を繋いでるお姉さんも一緒に来てくれるから…いい?』

終始明るい会話に僕は迷いなく『はい!!』と答えた。左手はお姉さん、右手はわかい女性のおまわりさん。二人とも温かくて柔らかい手だった。その前をもう一人の女性のおまわりさんが歩く。ほどなくエレベーターに到着した。『さあ、今から四人でエレベーターにのるよー』そう言われて楽しい気分でエレベーターに乗り、おまわりさんはボタンを押した。

上がっているのか降りているのか当時の僕にはわからなかった。ただただ、嬉しくて楽しかった。チーンと音がしてエレベーターが開くと、薄暗くてひんやりした。

『怖い?怖くないよね。男の子だもんねー』

ちょっと怖かったが、お姉さんたちが一緒に居てくれるので大丈夫だった。

『いい、風間くん。お姉さん達一緒に居るからね!』

そう念を押された。

『はい!!』と元気よく答えたのを聞いて

『よし!大丈夫だね!』


そう、言われた。重そうな扉を一番前のお姉さんが開けると、お友達の女の子の家で嗅いだことのある臭いがした。

『お線香?』

僕が口にしたとき、三人のお姉さんは無言でにっこり笑ってくれた。両手を繋いでもらった状態で二つ並んだベッドに近づく。ちょっと怖い。


一番前を歩いていたお姉さんが僕の目線に合わせるようにしゃがんでこう言った。

『風間くん、今からお姉さんの言う事をよく聞いてね。お父さんとお母さん、お星さまになったの。』 


何を言っているのかわからなかった。


僕の両手を握ってくれている二人のお姉さんがギューっと僕の手を握った。


『え?・・・』それを聞いてもまだ意味が解らなかった。

『お父さんとお母さん、お星さまになったの。お亡くなりになったの』「え?・・・お亡くなり???」まだわかっていない。

『ここに風間くんのお父さんとお母さんが寝ていらっしゃるから、お顔見てくれるかな?で、本当に風間くんのお父さんとお母さんか、確認してくれる?』


顔に被せられた白い布が外され、間違いなくお父さんとお母さんがそこにいた。二人とも口が開かないように顎から頭のてっぺんまでタオルのようなもので括られていた。

僕は驚くほど冷静に『はい、お父さんとお母さんです』 と答えた。

『間違いない?』

『はい、間違いありません』

『そっか、ありがとう・・・』

両手をぎゅっと握られたまま、僕はエレベーターにお姉さんたちと乗った。


楽しく朝食を食べた部屋に戻り、まるで何事もなかったかのように三国志を読んでいた。何度も読んだ本なので記憶に残っているが、どの部分をそのとき読んだのか、全く覚えていない。点滴に入っていたのであろう精神安定剤のせいなのか、現実を直視できないほどのショック状態だったのかは分からないが、両親の顔を見た後はお坊さんが小さな陶器の壺が二つ並んだ前でお経を唱えていたところまで記憶が飛んでいる。


もう一つ覚えているのは読経の時にパトカーの中と同じ配列で僕と、女性のおまわりさんが座っていた事、ずっと手を握っていてくれた事、そして。両親との別れなのに全く悲しいとか涙が出るとかいう感情がなかった事だ。

『りゅうじくん、偉いね、強いね、男の子だね。』

この言葉は何も嬉しくなかった。何が偉いのか、強いのか、男の子なのか解らなかったからだ。


結局パトカーに乗って見た自分の家が、最期に自分の家を見た事になった。僕は「骨が入っている」と言われる壺二つと、額に入った両親の写真二枚を持って、病院から児童養護施設に引っ越すこととなった。

全く見ず知らずの、年齢もバラバラの中での生活が始まる。集団生活の中ではごく当たり前に立場の優劣が存在する。僕は新入りだし身体も小さいし、一番下である。最初のころは酷いいじめにあった。昔の様に女子が助けてくれるなんてことは無い。学校ではなく、生活する場所なのだから。


学校ではかばって貰えても、ここではかばってもらえない。毎日が苦痛で仕方がなかった。他に行く当てもなければ、自ら命を絶つという選択肢もない。(当時は子供の自殺が今ほど報道されていなかったし、少なかった)

ただただ卑屈に毎日を過ごすしかなかった。そんなある日、大学の空手部に所属する人達が、ボランティアで施設を周り子供達にプレゼントを配るという催しがあった。風間龍二、中学二年生のクリスマスである。当時の僕は身長が一四四センチしかなく、相変わらずガリガリの痩せっぽちで卑屈に生きる事が処世術だった。目の前にサンタの格好をした屈強な男性達。それなのにどこか堂々としていて凛とした空気感もある。笑ってふざけて僕よりも新入りの子供達を肩車したり、両腕にぶら下がらせてメリーゴーランドの様に回ってみたり。その後には全員純白の道着に雪のちらつく中、上半身は裸、足は靴も靴下も脱いで素足で、空手の演武を行った。


『格好いい・・・』 思わず口に出た。

『んん?そう思うかい?(笑) 一緒にやってみようか!』

見様見真似だったが、自分の中で何か変わるような気がして、大きな声を出して一緒にやらせてもらった。

『おおー!!元気のいい声だ!! でも、もっと声出るだろ?(笑)』

屈強な男性の中でも一番小さい男の人が僕にそう言った。続けて、

『いいかい?空手はからっぽの手と書いて空手というんだよ。相手が武器をもっていても、こちらが女性でも子供でも、負けない強い精神力と心を鍛えるものなんだ。声を出す時はおへその下あたりにグッと力を入れて一気に爆発させる感じで 押忍!! と出すんだ。その前に息を整えて全部息を吐ききって、もう限界ってなったら吸って、声を出す。やってごらん!』


僕は言われた通り、愚直に実践した。呼吸を整え、肺にあるすべての息を全部吐ききり、ゆっくりと大きく息を吸って、おへその下あたりにグッと力を入れて『 押忍!! 』と発した。

自分でも出した事ない所から声が出たような感じがした。例えるなら自分の中の何かが『パン!!』と大きな音を立てて弾けたような感覚だった。周囲が静まり返った。なるべく目立たない様に卑屈に生きてきた僕が目立つことをしてしまった。また後でいじめられるに違いない。

一瞬でそんな事を考えて思わず下を向いた。


『君、すごいじゃないか!! 初めてなのに息吹が出来てるぞ!!』

『イブキ・・・ですか?』後に空手の段位に座り、この息吹を子供達に教える事になるなんて全く想像なんてできない自分がそこにはいた。

『君、空手やってみないか?』

『無理ですよ。僕小さいし・・・』

『男の子の体が大きくなるのはこれからだ!よし、上着脱いでみろ』

『嫌ですよ、寒いし。。何で僕だけこんなところでもいじめられなきゃいけないんですか!!』


そういうと、『やっぱりか・・・』とその若い空手家は僕に言った。

『いいかい?僕が上着を脱げと言ったのは、恐らく君が日頃からいじめにあってて、身体のアザや傷を確認したかったからだ。ほら、脱いでごらん』

それを聞いて「この人達なら自分を助けてくれるのではないか・・・」と思い、言われたように服を脱いだ。上半身アザだらけ。カッターナイフで切りつけられた傷や、画びょうを押し付けられてできた傷など。顔を狙うと傷が目立つから、いじめられるときはいつも上半身や下半身で。だから顔には傷がないのだ。この事を空手家は見抜いて見せた。


『君の弱さは体形じゃない。心が弱いんだ。心の強さとは誰かに勝つ!とは違うんだぞ?自分自身に勝つ。誰かを守る。守らなければならない時に守るんだ。究極の武道とは闘わない事だ』

僕はこの言葉に心臓を貫かれた思いがした。両親を早くに亡くしてそれを負い目に感じて生きてきたわけではない。ただ、自分自身に誇れるものが何もなかったのだ。だから自信というものがなかった。

何も持たずに心を鍛え、「究極の武道は闘わない事」これしかない!!


クリスマスの夜、僕はこの空手家の居る大学の部室を訪ねた。皆さんはクリスマスサンタコスチュームの片づけをしていた。

『おおー!!早速来たのかい? おーい、みんな来てくれ!新しい仲間だ』

「新しい仲間・・・」こんな卑屈に生きてきた中学生をそう呼んでくれた。身が震えた。寒さからではない。僕にも仲間ができた!という喜びである。

『仲間になったからには辛い事・嬉しい事全部話してくれないか?』

彼はそう言うと、部室に居る屈強な空手家達を全員正座させた。


『ああ、君は椅子に座って(笑) 僕たちが君に教えてもらうんだから』

何の臆面もなく彼は言い、部員総勢座して真剣に聞こうとしてくれた。

僕は喋った。思いの丈を泣きじゃくりながら喋った。あの時涙が出なかったのに、仲間と呼んでくれる彼ら先輩の前では感情が素直に出た。僕が人間に近づけた瞬間だったのだと思う。座して聞いている彼らも主将をはじめ、話を聞いて一緒に泣いてくれた。


中学生になって現実を知った。

・両親が借金を苦に首を吊って自殺した事。

・その時に子猫を助けられなかったこと。

・それを知らされずに病院で看護師さんに優しくされて喜んでいたこと。

・両親の死に顔を見ても涙も出なかったこと。

・施設で受けてきたいじめのこと。

・いじめが怖くて卑屈に生きる道を選んできたこと。

・同級生から新聞配達で稼いだ生活費をカツアゲされたこと。

悔しかった事、悲しかった事、全部話した。


十九時半頃から気づいたら二十二時くらいまで話していた。

二時間半である。誰一人足を崩さず一緒に泣いて聞いてくれた。


自分の居場所はここしかない!と人生で初めて自分で決めた瞬間だった。

『よし、ミット持ってやる!おもいっきり悔しさぶつけてみろ!』

ひたすら叩いた。ひたすら蹴った。何度疲れて転んでも起き上がり積年の恨みとばかりに叩いて蹴った。素人の攻撃とはいえ、零時過ぎまで彼らは付き合ってくれた。僕の拳の皮はズルズルに剥け、足の甲も腫れた。でもとても清々しい気分だった。もちろん怪我の処置は彼らがしてくれた。


『今はそれでいい。でもな、君の拳には恨みや憎しみがある。明日から通って心を磨きなさい。手足が治るまでの間、ちょうどいい。みんな、仲間をよろしく!!』

また「仲間」と言ってくれた。嬉しくて涙が止まらず鼻を垂らしながら渾身の声で「押忍!よろしくお願いします!!」と僕は叫んだ。

こういう時いじめっ子に対して「俺には強い仲間がいるんだからな」となりそうなものだが、僕には一切そんな気持ちはなかった。ただ、己を磨き心を鍛え、人間として強くなりたかった。


空手を始めてから一週間で不思議な事が起こり始めた。僕は空手を教わっているなんて一言も口外していない。それなのに、誰にもいじめられなくなった。ふと主将の言葉を思い出した。

『いいか龍二。武道家は心に一本の信念というドスをのんでいる。人の役に立ちたいでもいい。誰かにやさしくありたいでもいい。自分の為ではなく、他人に優しくなれ。全てはそこからはじまる。』


空手を始めてから当時お世話になった婦警さんを訪ね、子猫の事を聞いた。子猫は結局あのまま息絶えて、婦警さんが埋葬して簡易的なお墓を作ってくれていた。僕は初めて「救ってあげられなくてごめん。もし君が生まれ変わってまた出会う事があったら、絶対に救って見せるから」と手を合わせた。


毎日毎日、学校に行く前の早朝新聞配達と帰宅後の夕刊新聞配達を最初は自転車、だんだん急ぎ足、そのうち走って行うようになった一四四センチしかなかった身長も中学三年生の頃には1八〇センチ・八〇キロと見事に鍛え上げられた肉体に変貌を遂げた。空手の全日本大会で優勝し、毎日欠かさず正座して心の鍛錬を欠かさなかった。それを誰よりも喜んでくれたのが、当時の主将だった。


そんな恩師ともいえる主将にある日悲劇が訪れた。

歩道を歩いていた主将のところに、飲酒運転の車が突っ込んだのだ。

『二~三日が山場です・・・』と聞かされた僕は急いで駆けつけた。

そこで主将から聞いた最後の言葉。

『今度は子猫を助けてやれ・・・』

数年前に話した言葉をちゃんと覚えていてくれた。そしてその言葉には非常に深い意味があった。


『己の心身を鍛え、見返りを求めず迷いなく命の為に動け!』だ。

車が突っ込んだとき、集団登校していた小学生の列に飛び込み、小学生たちを己が弾き飛ばして車の直撃から守った。とっさの判断だ。

後日僕は主将の墓前に手を合わせ、貴方のような人間になります!と宣言してきた。


中学を卒業するのと同時に、僕は空手から離れた。嫌になった訳ではない。 破門になったのだ。

もうすぐ中学を卒業しようかという冬の雪がちらついている日だった。

それまでアルバイトは新聞配達だけだったが、中学に入ってからは某ファーストフード店の厨房で二十時まで勤務していた。もっと遅くまで働きたかったが、「中学生の勤務時間は二十時まで」という決まりがあったのだ。


『お疲れさまでした、お先に失礼します!』そう言って僕は自転車を走らせた。帰り道の途中にはボーリングとゲームセンターが一つになった大型複合施設がある。僕は行ったことが無かったが、施設の周りを取り囲むように大きな駐車場があって、僕が帰る時間はまだ大勢の人がいた。


いつもと変わらないあの日。帰り道に爆音を立てて騒いでいる人達が駐車場にたむろしていた。「暴走族か、関わりたくないな・・・」僕は脇を何も見ていないように通り過ぎようとした。単車は五台あり、七~八人いたと思う。シンナーの臭いがプンプンして頭が痛くなりそうだった。

彼らは大声を出してゲラゲラ笑いながら騒いでいる。

「誰か通報すればいいのに・・・」そんな事を思いながら通り過ぎようとした時、


『やめてください!返してください!!』

女性の声が聞こえた。

『〇※△☓・・・!!』たむろっている人達はシンナーのせいか、何を言っているのかわからなかったが、女性が二人絡まれている事はわかった。

『やだー、誰か助けてー!!』

寒空の下、女性が群がっている男達から無理矢理コートを脱がされているのが見えた。見て見ぬ振りは出来なかった。僕は自転車を止め間に割って入り、女性二名をその場から引き離した。二人はそのまま振り返らず泣きながら去った。

当然何事もなく去れる状況ではなく、『てんめー!!このやろう!!』と囲まれた。


日頃から一〇人相手に毎日稽古してきた僕にとって、恐怖感はなかった。

『あのー、帰らせてほしいんですけど・・・』

丁寧に言ったつもりだったが彼らはその言葉に『てめー、なめたことぬかしてんじゃねーぞ!!生きて帰れると思うなよ!!』と返してきた。

「生きて帰る、それ程の事でもないだろう。」なんて考えていたら後頭部を木の棒のようなもので殴られた。木刀だった。頭から顔にかけて生温かいものが流れるのがわかった。それに関しては「殴られたか」という位だったが、逃げたはずの女性が1人、逃げる途中で転んでしまったのか暴走族の二人が馬乗りになっていた。これを見た僕の理性は吹き飛んだ。

急いで駆け寄り男二人を引きはがした。そこまでは覚えている。


ハッと気が付くと暴走族は全員倒れて呻いている。ある者はあらぬ方向に腕が曲がり、ある者は血の泡を吹き、そしてある者は両足の太ももから骨が折れて飛び出していた。 

僕がハッと気づいたのは大きな爆発音がしたからだ。所謂ブチギレ状態で暴れまわっているうちに単車が倒れ、ガゾリンタンクから燃料が漏れて、彼らの吸っていたタバコの火によって引火・爆発したのだ。周りは騒然となった。パトカーに続き、消防車救急車が何台も到着した。床に倒れている者達は救急車で運ばれ、僕は救急隊員に頭を止血してもらった。消防車放水により爆発炎上した単車は沈火され、ブルーシートで覆われた。


僕はパトカーの中から見た自分の家の光景を思い出した。 そんな時、おもむろに僕は警察官によって両手を後ろ手にされ手錠を掛けられた。

「え?なんで??」そう自らに問いかける間もなく羽交い絞めにされ、パトカーに押し込まれた。今から思えば仕方ないのかもしれない。まともに立っているのは僕しかいなかったのだから。あとは全員倒れて重傷を負っている。通報を受けて駆け付けた警察官からすれば、僕も彼らと同じくシンナー常習者とも見えるし、暴走族同士の抗争にも見えただろう。僕は女性を助けた訳だが、それを立証してくれる女性は居ないし、周囲は血の海・火の海。そこに両手両足血まみれで1人立っている人間が居たら、その人間を拘束するしかないのだ。


『署で詳しく取り調べをするから暴れるな!おとなしくしろ!!』

『いや・・暴れませんよ。それよりこれ、外してくれませんか?』(手錠)

『お前みたいな凶暴なヤツ、外せるわけないだろう!!』

そうか・・・僕は狂暴なヤツに見えるんだ・・・。


空手とは「空っぽの手」と書く。読んで字のごとく全身が凶器なのだ。アドレナリンの分泌で痛みを感じる事無く暴れまわった結果、パトカーに乗せられて冷静になってみると殴られた頭、歯の突き刺さった拳、途中何かで殴られたであろう、あばらも何本かやられているっぽかった。

十時間ほど警察署で取り調べを受けた。

最初は「女性を助けた」と言っても全く信じてもらえなかったが、一部始終を見ていた近所の人が情報提供してくれたようで、途中から「過剰防衛」に切り替わり取り調べをうけた。


警察の聞き込みにも『彼は女性を助けた。彼が先に後ろから殴られた』と伝えてくれたようだ。加えて『彼が1人で全員をぶっ飛ばした』と鼻息荒く話してくれたようだ。素人のケンカではあそこまで酷い怪我はしない。武道の心得がある者が行った結果であると断定された。警察組織の中にも護身術として空手がある。流派は違えども、運ばれた怪我人の状態を見れば判る。

多人数戦闘に慣れている武術家が的確に動けない様に急所を狙っていたと・・・


これで「暴走族同士の抗争」という汚名は晴れ、シンナーも検出されなかった為、僕の無実は証明された・・・かにみえた。「暴走族同士のケンカ」が「空手家による残虐な暴力」に変わっただけである。多勢に無勢だった事から傷害罪は免れたものの、過剰防衛には違いない。結果多くの重傷者を出し、単車火災を引き起こしたのである。

そして孤児の養護施設で生活している者だ。この偏見からは逃げられない。僕は現実だけを淡々と話し、言い訳は一切しなかった。それが武道家のあるべき姿だと思っていたからである。勿論、正気を失った状態で詳しく思い出せないという方が正解であるが。


僕の身柄は警察内留置所に送られ、身元引受人として養護施設の園長が名乗りをあげて諸々の書類が完成し手続きが終わるまでの間、1週間留置された。「正義の為に見て見ぬ振りは出来なかった」正論だ。

が、やりすぎた感は否めない。ご近所様に類焼していた可能性もあった。

僕は施設の園長とご近所様の家々を、騒動について謝ってまわった。そして久し振りに空手道場の敷居を跨ごうとした時、師範から破門を突きつけられた。

『二度と敷居は跨ぐな!!正義と暴力は違う!!』

そんな形で僕は空手から離れる事になった。引きはがされる事になった。

やっと見つけた自分の居場所。それが突然に奪われた。

自分の行いによって破門になったのだが、「悪漢から女性を守った結果」なのだから、『良い行いをしたのになぜ!!!』という怒りが僕を歪んだ正義に向かわせた。


僕がぶちのめした彼らが退院した後に、

《ホワイトエンジェルズ》

という全く非公認の団体をつくり、「シンナー吸引の撲滅」を図った。

僕は高校生になっていた。仲間たちや後輩達・他の団体にまでそれらを徹底させるべく、力を行使した。

他にも「単車に乗るときは必ずヘルメット着用」や「先輩に対する挨拶の徹底」、「町の清掃活動」など、一銭の稼ぎにもならない事を僕にやられたヤツらを筆頭にやらせた。もちろん自分が筆頭としてまとめていた。


こう書けば随分と殊勝な心掛けで行動しているように聞こえるが、周囲の目には「暴力事件を起こした少年が新たに悪い奴らと徒党を組んで何かしている」と写っていた。「シンナー吸引の撲滅」は一般人からすれば関係ない事だし、「単車に乗るときは必ずヘルメット着用」だってウルサイ単車が走っていることに変わりはない。「先輩に対する挨拶の徹底」もおいおい、ヤクザ気取りかよ・・・と写り、「町の清掃活動」も危なそうなヤツが街をうろうろしていて迷惑。清掃活動と言いながら、縄張りを主張しているのではないか。

だってリーダーはあの暴力少年だ! と方々で言われた。東大ポポロ事件のような大規模な学生運動ではない。たかだかちょっとひねくれた高校生が正義感を振りかざしているだけの話である。


やっている事は暴力少年が不良少年達のリーダーとして君臨した。ただそれだけである。それこそ暴走族のリーダーそのものだ。自らも単車に乗って救急車の為に道を開けさせたり、タカリやイジメの撲滅活動など、町の治安維持に活躍していると本気で思い込んでいた。やっている事は自己満足ではた迷惑な行為である。爆音を立てて走りどんどん膨れ上がる組織の頭として君臨し、絶対的な権力を行使し、自らを正当化して・・・まったく、あの頃の自分をぶん殴ってやりたい。


転機が訪れたのは「公園で女性が襲われている!」という情報が舎弟から入った時だ。

『絶対に許せねぇ!』

と単車を飛ばし、公園についてみると、ぼろ雑巾の様にされた舎弟がいた。  『おい、誰にやられたんだ!!』

『あ・・・アイツでふ・・』前歯が折られ左顎が砕けているようだった。

指さす方を睨みつけると長めのポニーテールをしてジャージ姿の女性。


『お前ふざけるな!誰にやられたんだってきいてんだよこの野郎!!』

『総長、だからあの女でふ・・』いつしか僕は総長と呼ばれていた。

『おい、こいつがあんたに何かしたのか?』

『いや、バイクがうるさかったからぶっとばした(笑)』

『やられたことは水に流す。俺は女・子供には手を挙げないんでな』

本気で言った。女性や子供に暴力をふるう男は最低だという自分ルールがある。

『そ、、そんな、、総長、、、酷いでふ・・・・』

舎弟の言葉に

『うるせえよ。女の子にボコられやがって!ホワイトエンジェルズの面汚しが!!』


そう言い放った刹那、すごい殺気と共に回し蹴りが飛んできた。腐っても武道家の有段者だ。これだけの殺気で蹴り込まれたら気配で判る。咄嗟に身体が反応した。顔面に向かって蹴り込まれた脚を振り返りざまに僕は右腕で受けた。内受けという空手の守りの型だ。

『あんたねぇ!何が面汚しだよ!自分は何もしないくせに!総長?わらわせるなっての(笑)臆病者が女・子供に手は挙げない?今あげてるその手は何だよ?挙げないんだったら大人しく蹴られとけ!!』


この女性の言うとおりだ。咄嗟とはいえ僕は自分ルールを破ってしまった。空手では受けも武器になる。全身凶器なのだ。

『すまなかった、君の言うとおりだ。今度は受けない、蹴ってこい』

言うが早いか、彼女の足は僕の頭の上を通過した。僕は一八〇センチ、彼女は見たところ一六五センチくらいだろうか。その身長差で僕の頭の上を超えたのだ。

『あんたみたいな腑抜けた男を蹴ったら、脚が腐るわ!ほら、土下座して謝ったら許してやってもいいけど?(笑)』 ・・・


僕は土下座した。

『すいませんでした。コイツを許してやってください・・・』

そう言ったところで思いっきり顔面を蹴り上げられた。鼻の骨が折れたのがわかった。

『ふざけんじゃないよ!!コイツを許す許さないじゃなくて、アンタ達、臆病者の集まりを許さないって言ってるの!!!』

『・・・なんだと?』 

自分は正義だと思っていたのでこの言葉には黙っていられなかった。

『おい、今の言葉取り消せ!』

『嫌だね!子分がやられて土下座して女に謝るような情けない臆病者が!』

『俺の事は何を言っても構わんがこいつらの事は悪く言うな。取り消せ!』

『笑える!毎晩爆音立てて正義のヒーロー気取ってると思ったら、僕が俺になったじゃん!なあに?本性現したってわけ?』

『いいから取り消せ!!』

『嫌だね!!もう二~三発蹴ってやろうか?』

『俺を蹴る分には構わん!』

『あんた蹴ったって面白くないじゃん(笑)そっちの倒れてるヤツを蹴ってやるよ(笑)』  

『馬鹿!!やめろ!!』


・・・遅かった。舎弟は顔面から血を噴き出して仰向けに倒れた。

『おい、お前どこの者だ! 流派は何だ!!』

『なんで臆病者のあんたにそんな事言わなきゃならないのさ(笑)』

『空手家なら空手でケリをつける。どこの道場だって聞いてるんだ!』

『あんた、うちの道場に道場やぶりにくるつもり?笑える!私なんかペーペーだから、あんたなんかボッコボコにされるわよ(笑)』

『ごちゃごちゃ喋ってねぇで、どこか言え!!』

流石の僕も殺気立った。その気配を彼女も感じて

『へぇ、面白いじゃん。着いてきなよ(笑)』


僕は舎弟に『すまん。ケリつけてくる!』と言い残し彼女に着いていった。

『臆病者が!着いてこられるもんなら着いてきてみな!』

そう言うと彼女はすごい勢いで走り出した。単車で走っていたから何となくだが距離は推測できる。五~六キロは走っただろうか。息はかなり上がった。

『へぇ、あんた着いてこられるんだ(笑)ただの馬鹿じゃないんだ(笑)』

この女性はどこまで僕を挑発するのか。僕はやり方は間違っていたかもしれないが、正義の為にやってきた。暴力事件の後バイトもクビになったが、毎日朝刊配りの新聞配達は欠かさず走ってやってきた。タバコも吸ってないし、もちろんシンナーなんて吸ってない。それくらいの体力はある。


『着いたよ。入んなよ』 

そこは空手道場だった。活気のある声が聞こえた。汗と床の木の臭い。サンドバックには乾いた古い血の跡がある。僕も何度も皮がめくれて出血してはかさぶたになり、また出血しては・・・を繰り返して、拳の皮が硬くなるまでサンドバックを叩いたものだ。非常に懐かしいし、この空気がたまらなく好きだ。

破門になったとはいえ僕も武術家だ。靴を脱ぎ揃え、靴下を脱ぎ服装を整え脱いだ服で流れる鼻血を拭き、上半身裸の状態になり、敷居をまたぐ前に座して

『押忍!失礼します!』

と一礼した。さっきの土下座とは違う。武術家としての礼だ。稽古をしていた門下生さん達が静まり返った。


『よう、来たかね、暴力少年(笑)』


そう言いながら道場で一番の師匠と思われる人が近づいてきて僕の前に正座した。

『押忍!失礼します!』

僕はまだ敷居をまたいでいない。子供の頃に女の子の家にお招きされた時と同じだ。「入っていいですよ」とお許しが出ない限り、敷居はまたぐべきではない。


『ほう・・・礼儀は判っているとみえる。顔をあげなさい』


『押忍!!』

僕が顔をあげると折れている鼻をつまみグイッを曲げられた。あまりの痛みに『クッ!!』と声は出たが、そこは僕の負けん気がそれ以上の声を出させなかった。

『へぇー、肝も据わっとるな(笑)鼻は真っ直ぐになったぞ。止血してやるからしばらく待ちなさい』

『押忍!!』

真っ直ぐにしてもらえたとはいえ、出血は酷くなった。

『おい、茜!彼にタオルを持ってきてあげなさい。』と師匠。


『えーー!何でこいつにそんなことしてやらなきゃいけないの?』と女性。

『師範としての命令だ。返事は押忍だ、馬鹿者!!!』師範が叱責した。

『押忍!!』さっきまでのじゃじゃ馬娘が僕の前に正座し、『どうぞ』とタオルを持ってきてくれた。

『止血するまでそのタオルで鼻根部を抑え、止血しなさい。』と師匠。

『押忍!!ありがとうございます!!』タオルはすぐに血まみれになった。

『よし、ちょっと痛いぞ!』そういうと、止血剤のついたカット綿を両鼻に詰められた。そりゃあ痛かった。まるでワサビを突っ込まれた感じだ。それでも声は出さない。その代わり鼻だけに涙は出る。僕はしばらくタオルで顔を覆い、涙は見せないようにした。


『あはは!それ、痛いだろう(笑)どこの悪さ坊主とケンカしてきた?』

まさか土下座してお嬢さんに蹴り上げられて・・・なんて言えない・・。

『押忍!!ランニング中に躓いて転んで顔から落ちまして、お嬢様に助けてただきました!!』 

『どこでだい?』

『押忍!〇△公園です!』

僕は正直に答えてしまった。しまった!!と思った時には遅かった・・・あそこからここまで五キロくらいあるだろう。


『汗びっしょりだな。娘のロードワークに着いてきたのか?』

『お、押忍!!』

『ふーん(笑)』

師匠はお見通しだ。何よりも娘の言動がそれを物語っていた。

『何でこんな奴に!』というキーワード。血の付いたランニングシューズ。だからタオルで娘が言い返した時に武術家として師匠は叱責したのだ。


『君の事はいろいろニュースとかで知ってるよ。気持ちは間違ってないし、その想いもわかる。でもやり方が間違っていたことはわかるか?』

もう、ウンもスンもない。

『押忍!自分は良くしたい!と思い信念を持ってやってきました。しかしながら先程お嬢様から「人様に掛けている迷惑」について教えて戴きました。走りながらそれを考え、行動方法が間違っていたと考えました。押忍!』

『そうだね。空手の拳は正義の拳。一切の見返りを求めず、己を磨き、最終的には闘わなくても治められる境地に辿り着くための試練なんだよ』


「ああ、この人はあの時亡くなった僕の兄弟子と同じことを言っている」すごく嬉しかった。

『素人ではなさそうだから、ちょっと道着きて見せてくれ。おい、道着!』

そう師匠が声を掛けると、さっきのお嬢さんが『押忍!どうぞ!』と持ってきてくれた。さっきとは大違いだ。

『押忍!今ご用意できるのは師匠の道着と新入生向けの白帯しかありません。』

『押忍!!結構です。道着を着られるだけでも幸せです!』

僕は着替えていきなり黒帯の有段者と対戦する事になった。


『まずは茜、行きなさい!!』

『押忍!!!」かなりの気合いだ。

『うちはフルコンタクト空手だ。防具必要かね?』

『押忍!私は必要ありませんのでお嬢さんにはお願いします。武術家として立ち会うからには、手抜きは失礼です。私もしっかりとやりますので』

『わかった茜、防具を付けなさい』

『えー!私が??』

『お前はこの少年との力の差がわからんのか!!さっさと付けろ!!』

『押忍!!!』立ち合いが始まった。僕は渾身の息吹を入れ、戦闘態勢に入った。

『待てっ!!』僕の雰囲気が大きく変わった事に師範は気づいた。そして娘に打ち込ませることを【 危 険 】と判断し止めたのだ。 女性は止まった。

『なあに?いいよ、言われた通り防具付けてるし!』

対して僕は防具の着用を断った。それは自分の空手が防御を攻撃とする、判り易くいえば、(受ける)こと自体が攻撃なのだ。

「刃物に向かって蹴るのと同じくらいの危険性」といえば判り易いだろうか。師匠は僕の構えを見て、止めた。その判断は的確だったと思う。


『いいから見てて! 防具もつけない様なふざけたヤツ!さっき私のケリで鼻を曲げてやったんだから!!』

彼女自ら暴露した。僕から言うつもりはなかった。何故なら武術家として「無抵抗な者に拳や脚を向けてはならない」と、教わってきたからだ。暴走族相手に暴れた時は、怒りに任せてこの教えに反した。記憶に無いとはいえ、これでは武術家失格だ。それを分かっていたから僕は言わなかった。


『そうか、やっぱりか・・・』

そう言うと師範は僕たちの元に静かに歩いてきた。ゾクッとするほどの気迫である。僕は咄嗟に構えた。『このバカタレが!!』

そう言うや否や、師範は娘を壁まで投げ飛ばした。顔面を守るフェイスガードが外れて吹っ飛んだ。周囲も唖然としている。


師範がすっと僕の視界から消えた。立っている僕の前で正座をしたのだ。僕もあわてて正座した。礼儀である。そして師範はこう続けた。

『礼儀も知らんバカ娘が大変失礼な事をしました。親ばかだと罵られてもいい。もし娘の行いを許してくれるのなら、私は師範の座を降りる』と首を垂れ土下座された。


『なっ!!!』 

娘さんも周囲の稽古生も呆然としている。僕にはこの言葉の意味、そして師範の想いが痛いほど判る。親はなく、自分が信じた行為を過剰防衛暴力と言われ、更に正義だと思って

やってきたことが結果的に地域住民に迷惑を掛ける結果になった。お嬢さんが僕に対してやった行為はまさしく「無抵抗な者に対する暴力」なのだ。そこに空手の道は無かった。僕は一歩下がり師匠に言った。


『押忍!師匠、頭をあげて下さい。大変失礼な事を申し上げます。私には幼い頃から親がおりません。重ねて信じ続けてきた空手を裏切り、破門になりました。誠に勝手ながら、もしお許し頂けるのであれば、師匠の空手を私に教えて戴けませんでしょうか?何卒、私に空手に触れるチャンスを与えてください。白帯の一番下から修練致します。』

僕は深く首を垂れ、懇願した。師匠は厳しい顔で僕に言った。


『君の事は知っているよ。空手連盟の中でも大騒ぎになったからね。私は女の子たちを救った君の行動を一概に悪だとは思わない。武術家としてあの人数相手に素手でよく立ち向かったと思う。一つ確認させてほしい。空手連盟の中で最後まで明らかにされなかった真実・・・正直に答えてくれるかな?』


僕はごくりとつばを飲み込んだ。凄まじい気迫に押し倒されそうだった。師匠は優しい目で僕に言った。

『君は最初に攻撃を受けたのだろう?』

僕もその思いに応えるべく、真っ直ぐに師匠の目を見て言った。

『はい。木刀で後ろから頭を割られました。』

師匠は続けた。

『なぜその事を言わなかったんだ?まあ、あそこまでやってしまったら言った処で結果は同じだったとは思うが。なぜ言わなかったんだい?』

『武術家として対複数人相手の稽古をして段位を取得している以上、素人の不意打ちで頭を割られたなど、恥ずかしくて言えませんでした。』


『そうか。それが君の答えと願いなのだな。わかった。重ねて娘の愚行は詫びさせてくれ。そしてこの道場は空手連盟に属していないから公式の大会等には出られない。それ故、流派の違う者を拒まない。それでも良いか?』

『押忍!宜しくお願いいたします!!』

僕はそう言い深々と頭を下げた。


師匠は一転ニッコリと笑顔で僕の手を取り立ち上がって大きな声で言った。

『いいか!ここに流派は違えども純粋に空手を好きな達人がいる。彼の段位は私より上だ(師匠は三段、僕は四段だった) その彼が一から空手をやると宣言した。この申し出に文句のあるやつはいるか?』


二人手を挙げた。 お嬢さんともう一人の男性である。後にこの男性が道場の準師範だと知る。

『納得いかないねぇ!一方的に止められて投げられて、男同士の話で和解だって?いくら父親と言えどもそれは違うんじゃないの?』 とお嬢さん。

『自分もです!どこの馬の骨か知りませんが、あの暴力事件のヤツですよね。空手を暴力に使うような奴を自分は認めません!!』 と男性。

二人の言う事はもっともだ。それを聞いて僕は道場を立ち去ろうと思った。


『じゃあよう、お前ら風間君と立ち会え。それで負けたら認めろ(笑)』

師匠が悪い顔で笑っている。「この人もヤンチャしてきた人なんだな」

『上等だよ!私がぶちのめしてやるよ!!あんた公園で女・子供には手を挙げないなんて格好つけてたけど、試合となったら別だよなぁ?』まったく血気盛んな女性である。


『そうだね、試合となれば別かな。押忍!師匠、私に防具を貸してください。ケガをするかもしれませんので。』

認めなかった二人と稽古生たちはクスクス笑った。『ケガだってよ(笑)』

師匠は判っていた。僕がケガをさせてしまうかもしれないから防具を欲した事を。

『おい、俺の防具持ってこい!!』

師匠が準師範にそう命じた。「なに!」という顔をしながらもそこは師範の命令だ、彼が持ってきてくれた。


『押忍!ありがとうございます』そう言って受け取ると防具を身に着けた。

『押忍!師匠!身体が冷えてしまいましたので柔軟だけやらせてください』

『ああ、構わんよ。お前らも柔軟やっとけ!』本当に悪ガキの表情だ。

柔軟が終わって一息つき師匠の目を見た時、ニヤリと笑って師匠が言った。

『俺が審判をやる。風間君は君の流派でやればいい。急所攻撃以外オーケーだ』


この『風間君は君の流派でやればいい』という言葉が僕に全てを悟らせた。

(ああ、ぼくの流派は剛柔。受けこそが最大の攻撃。それでいいという事は、打たせ蹴らせてそれを受け、倒せということか・・・)と。

『あんた、手加減なんかしたら許さないからね!!』

『よく喋る女の子だな。黙って掛ってこい』もう僕のスイッチはオンだ。


『はじめ!!!!!!』師匠が咆哮したのを合図に彼女は蹴り込んできた。

(どういう空手なのか・・・)興味のあった僕は時間にして一分程、全てかわしつづけた。(うん、綺麗な空手だなぁ)そう思いながらかわした。

『あんた何なのよ!打って来なさいよ!!』相当イライラしているようだ。


僕は師匠の顔をチラリと見た。師匠は僕に笑顔で頷いた。フーーーーと息を吐き、吸えるだけ吸って『コォー!!』と息吹を入れる。「ここから鉄壁ですよ」という合図の様なものだ。僕はサンチンで立ち、廻し受けの構えで立った。こうなると下がらないし攻撃も避けない。全て攻撃は受ける。そして受けた事により相手が痛い思いをするのだ。それが(剛柔)である。

息吹に一瞬ひるんだものの、彼女は顔に向かって蹴り上げてきた。「パチン」と弾く。今度は中段突き。「パチン」、「パチン」、「パチン」と冷静に見極めて弾く。

『おいおい風間君、遠慮はいらんよ(笑)』師匠が笑いながら言った。でも目は座っていた。「思い知らせてやりなさい」と僕は受け取った。コクリと頷き、再度構えに入る。次は受ける! 上段廻し蹴り、受けた。


『いったーーーい!!』彼女はうずくまった。毎日竹刀や棍棒で叩かせて磨いてきた受けは伊達じゃない。どこで受けるのか、どこを当てるのかもちゃんと見切って受けているのだから。

『何だぁ?もう終わりか?(笑)』師匠が楽しそうに笑っている。彼も僕と同じ空手馬鹿である。異種交流が楽しくないはずがない。寧ろ好きだ。

『風間君、折っちゃっていいぞぉー(笑)』

いやいや、娘さんだぞ?でも彼女が僕にしでかした事に師匠は土下座されたのだ。怒っている・・・


『おい、立て、試合だぞ?』そう言うと僕は再び構えた。彼女の空気が変わった。本気になった。それならばこちらも本気で受けよう。

上下二段廻し蹴りからの下段突き。この三連撃を全て受けた時、倒れていたのは彼女だった。もちろん折ってなどいない、そこは正直加減した。でもそれで充分だと思った。何より師匠が笑顔だった。


『はい、そこまで! 次、加藤だな』準師範は加藤さんというんだ・・・

こちらは最初からやる気モード全開だ。気が満ちている。噛みつかれそうな空気だ。『はじめ!!!!!!』と同時に彼も打ってきた。流石にお嬢さんとはスピードもパワーも違う。でも何だろう。全然恐怖を感じない。

五~六発受けただろうか。彼は片足でピョンピョンしている。

「あー、痛いんだな」それでも彼は向かってきた。何度も受けられ何度も倒れ、それでも彼は向かってきた。意地を感じた。やがてボクシングのクリンチの様に僕にしがみついた。すごい力だ。


この時初めて僕は突いた。空手には寸勁という突きがある。突きは普通引いた腕を前に出して突くのだが、この寸勁は拳を相手に密着させてから身体の捻じりと僅かな体重移動で、まるでその衝撃は背中に突き抜ける様な突き、上級空手だ。彼はその場で崩れ落ちた。痛かっただろうによく頑張ったと思う。

『はい、そこまで!』師匠が止めた。

『お前ら、まだ反対か?反対するならここまでになってからにしろ。身の程を知れ!』

と吐き捨てるように言った。準師範は呆然となり、お嬢さんは悔し泣きしていた。

『風間君、アドバイスを。』

武術の世界では勝者が敗者にアドバイスする。

『押忍!ありがとうございました!勉強になりました!!』 

『・・・いやそうじゃなくて、何か言ってやってくれないか』

一瞬躊躇ったが師匠の言わんとしている事が分かった僕は言った。


『空手を舐めるな』


その言葉に道場内は静まり返った。言いたくなかった。これからよろしくお願いします!という時に、わざわざ敵を作るような事は言いたくなかった。でもそれが師匠の思う所だと理解したから言った。

『押忍、失礼します!』僕は師匠に話しかけた。『ん?なんだい?』

『師匠はなぜ、空手連盟を抜けられたのですか?』すごく気になっていた。大会にも出られなくなり、助成金も貰えなくなる。なのになぜ師匠は空手連盟を抜けたのか。

『気に入らなかった(笑)』ケロっと答えた。

『ウチの道場の小学生の女の子がよ、今度茶帯(黒帯の一つ下)の試験受けるっていうんで頑張ってたんだよ。ところがさ、拳立て30回(腕立て伏せを拳を握って行うもの)できないと不合格ってさ。女の子だぜ?別にできなくたっていいじゃん。それでその子試験受からなくて。そんな連盟しらん! って頭きて脱退してやった(笑)』

「この人、人間想いの優しくて狂暴な空手馬鹿だ(笑)」


それを聞いて安心した。この人の下で空手をやりたいと強く思った。

「もうさ、空手の話は飽きた!!」そう思われる読者の皆様、今しばらくお付き合いください。空手こそが私を構成する要素なのですから。

僕は少年部への入塾を希望し、許可された。幼稚園や小学校低学年主体で「はい、ちゃんと並んでー」から始まるレベルである。これには二つの理由がある。


一つ目は「あんな姿を見せてしまって大人と練習するのが気まずい」

二つ目は「すべてを一から習いたかった」こちらの比重の方が当然重い。「礼儀・礼節・挨拶」は武道の基本である。流派によって細部は違う。

「正座する時に右足から折るのか左足から折るのか?」

「正座した時に手は開くのか握るのか・その置き場所は?」

「お辞儀の角度は90度?60度?30度?」

「返事は はい・押忍どっち?」


など、そんなのどっちだっていいじゃん!!と思われるかもしれないが、これが重要なのである。統率の取れた組織で自らを律する事が出来る様になる為には重要な事なのだ。考えてみて欲しい。


なぜ、幼稚園や小学校低学年という子供達が空手道場に預けられるのか?月謝は3.000円。立派な習い事で、お父さんのお小遣いから支払うとなると決して安い金額ではない。近年ではフィギュアスケートやヒップホップなどもっと格好の良い体を使う習い事なら他にもある。 では、なぜ空手??


「空手をやらせれば、子供のお行儀がよくなる」


と親が考えるからだ。もちろんお行儀は最優先事項なのできっちり叩き込む。それでなくてもテレビやゲームで戦闘シーンを見て育った子供達だ。ふざけて暴れたら大怪我する。だから、泣こうがわめこうが、「親が嫌なら連れて帰ればいい」というスタンスで協調性と礼儀は教える。最初はみんな帰りたがる。「やーだー!帰るー!おかあさーん!!」子供は泣き叫ぶ。「じゃあ、よろしくおねがいします」と親御さんは置いて帰る。

自分達ではそこまで厳しく礼儀を教えられないから、入塾させるのだ。


僕らとて鬼ではない。褒めて透かして宥めながら、徐々に形にしていく。稽古の中でだんだんと子供は痛く辛い思いをしていく、そして泣く。でもみんな同じ痛みを知って育ってきている。だからこそ、自然と上級生は下級生の面倒を見るようになる。下級生は同級生の言う事を聞くようになる。兄弟の構図だ。血の繋がりはなくとも、それが出来るようになるのは痛みを伴うからだ、と僕は勝手に思っている。動物の躾だって痛みである。

「噛んだら叩く」はその典型的な例だと思っている。

ここで誤解を招かない様に追記するが、空手道場では子供を叩かない。

成長していく過程で、級が上がるにつれて痛い思いをする事が増えるのだ。では入りたての幼稚園児にとっての痛みとは何か。家でやらなくてよい事をやらされる苦痛。我侭が通らない苦痛。泣いても駄目だということが思い知らされる苦痛。そして帰る事が許されないという苦痛である。


「お行儀が悪い」「キャーと大きな声で叫ぶ」「泣いて駄々をこねる」「好き勝手に走り回る」「食べ散らかす」「親の言う事を聞かない」こんな事が、親から引きはがされてみてやっとわかる様になる。最近の幼稚園や保育園、小学校では「パワハラ」を恐れてここまで踏み込まない。しかし道場はこれらが合意の上で、親御さんが月謝を払って子供を預けるのだ。言い方は悪いが、「躾をしてもらえるところ」なのだ。

先述したように、我々武術家は子供に手を挙げない。なのに、なぜ昨今のわがまま放題の子供が言う事を聞くのか。これは生物全般そうだと思うが、ペットを飼っていらっしゃる方は思い出してみて欲しい。ペットは家族の中でも優位を決める。

「この人に言えばご飯がもらえる」

「この人は散歩に連れて行ってくれる人」

「この人はトイレを替えてくれる人」

そして・・・「この人は中でも一番怖いから逆らってはいけない人」


これなのだ。気合いで我々は大きい声を出す。みんな元気に大声を出す。でも師範レベルの声の出し方は一般のそれとは全然違う。まるでライオンの咆哮が如くだ。咆哮で泣くのではなく、怯えて固まる。怒鳴るのではない。喝を入れるのだ。声だけではなくその姿勢、眼差し、全てに於いて勇ましく猛々しい。そうでありながらも普段はニコニコとして決して怒らない。

私が以前所属していた道場では門下生が100人以上在籍しており、準師範クラスの人が5~6名居たが、叱って気を入れるのは問題ない。感情で怒った人間は降格として準師範を降ろされる。そんな人が何人もいた。僕は準師範で怒ったことは無いが、暴力事件を起こしたので一発破門だ。


「せんせー、おしっこー(笑)」 保育園や小学校では許されている。道場では許されない。「稽古前にトイレに行くように」とちゃんと言われるからだ。それでも「せんせー、おしっこー」はある、九分九厘男児だ。勿論許されない。

『さっき稽古前に行ってきなさいって先生言ったよね?』

「うん、でもおしゃべりしてたから(笑)」

『そうか、我慢しなさい』

子供は退屈になったり自分のやりたくない腕立て伏せや腹筋になると言い出す。壁までヨーイドン!!などの時は言わないのだ。それでもしばらく「せんせー、おしっこー」は続く。『我慢しなさい』

その内本気で「せんせー!おしっこでちゃうー!」となる。『我慢しろ』 「がまんできないーー!!」 『そんな事知らん!はい次前蹴り用意!!』


子供は泣きながらおもらしする。『自分で片付けなさい。雑巾はあそこ。バケツに水入れてきて自分でやる。』子供はわーんと泣く。『泣くな!みんなが稽古できなくて困るだろ!さっさと片付けろ!』これが一種の合図だ。上級生たちが

『押忍、自分手伝ってもいいですか!』と言い出す。

『もちろんだ、ありがとう!!頼むな!!』 

普段厳しい師範から言われるこの笑顔の一言がどれだけ嬉しいか、皆さんは想像がつくだろうか。その子が指揮を執り、

『○○は雑巾!◇◇はバケツ!△△は着替えさせて!!』

実に効率の良い素晴らしい段取りで事は終息する。

『押忍!ありがとうございました!!』

掃除して面倒を見てくれた子達が師範にそう言うのだ。

『はい、みんなごくろうさま、押忍!』


師範から戴ける『押忍!』は独別な意味を持つ。誰もがもらえるものではなく、賛辞なのだ。こうして自然と上の子は下の子の面倒を見るようになっていくのだ。この協調性の中から生まれてくる親切さ、思いやりを親は見る事なく「空手をやらせておけば素直な子になる」と思う。これは空手だけではなく、礼儀礼節を重んじる武術だけではなく、剣道、書道、茶道など「道」と付くものは大概そうではないかと思う。

少し脱線したが、この時お漏らししてしまった子を誰一人責める事無く、誰一人『汚ったなーい』何ていうことなく、社会問題になってる「いじめ」という概念が発生しない。嬉しい事も辛い事も皆で共有の世界。すごく素敵な世界の様に見えるかもしれないが、子供達なりに苦労して辛い思いをして辿り着く境地なのだ。その中に楽しさを感じる子供は将来僕の様に指導者になりたいと思うのかもしれない。


もし今の世の中学校でお漏らししてしまったらどうなるだろう。イジメに合い、登校拒否になり、引きこもりになり、自殺や無差別殺人もあり得るのではないだろうか。「そんな大袈裟な!!」と言われるかも知れないが、本人からしたらそれくらいのショックだと思う。精神状態が歪んだっておかしくない。でもそれをみんなが辱められることなく、手際よく片付け、普段と変わらない稽古状態に戻る。だれも「ありがとう」を求めない。ここなのだ。この「見返りを求めない」という無償の愛情こそが本当の優しさではないだろうか。


僕の兄弟子が子供達の列に突っ込んだ車の前に出たのも、結果ご遺族や友人など悲しませることになってしまったが、何より本人は本望だろう。それに救われた子供たち、その親御さんもだんだんと風化して忘れていくかもしれないが、「生きている」という時点で幸せだと思う。


また脱線してしまった。。話を戻します。。

僕は間違った正義に走った。それと同じことを彼女は僕にした。土下座させ、その顔を蹴り上げた。それを勇ましく正しい事だと思い、父親である師匠に褒めて欲しくて連れて帰った。でも現実はどうだろうか。無抵抗の人間を蹴った事に対する師匠の怒りは先述したが、鼻が曲がって出血がひどく、五~六キロ走るなんて呼吸が続かない。僕も意地で走ったから、恐らく顔にはチアノーゼ(酸素欠乏症)が出ていたのを師匠は気づいたのだと思う。それらの「仕返し」ではなく「先輩武術家としての後輩教育」が、あの『風間君は自分の流派でやればいい』という言葉だったのだろう。


僕は正しき道を、身をもって教えた。教え諭した。その結果が「泣き崩れたお嬢さんと呆然としている準師範の姿」だった。確かに空手は綺麗だ。でも心が未熟だったのだ。しかも、師匠の土下座の真意を知ろうとせず僕に挑みかかり、そして負け、自分の世界に浸っている。先程まで僕が書いていた「道の精神」でいうならば、何事もなかったかのように皆が助け合いその中から生まれる絆が人を育むのに、彼らにはそれが無かった。


『押忍!風間君すまないが、加藤の方はいいから、娘の方診てやってくれないかな?頼むわ(笑)』この師匠の一言。

「身の程を、礼儀を知らない娘に更なる恥をかかせてやってくれ」

ということだ、この人は一般の親ばかよりもたちが悪い(笑)

『押忍!承知致しました!!』

そう言うと僕は茜さんの方に歩を進め目の前で止まり、上から見下ろして言った。『立て。稽古が止まってる。』師匠は嬉しそうにこちらを見て笑っている。そう、これなのだ!

彼が自分の道場で足りない、補いたいと思っている空気はこれなのだ!そのことは僕と師匠だけがわかった。茜さんは悔しそうに涙を拭きながら

『わかってるわよ!うるさいなぁ!!』

と僕に言った。

『じゃあ、すぐさま立って移動しろ。稽古の邪魔だ。皆が困ってる』

『だからぁ、わかってるって言ってるでしょ!!』

動けないのは判った。加減はしたものの、剛柔の本気の受けはまるで骨の中に痛みが走るような感覚で、その痛みはたとえ折れていなくてもそれと同じくらいの痛みだ。


『さっさと立て!何回も言わせるな!!!』

僕は腹の底から声を出した。師範クラスの咆哮と同じである。茜さんはびっくりして肩をこわばらせた。かすかに震えている。

(やれやれ、今まで師範のお嬢さんということでチヤホヤされて甘やかされてそだってきたんだな、だから痛みを味わうのも初めてだし、お父さんがいたから恐怖もなかったわけか。まるで虎の威を借る狐ではないか)

そう考えるとちょっと可哀そうになってきた。今目の前にいるのは根拠のない負けん気で悔しさに震えていた女の子ではない。


恐怖で少し失禁してしまっているから内股でうずくまったまま立てないでいる女の子なのだ。

僕は道着を脱いで上半身裸の状態になり、それを彼女の足元に被せるとそのまま包んでヒョイと抱えた。お姫様抱っこを想像してもらえると判り易いと思う。


『ちょ、ちょっと!あんた触らないで!!何やってるのよ!!』

彼女はヒステリックに怒鳴ったが、それは動けない自分への悔しさと、失禁してしまった事を悟られて相手から辱めともいえる温情を受けている事、そしてお姫様抱っこをされたという恥ずかしさだろう。

僕にとってはそんな事は関係ない。師匠は僕に『診てやってくれ』と言ったのだ。それは「これらの事全てを簡潔に片付け、他の門下生の前で恥をかかせないように頼む」という意味だ。だから僕の取った行動に師匠は終始ニコニコしていた。僕は彼女を抱っこしたまま道場の敷居まで行くと

『押忍!失礼します!!』と一礼して外に出た。


道場の横に彼女の自宅があるのは到着した時に判っていた。判り易く棟続きで通路があるからだ。でも今日来たばかりの僕がその通路を歩くのはおかしいのでいったん敷居をまたいで外に出た。彼女の自宅までほんの2~3メートル。真っ赤な顔をして子猫の様に震えながら僕の腕に抱かれている彼女の姿がそこにあった。さっきまでと打って変わって大人しい、むしろ運びやすい様に身体を預けている。気を利かせて師匠が自宅のお母様に電話をしていたのだろう。玄関のドアを開けた状態でお母様が待っていらっしゃった。


『娘を運んでいただいてありがとうございます。』

そういうと深々とお辞儀された。

『こちらこそ、嫁入り前のお嬢さんをこんな格好で運んでしまって申し訳ありません。』   僕は上半身裸だ。

『さあ、どうぞお上がりになってください』

『押忍!失礼します。』

玄関にはちゃんと足ふき用の雑巾が用意してあり、僕は茜さんを優しく玄関に座らせて足を拭いた。拭いている間彼女は黙ったまま僕の顔をじっと見ていた。拭き終わると再び彼女を抱っこしてお母様について彼女の部屋まで階段を昇った。


彼女の片腕は誰に言われるでもなく僕の首に回っている・・・どういう心境なのか、読者の方には察して戴きたい。

部屋に着くと彼女をそっとソファーに座らせ、お母様に言った。

『押忍!折れてはいませんが今まで感じた事のない痛みだと思います。アイシングすれば腫れる事無く治まると思います。よろしくお願いします』

と伝え六十度のお辞儀をした。以前お辞儀の角度について触れたが、三十度は挨拶・六十度は敬礼・九十度は最敬礼なのだ。僕はお母様に敬意の念を持ってお辞儀をした。ここでお嬢さんが久し振りに口を開いた。


『あ・・・あの・・・上着は・・・』


失禁によって濡れてしまっている事がわかっていたので彼女もそうとしか言えなかったのだろう。

『それは師匠からお借りしたものだから、申し訳ないが洗って師匠にお返し願えないだろうか。二人相手したら汗でかなり濡れてしまった。こんな事頼んでごめんな(笑)』

彼女は顔を真っ赤にしてコクリと頷いた。僕は足早に道場に戻り、再び

『押忍!!失礼します!!』

と敷居をまたいだ。実は呆然となった準師範が心配だったのだ。

お嬢さんが連れてきたとはいえ、道場やぶりみたいなものである。師匠が土下座されたことで正義感を持って挑んでみたはいいものの、一切歯が立たず、門下生からどんな目で見られている事だろう。。僕はお嬢さんよりもむしろそちらの方が気になって仕方なかった。


『押忍!!ありがとう!!』

師匠は満面の笑みで僕にそう言った。左手には竹刀、その前でひたすら腕立てをする準師範。周囲の門下生も同じく師匠の号令で腕立て伏せをしている 


『一八八・一九九・二〇〇!!はい次腹筋二〇〇回、用意はじめ!!!その後は上段・中段・下段突き各五〇〇本、同じく蹴り各五〇〇本!! 返事は!!!!』

『押忍!!!!!』

そう!これが空手道場だ。誰を責めるでもなくみんなで苦しい思いを共有して信頼と絆を深める。(いいなぁ、僕も輪に入れて欲しい・・・)と思った矢先、


『押忍!!風間君、昼飯一緒にどうだい??』と師匠。

『お、お、押忍!!御相伴にあ、あづかります!!』

カミカミだ。

そりゃこんなこと言われたら緊張以外なにものでもない。だってみんな稽古しているんだもの・・・

でもホッとした。準師範がどのような指導を受けているのか、準師範として指導する身でありながら敗北し、どれほど心が傷ついているだろう。そして何より、あの僕と同じ空手馬鹿が何をしでかすのか不安で仕方がなかったからだ。その不安がとけてホッとした表情を師匠は見て安心してくれたのだろう。昼食に誘ってくれた。僕は再び師匠の敷居を跨ぐことになった。

『押忍!!失礼します!!』

ドタドタと走る音と共に

『茜!!さっさと髪乾かしていらっしゃい!風間さんに失礼でしょ!!』

いや・・・失礼ではないが・・でも「髪は女の命」と昔、女子から聞いた記憶がある。濡れた髪を見せるということは女性にとって恥じらいであり、男性に対しての嗜みなのであろう。石鹸で体と一緒に頭も洗ってしまう様な無骨な僕にはわからない、女性の奥ゆかしさに触れた。


『この人ね、ケンタッキーが大好きなの(笑)』お母様が笑顔でお盆に山盛りのフライドチキンを持ってきて机に置いた。呆然として立っている僕に、

『温かいうちに喰おうぜ!!、座った座った(笑)』

と背中をバチンと叩いて師匠は言った。

『押忍!失礼します!』

『ウチじゃあよぅ、遠慮って言葉がゆるされないんだわ(笑)残すなよ??(笑)』


そんなそんな、食べ盛りの僕にそんな事言っちゃう?なんて思って内心ニヤニヤ表情ニコニコしていたら、お嬢さんが同じく山盛りのフライドチキンを運んできた。ポニーテールを降ろし、まるで別人のようだ。すごく綺麗なおじょうさんじゃないか!うっすら頬に赤みをさして恥ずかしそうにスカート姿である。赤いフレームの眼鏡を掛けている。目が悪かったのか。。稽古の時は危ないからコンタクトレンズなんだな。歩き方も気持ち内股で涼やかな風のような可愛い女の子だ。この子は学校でもてるだろうな。


『おっ?なんだ茜、風間君がいるから女の子らしくおめかしか?抱っこされて惚れちまったか?普段ズボンしか着ねーのに!!こいつさぁ、気が強いだろ?わりとベッピンな方だと思うんだけど、色恋沙汰の話が全くなくってよ(笑)』そりゃあ、このお父さんではそんな暇もないだろう・・・。


『ち、違うもん!!お母さんが着なさいっていうから・・・』

照れて言い返す姿がまた可愛い。それはそうと目の前のチキンの山。結果、お盆が目の前に一〇枚並んだ。暴力事件でクビになるまでアルバイトしていたから、どれだけあるのかは想像できる。


(お盆枚につき恐らく20、それが一〇枚ということは二〇〇個。二〇〇個!!ってことは。。鶏一羽で九パーツあるから。。鶏二二羽くらいあるの?おいおい、まじかよ。。まあでも皆で戴くんだし、門下生の皆さんの分もあるんだろうし・・・

『すっごいなー!!』と思わず口から出た僕に、師匠は言った。

『おう!ケンタッキー大好きでよ!今日はあいつらにも喰わせてやろうと思ってたんだけどな。やらかしたからナシだ(笑)』

エ・・・これを師匠と僕とお嬢さんとお母様で食べるのか?残すなってお嬢さんとお母様もさぞや大食いの家族なんだろう・・・

『さあ、遠慮しないで一緒に喰え!!冷めちまうぞ(笑)』

『押忍!!いただ・・・。師匠、お母様とお嬢は・・・。』


『かみさんは鶏ダメなんだわ。それと茜もやらかしたからナシ(笑)『茜!!お前も稽古行ってこい!!返事は押忍だ!!』 

『押忍!!』


『押忍!待ってください!』咄嗟に僕は師匠に言った。

『んーー?』師匠はモグモグ食べている。

『今回の一件の発端は僕です。僕が騒音を立て近隣準民の方々の迷惑も顧みない歪んだ正義を振りかざしていたことに、お嬢様は腹を立たのです。ですから今回の責任は僕が一番の悪玉なのです。ですから僕にも同じ稽古をさせてください!!』


『それはできんな』

そう言うと師匠は指を舐めながら言った。

『いいかい?まだ入門書も何も交わしてねーんだよ。一緒にやるとは言ったが、このケンタッキーは俺が客人として君と喰うものだ。』


僕は何も言えなかった、確かに師匠の言うとおりだ。いろいろあったが今日来て、今日会って、師匠からしたら客人・・その通りだ。

『それでは!! 客人と師匠から言われるということは、ある意味対等であると考えてよろしいですね?』 

この一言は正直ビビった。僕はまだ師匠とは立ち会っていない。世の中達人レベルになると僕なんか赤子の様なものだ。

それが『貴方が客人と言ったから』と年長者の師匠に向かって言い返したのだ。お母様はニコニコ笑っていたが、お嬢さんが凍り付くのを感じた。机をひっくり返されて殴られても仕方ない不作法だ。

『んー、それは一理あるな。俺が客人として誘ったわけだし』

『だったら、客人としてお願いがあります。僕はみんなと一緒に戴きたいのです!!それをお許しいただけないのでしたら手を付けずに失礼します!』


流石に言い過ぎた。師匠から溶岩の様な凄まじい圧を感じた。。師匠が立ち上がろうとしたその時、お嬢さんが僕の前に土下座した。

『先輩!!先程はあのような醜態の中、それを誰にも気取られぬようにご配慮いただき、誠にありがとうございました。お礼を言うべきところ、私の中の恥ずかしいという気持ちが勝ってしまい、失礼な事を言いました。遅くなりましたが、感謝しております。ありがとうございました。押忍!』


見事な一礼、見事な口上だった。その言葉に一片の曇りもなかった。

『やっと言いやがったか、このバカ娘! 勘違いするな、皆の所に持って行ってやろうと思っただけだ。ほら、お前も手伝え!!』


嘘だ。すごい殺気だった。大変な事になる。。と身構えたほどだ。。

『ところでお前よー、慣れねぇもん着るからパンツ丸見えだぞ?(笑)』この師匠の言葉に

『ええっ!!もうっ!!信じられない!!!バカ!!!』

と言い残してお嬢さんは再びドタドタと階段を昇って行った。

ひとまず窮地は逃れたが・・お嬢さん居なくなったし気まずい・・・

そんな時、玄関方角から『押忍!!失礼します!!』と元気のいい声が聞こえた。

『ほら、持って行って皆で食べなさい。客人からの差し入れだ(笑)』

そう言ってこちらにあるフライドチキンを全部持たせ、

『わしらも向こうで一緒に食べよう。風間君の入門試験も食べたらやるか』

『ん?試験?そう聞こえたような気がしたけど・・・??』


そう言って師匠と僕は道場に向かった。道場では門下生たちがせっせと床の上に新聞紙を敷いている。どうやら師匠のフライドチキン差し入れはよくある事らしい。門下生全員が一致団結して敷いている。よく見てみると、最終的に全部真ん中に集められるように重ねて敷いてある。よく考えられている。後に教えてもらった事だが、「フライドチキンの日」というものがあるらしい。毎月29日だそうだ、29(にく)の日でお得らしい。門下生たちの楽しみの一つになっているとか。それは手際がいい事だ。


『押忍!!いただきます!』これには師匠も門下生もない。

あとはひたすら食べまくるのだ。驚くべきことは、あの腕立て・腹筋突き・蹴りを全部こなしていたということだ。それを分かっていて師匠は皆と一緒にガツガツたべよう!と提案したのだ。ガツガツ戴いていると、お嬢さんが道着を着て帯を締めて『押忍!!』と入ってきた。さっきまでの可愛い女の子とは打って変わって非常に凛々しい。


『あれ?私の分は??』

みんなすごい勢いで食べたので骨しかなかった。『ええー!ないのー!?』

僕は後ろ手に持っていた一〇ピースパックを取り出し、『さっきはありがとう!』と手渡した。

『あ、はい!』そこには紛れもなく女の子の茜さんがいた。かわいらしい!!うつむきながら少しずつモグモグ食べている。


『あれー?いつもはガツガツ食べるのに、風間君いるから何か意識してない?(笑)』

『そんなことないもん!!』

そのやりとりを見ていた準師範がなんとも言えない表情でこちらを見ている。おそらくお嬢さんの事が好きなのだ。でもお嬢さんにその気はなさそうで、もちろん師匠も認めないだろう。自分の想いを告白できない気持ちはさぞ辛いだろう。僕には女の子に対してそういう感情を持った持った事がないからはっきりとは分らないが、あの何とも言えない目は、明らかに新参者の僕に対しての嫉妬だろう。


『風間さんでしたっけ?食べ終わったらもう一度お手合わせ願えますか?』

準師範がそう僕に言った。

『押忍!加藤準師範、宜しくお願い致します。』

(感情を抑えているつもりだろうが礼儀が成ってない。何だ?その言い方は!!)

と思いながらも僕が同じ土俵でケンカする必要は無い。こういう時は逆に下手に出てやればカッと頭に血が昇る。その方が立ち会った際に有利なのは、幾多の経験から僕は学んでいた。


『・・・あんたじゃ勝てっこないって。止めときなよ。』

お嬢さんが食べながら唐突に言った。

それに対し

『なっ!!さっきは油断しただけだ。今度は負けん!!』と加藤準師範。

『あんたさぁ、自分の事しか考えてないじゃん!風間さんの立場で考えたの?稽古止めて申し訳ないってオーラ出てんじゃん?それを何?あんたは準師範のくせにまだ稽古止めさせてやりあおうってわけ?馬鹿じゃないの?』

まったく、的を射たキツイ事をいう。それも「あんた」呼ばわりで。百歩譲って「加藤さん」とか「準師範」というのならまだわからんでもないが、「あんた」である。これには面目丸つぶれで、

『そんなことやってみないと判らないだろう!!!』と怒鳴る始末。子供のダダだ。お嬢さんはまだ続けた。


『だからぁ、風間さんは今日初めて会ったばかりなのにフライドチキン私の分とっておいてくれたわけ!あんた無いじ

ゃん、そういうとこ!その辺からしてもう負けてるんだっつーの!』

師匠はニヤニヤ笑っている。娘さんが仕掛けている事はわかっている。恐らく入門試験とは準師範と一線交えさせるつもりだったのだろう。それを見越して加藤さんが、より頭にくるように煽っているのだ。全く、親が親なら娘も娘だ。二人して空手馬鹿だ。

『よし、じゃあ稽古後だ!!』

『いやだからぁ、風間さんの気持ちは無視?』

『うるさい!お前は黙ってろ!!』  そう言うとフライドチキンの骨やら食べかすやらをお嬢さんに投げつけた。これは良くない。門下生たちの前で絶対にやってはいけない事だ。


チラリと師匠を見ると凄まじい気迫で準師範を見ていた。僕はとっさに『わかりました!外でやりましょう!!』と満面の作り笑いで言った。ここで僕が言わないと師匠も準師範もお嬢さんも引っ込みがつかなくなる、と判断したからだ。

『上等だ!表に出ろ!!』準師範はカンカンだ。その言葉を聞いた時の師匠とお嬢さんの顔を僕は今でも鮮明に覚えている。悪ガキの顔だ。彼はズカズカと怒って出て行った。それに対し僕は『押忍!御馳走様でした!失礼します』

と敷居を跨いだ。どちらが礼儀正しいかは一目瞭然だろう。僕も負けず嫌いである。自分からケンカを売りはしないが、売られたケンカは必ず買ってきた。こうなったからには何一つ汚点が残らない様に徹底的に叩きのめす、それが彼の為でもある。彼はまだ反省し、やり直せる年齢なのだから。さあ、お立合い!先程と同じように師匠が審判に立つ。


『お互い熱くなっちまってるんだ。防具はいらねぇな(笑)』そう言うと『はじめぃ!』と吠えた。

案の定、彼は感情に任せて襲い掛かってきた。急所である正中線(正中線とは、人体を正面から見た時、その中心である眉間~股間までを結ぶ一本の線の事で、人体の挙動の軸であると同時に急所が集中している線の事。※ピクシブ百科事典参照)を狙ってくることも想定内。こちらに構えるすきを与えない様に連撃してくる事も想定内。受け流しながら「ど

うしたものかな。」と考え師匠の方を見ると、親指を下に向け首の下を一文字に横切らせた。「やっちまいな!」ということだ。場所は道場の外・師匠のご自宅の敷地内の庭・二人とも素手(空手家は全身が武器なのだが)・お嬢さんは勿論の事、その他門下生の見学を許している。「この若者の勘違いを、身をもって教えてやってくれ」というメッセージだと僕は捉えた。


とはいうものの、あの時(暴力事件)の時のような大怪我をさせたのでは僕が空手を始める資格はなく、その辺も入門試験として師匠は見ているのだろう。彼の連撃が止まるまで即ち、彼の息があがるまでひたすら受け流しながら僕は考えた。

「痛い思いをしてケガさせる事無く諦めさせる方法・・・」

空手の技法の1つに鞭打(べんだ)というものがある。身体をしならせてまるで鞭で打つがごとく内腿や背中を叩く。背中をパチンと叩かれると痛い!となるのと同じものである。これならせいぜい皮膚が青くなる程度で骨折するほどの大怪我はしない、上級空手だ。先述したように僕の空手は剛柔である。まともに受けてもケガさせてしまうし、突いたり蹴ったりしようものならあの時の二の舞だ。


『よし、これにしよう!』思わず声に出た。

渾身の攻撃を受け流され続けて、疲れというよりも更に頭に血が上っている感じだ。冷やしてやるにはちょうどいい。

先ずは準師範の最も得意としているであろう廻し蹴りを少し強めに受け流した。その勢いでくるんと回って背中を見せた時に鞭打。


『ヒィィ!!』

と声を上げた、かなり痛いはずだ。この鞭打を習得するのに僕だって相当稽古した。筋肉の鎧に呼吸という合わせ技で受けを攻撃とする剛柔。それが最大限の脱力を持って鞭の様にしならせて叩くのだ。どうしても力に頼ってしまい、最初の内はパチンと音がしなかった。ボスッとかゴスッとか。勿論サンドバック相手に練習するのだが、力を抜きすぎると自分の関節が逆に折れそうになる。


鞭なんていうと想像しにくいと思うので、誰しも一度はやったことがあるであろう、縄跳びを想像してほしい。冬の寒い時に外で飛んでいて、勢いの付いた縄がパチンと当たった時の悶絶。思い出すだけで痛い。僕が学校で縄跳びをしていた頃はジャージを履くなんてことは許されなかった時代だった。男子は短パン、女子はブルマだった。みんな脚にミミズばれを作っていた。あの感じで背中とか内腿とか二の腕とか、表面を鍛える事が難しい=叩かれるとどうしようもなく痛い部分を叩かれるのである。大の男でも「ヒィィ!!」と声がでる。


背中に手をまわして「痛ったたたたた!!!!!」と大騒ぎだ。周りのみんなは笑っているが、その痛みを知っている僕は笑えない。当然叩いているこちらも痛いのだ。硬く拳を握れたらどんなに楽だろう。でもそれではゴツ!になってしまう。骨を砕いてしまうかもしれない。ケガをさせずに最大限の痛みを与える。

それがパチンなのだ。僕はその後も狙って続けた。内腿、裏ふくらはぎ、二の腕、背中。。。準師範は転げまわって痛がった。

目にうっすら涙を蓄えながら僕に叫んだ。『テメエ舐めてんのか!!』


とんでもない、舐めてなんかいない。その証拠にこちらの手も真っ青だ。


『痛みっていうのはよぅ・・・』

師匠が口を開いた。

『心でも身体でもよぅ。味わってみねーとわかんねんーんだわ。その鞭打はな、高度な技術でよぅ。使い方間違えるとショック死しちまうことだってある。そこを使い分けるってなぁ(笑)しかもケガさせない様によ・・・今のお前じゃあ、逆立ちしたって敵わねーさ。 まずココの強さが違う』

そう言うと師匠は自分の胸を指さした。そして続けた。


『加藤、おめー今日から準師範じゃなくて師範やれ。今日の痛みと悔しさ忘れるな!茜!おめーは道場で俺の影をちらつかせるんじゃねーよ。未熟者が! 風間君、稽古に励みたまえ。』


『押忍!ありがとうございます!』三人息の合った返事だった。


『押忍!師匠失礼します、自分夕刊の配達準備がありますのでこれでご無礼致します。また明日からよろしくお願いします!』

『おう!よろしく!!』

そう言って六〇度に頭を下げ、僕はダッシュした。嬉しくて仕方なかった。「何だか家族が出来たみたいだ!」そんな喜びに震えながら新聞店に着くと店長が驚いた顔で言った。

『おい龍二!おめーどこでケンカしてきた?!』

唐突な言葉にこちらも驚いた。

『いえ、ケンカなんかしてないですよ!』

『じゃあなんで、上半身ハダカでそんな真っ青な手してんだ?』 あ・・・。

喜び勇んで出たはいいが、上着はお嬢さんを包み、ズボンは空手着のまま、そして着て行った洋服は道場に忘れ、単車は、公園だ。「まあ、しゃあない!全部なんとかなるだろう!」僕は新聞店のジャンパーを羽織り、夕刊の散らし折込と配達に勤しんだ。浮かれすぎて、洋服も単車も、今はどうでもよかった。仲間が・家族ができた!それだけでよかった。


新聞店のジャンパーのまま施設に帰りシャワーを浴びると、凄まじい痛みに襲われた。「まだまだ未熟だな。もっと稽古しなきゃいけないや。」僕はマゾヒストではないが、この痛みは嫌いではない。恐らく加藤さんも今頃はギャーギャー言いながらお風呂に入っている事だろう。そう考えるとニヤニヤしてしまう。正当な勝負だったしお互い本気でやり合った。久し振りの満足感だ。もし僕が負けていたとしても満足だったであろうと思う・・

いや。違うな。負けて満足なんて無いな(笑)なんて考えられるのも今回の公園での出会いがあったからだ。そんな事を考えていると何だかまるで心臓を掴まれているかのような感じがした。暴れすぎたかな。


その日の夜は興奮してなかなか眠つけなかったのを覚えている。翌朝いつもの様に午前三時には新聞店に行き、広告の折り込みをしていた。朝刊配達の後に新聞店でいつもの様に朝食を食べ(店主のご厚意で朝ごはんは従業員みんなが戴けた)学校に行った。こちらもいつもの通り爆睡だ。


僕は学校のテストで困ったことがない。教科書は先輩のお古を貰っている。同級生の話を聞いていると、「ヤマが外れた!」とか「昨日徹夜でテスト勉強したー」なんて聞くが、僕にはその経験がない。復習型ではなく、予習型なのだ。だから授業中居眠りしていてふいに先生に起こされても、どこの何を聞かれていのかの場所さえわかれば答えられた。加えてテストの点数も悪くないし、同級生がわからないと言えば教えてあげていた。自然と居眠りしていても当てられることは少なくなった。自慢ではない。復習より予習の方が僕は効率がいいと思っているだけだ。この勉強法で東大いきました!なんて大層なものではない。県立高校の普通科レベルでの話である。


授業が終わると今までは隠してある単車にまたがって「今日はどこを粛正しようか?」なんて馬鹿な事を言いながら爆音立てて走っていたが、今日はもう違う。そもそも単車は公園に置きっぱなしだろうし、僕には行くべきところが出来たのだ。道場である。幸いな事に夕刊の配達があるのは火曜・木曜・土曜。道場があるのは月曜・水曜・金曜だ。今日は金曜。


後から聞いた話だが、フライドチキンの日は木曜日と決まっているらしい。二九(にく)の日だというのは僕の思い込みだった。その日は稽古を兼ねて「みんなでケンタッキーを食べるぞー」と集合が掛かるのだそうだ。次回は僕も呼んで貰える様に、加藤さんと茜さんとは仲直りしておこう。


それはそうと、(昨日茜さんにやられたアイツ、その後どうなったのかな)何て一瞬よぎったが、(ま、いっか!)で終わってしまった。何より今は道場に行くことしか頭にない。うぉぉぉーーっとダッシュで道場まで行き『押忍!!』と引き戸を開けようとしたが開かない。早すぎたか?


稽古する事しか頭にない僕は『押忍!失礼します!!』と師匠の家のピンポンを連打した。返事がない・・・誰もいないのか?師匠はお仕事でいらっしゃらないとしても、奥様は?あー、そういえば昼間は近所のスーパーでレジのパートさんとして働いていらっしゃるんだった!!!!

「ま、いっか。ランニングしてこよう!」とシューズの紐を締め直していたら、靴の紐がブチッと切れた。昔からこういう事で「不吉な」とか思わないタイプだ。あのブルーシートの向こう側に合った景色に比べたら不吉なんてどうってことない。

むしろ、「先輩にもらった大事なシューズ」の方が気になった。その時師匠の家の二階の窓から 『うるさいなぁ、誰?』

と声が聞こえた。 『あ、すみません!』   

と咄嗟に答えたが、それはパジャマ姿の茜さんだった。彼女は顔を真っ赤にして

『ど・どうしたんですか?』

と寝ぐせではねた髪を抑えながら言った。事の顛末を手短に話すと、

『ちょっと待ってくださいね』

と言って窓を閉め、階段をトントンと降りてくる音がした。玄関からそっと顔をのぞかせた彼女は白いカーディガンを羽織り、マスクをしていた。

『ごめんなさい。風邪でお休みでしたか?』

『いいえ、起きていましたが母が帰ってくるまで大人しく寝てなさいって言うものですから・・・』

昨日とは別人だ。「あんた」とか「ねーだろ!」なんて言いそうにない、赤いフチの眼鏡をかけた清楚な女性がそこにはいた。僕は思わず見とれてしまった。黒く長い髪に透ける様な白い肌、頬にはほんのりと赤みを差し、かわいらしいスリッパをはいて僕の目をじっと見ている。そしてすごくいい香りがする。


『え?え?なんですか?顔に何か付いてますか?』

『あ、ごめんなさい!!すごく綺麗だったので。』思わず口からでた。昔からそうなのだ。悪口とか悪戯に人を傷つけてしまう様な言葉は極力言わない様にしているのだが、「綺麗」とか「美しい」とか賛辞の言葉は口に出てしまうのだ。

『えっ?!』 『あっ!!』

二人が口をそろえたように声を出した。彼女は恥ずかしそうにうつむいてしまった。

『ご、ごめんなさい!! 師匠帰られるまで走ってきます!!』

『ちょっと待って!!』

失礼な事を言ったから叩かれる!そう思った。

『あの。靴の紐。』そうだった。靴の紐が切れて蹲ったところに二階から茜さん登場だった。

『ああ、大丈夫です。慣れてるので(笑)』


もはや意味が解らない。僕はいったい何に慣れているというのだ?


『これ、よかったら。』

彼女が赤い靴ひもを僕に手渡そうとした。見た感じ二足分ある。薄汚れた元は白いスニーカーには勿体ないほどの綺麗な赤い靴ひもだった。  

『い、いや、大丈夫です!!』

『そうですよねごめんなさい。男の人が赤の靴紐って恥ずかしいですよね』

『い、いや!決してそういう意味じゃなくて、あの、えっと、ありがとうございます!』

こんな経験初めてだ。僕は急いで靴紐を受け取ろうとした。


一歩出す脚が違う!!


切れた紐の方で踏み出したら・・・。

『おっと!!』

左手は彼女の手を握り、彼女はよろめいた僕の体を受け止めた。何とも癒される香りに包まれ、これが空手家の手なのか。。と疑わしいほど可憐で、柔らかく当たった肩の感触が忘れられない。一瞬の出来事だったと思う。でもそれがすごく長い時間の様に錯覚したのは、そのタイミングでお母様が帰ってこられたからだ。 『おやおやー?(笑)』

僕は瞬時に一歩後ろに跳んで下がった。

『も、も、申し訳ありません!!』

なぜかお母様に九〇度の最敬礼をしていた。

『うふふ(笑)風間さん、茜は嫌がっていませんよ(笑)』その言葉に二人とも凍り付いた。  

『何言ってるのお母さん!!』

『だってその靴紐、茜がこの間(やっと見つけた!)って買ってきた物でしょう?それをあげちゃうんだー。ふーん(笑)』

『しょうがないじゃん!風間さん靴紐切れて誰もいなくって、よろめいたんだから!!』

『ふーん、そうなんだー(笑)、へー(笑)』

お母様は楽しんでいる。


『風間さん、今日主人出張で帰らないの。茜もこんなんだし、加藤さん病院行くって言ってたから道場お休みなの。ごめんなさいね(笑)』

『えっ?!! 加藤さんそんなにケガ酷いんですか??』

『いや、あの・・・茜、言っていいかな(笑)』

『・・・いいと思う』

『加藤さん、痔なの。だから、ね(笑)』

『あ、はい!では加藤さんのお尻は大事にします!!』その言葉に

『あはははは!!(笑)』

茜さんとお母さんは目を見合わせて笑った。


『折角来たんだからご飯食べていきなさい。』

お母様は言った。

『ありがとうございます。折角のお誘い恐縮ですが、師範不在の折に女性だけの家に上がり込むわけには参りません。嬉しいのですが』

『やっぱりそういうのね、風間さん(笑)』

奥様と茜さんはフフと笑った。

『昨日ね、「明日絶対風間君来るぞ。来たらすき焼き喰わせてやれ」ってあの人に言われてるの。それにね、私の方が実は段位上なのよ(笑)』   『・・・え?』

『だから、お父さんの師匠はお母さんなの(笑)』

茜さんが笑顔で言った。

『お、押忍!失礼しました!そういう事でしたらお言葉に甘えさせていただきます!』

『ええ、どうぞどうぞ。ただし風間君、私や茜に「押忍」はナシね ♪』

『はい、ありがとうございます!!』

『ついでに泊まっていく?茜の部屋泊まれるわよ(笑)』 僕は噴き出した。

『ちょ、ちょっとお母さん!!!』

茜さんも真っ赤になっている。

『冗談よ、若いっていいわね。風間君、茜は風邪ひいてるから水触らせたくないの。手伝ってくれる?』

『押忍! あ、いえ、はい。』


また僕は最敬礼していた。家族水入らずの夕食なんて、僕の記憶には残っていない。白菜を切り、シイタケの石づきを取り、ニンジンに飾り包丁を入れる。施設では何でもやってきたから、これといって特別な事では無い。

『すごーい、風間君何でもできるのね!!』

『いや、施設でやってますから。普通です。』

『男の人が台所に立つ姿ってもてるわよー!ねー、あ・か・ね!お父さん何にもしないもんねー、ケンタッキー食べるだけで(笑)』

『本当だよー。男の人が立つと台所のシンクって低いんだね・・・ハッ!』

お母さんの誘導にはめられたことに気づいたのだろう。赤くなって黙って下を向いてしまった。気まずいけどなんと居心地の良い事か。僕は家族ではないが、家族水入らずという感じ。なんだかすごく羨ましい。


お腹いっぱいご馳走になり、洗い物も一緒にやって、最後にリンゴの皮誰が一番切れずに長く剥けるか競争が始まった。茜さん脱落。お母様と僕の一騎打ちとなった。最後の方はどんどん細くなり、プツンと切れて僕は負けてしまった。

『お母様、流石です!!』

『いえいえ、風間君に言ってなかったけど、私も剛柔の出なのよ ♪』

『え・・・?!』 

このお母様には本当に驚かされ続けている。。。


師匠の師匠で、剛柔出身で。ってことは?加藤さんや茜さんとの試合も全部わかって見てたって事か!師匠が見て笑っていたのは知っていたけど、お母様もか!! 全てを見透かされている気分になった。でも悪くない。

リンゴで作ったウサギリンゴを食べながら、静かに揺れる風鈴を見ていた。

洗い物をし、お母様が拭いて片付けてくれて家族の食事会はお開きとなった。僕は何度もお辞儀をし、茜さんには今まで出した事ないような笑顔で何度も手を振った。


翌朝新聞配達を終わらせて歩いて学校に行った。奴らとはあれから話してないし、単車がどうなっているのなんてもうどうでもよかった。途中、『おはようっす!風間さん、二日間もどこいってたんすかー?』

そういえば、コイツとはちゃんと話をしなければならなかった。茜さんにボコボコにされた工藤である。


『オレッチと単車おきっぱであの娘と走って行っちまって、ずっと帰ってこないんすから。』

『わりい。いろいろ闘いがあってよ。空手道場に入門する事になったわ(笑)』

『ええ?風間さん、またやるんすか?』

『もう暴力には使わねーよ、今度は健全なスポーツ空手だ。あん時だっておめーらが無茶しなかったら俺もあそこまでキレてないぜ?』

『もうそれはいいじゃないっすか。単車俺んちに置いてありますんで。』

『あ、あれ、お詫びにお前にやるよ。もう単車降りるって決めたんだ』

『まじすか!!風間さんの単車、俺にくれるんすか?』

『だって、あのケガでお前が運んでくれたんだろう?今回の事で俺も学んだわ。正義きどって爆音たててよ、格好悪かったわ。そうだ!俺、ホワイトエンジェルズ、引退するわ。次の総長はお前な!!』『え?まじすか!』

『そう!そん代わり、直管禁止で、コール禁止。二〇時以降は単車降りろ。これが約束できるんならお前に譲る。(コール=爆音立てる事)』


『絶対守ります。てか、守らせます!!しっかり引き継ぎますから!!』

『おう! 守れなかったらまた俺が暴れるからな!!』『もう、勘弁してくださいよー』

こうして僕の正義ごっこは終わった。 


『おはよー!』女子の声だ。茜さんだった。

『おはよう、もう大丈夫なの?』

『うん、ちょっと風邪っぽかっただけだから』

『え、風間さん、この女と仲良くなったんすか?』←工藤

『おう、武術家同士、正々堂々とやり合ったからな。お前の事もケリつけたからよ』

『そんな、オレ納得いかないっすよ!!』←工藤

『俺がケリつけたってのに納得いかないってか?』

『いや、すいません・・・』←工藤

『わかったんなら、もう行け!!』

『はい、失礼しやす!!』←工藤は校舎と反対方向に走って行った。

年齢的には彼らの方が上だ。彼らがどこの高校に行っているのか、中退しているのか中卒なのか、僕は知らない。


『そういえばさ、茜さんって同じ高校だったんだね』

『えー、ショック!知らなかったの??』

『知らなかったよ。野郎とばっか、つるんでたし。何年生?』

『風間君と同じだよ。一年生!! クラスも一緒なのに、ひどいなぁ・・・』

まぢか!! 女の子に今まで相手にされてこなかった訳ではないし、女嫌いというわけでもない。男友達とバカやってる方が楽しかったので、女の子とこうして話をするなんて久し振りっていうくらい、話していなかった。


思えば中学卒業と同時に空手から離れ、ろくに施設に帰りもせず「正義」の名のもとに暴れていた。気が付けば近所の高校にいたという感じだ。学力が高かったので高校へは推薦で入ったが、よくあれだけの暴力事件を起こしておきながら推薦取り消しにならなかったものだ。後に聞いた話では、『一人で誰かを守るために行った正当防衛であり過剰防衛』と『成績優秀』が、推薦取り消しを免れるキーワードになったらしい。

「あ、なるほど。そりゃ僕の事を知っている訳だ・・・」今頃気づくなんて本当に僕は頭が悪い。

『昨日は、ごめんな。』

『えっ? 洗い物までしてもらって、こちらこそごめんだよー。』

『いや、ほら、なんだ、いきなり手握ってごめん。』

おいおい、そんなこと言う時じゃないだろう!!今ならそう思うが当時は女の子と話すのが一生懸命だったのだ。 彼女は言った。


『あ。忘れてた(笑)』 

幼少期に親を亡くした僕は常に人の顔色を見ながら生きてきた。この「忘れてた」は嘘だ。でもいくら僕でもこの女の子の優しい嘘を正すほど無神経ではない。

『靴紐、ありがとう!』そう言って僕は靴を見せた。

『風間くん、赤色似合うねー(笑)』

まずい、心臓が潰れそう!かわいい!

『ありがとう。靴も買わなきゃね。紐だけきれいじゃあ・・・ね』

『靴のサイズ何センチ?』 

『二十六センチ』一八〇センチの割には、足は小さい。

『お父さんと一緒じゃん!探しておいてあげるよー(笑)』 『あ、ありがとう。。』


昨日といい、今日といい、人にこんなに優しくしてもらったのは初めてなだけに僕は戸惑った。いつも施設育ちと見下され、どこか距離を置いて接してこられただけに、不思議な感覚だ。


相変わらず授業中は居眠りし、あちらは女子トーク。会話もないまま終業のチャイムと共に僕はダッシュで新聞店に行った。夕刊の配達を辞めさせてもらう為に。道場に毎日通う!勝手にそう決めたのだ。迷惑この上ない。店長に伝えると、『ちょうど朝刊から夕刊に配達時間を替えてくれって人がいてねー。構わないけど風間君若いんだから朝刊2人分やってもらえる?』

『はい!宜しくお願いします!』即答である。体力と相談するまでもない。夕刊から解放されるのであれば何でもよかった。

『ありがとうございます!!』と新聞店を後にし、僕は道場に駆けつけた。

『押忍!失礼します!』奥から師匠が出ていらっしゃった。

『おおー、昨日のすき焼きはうまかったか?』

『押忍!鼻血が出るほど美味しかったです。ごちそうさまでした!』


『そうかそうか!! それはそうと、まだ誰も来ておらんのだ。どうだ、ワシと立ち会ってみんか?』

背中に冷たいものが走った。でも同時にドキドキゾクゾクした。

『押忍!!宜しくお願いします!!あ、でも道着が・・・』

『これな!』師匠はまっさらの道着を準備してくれていた。

『いや、そんなの買えないっす!!』

『なんだ、せっかく買ってきてやったのに、いらんのか?(笑)』

僕は正座し両手をついて

『押忍!!ありがたく頂戴致します。』

と深々と礼をした。


『さあ、ワシも着替えるから君も着替えなさい。お楽しみの時間だ!!』

師匠もワクワクしているようだ。僕は急いで着替え、身体を温めた。

『よし、いいな。始めるか!!』

その刹那、師匠からとんでもない気を感じた。

「これは最初からMAXでいっても危ないかもしれない」そんな気だった。


『コォォォー』と師匠の息吹。凄まじい気迫だ。いかん、飲まれるな!

僕も『ハァァァー!!』と息吹を入れる。互いの距離は一メートル。

武術家同士の気と気のぶつかりあいが始まった。『参る、本気でこい!』

そう言うや否や、矢の様な上段突き。上段受けで受けたものの、重い!!加藤さんとは何もかも違う、この人は達人レベルだ。こちらもすかさず追い突き中段。入った!!でもまるで岩を突いているようだ。

互いに一歩下がり、瞬時に呼吸を整えて次の攻撃に出ようとした時、


『そこまでーーーーーぃ!!!』と声が響き渡った。お母様だった。

『審判も立てず、貴方達は骨折位ではやめないでしょう?!』

お母様はお怒りだ。こ、怖い。

『ちょっとよぅ、この間見てていいなーって思ってよぅ。』

師匠がタジタジになってる。

『気持ちは判るけど、やるならちゃんと審判立ててやりなさい!!』

『押忍!!』二人の声がそろった。

『いい?寸止めね。当てちゃだめよ?  はじめぃ!!!』

掛け声が早いか動きが早いか、師匠と僕は一気に間合いを詰めた。師匠の右手刀。左廻し受けからの僕の前蹴り。身体の反応するままに動いていた。もちろん寸止めではない、お互い当てている。気持ちで負けた方が敗者だ。奥様はじっと様子を伺っている、止めない。こうなったら止まらない事を知っているのだ。「ボコッ」「ガキッ」と鈍い音が道場に響く。


何分くらい互いに突き蹴っただろう。最後は師匠の後方かかと落としが僕の右肩に当たったところで僕が膝をついた。

『そこまでーーー!!』

互いに下がって礼をし、お母様にも『押忍!』と礼をした。

『見せてみなさいな』そういうとお母様は僕の道着をめくった。

『肩、外れてるねぇ(笑)』そういうと「ガキッ!」という音と共に右肩を入れた。

『風間君、外れ癖あるでしょ?』

『押忍、あります。』『だから左前構えかぁ』

お母様は僕が右肩をかばっているのを見抜いた。『アイシングする前に2人とも汗だくなんだから、生徒さん来る前にお風呂入ってきて!』 『押忍!!』 また声が重なった。


道場のお風呂はもちろん初めてだ。いやぁ、こんなに広いのか。下町の銭湯並みに広い。


『師匠、でかいっすね。』『せやろ!!!』

師匠は得意そうに笑った。

『若い衆入れてやる為によ、風呂はでっかく作ったのよ!!』

檜造りの立派な浴槽である。入浴剤の香りが死闘を癒してくれる。。不思議なものだ。さっきまでやり合った二人が浴槽に浸かっている。


『風間君、どうよ!!』

『押忍! とても大きくて素敵なお風呂です!』

『そうじゃなくて、茜だよ!(笑)』

そう言うと師匠にバシャバシャとお湯を掛けられた。

『ど、どうと言われましても。素敵なお嬢さんだと思います。』

『あいつ、まんざらでもないみたいだぞ?鏡の前に居る時間が長い(笑)』

『いえ、自分は決してそんな・・・』


『隠さんでもいい(笑)俺の友達が刑事課にいてな、君の事をいろいろ聞かせてくれたよ。ガキの頃に辛い目みたってな・・・』

『押忍・・・』『電話しとくからよう、明日からここに住め!!』

『えっ?!?!?!?!?』 

あまりの唐突なご意見に僕は固まった。


『茜な、兄貴がいたんだよ。病気でな。。。』

ぽつりと師匠が話し出した。

『兄貴想いのヤツでな。毎日病院お見舞い行ってたけど帰ってきたら骨だ』

返す言葉が見つからない。。僕はうつ向いて話を聞いていた。

『綺麗な空手やるヤツでなぁ。ジュニアオリンピック出てんだよ。』

どこか誇らしげに、でも寂しそうに師匠は続けた。

『兄貴亡くしてからアイツ、猛稽古してな。女だてらに今じゃ有段者だ』『押忍。』

『あいつよ、おめぇさんに突っかかった時もそうだけど、危なっかしいからよ、何かの時は・・・頼むわ(笑)』

師匠がぺこりと頭を下げた。


『そんなそんな、勿体ない!押忍、ありがとうございます!!』

『じゃあ、先に出てるからよ(笑)』

そう言うと鼻歌交じりに師匠はタオルを肩にかけ、風呂場を出て行った。すぐさま声が聞こえた。『お父さん!!ちゃんと履いて出てっていつも言ってるでしょ!!!』

『いいじゃねぇか、減るもんじゃあんめえし!!』茜さんの声だ。


僕はそれから一五分ほどで風呂を出た。まさかその一五分の間に師匠が施設と話を付けてくれているなんて思いもしなかった。その日は稽古を終え、施設に帰り、翌朝いつも通りに早朝の新聞配達に向かった。

『おはようございます!』

『あ、おはよう風間君!突然だけど、君今日で卒業ね。』 『え・・・』

僕は言葉を失った。何か粗相をしただろうか。お客様から苦情の電話があったのか、いろいろ考えた。


『あー、ごめんごめん。心配しなくていいよ、説明するね。えっと先ずチラシの折り込みはこの機械がやってくれることになった。だからチラシを折り込むことを人間がやらなくてもいい。ラクチンだろ?(笑)それと君が今まで頑張って働いて払ってきた学校の費用、これからは払わなくてもよくなった。って事で今日までご苦労さん。あ、今日はちゃんと配達頼むよ』


「機械が入ったからチラシを手で織り込まなくてもよくなったのはわかる。授業料稼がなくてもいい?その意味が解らない。それに突然のクビ・・・」

何がどうなってるのかわからないまま配達を終え、新聞店に戻って僕は訊いた。

『あの、大変お世話になっていてこんな事聞くの申し訳ないんですけど、僕なんでクビなんですか?』

『あー、それはねー、うーん・・・言わないでくれって言われてるんだよね。まあ、じきにわかるから(笑)悪い事じゃないからさ。時々遊びに来てよ(笑)』

そう言われ、『はい、それではありがとうございました。』と僕は学校に行った。「なんでクビなんだろう。」ずっと考えながら・・・。


学校について同じクラスだと聞かされた茜さんを探した。

「あれ・・・茜さんがいない。まだ風邪治ってないのかな?」

そんな事を思いながらウトウトして、終業のベルと同時にダッシュで道場に向かった。

『押忍!おはようございます!』

これはご商売などをされているには常識だと思うが、「その日が始まる・その日初めて顔を合わせる」という意味で挨拶は昼でも夜でも「おはようございます」なのだ。トラックが師匠の家のから走り去っていったところだった。

『おう、来たか!ちょっとこっち来いや!』

師匠の言葉に『押忍!!失礼します!!』

と答えて靴を揃えて家にあがった。声のする方に進んでいくと和室の奥に仏壇があり、師匠が座っていた。

『昨日風呂で話した、茜の兄貴だ。手合わせてやってくれ。ケジメなんでな・・・』

茜さんのお兄さん・・・その言葉だけが僕を正座させた。座布団の前に正座し一礼して『失礼します』と一歩前に進む。火のついた蝋燭にお線香を翳し、御鈴を静かに鳴らしてそっと立てて手を合わせた。

(初めまして。ご縁がありましてご挨拶申し上げます。師匠からお兄さんのお話は伺いました。若くしてさぞご無念の事と思います。これから道場に通わせていただきます。どうぞよろしくお願いします)


心の中でそう呟いて、ゆっくりとお辞儀をし、頭を挙げた。

『ありがとうな、あいつも喜んでいるよ。これで心配なくあっちに行けるだろ(笑)』

師匠は笑顔でそう言った。

僕は黙って深くお辞儀をした。その時である。

『挨拶終わった?こっちだよー!上がってきてー!』二階からお母様の声が聞こえた。2階に上がっていくと1部屋だけ扉の空いている部屋があり、ゴソゴソという音と女性の声が聞こえた。

「失礼しまーす・・・」と恐る恐る入るとお母様と茜さんがベッドに水色の綺麗なシーツを張っていた。おおよそ六畳ほどの部屋で大きな窓があり、青い空と白い雲、そして電線とそこに止まっている雀が見えた。

『風間君、まだ敷布団と掛布団のシーツ付けるから手伝って』『はい!!』

僕は言われるがまま手伝った。シーツを付け、窓ガラスを水拭きしたあと新聞紙で綺麗にふき取り、最後に掃除機をかけた。

『はい、終わり!!』


お母様の掛け声と同時になぜか僕はその場に正座した。空手家が正座するのは珍しい事では無いが、なぜだか判らないが正座したくなったのだ。その前にお母様と茜さんが正座し、師匠も上がってきて正座された。奥様からの合図を受け師匠が話し始めた。


『茜の兄貴の部屋だった。ずっと触れなくてな。メダルとかトロフィーとかそのまんま、なんかあいつが帰って来た時に寂しくない様にと思ってよぅ・・・』

師匠が涙ぐんでいる。お母様も茜さんも泣いていた。

『でもよ龍二、今日からお前の部屋だ。これからお前は家族だ。同じ釜の飯を食い、同じ湯に浸かり、まさに寝食を共にする。もちろん稽古も一緒だ。お前はもう孤児の一人じゃあねぇ。「行ってきます」とここから学校行って「ただいま」とここに帰ってくる。学校代払う為に新聞配達しなくていい様に話付けてきた。(・・・そういうことだったのか)

俺も家族が増えてて嬉しいよ。竜二が帰って来たみたいでな。いけねぇ、紛らわしいよな。昨日話した茜の兄貴な、(竜二)ってんだ。おめえさんと同じ名前。字はおめえの方が立派だけどな。齢は竜二よりもおめえのほうが下だけどよ、ちょっとあいつが若返った感じかな(笑)まあ、そんなこんなでよろしく頼むわ!!』

状況は判った。僕の住む場所がもう施設ではなく、師匠の家の一室になった・・・


僕は言葉ではなく嗚咽と共に涙が止めどなく溢れて、言葉が出なかった。親を亡くした時もこんなに泣かなかった。もう泣く事なんて無いだろうと思っていた、お礼を言わなきゃいけないのに涙が止まらない・・・。

周りの状況なんか判らないほど正座したまま下を向いてひたすら堪えようにも止まらない涙を膝の上に落としていた。正面に誰か座って僕を優しく抱きしめた。柔らかくて温かい。身体は僕より小さいのになんて大きな感覚なんだろう、お母様だ。

『りゅうじ、おかえり』

泣きながらこう言われた。この「りゅうじ」が「竜二」なのか「龍二」なんて考える余裕もなく、僕は『ただいま・・・』


と口にすると再び泣き崩れた。家族全員泣いていた。師匠も、お母様も、茜さんも、みんな泣いていた。この時初めて仏壇の前で師匠が口にした「ケジメ」という言葉の意味が分かった。『おい、茜。』

師匠の呼びかけに反応し、茜さんが階段を降りて行った。

まだ僕の涙は止まらない。彼女は僕の靴を持ってきて紐をほどき始めた。そして新しい真っ白なスニーカーに赤い紐を両足分通した。

『道着はお父さんから、靴はお母さんから、私は紐だけだけど・・・よかったら履いてください』

お母様が僕からそっと離れて茜さんの傍に行くように誘導した。両手で一足ずつ受け取り、僕はまたしてもあふれる涙をこらえきれずに泣いた。今度は茜さんが優しく僕を抱きしめて言った。『おかえり、風間君!!』


僕が落ち着いてから、師匠とお母様が身元引受人として署名捺印した用紙を持って一緒に施設に行ってくれた。風呂に入り夕食を食べ、僕は部屋に入ってまっさらなシーツのベッドに横たわって天井を見つめながら考えた。自分だけの一人部屋なんて初めてである。「6畳ってこんなに広いんだ・・・」

こんな時昔の両親との事を思い出しそうなものだが、不思議とそれは全くなく、今日の出来事を思い考えた。学校を休んで家族三人で亡くなられた竜二さんのお部屋を僕が帰る場所に変えていてくれたのだ、いろんな思いがあっただろう。思い出話もあっただろう、寂しくなって手を止めて涙した瞬間もあっただろう。


『なんかあいつが帰って来た時に寂しくない様にと思ってよぅ・・・』

と師匠が言っていた。みんなそういう気持ちで触れずにいた部屋を家族全員で僕の為に変えてくれたのだ。家族全員でなければ変える事は許されなかった、いや家族三人だからこそ、部屋を触る意味があったのだと。そう考えた時、僕は居てもたってもいられなかった。どうしても仏壇に、竜二さんにお礼が言いたかった。スリッパを履き部屋の扉を開けると、自分の部屋から出てきたパジャマ姿の茜さんがいた。『どうしたの?辛いの?』

『いや、いろいろ考えてたらお兄さんにどうしてもお礼が言いたくて。仏壇にお参りしてもいいかな』

『ありがとう、お兄ちゃん喜ぶよ!!一緒にいこ!』

茜さんに手を引かれて仏壇前まで行った、温かく優しい手だった。礼をし、手を合わせた。また涙が流れた。『もう!また泣いて・・・』

そう言いながら茜さんも泣いていた。両親の死からいろんなことがあった。施設に移動、いじめ、暴力事件、総長・・・などなど。どれも小さなことだ。僕にとっては今ここで手を合わせている事、師匠のご自宅が僕の帰る場所になった事、こんな大きな出来事が今日一日の内にあったのだ。

忘れてはいけない、彼女からシューズをプレゼントされた事、僕は明日の朝からこのシューズを履いて登校するのだから。


『茜ちゃん、こんな幸せ・・・許されるのかな・・・』いつの間にか僕は彼女の事を茜ちゃんと呼んでいた。

『うん、いいんだよ。これが人の普通の幸せなんだから・・・』

僕は涙を拭き姿勢を正し、仏壇に掲げられた竜二さんの遺影に向かって

『どうぞよろしくお願いします』と深々と頭を下げた。


翌朝コンコンと部屋のドアをノックする音と共に、『風間君、起きてる?我が家は朝ごはん、みんなで食べるのー』と茜ちゃんの声。

『ありがとう、起きてます。すぐ行きます!!』『はーい、待ってるねー♬』

何だ?この幸せは。夢じゃなかろうか・・・鼻歌交じりに着替え、歯を磨き、髪を整えて食卓に『お待たせしました!』と座った時、

『どんだけ時間かかっとんじゃ!お前は!!』

と師匠の怒鳴り声。

『押忍!!失礼しました!!』

『明日から6:30朝飯!しっかり頭に叩き込んで準備しとけぃ!』

『押忍!!』夢ではなかった・・・

もともと朝刊を配っていた僕にとってこの時間に朝食を戴けるということは難しい事では無かったが、あれだけ泣いたからだろうか。いつ寝たのか全く覚えていない。実際何時間眠ったのかもわからない。茜ちゃんの声に敏感に反応しただけの話だ。師範を見送り、朝食の後片付けを手伝い、僕と茜ちゃんは学校に向かった。


当然ヒソヒソ言われるが、「それがどうした」という二人である。当然のことながら僕に『おまえさぁ』何て言おうもんなら何をされるかわかったものではないからそんな事をいう男子は居ないし、学校での茜ちゃんは公園で僕に突っかかってきたあのままだ。そんじょそこらの不良男子が叶う相手では無い。せいぜい女子トークに花が咲く程度だろう。彼女が嫌なら明日から別で登校すればいい。でも彼女は毎朝扉をノックし、一緒に登校する習慣を変えなかった。変わった事と言えば僕が自身の体がなまるのが嫌で早朝トレーニングをするようになったことと、どうせ早く起きているなら、と朝食の準備をお母様と一緒にするようになった事。そして当たり前の様に『おはようございます』ということが出来る様になった事である。


新聞配達をしなくてよくなった僕は授業中居眠りをしなくなった。朝にトレーニング(ランニングと柔軟体操、そして基礎稽古)をしているが、新聞配達ほど早い時間ではない。歯磨きを兼ねて朝シャワーを浴びているが朝食の準備にも十分間に合う時間だ。しっかり眠れている。(眠らずに授業を聞くとこんなにわかるんだ。)当たり前のことである。前述したとおり、僕は予習型だ。授業は復習である。その復習を先生の講義という形で行うのだから判り易いに決まっている。なるべくして学年トップの成績になった。学級委員に選出され、同時に生徒会長も先生方の強い推しでやる事になった。この生徒会長には裏があって、ハングレの奴らがバタフライナイフを持って先生を襲うという事件が多発していた時代だ。それらを抑え込むには僕を生徒会長に置いておくのが先生たちも安心なのだ。確かに、僕なら不良連中を抑える事が出来る。


こうして一転優等生となったわけだが、新聞配達を辞める事になって授業料を師匠に払って戴ける状況になったとはいえ、心苦しさがある。僕の中でまだ「よそもの感」がぬぐいきれないのだ。少しでも食費をいれたい。家族にお礼のプレゼントをするにも収入がない。ふと思いついて仕事から帰っていらっしゃった師匠に僕は言った。


『押忍!失礼します。門下生の子供の親御さんから「うちの子成績悪くて」という話をよく聞きます。小学生、中学生レベルなら僕は教えられます。空手道場に長机を置いて、寺子屋の様な塾に使用する事をお許し戴けないでしょうか?生徒さんも増えると思います。校長先生に話をしましたら、そういう事なら学校で余ってる長机を譲ってくれるってお話しでした』

『おお!!いいな、それ!どれくらいの授業料考えてるんだ?』

『押忍。テスト前講習や夏休み・冬休み講習等も含めて、三〇〇〇円の月謝を考えております。』

『よし。高校生のお前さんがそれだけの金額を稼ぐとなると税金の事も考えなきゃいかん。道場の売り上げということにして、お前さんに講師料を支払うという形でいいか?茜とのデート代くらい稼げるぞ(笑)』


『押忍!ぜひお願いします!!』

『ついでと言っちゃあなんだけどよ、茜のヤツ国語の成績悪いんだわ。教えてやってくれるか?これはサービスで頼むわ(笑)』

『押忍!もちろんです!宜しくお願いします!!』こうして日の高いうちは寺子屋と空手稽古のお手伝い。その後は大人の部で型や基礎練習。その後に茜ちゃんの勉強を見るという日常が始まった。勉強塾だけの子、空手を習いに来る子、両方やる子。どんどん生徒数は増えていった。流石にお母様1人で財務は難しくなり、師匠もお仕事を辞められ、道場一本となった。そうなると僕も子供を教える為の予備学習が必要となる。夕食の準備や後片付け、昼食や夕食も師匠ご夫婦でやるようになり、僕は「専念してよい」という形になった。


師範になった加藤さんは痔がひどく、しょっちゅう病院に通っていたが、ある日突然『辞めます』と言い出し、道場を後にした。僕は加藤さんの分も空手道場を見なければならなくなったが、子供達と一緒に礼儀礼節を学んでいくのは楽しかった。襟を正し、親御様とも話ができ、「暴力少年」という僕のイメージはいつしか「学習塾と空手道場をやっている好青年」に変わっていた。


中でも一番楽しみだったのは茜ちゃんに勉強を教える時間だ。茜ちゃんの部屋で二人っきり。夜に茜ちゃんの部屋に入る事を公然と認められているのである。最強の免罪符だ。癒し以外の何物でもない良い香りに包まれて勉強するこの幸せな時間。僕は時折彼女の唇を見つめてはイカンイカンと反省しつつも、彼女が解るまでとことん付き合って教えた。その甲斐あって、彼女は学年でも上から数えた方が早いくらいの成績を収めるようになった。僕は嬉しかった。何より彼女が答案を受け取るときに満面の笑みで僕にピースサインを送ってくれる事が嬉しかった。


そんな平和な日々を過ごしている中、『風間が腑抜けた』という噂が流れ学校に何台もの単車が押し寄せてくる日々が続いた。

『腰抜けの風間くーん!出てこいやー!!』

と爆音を立てながらヤカラが授業中に現れた。県立高校である。すぐにパトカーが来てくれるものの、「風間がいるから奴らが来る」という噂は当然僕の耳に入る。校内は自分が生徒会長として抑える事で成り立って入るが、校外から来る連中に関しては僕がどうこうできない。動いたらまた暴力少年に逆戻りだ。


その噂を聞いて駆けつけてくれくれる奴らがいた。「ホワイトエンジェルズ」だ。彼らは僕との約束をちゃんと守っていた。地域活動に積極的に参加し、街のゴミを拾い、爆音を立てず、行き場のない不良というレッテルを張られた奴らを自分達の中として受け入れて活動していた。元は少人数だが、名をはせた番格揃いである。そんじょそこらのハングレが太刀打ち出来るレベルではない。彼ら1人1人の名前を聞けば震えあがるほどの奴らなのだ。校外にハングレ単車が集まって騒ぎだすと、警察よりも早く駆けつけて彼らが散らす。そして「もう大丈夫です!」と合図の旗を振る。

一年ほどで学校にハングレ達が押し寄せる事は無くなった。


年末の大掃除、家族全員でおせちを作り、紅白歌合戦からゆく年くる年を視て、近所のお寺に鐘を突きに行く。正月早々道場で餅をつきご近所の皆様に喜んで食べてもらい、4人でコタツを囲んでの幸せなお正月。

「いいなぁー」そんな時間を過ごしながら、中学受験の子供達の冬期講習もこなして、季節は春。桜が綺麗だ。僕たちはめでたく高校二年生となった。


そんなある日、僕にとっては驚愕な事件が起きた。茜ちゃんが長い髪をバッサリ切ったのだ。まるで太陽が西から昇るくらいの驚きだった。

『・・・どうしたの?』 僕は恐る恐る訊いてみた。

『うん今日ね、お兄ちゃんの命日だから・・・』何とも歯切れが悪い。

「ひょっとして失恋か・・・?」

まったく、男というのは女性が髪を切るとすぐに失恋と結びつける。「命日だから」と言っているではないか。でも、僕が不思議なのは「命日だから、なぜ髪を切る?」という所だ。本人にこれ以上聞きにくいのでお母様に聞いてみた。


『ああ竜二がね、茜の長い髪が好きだったの。でも風間君が傍にいてくれる事であの娘も吹っ切れたんでしょ。大人の階段を上がれたっていう事よ』意味が解らなかった。大人の階段?髪を切る?吹っ切れる?男の僕には全く分からない。

その日の夜、いつもの様に勉強を教えていた。全然集中力がない。

『どうしたの?調子悪いなら今日は辞めておこうか?』

『ううん、違うの・・・』

『え、どうしたの?僕の教え方が悪い?わからなくなっちゃった?』

『ううん、そうじゃなくて・・・』  

何か言いたげだ。

『怒らないから言ってごらん』

『今日、お兄ちゃんの命日だから・・・。一緒に仏壇にお参りしてほしい』

『え?仏壇なら毎朝ちゃんとお参りしてるよ?』

『だからぁ、そうじゃなくって!!』

茜ちゃんは声を荒げた。

『・・・わかったよ。一緒に行こう』

今度は僕が彼女の手を引いて階段を降りた。仏壇の前で一礼し、お線香を立て、お鈴を鳴らし二人でお参りした。

『あのね、風間君にプレゼントがあるの・・・』

『ありがとう。靴紐かな?(笑)』

『茶化さないで!!!』 怒られた。

『ごめん、ありがとう、何かな。』

『目を閉じて手はお膝に置いて』

幼稚園の時に先生から言われたな。

僕は茜ちゃんの言うとおりにした。

『いいよって言うまで目を開けちゃだめだからね。約束できる?』 

『うん、わかった。約束する!』  

僕は目と閉じて手を膝の上に置いた。


唇に温かく柔らかい感触、時間にして一~二秒くらいだろうか・・・

『目・・・開けていいよ』  

僕は目を開けた。目を潤ませた茜ちゃんがそこには居た。

『茜のファーストキス。お兄ちゃんの前で貰ってくれてありがとう・・・』

あの時の何十倍もの強烈な、心臓を握りつぶされそうな感覚・・・

それをグッと堪えて僕は言った。

『茜ちゃん、こちらこそ大切なキスをありがとう。大切にするよ』


その言葉を聞いた彼女の瞳から大粒の涙がぽろっと零れた。そして今度は彼女が瞳を閉じた。僕は涙を指で拭い、優しく手を握ってキスをした。僕にとってもファーストキス。茜ちゃんでよかった。唇が離れたと同時に僕は彼女を抱きしめた。後ろの方でコソッと音が聞こえた。恐らく師匠かお母様だと思うが、ここは気を利かせて出て見えなかったのだろう。


お母様の言った「大人の階段」とはこの事だったのか。僕は心から彼女を大切にしようと誓った。


翌朝、僕はいつもの倍近く走った。ドキドキして眠れなかったし、走らずにはいられなかった。暗かった空に太陽が昇っていく。


綺麗な茜空だ。


シャワーを浴びて部屋に戻り準備万端でノックを待った。コンコン!!『風間君、準備できてる?』いつもの茜ちゃんの声だ。

『うん、出来てるよ。』そう言って扉を開けるといつもと変わらない茜ちゃんがいた。

『さ、ご飯たべよ!!』『うん、行こう!』

朝食を戴き学校へ向かう、何らいつもと変わらない。学校に着くと、


『えーー!茜、髪どうしたのーーー?!』 

女子の声が響く。

『昨日お兄ちゃんの命日だったから、イメチェン! 変かな?』

『ううん、ぜんぜん変じゃないけど、風間君に好きな人が出来たとか?』

女子もやっぱり髪を切るとそこに結び付けるんだ(笑)

『風間君関係ないよ(笑) ただのイメチェンだよー』

そう言ってケラケラ笑っていた。彼女はクラスでもモテるので下駄箱や机の中に手紙が入っているなんてことは珍しくないし、バレンタインデーが近づくと『誰が彼女から貰えるのか』と男子の中で騒ぎが起こる程だった。


実際に彼女がチョコを渡すのは仏壇のお兄さんと師匠だけなのだが。。そんな彼女のイメチェンに当然男子生徒もざわついた。様々な憶測が飛び交う。

「茜さん失恋か?」「でもお兄さんの命日だからって聞いたぞ?」「命日だからってあんな長い髪バッサリいく?」「好きな人が出来たとか?」

僕はそれら男子トークをいつもの様に予習しながら、知らん顔して聞いていた。しびれを切らしたある男子生徒が聞いてきた。

『あの・・・風間君・・・、茜さんの事なんだけど・・・』

『ああ、髪だろ?俺もびっくりしたよ。聞いてみたけどお兄さんの命日だったからってしか聞いてないぜ。それ以外は知らないよ。』

茜ちゃんに聞こえる様にわざと大きな声で言った。彼女はこちらをチラツと見て、答案を受け取るときと同じようにピースサインをしてみせた。


実は大きく変わった事がもう1つある。茜ちゃんが積極的に台所に立つ様になったのだ。僕のお弁当も彼女が作ってくれるようになった。お弁当箱いっぱいのおかずと、ぎゅうぎゅうに握られたおにぎりだ。ちょうど一週間くらい前だったか、茜ちゃんに聞かれたことがある。

『風間君ってどんなおかずが好き?』

『僕は好き嫌いがないから何でも美味しく戴けるよ』

『うーん、じゃあ、お弁当のおかずって何が好き?』

『施設で育ったから、綺麗なお弁当に憧れたよ。卵焼き、赤いウィンナー、ミートボール、鶏のから揚げ・・・みたいなのね』

『そんなの、全部冷凍食品で揃っちゃうじゃん。』

『施設ってさ、いっぱい作ってその残りをお弁当に詰めてくれるから、冷凍食品ってあるいみ憧れなんだよね。あ、あと、おにぎり!』

『おにぎり?山下清みたい(笑)』

『おにぎりって食べる人の事を思って握ってくれているっていうイメージがあってさ、すごく憧れるんだよね。』


それらが全部叶えられているお弁当、本当に幸せだ。ちなみに卵焼きの端っことか多く焼いたウィンナーなどは師匠が嬉しそうに朝食で召し上がっている。

『そうかー、茜が作るようになったかー ♬ 』とご機嫌だった。


テスト期間、高校が昼で終わったある日、僕は茜ちゃんを連れて兄弟子のお墓にお参りした。僕を救ってくれて子供達を救うために車の前で盾となって亡くなった恩人のお墓だ。兄弟子の事を墓前で話し、お墓を掃除して茜ちゃんがお花を供えてくれた。その帰り道、

『風間君、お兄ちゃんの所にも一緒に行ってくれる?』と誘われた。そうだ!これだけお世話になっておきながら、竜二さんのお墓にはまだお参りした事がない!!僕は茜ちゃんとお花屋さんに行き、お墓に向かった。小さなお墓だった。手入れも行き届いている。師匠やお母様がよくお参りされているのだろう、お花も新しい。二人で手を合わせ、帰路に就いた。

自宅まで約二〇〇メートルという所で背筋がゾクッとしたのと同時に

『かーーざーーーまーーー!!!!!』

という声が聞こえた。明らかに本気で殺しに来ている、殺気だ!!

『茜ちゃん、逃げて!!』

そう言って僕は彼女の前に出た。

気配を読む。一人・・じゃないな、二人、いや三人か・・・タチの悪いことにブームというのは移り変わる。バタフライナイフからサバイバルナイフに武器は変わっていた。バタフライナイフは果物ナイフサイズだが、サバイバルナイフとなると刃渡り二〇センチ近くある。包丁と同じくらいのサイズだ。茜ちゃんの方に目をやると小刻みに震えている。


空手の有段者といえども女の子だ。僕1人でなら何とか・・・と考えていたら、こいつらの仲間なのか。一〇人ほどに囲まれた。

『おい、俺が1人で相手になってやる。この子は返してやれ』

『はぁ?おべー馬鹿じゃれーの?おめ―殺ってかろのお楽しめじゃんよ』

ろれつが回ってない。異常な汗をかいている。これは覚せい剤か。


これだけの人数相手にしたことは無いし、サバイバルナイフ。しかも茜ちゃんを守りながらとなると、どうやって闘ったらいい??


『風間君・・・暴力・・・駄目だよ・・・』

茜ちゃん、わかってるけどこんな時に何を言っている・・・


『キャッ!!』という声と共に茜ちゃんの腕がナイフで切られた!!

『大丈夫だから、暴力はだめだから!!!』そう叫んだ茜ちゃんの後ろに小さな人影。1人倒されたのが見えた。師匠だ!

『風間君、これは暴力じゃない。正当防衛だ。ただし、やりすぎるな。できるか?』

『押忍!!』

僕と師匠は間に茜ちゃんを入れて。互いに背中合わせになった。

『コォォォォーーー!』『ハァァァーーー!』

道場で師匠と立ち会って以来だ。お互い本気で息吹を入れ、体制を整えた。

『君は茜を守る事だけに集中しろ!!』

『押忍!!』


近所の通報でパトカーが到着する頃にはヤカラは全員倒れていた。二人でやった。二人で茜ちゃんを守った!その達成感で『師匠!!』と振り向くと視界に師匠の姿はない。ふと視点を下にやるとしゃがんでる師匠がいた。

『師匠、やりましたよ。僕やりすぎてないですよ!!』『・・そうだな、よくやった!』  


うそだろ?背中にナイフが刺さっている。慌てて抜こうとした時、『触るな!!』と救急隊員の声がして僕は止まった。

『今抜くと大量出血する恐れがあるから、このまま病院まで運ぶ。お嬢さんや君だって無傷じゃないんだから一緒に救急車乗って!』

茜ちゃんは腕の皮1枚切られていた。出血はさほどでもない。僕にはナイフは残っていないものの、左足の膝の内側を刺されていた。恐らく廻し蹴りをした時に刺されたのだろう。アドレナリンが出ていたのか全く気付かなかった。三人とも救急車に乗って動き出した。


『お父さん!!!』茜ちゃんが泣いている。

『でーじょーぶだよ、こんくらい(笑)ちょっと刺さったレベルだ。それより彼氏の出血の方が大変だぜ?』

酸素マスクを付けられた師匠が笑いながら言った。そうだった。僕も左脚を刺されていたのだった。「くっそ!!」思わず拳を握った

あれ・・・左拳が握り込めない。見てみると大量出血の原因はむしろこちらだった。左手薬指の第一関節から先が皮一枚でつながっている状態、「開放性粉砕骨折」だ。左指、左脚。どれだけ左が弱いんだ!!

(いやいや、そんなこと考えている場合じゃないだろ?)

と今は言えるが、当時は「武」に生活すべてを捧げていた。しかも師匠と組んでこれかよ!!という情けなさの方が勝っていた。とにかく悔しかった。病院に到着しストレッチャーで師匠がまずオペ室に運ばれた。


『上着切りますね!!』


という声が聞こえた。出血を少なく綺麗に刃物を抜くためには着ている者なんか邪魔。だから上着を切って刺さっている刃物の部分を消毒して、手術しながら刃物を抜くのだろう。

茜ちゃんの傷は皮1枚だったので救急車の中で『これなら縫わなくても大丈夫だね』

と言われて包帯で処置されていた。

対して僕は大体鼠径部を圧迫して止血し、左わきに自分の拳を挟み込んで止血している状態。こちらも緊急オペだと言われた。動揺している茜ちゃんを落ち着かせるため、言った。


『茜ちゃん、大丈夫だよ(笑)ごめんね、怖い思いさせたね(笑)』

『ううん、風間君・・・お父さん・・・』

『あはは、師匠も笑ってたし僕も笑ってる。大丈夫。茜ちゃんにしかできない事があるんだ。同じ空手家としてお願いできるかな?』


それを聞いた彼女はフーっと息を吐き、「押忍」と答えた。

『あのね、師匠も僕も手術するってなると「手術同意書」っていうのに署名・捺印しなきゃいけないの。これはお母様じゃないとダメなんだ。タクシーで家に戻ってお母さん連れて来てもらえないかな?』

『押忍!』自分のすべきこと、せねばならない事がわかった顔をしている。

『いい子だ』 そう言っておでこにキスをした。彼女が病院を出たのを見送った記憶が曖昧だ。僕も大量出血で意識がぼーっとしていた。ストレッチャーで自動ドアの手術室に運ばれてライトがいっぱい・・・

までは覚えているが、そこからの記憶はなく、気づくとベッドに横になって左腕と左脚は心臓よりも高い位置に吊るされていた。2人部屋で隣には師匠が寝ている。


(無事だったんだ、よかった)

『目が覚めた?』お母様の声がした。

『はい、ご迷惑をお掛けしました。』

『本当よ。うちの男どもはこんな大怪我して!まあ、そのおかげで茜は無事たんだけどね(笑)先に伝えておくね。風間君の左薬指、くっついたけどもう曲げられないって。さっき手術後の写真見せてもらったけど、粉砕した骨の代わりにセラミック入ってるみたいだよ。まあ、見た目くっついただけヨシとしなきゃね。脚は縫って縫合しただけ。』

『あの、師匠はどうなんですか?』

『ああ、あの人は分厚い筋肉のおかげで綺麗に抜けたってさ(笑)出血も少なく、内臓も何ともないみたい』

『よかった・・・茜ちゃんは?』

『私のせいで二人にケガさせたって・・・私が違うって言っても届かないの。風間君が目覚めるまで待合に居るって。呼んできていい?』


『ぜひ呼んでください。彼女の心の苦しみは僕が治します』

『呼んでくるわ、お願いね。』そう言ってお母様は出て行った。やがて茜ちゃんが目に涙をいっぱい溜めて入ってきた。

『が・ざ・ま・ぐ・ん・・・』 

泣きそうなのを堪えている。

『大丈夫だよ、こっち来て座って。』

横に座ってもらい僕は右手を差し出した。茜ちゃんが僕の右手を握ってくれている。

『いいかい茜ちゃん、よく聞いてね。僕も師匠も嬉しいんだよ』

『え?何で?私がいなかったら二人ともこんなケガしてないのに』

『違うよ。元々狙われたのは僕、そして助けてくれたのが師匠。その二人が手術するにあたってお母様を呼んできてくれたのが茜ちゃんだ』

手を握って涙を浮かべてコクコク頷いている


『僕も師匠も君を守りたい、守らなきゃって思えたから、多分いつもよりも2人とも強かったんじゃないかな(笑)だからこれで済んだんだよ。生きてるもの。君のせいでケガをしたんじゃない。君が僕と師匠を助けてくれたんだよ。だから、ありがとう。』

「わーん」と彼女は泣いた。ずっと我慢していたのだろう。

僕は右手で彼女の頭を撫でながら言った。

『ごめんねー、怖かったよねー』 

『風間君やお父さんも、お兄ちゃんみたいに居なくなっちゃうんじゃないかって思って、怖くって。私・・・私・・・』

僕は握られていた右手をほどき、自分の唇をちょいちょいと指さした。


「キスして」の合図。


彼女は泣きながらキスしてくれた。優しく温かかった。

『ほら。温かいでしょ。師匠も僕も生きてるから大丈夫(笑)男の力はさ、女の子を守るためにあるんだから。茜ちゃんの唇が特効薬!!』

そういうと、笑顔で何度も「うん、うん」と頷いた。

『さあ元気になったね。安心した。じゃあお母様呼んできてくれるかい?』

『はい、待っててね!』

そう言って彼女は部屋を出て行った。


『・・・ほーーーう、そんな特効薬があるん

なら俺もほしいけどなぁー』


師匠の声だ。全身からドッと汗が噴き出した。「これはヤバイ!!!」

『言ったろ?まんざらでもねぇって(笑)大切にしてやってくれな(笑)しかしまぁ、あれだけの人数相手に俺ら。楽しかったよなぁ(笑)』

『押忍!!』 怪我人二名、間違いなく空手バカである。


門下生が増えたのでお母様もスーパーのレジに行っている余裕がなくなりご自宅にみえた事が幸いだった。茜ちゃんが呼びに行ってくれた時も自宅にいてくれたからすぐに駆けつけてくれたし、我々が入院中は毎日病院に来てくれた。そして稽古の日には自らが師範として指導をしてくれた。茜ちゃんも学校帰りに欠かさず来てくれていた。一週間が過ぎ、

師匠の方の回復が早かったようで、僕よりも先に退院する事となった。

『おう、先に帰って待ってるからよ。まだしばらく稽古はできんから道場には顔出すくらいにしとくわ。明日からも毎日茜はくるぞ(笑)』悪い顔をしている。でもどこか嬉しそうだった。

『押忍!必ず帰ります!!』

『あたりめーだ! ばかやろう(笑)』

そう言うと病室を後にした。


茜ちゃんは毎日来てくれた。土日にはお弁当を作ってきてくれたし、ずっと話し相手になってくれた。僕は勉強を見てあげながらまるで夫婦のようなこの時間を楽しんだ。「この子を守ってケガをした」と思うと痛みなんて何ともない。その他、門下生やその親御さん、学校の先生など入れ替わり立ち代わりお見舞いに来てくれた。施設の頃の寂しさに比べたら、今の方が何百倍も幸せだ。先ず包帯が取れたのは脚だった。傷口は五センチくらい。刃物が骨に当たったので傷は深かったが、ちゃんと曲がるし蹴りも出来る。

その三か月後、左薬指の包帯が取れた。何度も消毒するたびに見ていたのでそんなにショックはなかったが、「あ、本当に曲がらないんだ」という感じだった。薬指1本曲がらないだけで握力はすさまじく落ちる。MAX一〇〇キロあった握力が、今現在四〇キロしかない。リハビリもして鍛えてもなお、この数値である。こればっかりはどうしようもない。大体日常生活で一〇〇キロもの握力は必要ない。まだ指がくっついていてよかった。


晴れて退院の日、先生と看護師詰め所にお礼に行き、家族四人で病院を出た。もう稽古したくてウズウズしていたが、師匠から

『お前はしばらくランニングと柔軟。特に固まってるから柔軟は念入りに!茜は見張り役!!』

と言われていたので、毎日茜ちゃんと一緒にランニング、柔軟をした。久々に道場に顔を出すと子供達が「おかえりなさい!!」と迎えてくれた。「たっだいまーー!」と子供達を抱きしめ、僕は声だけ参加していた。さて、遅れていた約三か月分の勉強を取り戻さなくては!!と部屋で教科書を開いた時、コンコンとノックして茜ちゃんが入ってきた。

『ノート、頑張って取ったから・・・』


見てみるとなんと!! このままテストにできそうなほど立派なノートが出来ていた。

『すごいじゃん!完璧じゃんこのノート!頑張ったねー、ありがとう!!』

これなら一週間もあれば遅れを取り戻せそうだ。

わかってる・・・ありがとうのキス。

ぎゅっと抱きしめて「ただいま」と何度もキスをした。 『おかえり、大好き』

もう嬉しいなんてレベルじゃない。このままベッドに押し倒してしまいそうな気持をかろうじて理性が抑えた。大丈夫。キスはいっぱいしたが、それ以上の事はしていない。師匠の顔もお母様の顔も真っ直ぐ見られる。何もやましくない。でも恥ずかしい(笑)


流石、あれだけのノートを作り僕に毎晩授業してくれた茜ちゃんは中間テストで学年一番を取った。そうなのだ、勉強とはインプットしてアウトプットして初めて成果が表れる。教えるということはそういう事なのだ。


自信を付けた彼女は僕がやっていた子供達への寺子屋授業を手伝ってくれるまでになった。素晴らしい成長だ。僕の入院もまんざら無駄ではなかった。

夕食の時に師匠が娘の学年一番をみて驚いたことは言うまでもない。

『すげーな、茜!!あの特効薬って勉強も出来るようになるのか?』

二人してお味噌汁を噴き出した。茜ちゃんはかろうじて手の中で納まり、僕はテーブルに思いっきり噴出した。

そうだった、あの後茜ちゃんに師匠から言われたことは全部話していた。だから、「特効薬のキスの話」を師匠が知っている事は二人とも解っていたのだ。知らなかったのはお母様だけだ。

『なあに?特効薬って? まぁ、大体想像はつくけどねー ♬ 』

そう言いながらお母様はニコニコと僕が噴き出したお味噌汁を拭いてくれた。拭いてもらわなければならないほど、リアルに噴き出したのだ。

『す、すいません。。。』

『いいのよ。茜が笑顔だから ♬ 』

家族三人の視線が茜ちゃんに集まった。ティッシュで口元を抑えたまま、恥ずかしそうに下を向いていた。


翌朝いつも通りジョギングと柔軟をしてシャワーを浴び朝食を食べ、僕達は学校へ向かった。朝礼の中で先生から出た言葉。

『えー、三年生の皆さんは本格的に進路を決める事になるのですが・・』

そうだった!どうしよう!国立大学に行けるほど偏差値の高い高校でもないし、受験対策勉強なんて全くしていない。そもそも茜ちゃんはどうするつもりなんだろう?そんな事をモヤモヤと考えながら学校での1日は過ぎ、一緒に帰る道すがら、僕は茜ちゃんに聞いてみた。

『茜ちゃん、高校出たらどうするの?』

『うーん、親が大学行っとけっていうから行こうかなーって。風間君は?』

『僕は大学側が「無料でいいです」っていうのなら行こうかな(笑)』


こんな話をしながら家に帰る途中、段ボール箱に入れられた一匹のネコがミーミーと泣いていた、捨て猫だ。僕と茜ちゃんは速足で駆けつけ、「かわいいねー」と抱きかかえて言った。

『君の名前はネロだよ!!』 

なぜ「ネロ」なのか判らないが、彼女が「ネロ」と言ったのでそうなった。そうして、「こっそり飼おう!」と連れて帰った。「産まれてすぐ捨てられた」という大きさではない。愛らしい子猫だ。とはいうものの、何を食べさせていいのか、トイレはどうするのかなどペットを飼った事ない二人だ。彼女はカバンに入れてこっそり部屋に持ち帰り、僕は図書室に戻って「猫の飼い方」を借りてきた。家に帰ってみるとすでにお母さんにバレている。

『あなたねぇ、生き物を飼うって事がどれだけ大変な事か解ってるの?』

『でもさ、あのまま置いといたら死んじゃうかも・・・』

『ほかの人が拾ってくれるわよ、元の所に戻してらっしゃい』

『だってこんなに懐いてるんだよ?ほら、可愛いし・・・』

何処の家でも動物を拾って来たら行われる親子の会話である。

『学校行ってる間はどうするの?』

『そこはほら、もっと家のお手伝いするからー』

『そんなこと言ったってー・・・』

『お母さんも子供の頃、猫飼ってたって言ってたじゃん』

『それはそうだけど、今は他にも面倒見なきゃいけないし・・・』

茜ちゃんの空気が変わった・・・。

『・・・お母さん、それって風間君の事言ってるの?』

『違う違う(笑)町内会長をやる事になったからって話よ(笑)』

『よかった!じゃあさー、町内会費集めるのとか手伝うからーー!』

『んもう、お父さん!!茜が困った事言ってるんだけど・・・』

『いいじゃねぇか、ちゃんと面倒見るんだろ?』

『もちろんよ!途中で投げ出したりしないもん!』

『じゃあ、いいんじゃね?風間君も巻き込んでよ』『わーい、お父さんありがとう!!』


全く、父親というのは娘には甘いものだ。ここからが大変だった。ご飯に鰹節のネコマンマ的なものは食べるとして、トイレの躾が出来るまであっちこっちでするし、フンの中から寄生虫が出てきては獣医さんで虫下しを貰ってきて飲ませ、予防接種、避妊など結構お金のかかるものだ。まぁ、命が救えたのだから安いものだ。猫の成長は早い。そうこうしている内に身体は大きくなり、トイレもちゃんと出来る様になり、寝るときは茜ちゃんの布団で寝るというサイクルができた。流石に道場には来させなかったが、家の中を縦横無尽に走り回り爪とぎ用のマットがあるのに壁でバリバリするし。。それでもみんなから愛されて育って行った。カリカリのネコフードを好んで食べ、毛づくろいをしてはケロッと吐き(猫は吐くものだ)片付けている傍から「お腹すいた」と鳴く。それでも我が家のマスコットとして家族全員から愛された。


高校生活も終盤に差し掛かり、茜ちゃんは外語大への進学が決まった。大学に通いながら空手師範の免状を取得していた彼女は「道場で子供を教える」というアルバイトをすることになる。僕は某有名私立大学から成績優秀者と言う事で入学金・学費免除というこの上ない素敵なお誘いを受けていた。ただ一つ問題は、場所が遠く離れた東京だということだ。

『いいじゃねぇか、行ってこい!!』

師匠の一言であっさり決まった。そういえば僕がお世話になるときもネロを飼うか飼わないかの時も、師匠の一言で決まったのだった。僕たちは高校を卒業し、晴れて大学生となった。彼女は家から通うことができたので通い、僕は東京で寮生活の傍らアルバイトをした。まだ携帯などなかった時代だったので寮の電話で茜ちゃんと話し、手紙もいっぱい書いた。大学では空手部に所属し、帰省しては師匠にたっぷりしごかれた。三年が経ち、ネロも立派な大人になった。僕も茜ちゃんも大学三年生。遠距離恋愛になるので普通は「他に好きな人が出来ないだろうか・・・」などと心配したりするのだろうが、僕達に限っては全くその心配はなかった。恋愛というよりはそれを通り越して夫婦のような感覚だった。さて、あと一年で卒業という時に東京の寮にいる僕宛に大学から手紙が来た。



「大学四年生という節目に当たり、大学卒業という学位を収めていただきたく、授業料が必要・・」


という様な内容だった。僕はあっさりと退学届けを提出し、家に帰る事にした。「大卒」という肩書に何の未練もなかったし、周囲はキャンパスライフをエンジョイしているが、僕にはそんな暇はなかったし、何より僕は予習型なので授業がつまらなくなってしまった。もっと奥深く研究すれば学ぶことも沢山あったとは思うが、そこまで研究するくらいなら早く働きたい!と思っていたからだ。突然家に帰り事の顛末を報告したところ、師匠に激しく叱られた。


『大学行かせるのによぅ、一人も二人も一緒なんだよ!!何で大卒取らなかった!!』

と。この世代の方は『大学卒』という肩書でステータスだったし、自分達が行く事が出来なかった分だけ行かせてあげたかったのだろう。ありがたかったが自分の考えと気持ちを説明したら理解はしてくれた。茜ちゃんは残りの一年間大学に通い、僕は営業職として働く道を選んだ。


営業を選んだ理由は簡単である。「初任給が高い・歩合給がスゴイ!」だ。因みに僕の仕事は世に普及し始めた携帯電話を販売する事だ。最初はいくら足を運んでも全く売れなかった、一台一〇万円近くと高かったからだ。会社を周り買ってくれそうな社長さんに話をしようにも、簡単に社長さんに繋いでくれるはずもない。


そんな時僕に追い風が吹いた!!

メーカー各社が新しい機種をいっぱい出したのだ。しかもお値打ちに。お客様からすると「高くて買えなかった携帯電話」が、「割と安く買える、どこの機種にしようかな」に変わった。こうなったらこっちのものだ。


携帯電話販売には大きく分けると2通りの儲け方がある。

① 機種代金を高くしてその場の現金で儲ける方法

② 機種代金を激安にして沢山使ってもらい、通信料で儲ける方法


僕は②を選択した。従業員数の多い工場や営業さんの多い会社を周り、


『今なら一台一〇〇円です。皆さんに持ってもらえたら確実に連絡が取れます』

と。会社から「お前には静岡県を任せるからショップ立ち上げて一ヶ月に、三〇〇台売ってこい!」と指令が出ていたが、二日で目標達成してしまった。次の月のノルマは五〇〇台!楽勝だった。その次の月は八〇〇台!これも達成。同じ営業メンバーが「どうやったら売れるの?まだゼロなんだけど・・・」

と言っている中、「ごくろうさん、管理職として本社に戻ってこい」と辞令が出た。


営業の世界では「未達成者は悪者・達成者は正義」なのだ。ここまで目標達成して、なおかつ大きく上回ったら、管理職で本社に戻ってこい!といわれても何らおかしくない。でも・・・僕はそれが嫌だった。まだ若いし東京という町にある本社で落ち着くような人間ではない。現場で「どうしたらいい?」という仲間と一緒に周って成績が取れた時の達成感や、お客様とのつながりの方が大事で、「管理職なんて年取ってからなればいいや」って思っていたので、勤務期間が少なかったので退職金は殆どないが、営業成績歩合が二〇〇〇万ほど貰えたのですぐやめた。「いやー、楽しんだ!」という感じだ。


僕は地元に戻り、師匠の家にお金は全部渡した。現金だったのでびっくりしていたが、営業で得た正当な報酬なので「お礼に」と受け取って貰った。そういえば師匠が「ケンタッキーの日」を作っていて、みんな嬉しそうに食べていたなぁ・・・というのを思い出し、今度はケンタッキー・フライドチキンで働いてみる事にした。僕は外回りの営業経験者である。「どうしたらお客さんをもっと呼び込めるだろう」とか「なんでバイトさんはこんなにすぐ辞めちゃうんだろう」などと毎日働きながら考えていた。これらの問題がクリア出来たらすごい売れるだろうなー!売れたら面白いだろうなー!って思いながら働いていた。


「クリスマスにはケンタッキー!」

というフレーズがある。確かにクリスマス前から年末年始にかけて地獄のような忙しさだ。でもなんか・・・平凡だ。 だって五〇メートル先にあるマクドナルドではいつも行列が出来ている。社員というのは「スタッフ」に始まり、「副店長」「店長」「エリアマネージャー」「マネージャー」と昇っていくのだが、僕が二番目に配属された田舎の、古く綺麗とは言えない店舗ではアルバイトさんもパートさんも少なく、社員もすぐに辞めてしまう様な店舗だった。当然大赤字で潰れてしまうんじゃないか?という感じである。一日にお客さんも数人しか来ないし、『なんでから揚げに骨が入っとるんだ!』とお叱りをうけるような地域だった。


幸い田舎だけにマクドナルドとかロッテリアという競合店が地域に無かったので、「これ、うまくやれば人気店になるんじゃないか?」と考えてサンタの衣装着て田舎道を歩いてみたり、お店の前にあるケンタッキーおじさん(カーネル・ハーランド・サンダース)の横で一緒に固まって宣伝してみたりしてみた。僕のお店はその田舎では知らない人がいないくらい有名になった。売り上げも急上昇!僕は「スタッフ」から「副店長」を飛び越えてその店の「店長」となった。飛び級昇進だ。これは嬉しいし楽しい(笑)今までよりも、もっと好きに出来るのだ。クリス明日前になると「真空パックの鶏腿肉」が各店舗何本!とノルマとして課せられる。


僕の県には三八店舗ケンタッキー・フライドチキンがあったが、どの店舗も売れなくて困っていた。そりゃそうだ、アツアツのケンタッキーチキンが食べたいのであって、お客さんは「真空パックの鶏腿肉」には見向きもしない。今は幾らか知らないが、当時は一本一二〇〇円と結構な金額した。そんなものを(そんなものと言っては申し訳ないが・・)お店運営とは別にノルマとして何百本とあるのである。多くの店長が売れ残ってしまうので自腹で購入し、その後どうしていたかは知らないが・・・という状況だった。

これだって売れば売上である。「どうしたら売れるか」を考え、僕は年末のご挨拶用の贈答品として先ずはアルバイトさんやパートさんに薦めてみた。この「真空パックの鶏腿肉」はいうなれば「鶏のハム」である。ケンタッキープレゼンツ「鶏のハム!」と銘打ってみたところ、売れすぎて足りなくなり、他の店舗から貰わなければ間に合わなくなってしまった。ここでも年間売り上げを三倍にし、僕は自分の県で一番売り上げのある忙しいお店に配属となった。ここで成果を上げられれば次は「エリアマネージャー」である。そう、

ここが道場から近い、五〇メートル先にマクドナルドがある、県で一番売り上げのある店なのだ。僕が1番最初に配属された店舗である。あの時は何もできなかった。でも今は店長だ、ある程度何でもできる。しかもよくよく調べてみると、「売れるお店」とはいえ、日本のケンタッキー・フライドチキンの中でも一番ではない!!三十五番目くらい。これは僕の営業本能に火をつけるには十分だった。


先ずは日本で1番売れるケンタッキーのお店を作る事が第1

目標。その為には地域で1番愛されるお店を作る事。人が作って人が売って人が買ってくれて喜んでくれる。それならばまず愛されることが1番だと考えた。僕は出来る限りの手段を使ってアルバイトさん・パートさんを募集して集めた。多い時は150人くらいいただろうか。そしてことごとく褒めた。

『今の接客すばらしい!!お客様また絶対に来てくれるよ!』

『今のお辞儀キレイだったねー!お客様から見たらあのお辞儀は美しい!最高だよー、ありがとうー!!』

『うちのお店のカウンターにいる皆さんの笑顔の素敵な事!!こんな笑顔でいらっしゃいませ!!って迎えられたら、絶対また来たくなるよねー!!』

『君の作ってくれるフライドチキン、なんでこんなに美味しいの?それ、みんなに教えてあげてくれないかな(笑)』

『君、商品パックするのすごく早くて綺麗!間違えないしすごいよ!僕にそのテクニック教えてくれないかな?』

などなど。

するとどうだろう。驚いた事にアルバイトさん、パートさん自らが考え行動するようになったのだ。


『どうしたらお客様に喜ばれるのか』

『どうすれば売り上げをUPさせる事が出来るのか』

『どうしたらもっと褒められるのか』

ファーストフード店というのは社員の数が少ない。この規模の店舗でも2人。あとはアルバイトとパートさんだ。ある朝出勤すると、みんなケンタッキー・フライドチキンの制服を着ていた。当たり前のことだが、驚いたのはここからだ。髪の色は全員黒に統一され、靴下の色もバラバラだったものが全員ストッキングを着用。メイクは全体的に薄目でとても清潔感を感じる。

『店長、CAさん(キャビンアテンド)さんをイメージしてみたのですが、どうでしょうか?』僕は即答した。

『すごくいいよ!!何これ、君達で考えたの?』

『はい、よく来店されるお客様のお名前とか特徴とか皆で持ち寄ってお声がけしたら喜んでいただけるんじゃないかと思って、まとめてみました』

すごい、協調性と統一性だ。自分達で考え行動する事を認めてもらえたという達成感。店舗に於ける売上向上の秘訣はここにあった。これは会社経営でも同じことが言える。トップの意識が末端社員まで浸透していれば全員が社長としての考え方で動き、生産性が著しく向上するのだ。ここからのみんなの働き方はすごかった。

『〇〇さん、おはようございます。今日もいらしてくださったのですね、ありがとうございます。本日もチキンフィレサンドのセットとホットコーヒーでよろしいですか?』

『あ、いつもありがとうございます。今日は沢山お買い上げありがとうございます。そうですかー、お孫さんの入学のお祝いなんですね。羨ましいです。ご入学おめでとうございます!』

など、マニュアルサービスではないヒューマンサービスを展開し始めた。


フライドチキンはハンバーガー類と違い、チキン一本当たりの単価が高い。それ故にリピーターさんからの口コミ評判が凄まじい影響力を持つ。この積み重ねがキャンペーン等に絶大な威力発揮するのだ。それに加えて彼女たちは独自のキャンペーンを考案した。

『店長、ぬりえしてくれた子供さんにフライドポテトを提供してもよろしいでしょうか?費用対効果を考えますと、広告を打つよりかなり安価で利益率も高くなります。試算では四%の売り上げ上昇を見込んでいます』


企業戦略室でもここまで考えるだろうか。客層を知り、サービスを知っている彼女達だから考案できる間違いのない独自キャンペーン。僕が断るはずもない。

『いいねー、やろうよ!!』

『でも本部の方が何て言われるか・・・』

『関係ないよ!お客様が喜んで下さるんだよ!やろうやろう!!』

こうして次々にキャンペーンは考案され、実行され、驚くほどの右肩上がりで売り上げは伸びた。これには本部の人も入れ代わり立ち代わり視察に訪れるほどだ。本部の人間だろうが無かろうが彼女たちのサービスは変わらない。

『いらっしゃいませ、こんにちは。今日はちょっと肌寒いですね。たった今ホットコーヒーを落とし終わりました。もう一分蒸らしますと、より芳醇な香りをお楽しみいただけます。いかがでございますか?』


こんなファーストフード、かつてあっただろうか。少なくとも自分の店でありながら、僕は出逢った事がない。商品を準備する人間が少しでも的確に早くご提供できるよう、決して早口にならずそれでいて遅すぎず、笑顔でお客様と会話する。そしていつの間にかアツアツの売品が出来上がっている。お客様からすると「え、いつの間に?」

というスピードである。個々のスピードも確かに速いが、誰一人ボーっとしている人間が居ないのだ。全員が常にアンテナを張り、手際よくトレーの上に商品を見栄えよく並べていく。お持ち帰りのお客様の場合も同じだ。ドライブスルーでお客様のご注文を1つずつ確認する。


「チキン二ピース」『はい、チキン二ピース』この時にはもうパックされているのだ。お会計が終わるのと同時に提供されるスピードは一分足らず。ドライブスルーにはいつも一〇台以上車が並んでいるが、お客様が車を止めてご注文なさる時間以外はすぐに動く、これがずっと続くのだ。


前の店舗であった「真空パックの鶏腿肉」のノルマ数も尋常ではない、前の店舗の二〇倍だ。それでも足りなくなる。従業員自らが販売達成グラフを作り、打った数だけシールを張っていく。

『もう少しで一〇〇本♬ 』

『すごーい、〇〇さん、一人で四〇〇本?負けないからねー』

社員でもコネを使ってもこんなに売れない物を、彼女達は楽しんで売ってくる。かき集めても全く足りなくて、東京の本部に「集めてくれ」と掛け合った程だ。この年、ケンタッキー・フライドチキンで一位どころか、外食産業部門第一位となった。マクドナルドや有名ステーキチェーン、焼き肉、回転すしを抑えてのNO,1だ。この知らせを聞き、閉店後に皆を集めてジュースで乾杯した。みんな達成感で震えながら泣いていた。きっとこの経験が将来彼ら彼女らの素晴らしい財産になるだろう。

外食産業第一位ということで本部から賞金を戴いた。もちろん全額皆さんに均等に分配した。売れた人も売れなかった人も皆等しく頑張ったのだ。誰一人文句を言う人間は居なかった。


茜ちゃんは大学を卒業し、師範として二年が経過した時。僕は大学を辞めて働き始めて三年目だった。嬉々として働くことが楽しくて仕方なかった。出勤するたびに新しいアイデアが提案され、ことごとく当たる。そして従業員は大いに喜び、僕は褒める。

叱る部分が一つもないというのは、ある意味すごい事だと思う。店舗だとよくあるのが「パックミス」と「現金過不足」というものだ。

「パックミス」はその名の通り「パックのミス」で、フォークがない、ストローがない、チキンが足りない、サラダが入ってない等のもの。

「現金過不足」レジの打ち間違えやお釣りの渡し間違え等で発生してしまうミス。


凄いことにNO.1だったこの年は、なんと両方ゼロだったのだ。


こんな事ありえない!と本部からも言われたし僕も思った。でも現実にゼロだったのだ。この功績を受け、僕は東京の本社に招かれ金でできたカーネル・ハーランド・サンダースの勲章を授与される。そしてアメリカケンタッキー州への視察旅行という副賞付きだった。


しかしここで想定外の事態が訪れる・・・


茜ちゃんから店舗に電話があった。

『ネロが・・・急にご飯のどに詰まらせちゃって・・・口の中に手を突っ込んで吐き出させようとしたんだけど全然出してくれなくて。。。息してくれないの・・・いま獣医さんに居るんだけど・・・』


夕方のピークタイム。ドライブスルーは勿論の事、店内のお客様まで外に並ばれている状況だ。流石にすぐに駆けつけられるわけもなく、僕が帰宅したのは深夜三時だった。

家族みんな起きて待っていた。ネロはお父様が作られた棺に入り、周囲をドライアイスで固められていた。生きとし生けるもの必ず別れは訪れるが、あまりにも早い別れだった。今思い出すと名前を付けるとき、彼女がネロにしよう!と言ったのではない。正確には僕が「ネロがいいなー」と言い出したのだ。両親がブルーシートで囲まれて降ろされている時に、僕の手の中で息を引き取った猫の名前をあの時みんなで「ネロにしよう!」と決めていたからだ。その経験から「ネロ」という名前を付けた訳ではないが、記憶の片隅にその名前があったのだろう。むしろ「いいね!」と言ってくれたのは茜ちゃんだった。


『風間君、ネロが・・・ネロが・・・』

僕は静かに彼女を抱き寄せて抱きしめた。彼女にとっては初めて命と別れる瞬間に立ち会ったのだ。そのつらさは僕も痛いほどわかる。

『どうしてすぐに帰ってきてくれなかったの!!』

声を荒げた娘に師匠は言った。

『男の仕事は戦場だ。ペットが死んだからって帰れるか!無茶言うな!!』

『師匠!!』

と遮ろうにも遅かった。彼女はネロの棺を持って部屋にこもってしまった。何度声を掛けても返事をしてくれなかった。物理的考慮をすれば亡骸なので腐敗が進まない内に火葬して埋葬、供養してあげるべきなのだが、今の彼女は放しそうにない。。


『風間君、明日もお仕事でしょう?茜とネロはこちらでちゃんとするから寝てちょうだい


お母様にそう言われて僕は制服のまま横になった。結局茜ちゃんが気になって眠れず、そのまま顔だけ洗って出勤した。この仕事になってから徹夜は珍しい事では無く、三日・四日徹夜は当たり前、睡眠時間が一時間を切る日も多々あったので、一日寝ないくらいで僕の体はどうこうなるはずもなかった。


「ネロは無事に旅立ちました」

その連絡を待ちながら仕事をしていた。ずっと気になっていたのだ。ネロの事も茜ちゃんの事も。その時店舗の電話が鳴った。「あ、無事に旅立ったかな。」と電話に出ると本部からだった。

『アメリカ視察の件なのだが・・・』

まだ夕方のピークタイム前だったのでこれくらいの電話に出る余裕はあった。

『はい、はい・・・・・・・・・』

記憶が・・・飛んでいる。ハッと気付くと病院のベッドの上に居た。起き上がろうにも何かに縛り付けられているのか、身体が動かない。

何が起きているのかも全く分からない。それに、耳も聞こえないし声も出ない。うっすらと目だけ見える。視界もかなりぼんやりしている。息が苦しい。何かしらチューブが挿入されている事はわかった。口の横にちらっと太いチューブの様なものが見えたからだ。でも、口は動かないし感覚もない。だんだん意識がはっきりしてきた。それでもかろうじて目が見える様になってきた程度だ。目の前で白衣を着た男性と女性がライトで僕の目を照らしながら何かを話している。聞こえないが眩しそうにしている事は伝わったみたいだ。


師匠、お母様、茜ちゃんが部屋に入ってきて、茜ちゃんとお母さんは泣いている。師匠は心配そうにベッドに横たわる僕を見つめている。


「何だ?何があったんだ?何で喋ることも出来なければ耳も聞こえないんだ?」


茜ちゃんが泣きながら移動した。どうやら僕の手を握っているみたいだ。

感覚は・・・ない・・・

せめて言葉が話せたら。文字が書ければ伝わるのに。耳が聞こえないから状況を知ることも出来ない・・・

師匠がハッとした顔をして部屋を出て行った。目は動くようになってきたので横の動きはわかる。でも顔は動かない。師匠が入ってきた。何かゴソゴソしているのをお母様がしゃがんで見ているようだ。こちらはベッドの上で目しか動かないからしゃがまれると全く見えない。師匠が紙に何か書いたものを僕に見せた。目を凝らしてみてみると

「これがわかるのなら目を回とじろ」と書いてあった。

理解出来た僕はパチリと一回瞬きをした。また何か書いている。

「本当にわかるのか?本当なら二回、目をとじろ」と書いてある。

僕はわかったので二回、パチパチと瞬きをした。どうなってるんだ?

師匠とお母様と茜ちゃんが手を取り合って泣きながら喜んでいる様子が見える。え、僕はそんな状態なのか?主治医らしき男性と看護師さんが退室した。そこからは師匠の字と僕の瞬きでの会話が始まった。

「よく生きてたな!心配したんぞ!」・・・

「パチリ」

「もうてっきりダメかと思ったぞ、よかった!」・・・

「パチリ」

急いで書いてくれている、字がぐしゃぐしゃだ。

「ワシがわかるか?」

「パチリ」


茜ちゃんが紙とペンを師匠から奪った。


「私、茜、わかる?」

「パチリ」

「お母さんも来てるのよ、わかる?」

「パチリ」

そりゃわかるよ・・・そう思いながらも何もできないのがもどかしい。

「風間君、ずっと意識なかったのよ」・・・「パチリ、パチリ、パチリ」

『は?』という感覚だ。何があった?なぜ?どのくらい?どんな状態?聞きたい事は山ほどあれど、何もできない。瞬きだけだ。


「痛くない?」

「パチリ」 痛いどころか感覚もない。

「これ、わかる?」・・・

「パチリ、パチリ」なんだ?

「二回はわからないってこと?」

「パチリ」


三人で何かしゃべっている。また書き始めた。


「耳、きこえないの?」

「パチリ」

「生きていてくれてありがとう、心配したんだよ」・・・

「パチリ」

僕はどうしたらいい??鏡で自分を写して見せて欲しいくらいだ。ずっと泣いていたお母様に茜ちゃんがハンカチを渡した。茜ちゃんは別のハンカチを出して涙を拭い、お母様の方を向きながら何か話している。お父さんに紙とペンが渡った。

「わけわからんだろう?」・・・

「パチリ」

「説明してやろうか?」

「パチリ」

「会社から電話アリ。行くと血まみれ。199電話」

「パチリ」

何で急に暗号みたいなんだ?そうか、伝える事を簡潔にする為か!

「頭の中血がいっぱい、早く見つけた、助かった」

「パチリ」

なっ!!くも膜下出血か!!だから麻痺で動かないのか!やっと少しわかった。

「ここは、面会謝絶」

「パチリ」

「ワシらも長くは居られない、明日また来る」「パチリ」


情報少なっ!!! まあでも生きていてみんな喜んでくれて、意思の疎通も出来た。何日寝ていたのかわからないが、なんとかなるだろう・・・


「風間君、三か月ぶりの世界はどうよ?」「パチリパチリパチリ」

三か月!!! 店舗はどうなってる?仕事は?ネロはどうなった?帰る間際にあっという感じで茜ちゃんが書いた。


「ネロはペット霊園でお星さまになったよ。ネロが風間君返してくれた」


「パチリ」


目から涙が溢れるのが分かった。視界が潤んだからだ。


茜ちゃんが泣きながら拭いてくれた。


「また明日来るね」

「パチリ」


そこから記憶がなくなった。すごく疲れたのを覚えている。

目が覚めた。というより看護師さんに起こされた。

『風間さーん、起きてますかー?わかったら瞬きしてください』

「パチリ」 採血しますねー。


自発呼吸の確認、嚥下確認が完了するまでそこから一ヶ月掛った。呼吸器は外れ、食道に入れられたチューブも外された。何とか左半身に感覚が戻る傾向がみられ、リハビリを始めてから三か月。

僕は退院する事となった。


ここからが地獄の始まりである。動かない体に対する絶望感、焦るなと言われても焦る。毎日がジレンマとの戦い。医師が言うには「非常に回復が早い」と言われているのだが、毎日毎時間自分の体と向き合っている僕はだんだん希死念慮が起こり始める。


「死にたい願望」だ。


そうしたい気持ちはあっても身体は動かない。この負の連鎖が僕を「重度のうつ病」にした。食欲は無くなり無気力になり、昼夜逆転の生活が始まる。痛みのない腕を切りつけ、熱したフライパンを押し付け、その都度家族に病院に連れて行ってもらう。道場はあっても、もう空手どころではないのだ。それらの傷は今も生々しく傷跡として残っている。

身長一八〇センチ、筋肉隆々とした身体は見る影もなく、やせ細りお腹だけが出る。全ての世話を家族に頼るしかなく、もはや生きている意味さえ分からない。

僕は茜ちゃんに打ち明けた。

「生きてる意味が解らない・・・」と。

彼女は少し考えて僕に言った。

「風間君が居てくれる事。それが意味だよ」


そうだ、いつしか僕は自分の事しか考えない様になっていた。彼女はお兄さんを亡くしているのだ。師匠やお母様だって大事なご子息を早くに亡くして、意を決してその場所に僕を迎えてくれたのだ。僕がこんな事でどうする!!そこから自分の中の「治してやる!」という決意に火が付いた。マイナス思考は捨てる!マイナス思考になる事が出来るんだったら捨てることも出来るはずだ!と言い聞かせて実行した。顔が半分動かなくても笑顔を出す。動かない方の身体を忌み嫌うのではなくて愛してやろう。無くなったわけではない。血液が流れているのだから。生かされているのだから生きなきゃ!皆さんに助けてもらってばかりじゃなく、僕も何かしら助けになりたい。道場の床をはいずり、毎日リハビリ猛特訓が始まった。


先ずは心の問題と身体の問題と分けて考える事とした。リハビリ猛特訓をしていない時には心理学を勉強した。心が壊れたのなら修復する正しい知識を得て実践すればいい。猛特訓と猛勉強を毎日行った。ひたすら汗だくになって這いずり回っている僕に師匠から

「なぁ、息吹。呼吸使ってみたらどうかなぁ」

とアドバイスがあった。そんな事も忘れていた。呼吸によって鉄壁を作り出していたじゃないか!!僕は呼吸を意識しながらリハビリという名の這いずりをするようになった。その内、「擦り傷が痛い」という感覚が芽生え始めた。「おお?進歩じゃん!!」ここから立ち上がる事が出来るようになるまで早かった。立ち上がってしまえば、正座で足がしびれている様なものである。「動こうと思えば動けるもんだ!」と動いていたら徐々に歩く事が出来る様になってきた。同時に左手の感覚も戻ってきたので、持ちにくいながら

も鉛筆やお箸など、極力左手で使うように意識して行った。


それから1年六ヵ月が過ぎ、僕は人並みになった。体中の全ての麻痺はなくなり、やせ細った身体はある程度見られるくらいの身体に戻った。それもこれも、家族全員で少しの回復でも喜んでくれたからだ。自分が頑張ったんじゃない。皆が頑張って見守ってくれ、治してくれたのだ。


師匠の紹介で近所にある町工場を訪れた。就職するためだ。前職のような勤務時間が長い・昼夜逆転する等はなく、完全な日勤(昼間のお仕事)でお休みも戴ける。こちらでお世話になる事になるのだが、その決定打は町工場の社長様の一言だった。


「ウチで働きながら身体を治せばええ。」


こんなにありがたい言葉があるだろうか。僕は営業成績トップで達成感に浸っていた自分を恥じた。今できる事を一二〇%やる!そう決めて実行した。僕の身体は工場勤務で筋肉が戻り始め、太陽の下で仕事をすることで夜にしっかりと眠れるようになった。営業をバリバリやっていた頃に比べると、給与は激減した。お給料を戴けてリハビリさせていただけるのだ。ありがたい!そう思いながら仕事をしていると、ある日社長が傍に来て言ってくれた。


『若い奴を入れて会社を成長させ、お前が社長やれ』


確かに僕が最年長者だ。このままでは所謂「事業継承者不足」で、社長の代で会社も終わってしまうだろう。そんな事させてなるものか!!僕の経営魂に火が付いた。付近の高校を周り、手作りのチラシを配り、営業成績を上げていた頃と同じように「先ず自分を好きになってもらう」ことを始めた。


初年度こそ入社する人はいなかったものの、二年後からは毎年二人ずつ若い子が入ってくるようになった。入れ墨を入れた子や知的勝敗のある子、差別なく一緒に汗をかいた。有難いことに人不足が深刻で派遣労働者や外国人労働者で多くの企業が運営している中、僕の会社は日本人の若者一〇〇%で経営している。これは決して派遣蔑視や外国人蔑視ではない。口コミで若い子が集まってくれたという嬉しい報告だ。


この会社に就職して三年が過ぎ収入も安定した二六歳の夏の早朝、僕は師匠に言った。


『茜さんと結婚させてください!』 


返事は『おう!わかった!』だった。

正直ほっとした。その日仕事が終わって帰宅し『ただいまー』と帰った瞬間、玄関に仁王立ちしている茜ちゃんがいた。

『ちょっと!私の意見も聞かないでどういうことよ!』

すごく怒っている。何を怒っているのかわからなかった。というのも、僕は彼女とは永い付き合いなので、当然わかっているものだと思っていたのだ。今から考えれば傲慢極まりない。

『え、ごめん、なんのことだろう?』

この時まだわかっていなかった。

『最低!知らない!!』

初めて茜ちゃんに「最低」と言われた。これは本気で凹む。。おろおろしているとお母様から助け船があった。

『風間君、茜にちゃんとプロポーズしたの?』

はっ!!それか!!

僕は急いで階段を駆け上り、茜ちゃんの部屋のドアをノックした。

『ごめん、茜ちゃん、話があるから開けて!』 

『聞きたくない。。。』

『ちゃんと説明するから、話をさせて』

『放っておいて!聞かないから!』


これはまずい。。とんでもないことをやらかした・・・僕は上着を脱ぐと彼女の部屋の外からドア越しに話し始めた。


『開けてくれなくていい、このまま聞いて。無神経になりすぎてた。僕の中で君は居てくれて当たり前の存在になってた。君は苦しい時も嬉しい時も常に傍にいてくれたし、もう僕にとっては身体の一部のような存在なんだ。僕が初めて君に出会った時、土下座して蹴り上げられたよね。その時僕は「ぬくぬくと両親揃って甘やかされた身の程知らずのバカ娘が!」って思ったよ。でもお兄さんの事を聞いた。最初の考えは間違ってたってすごく反省した。それから師匠が動いてくれて僕は施設から抜け出せた。君は僕をお兄さんの様に慕ってくれた。すごく嬉しかったよ。仏壇の前で一緒に泣いたよね。覚えてる?


あの時君がくれたファーストキス、僕には勿体なかった・・・僕は君のお兄さんでありたいって常に思っていたんだ。

いつでも守ってあげられる絶対的に兄にならなきゃって思った。でもこんなにボロボロになって芋虫みたいに這いつくばって、みっともないよね。そんな奴から結婚を申し込まれてもね・・・ごめん、部屋にもどるね』


そう言うと彼女の部屋の扉が勢いよく空いて、振り向きざまにバチンと平手で左頬を叩かれた。彼女は泣いていた・・・

『もう、やめてよ!そんなこと言われたら本当に嫌いになっちゃうじゃん・・・』 

『ごめん。。。』

『謝らないで!!何で謝るのよ!!私のキスがもったいないなんて、私の気持ちはどうなるのよ!!じゃあ逆に聞くけど、風間君私に言ったよね、「生きてる意味が解らない」って!その時私、なんて答えたか覚えてる?』

『うん。「風間君が居てくれる事。それが意味だよ」って言ってくれた。』


『わかってんじゃん!!風間君は私の全てなの!!ケガしても入院してもどれだけ格好悪くても、いつも傍で私を守ってくれる大切な人なの。貴方こそ、私の身体の一部なの。お父さんと二人で私を守って入院させちゃったとき、私すごく悔やんだよ!私さえいなければ!!って。でも風間君言ってくれたじゃん!「君を守りたい、守らなきゃって思えたから、多分いつもよりも二人とも強かったんじゃないかな(笑)だからこれで済んだんだよ。生きてるもの。君のせいでケガをしたんじゃない。君が僕と師匠を助けてくれたんだよ。」って!!あれは嘘だったの?』

『いや、嘘じゃない。本気で言った。』

『じゃあ何で「もったいない」とか「みっともない」とか言うのよ!!世界で一番大切な人からそんな事言われる人間の気持ち、ご両親無くしてる風間君ならわかるでしょ!!』


僕は黙ったまま彼女に近づき、抱きしめた。そして抱きしめたまま言った。

『君に謝るのはこれが最後だ。君の気持ちも考えず無神経な事を言った。そして本当に大切な事を全く理解していなかった。最後に、その一番大切な女性を傷つけてしまった事を許してほし・・・。』

【 茜さん、僕と結婚してください 】


『風間君のこと、嫌いになんてなれるわけないじゃん!!!ずっとそう言ってくれるの、待ってたんだから!!!』

そう言って彼女は泣いた。僕は彼女の頭をなでながら、抱きしめていた。


『今夜はいっしょにいて・・・・』 そう彼女にうながされ、僕は初めて彼女の部屋で一夜を過ごした。


翌朝、師匠とお母様に改めて二人揃って挨拶した。師匠はニコニコと笑い、お母様は涙ぐんでいた。ささやかな身内だけの結婚式を行い、我々は晴れて夫婦になった。今まで以上に苦しみも楽しみも分かち合う仲となった。


もうすぐ二七歳になろうとする二人の新しいスタートである。僕達は実家から三駅離れた場所にある、中古でリフォームしたての一軒家に住むことにした。師匠は『ここに住めばいいじゃねーかー』と言っていたが、彼女が僕との二人生活を望んだのだ。夫婦生活はとても円満、むしろ独身の時となんら変わらない。変わった事と言えば茜の名前が「風間 茜」となり、部屋も別ではなく一緒に眠れるようになったことくらいだろうか。仕事も順調で僕はネクタイを締めてスーツを着て仕事に向かう立場になっていた。毎日がすごく新鮮で幸せだった。同じ屋根の下で育ったとはいえ、部屋は隣同士だったものが今は真横にいる。横で寝息が聞こえる、手を繋いで眠る事が出来る。

同じ「ただいま」「おかえり」でもこんなに違うものなのか・・・

健康になった、娘が嫁いだ、幸せに暮らしている、ただ一つご両親の願いを叶えられない事があった。


僕たちは子宝に恵まれなかった。原因は僕の方にあり、恐らく生まれた時から自らの遺伝子を作り出す機能が欠如していたようだ。原因を調べてみるまで分からなかった。一縷の望みを掛けて数値を調べると、子供が出来る確率はゼロだと言われた。彼女に受け渡せる僕の遺伝子がゼロなのだ。それなら万が一にも可能性もないわけだ。彼女に申し訳ない気持ちになったが、


『言ったでしょ、貴方が居てくれる事が大切なの』


という彼女の言葉にまたしても救われた。子宝にこそ恵まれなかったものの、半ば兄妹のように育ってきた二人である、良い所も悪い所も知ったる二人である。ケンカをする事などなく、むしろ結婚する前の方が波乱万丈だっただけに平和な日々を過ごしていた。「結婚すると愛が冷める」なんて話を聞いたことがあるが、我々の場合はむしろその逆で、傍に居ながら結ばれることを許されなかった二人が長い年月を経て結ばれたのだから、愛情は深まるばかりだった。そんなある日、


「師匠が倒れた」


というお母様からの電話があった。高血圧が原因の様で、一ヶ月ほどの入院加療が必要との診断だった。僕達もすぐに病院に駆けつけたが、師匠はかわらずお元気で

『なんてことねぇよ(笑)』

とケラケラ笑っていたが、浴槽の中で気を失っていらっしゃったところをお母様が発見し、救急車で運ばれたそうだ。主治医から

① 血圧降圧剤を服用する事

② お酒の量を控える事

③ 禁煙する事


とキツイことだらけの条件を出されたと師匠はボヤいていたが、師匠の師匠であるお母様が一緒に居てくださるのだから大丈夫だろう。脳の血管が切れたとか脳梗塞を併発したとかいうのではなく、純粋に高血圧による一時的なヒートショックで、後遺症もなく退院できそうだ。


茜は変わらず道場で師範として教えているが、師匠がいらっしゃらない間はちょくちょく実家に帰ってお母様が寂しくない様にすることとなった。


平日でも実家に泊ってくる日もあり、僕は夕食を戴きに実家に寄って、自宅に帰って寝る。そして翌朝洗濯機をまわして出社するという日が何日かあった。雨が続く日は経済的な事を考えれば、実家に洗濯物を持って行って洗ってもらうことが望ましいのだが、僕は車を持っていなかったので洗濯物を袋に入れて電車で三駅・・・というのに抵抗があり、コインランドリーで乾燥までやって、フカフカを持ち帰って畳むということをしていた。

夫婦合わせてもそんなに裕福ではなかったが、子供がいなかったのでこれくらいの贅沢をしてもたまには許された。コインランドリーが贅沢とは今から考えるとかわいいものである。


お母様も血圧は高い方で、時々フラフラするということがあったので、実家が近く娘がすぐに帰る事が出来る環境は、お母様にとっても気が楽だったと思う。師匠入院中でお母様もフラフラする時は「泊っていくね」と二人が初めてを迎えた部屋で寝ているようだ。その時の事を思い出すと気恥ずかしいと、彼女ははにかんでいた。


いつものように仕事を終え、実家で三人ですき焼きをした。『懐かしいね(笑)』

『あの時もお父さん居なかったね(笑)』

なんて昔話をしていたらすっかり遅くなってしまって終電を逃してしまった。

「龍二さんも泊っていきなさいよー」と誘われたが、久し振りに歩いて帰るのもいいかなと思い、「男だし心配ないから歩いて帰ります!」と実家を出た。

帰り道、線路沿いを歩いていた。結構遅い時間なのにハイヒールを履いた女性がコツコツと前を歩いていた。「後ろを男性が歩いていたらそれだけで怖いだろうな。」と勝手に思い、『こんばんは!』と声を掛けた。

「え?なに?」という顔をされたが、左手の指輪を見せて『自分は家内と一緒に空手道場の師範もやっているので安心してください』

と言って道場の場所を伝えたら、『ああ、昔からあるところですよね、知ってます!』

と安心してもらえた。女性の自宅は近くだったので女性も僕も一安心で『ありがとうございました!』と言われて悪い気はせず僕は帰路についた。


こういう時に限って災難はあるもので、

『ちょっとおじさーん、お小遣いほしいんだけど(笑)』

とニヤニヤしたヤカラが集まってきた。 

「はぁ、またこういうのか・・・」と思いながらも『いい根性してるなお前ら。タカリ掛けるからには覚悟あんだろうな』とこの状況を少し楽しんでいる自分もいた。イカンイカン・・・もう大人だし既婚者だし、軽率に暴れる訳にはいかない。素早い廻し蹴りで1人の帽子を蹴り飛ばし、

『無事じゃ済まねーぞ?』と脅したら

『すいませんでした!!』

と蜘蛛の子を散らすように消えた。

「最近の奴らは根性ないなぁ(笑)」なんて思いながら無事に家に着いた。

『無事に家に着いたよー』の電話を実家にし、僕は重大な事を思い出した。


しまった!!洗濯物干してない!そして明日着るワイシャツをアイロン掛けてない!!茜が居ないとどうしてもこういう所がいいかげんになる。夜中にせっせと干しアイロンをかけ、そのままソファーで寝てしまった。


朝起きて「しまった、寝過ごした!!」とバタバタ着替えて玄関から出るとあいにくの雨である。(ついていない、師匠がいない間にすき焼き食べたからか)なんて考えながらビニール傘を刺して駅に向かった。


ゴミ捨て場で音に気付き、ゴミ袋から見つけ出し、知り合いの獣医に見てもらって命が助かった生まれたての真っ黒な子猫。


その子が夢でも見ているのかビクッとしたので僕もびっくりして起きた。パーカーの中にまるで有袋類であるかのように自分のお腹に包み、静かに眠っている姿を見ていつの間に

か僕も寝ていた。


今日は土曜日、会社はお休み。そろそろ茜も帰ってくるんじゃないかなー。

『ただいまー!!』  茜だ!

『おかえりー!!』

僕は子猫を落とさない様にお腹に包んだまま玄関に出迎えた。

『ただいまー。ごめんねー。お父さん無事に退院したわー』

『本当! よかったー。これで安心だねー。お母様は?』

『お母さんも血圧降圧剤飲まなきゃいけないみたいだけど、あとは普通に生活してて大丈夫だって。』

『よかったよかった、安心したよ(笑)』


『ねね、ネロは?』

『ここにいる―(笑)』

『ずるーい、私も抱っこしたーい! いいなーいいなー!!』

『わかったよ。じゃあこのパーカーごと貸してあげるから着てごらん』

『わーい!あったかーい、かわいいー!!赤ちゃんいるってこんな感じなのかなー。  あっ、ごめん。。。』

『謝らないの(笑) ネロがいるじゃん(笑)』

『そうだね、この子大切に育てようね。』


僕がネロ三世を見つけ出してから二十一年が経つ。僕も茜も一緒に寄り添ってきた七千六百六十五日・・・。


ちなみに、


ネロ一世は(パトカーの中、僕の手の中で息を引き取った子)


ネロ二世は(僕がケンタッキーで働いていて看取ってあげられなかった子)


ネロ三世は(この子)である。この子といっても、もうおじいさんだが(笑)


だって僕らと一緒に七千六百六十五日も一緒に居るんだから。


その間に僕は社長になり彼女は後継者に道場を任せている、当時のお母様のポジションだ。


僕たちの子供はネロ三世。最近では年を取ったせいか、昔のようにピョンとベッドにも飛び乗る事も出来なくなってしまった。


それでも紛れもなく龍二と茜の子。そして今では僕達より年上の子。


前32話にわたる物語にお付き合い戴き、誠にありがとうございました。


今後も皆様に楽しんで頂けるような作品を書いてまいります。

重ねまして、ありがとうございました。    

  りゅうこころ


で、終わったんでは皆さん納得しないニャ!


ここから僕の話、「ネロが龍二と茜に出会うまで・・・」を書くニャ!


それでは改めて、コホン!!


おい、人間!!突然だけど、九尾のネコって知ってるかニャ?

「九尾の狐」っていうのはよく物語とかアニメなどにも出てくるんだけど、あれはもともと猫がモデルになってるニャ(笑)

猫っていうのは「嫉妬深い」とか「薄情」とか好きなこと言われてるけど、実は九つの命を持ってるんだニャ。  え、どういうことかって?うーん・・・人間にわかるように説明すると「九回転生するって事ニャ!」

え?まだわかんない??まったく・・・人間ってのは頭でっかちな割に

何にも知らないニャ(笑) もっとわかりやすく教えてあげるニャ。

それより、このニャっいうのがそろそろ恥ずかしくなってきたニャ・・。

あのね、ネコというのは九つ命があると言われているの。言い方を変えれば「九つ分の生涯が記憶に残るという事」なの。つまりね、一度この世に生を受けてから、九回死んじゃうまでずーと記憶は繋がっているという事なんだよ。だから人間よりも早く齢を取るの。

あんまり長くなるとだんだん忘れちゃうんだけどね・・・


でも、必ずしも死んですぐ転生するというわけではないの。ネコによっては何百年と掛けて転生するネコもいるんだ。中でもあまりにも短い命だった場合や、虐待や終末施設・交通事故など本人も予知できない、この世との

別れをした場合は優先して転生させてもらえるんだ。逆に殺猫や共喰いなどをしちゃった場合その罪は重くって、ネズミや虫などに生まれ変わる事もあるの・・・その場合は九個の生命にはカウントされず、人間でいう所の

地獄となるわけ。もしネズミや虫に生まれ変わってしまったとしてもその時の記憶は抹消されるし、地獄での命の記憶も消されるし、

地獄での命は短いと言われているよ。

ウスバカゲロウとかは軽い方だね、約一週間くらい。重い方だとセミ(地中で約一五年、地上で二週間)とかになったりするよ・・・

一五年も土の中に監禁されて、やっと外に出られたと思ったら二週間とか・・・

でも実はもっとも重い罰の転生があるんだって!!何か知ってる? 

実は・・・「 人 間 」なの。

恨んだり妬んだり、悩んだり。時にはお互いを殺し合ったりするんだ。

生きていく能力はとっても弱くて、「生物の中で最弱」って神様は言ってた。でも彼らは「自分達が生き物の頂点だ」って思ってるみたい。


それはそうと、「一二支」って知ってる?

『寝丑寅宇辰巳馬羊猿鶏犬猪』ていう、神様がこの世の中に遣わせた一二種類のシモベ達がいるの。僕達ネコは神様の横にいるから入ってないんだよ。

それを人間ってば、「ネズミに騙されて一日遅れた」とか負け惜しみ言ってるんだって(笑) 神様に選ばれもしなかったくせにさ!!!


その人間って、八〇年とか長い人になると一〇〇年とか苦しむらしいよ。器から離れる瞬間だけ、苦しみから解放されるんだって。それにね、僕達はお互いの言葉が当たり前にわかるけど、人間には人間同士の言葉しかわからないらしいよ。もちろん人間の言葉もわかってるよ。


このあいだ僕の仲間のアルパカさんが「ばーか、ばーか!」とか言ったら

人間が「ヨシヨシ♬」って寄ってきたから唾はいてやったって(笑)

この話聞いた時、お腹抱えて笑っちゃった(笑)


この本読んでくれてる君は「七六六五日の物語」をちゃんと読んでくれたいい人間だと思うから特別にとっておきの秘密を教えてあげるね。人間には「心の痛みっていう特別な苦しみを与えた」って神様が言ってた。これは内緒だよ。

何でもそれは耐えられないほどの苦しみなんだって!!

僕達には考えられないけど、自分で自分を殺しちゃうこともあるんだって。

もう意味わからないよ・・・何かすごく大きな敵に自分から飛び込んで死んじゃう人間もいるみたい。

僕らの中でもピカッっていう光に動きが固まっちゃって、跳ねられちゃうって事は仲間内で珍しい事じゃないよ。死んじゃったら転生させてもらえるし、怪我して脚が無くなったとかなっても、神様が痛くない魔法をかけて

くれるんだ。

僕ら猫の世界では決まりがあって「器から離れそうになったら誰にも見つからない所に行く」というものがあるんだ。器って身体のことねー。

「あー、次に転生すんだなー」って思いながら深い眠りにつくんだ。その時はすごく温かくって、幸せな気持ちになるんだよ。


僕達が自分の意志で人間の支配を肯定した場合は、、むずかしいよね(笑)んっと、「飼ってもらった時」っていえばわかりやすいかな?人間がずっと僕らと一緒に過ごした時間とサヨナラする時、目からお水が出るんだ。

『涙』っていうんだって。 人間の中の「悲しい」とか「寂しい」とか言う感情がこのお水を出させるって神様は言ってたよ。この次の転生は必ずネコに生まれ変わるって決まりがあるんだよ ♬


ネコに生まれる前の記憶は消されちゃって無いんだけど、僕が初めてネコとして生まれた時はお母さんがたくさん舐めてくれたのを覚えてる。兄弟達ともいっぱい遊んで草の中で追いかけっこしたよ。お母さんのオッパイから離れてからは「自分で狩りの練習をしなさい!」ってバッタとか追いかけたっ

け。大きくなるにしたがって「独り立ちしてお嫁さん見つけなさい!」って兄弟達ともサヨナラしたなー。


僕が木でできた大きな屋根の下でお腹を空か

せていたら、すっごい煙の臭いのする大きな人間がご飯くれたりしたよ。すごく優しくしてもらえたんだ。すごく神様の事を勉強しているみたいで、人間界では「おぼうさん」って呼ばれてるみたい。僕達ネコは鼻がいいんだよ。仲間の犬に比べると負けるけどね(-_-;) 

あの煙の臭いは最初苦手だったなー、鼻がとれるんじゃないかって思った。

だんだん慣れたけど(笑)ご飯くれるし優しいし、この人間は悪い人じゃないなっていうのはわかったよ。すごく長い事生きてたみたいで、僕より先に転生したんだ。今はどこかでネコになってるみたい。次に会った人間は

すごく嫌なヤツだった。いっつも僕達を棒で追い掛けまわすんだ。もちろんそんなのには当たらないけね。仲間がそいつの投げた石に当たって転生しちゃったのを覚えてる。あの人間は次も人間に転生するよ、きっと。


雨が降ったり寒くなったりもするけど、僕達は毛が生え代わるからそれはどうってことないんだよね。むしろ人間の方がいっぱい着込んだり、目がチカチカするような変なの着たり、中には人間と暮らしている奴の中に、洋

服みたいなの着せられている奴もいたよ。皆で笑ったら「ワン!」ってすごい怒られた(笑)「ゴメンゴメン」って謝ったら許してくれたよ。

あ、それとね。人間と一緒に過ごした事のある仲間はわかると思うけど、人間って名前つけるよねー。「自分で思いついた!」みたいになってるけど、実は僕らがそう思わせている事をわかってないんだよね。この能力は人間にはないのかな?僕の「ネロ」っていう名前はもともと神様が付けてくれた名前なんだ。ネコに転生する時に「お前は九回、ネロという名前を継ぎなさい」って。

だから僕の名前は「ネロ」、神様に貰った大切な名前なんだ。

ちなみにまだこのお話し、1回目のネロを頑張ってるからね(笑)


あの時は確か、チャトラだったかな? その時の流行りで選べるんだけど

最初は何を選んでいいのかわからなかったらチャトラを選んだ気がするよ。

「おぼうさん」って人間が居なくなって、僕は毎日自分の縄張りをウロウロ巡回してた。あのピカッってする危ない奴に友達がやられたのを見てから、あれがくると地下通路に入るようにしてるんだ。(側溝ねw)

やつらもここまで入れないみたい。僕らネコは基本夜行性だから、暗い所でも見えるのさ!だから地下通路の方が安心なの。


え?苦手なものは何かって? あんまり人間に教えたくないんだけど・・・

ま、いっか(笑) 雨とすっぱいものが苦手だよ(笑) 雨が降りそうになると髭がビリビリしてすごくかゆくなるの。「猫が顔洗うと雨が降る」っていう言葉があるけど、あれは顔洗ってるんじゃなくてビリビリするの!人間はネコのそういう所を見て、「雨が降るかどうか」っていうのを考えたりしてるんだね。優しいおぼうさんが若い人に話しているのを聞いたよ。


僕らは人間の言葉がわかるんだけど、人間は僕らの言葉がわからないみたいで、「違うよ!」って教えてあげたんだけど『お腹すいてるのかい?』って煮干しをくれたよ。いい人間だったさ。


もうひとつ、すっぱいもの。ミカンとかレモンとか、ベロがビリビリってす

るの。これはただ苦手っていうよりも、あんまりこの身体では食べない方が

いいんじゃないかって猫神様が言ってた。


あ、これはネコを飼って大事にしてくれてる人間の為に教えてあげる!僕らはキレイ好きだからよく「毛づくろい」するのね。その時にザラザラのベロで古い毛を取ったりするの。お腹の中に溜まってくるとそれを吐き出すんだけど、人間は『吐いた!!』って大騒ぎする人も中にはいるみたいだね。 

【大丈夫だよ。僕達は気軽にケロッって毛玉出してるだけだから(笑)】

話を戻すね。僕らにとって「縄張り」ってとても大事なの。もちろんすごく仲間同士でケンカもするよ。でも仲が悪いわけじゃないんだ。女の子の取り合いなの。僕らネコって、基本お父さんを知らないんだ。生まれた時にはお父さんってもういないんだ。でもそれが普通な生き物なの。産んでくれた

お母さんがある程度大きくなるまで面倒見くれて、みんな独立するの。


僕達がネコに転生できるかどうかは、

① 元気なお母さんがいてくれること

② 強いお父さんがいてくれること

この2つがすごく重要になってくるんだ。だからオスに生まれたら縄張りをしっかり守る事、自分の子供を産んでもらえるように女の子を他のヤツに渡さない事が何よりも大事。もしメスに生まれたら強いオスの子供を産む

こと、ミルクがいっぱい出る様にたくさん食べること、そして子供をちゃんと育てて独立させることが大事なんだよ。そうやって考えると、『子供をたくさん産んで育てるメスに比べてオスは・・・』って思うよね。でも

オスって生まれた時からメスに比べてずーっと弱いの。必ず生きられるとは限らないし、必ず生きた状態で生まれてくるのかもわからない。だから僕達弱い生物はたくさん子供を産めるようになってるんだって。

それにね、闘ってケガしてそこから病気になっちゃって死んじゃうのってほとんどがオスなの。これはオスの宿命だから仕方ないんだけど、悪いヤツらが入ってこない様に命がけで縄張りを守っているオスもちゃんと頑張っているんだよ。


だから僕は毎日縄張りを周って守ってたんだ。その内すてきな女の子に出会えていっぱい子供を産んでもらえた。僕はそれからも毎日縄張り周りを欠かさず行ったんだ。風の強い日や人間が寒そうにしてる日は平気だったけど、雨の日と雪の日は嫌だったなぁ。。

あっ! そうだ!!  夏!!!!  夏は大っ嫌い!!

え? なあに? 『毛皮が暑いんだろ?』って? 違うよー。

地面がすっごく熱くって、肉球がヤケドしちゃうの!!土の上とか草の上、地下トンネルなんかは平気なんだけど、暑い日の、なに?あのアチアチのまるいヤツ!!あれのせいで何回かヤケドしたよー。(マンホール)

思わず跳びあがったよ。人間は脚になんか履いてるからいいけどさ、他の仲間たちはどうしてるんだろう。ひどい罠だよ、まったくもぅ!!


そんな時、ネロの一度目が終わる事件が起こったんだ。・・・・

一九二三年九月一日、おひるごはんのいい匂いがしてる時・・・僕たちの毛がいっせいに逆立ったんだ。全身がビリビリした感じ、鳥さん達も騒いでる!

『なにか来るぞ!!逃げろ!!』って。人間達はみんな普通にしてる。

「え?人間達にはこのビリビリ、わからないの?」いろんな動物たちが口々にそう言いながら逃げ出したその瞬間。ドンッって下から突き上げられるように地面が震えだんだ!! ドンッ!のあと、グラグラ!と横に揺れた。

僕達は上から降ってくる物や、倒れてくる壁なんかを避けながら必死で逃げた。つながれて「助けてくれー!」って言ってる犬とか、助けてあげたかったけどどうしようもなかった。とにかくぶつからない様に逃げたんだ。

この時ばかりは「縄張りが・・・」なんて言ってられなかった。それでも凄い速さでアイツは襲い掛かってきた。人間だけが使う事の出来るもの。


【火】だ。右も左も前も後ろも、そして上からも【火】は襲い掛かってきた。地面が揺れる事よりも、その後の【火】がすごかった。

人間の作った巣とかどんどん【火】がついて、となり・またそのとなりって辺り一面どんどん燃えていったんだ。人間も僕の仲間も必死で逃げてた。

みんな「少しでも水のある方へ!」って。僕達は空を飛んでいるカラスくんに教えてもらって川に辿り着いた。すごかった、真っ黒な人間がいっぱいだった。みんな水の近くにいるのに「水・・・水・・・」っ・・・。

人間以外に僕らの仲間の器もあった、あの光景は忘れられないよ。

ここに居ちゃだめだ!!ってみんなで、木がたくさんあって人間の巣が少ない所へ逃げよう!って逃げたんだ。

僕もだけど、みんなケガしてた。それでも走り続けたんだ、【火】も山の上までは追っかけてこないだろうって・・・


でも【火】は人間の巣をどんどん食べて、もっともっと大きく早くなってきた。草も木もどんどん食べてもっと大きくなって【火】に囲まれたんだ。

もうどこに逃げていいかわからない!ってなった時、僕達の頭の上に大きな【火】の固まりが落ちてきた・・・危ない!!って思った瞬間、僕は自分達の器が燃えているのをみんなと一緒に離れたところから見ていたんだ。

あれ?って思ったら、神様が見えない雲の上にのせてくれていた。

そっか、これが転生する(死んじゃう)ってことなんだな って初めて知った時さ。

「関東大震災」って人間が名前を付けたっていうのは、3度目の「ネロ」として転生した時だったよ。


僕は次も「ネロ」として、ネコとして生まれたんだ。その時は産まれてすぐにみんなバラバラにされちゃったからお母さんの顔は知らないんだ。

人間がお母さんの代わりだった。毎日シーツを代えて、人間にすごく見られる箱に入れられた。綺麗な子はすぐに貰われていったし、仲良くなったロシアンブルーのマー君も居なくなった。

「ここでは人間に好かれるように、元気に鳴いてアピールしないと駄目だよ!!」ってマー君は言ってたけど、僕は「嫌だね!!」って言う事を聞かずにずっと寝てた。


早い子は来てその日に人間に貰われていった。

ここにいるのはネコばかりだけどみんな小さい子しかいない。転生してマー君みたいに人間に貰われた記憶のある子はめちゃめちゃ人間にアピールするんだけど、僕はまだ転生1回目でいい思い出なんかない。それにここは前に

比べると居心地がいいし、いつもきれいにしてくれるし天国じゃないか。

狩りの練習もしなくていいし、怖い思いもしないし、まぁ人間の世話になるっていうのがちょっと癪に障るけど・・・眠たい時に限って外からコンコン叩かれて起こされるし、周りはアピールすごくて眠れやしない。夜になると毎日洗われるのがちょっと嫌だな。ちなみにここでは人間達がいっぱい来る時はすごく明るい部屋に入れられ、決まった時間に暗くなると別の場所に入れられるんだ。マンチカンのミルちゃんは「今日も貰われなかった・・・頑張ったのに・・・」って夜になるといつも泣いてた。なんで皆そんなに

人間の所に行きたがるのか、さっぱりわからないよ。

そういえば、泣き虫スコティッシュのミー君は引き取り手が決まったって喜んでたなぁ。

そういえば、ここに居られるのは産まれてから六ヵ月までだから頑張らなきゃ!!って誰かが言ってたっけ・・・


今日は来たばっかりのペルシャのケイちゃんがすぐ貰われていった・・・


今日はラグドールのソイ君が「あぶねー、5か月だし焦ったぜー!!」って貰われていった・・・


今日はシャムの、名前なんだっけ。二日くらいで貰われていった。


今日は・・・今日は・・・みんなどんどん貰われていっては新しい子が入ってくる。小さい子ほどすぐに貰われていく。

「へっ!だからなんだってんだ!! 人間なんかに媚び売りやがってさ」そう思いながら夜のシャンプーと週1回の大嫌いな爪切りさえ我慢すればここはあの時みたいに【火】が襲ってこないし。と僕は過ごしていた。

僕は人間達がジロジロ見てくる、広い真ん中あたりの部屋から、だんだん隅っこの方の狭い部屋に移されていった。

「こっちの方がうるさくなくていいけど、部屋が狭いんだよなー。」

そんなある日、ロシアンブルーのマー君がカゴに入れられて戻ってきた。「マー君、久し振り!元気だった?」

『え、どこ?君まだいるの?ちゃんと言った通り頑張ってる?』

「なんで頑張らなきゃいけないのさ?こんな安全で居心地がいいのに。【火】のヤツに襲われることもないしさ(笑)」

『ネロ君は尻尾二本だから転生一回目?』

「うん、まだ一回だよ(笑)」

『知らないなら教えてあげるよ、ここにいられるのは六ヵ月までだから、頑張らなきゃダメだって!!!』

「それは誰かから聞いたよー。そんな事より、マー君は何で来たの?随分大きくなったよね ♬ 僕なんかこんな狭い部屋に移されちゃってさ(笑)」

『僕は飼い主さんがダニが着かないように予防接種で連れてきてくれたんだよ。ネロ君、部屋の大きさはみんな同じだよ。君が大きくなったんだよ』

「え・・・」 僕は一瞬固まった。僕が大きくなってる?そういえば小さい子ばっかり見てたし、自分の姿なんて気にした事なかったから知らなかった。

そういえば・・・転生する前の記憶と比べると、人間の雰囲気が違う。あちこちが綺麗になってる気がする。前回死んじゃってから何年経ったんだろう。わからない・・・

『じゃあね、絶対頑張るんだよ!!』そういうとマー君は人間と一緒に出て行った。その日の夜、部屋の壁に写った自分の姿を初めて意識してみた。「ラグドールのソイ君と同じ位、いや僕の方が大きい気がする。」

身体の大きさで部屋が狭くなったのは気になるけど、場所が移動するだけの事でしょ?別にそんな大騒ぎする事でもないじゃん(笑) と、僕は平和な毎日を送っていた。最近ではシャンプーも慣れてきた。あの時は水が大嫌いだったけど、毎日温かい水(お湯)で洗ってもらえる。ある日、いつも洗ってくれる人間のメスが僕に言った。『君がここにいられるのもあと少しだね・・・誰か貰ってくれるといいね。君のポスター書いたから張って

おくからね。』 この人間のメスは何を言ってるんだろう?

「なんで、みんなはそんなに貰われたいの?」って聞いてみたけど、人間はこちらの言葉がわからない。『よーしよし、がんばろうね』って言ってた。別に僕は人間に貰ってもらわなくても結構だ!でも、なんだか悲しそうだった・・・


とうとう僕が移動する日がやってきた。ドキドキする半面ちょっとワクワクしている。「今度は大きくてきれいな部屋に移れるのかなぁ?」「やっぱりシャンプーはあるのかなぁ?」「どんなご飯がでるのかなぁ」などなど。狭いゲージに入れられて、到着してみると何だか様子がおかしい。他にも犬とかぼくよりもっと大きいネコとか、すごいいっぱいいる。尻尾の数も一本から九本まで様々だった。


ここで人間の為のニャンコ雑学ー!! ネコはね、ネコ同士にしか見えないんだけど、何度転生したのかは尻尾の数で判るのさ。


マー君は四本。ミルチャンは三本だったかな。ソイ君は六本あったなー。それだけ転生してるってのはわかったけど、いまの状況がよくわからない。

そこで尻尾が一番多い先輩ネコに聞いてみた。

「これからみんな揃って何があるんですかー?」『知らん方がいい』

「ちぇ、けちんぼ!!ちょっと先輩だからってさ!」 すると扉のドアがしまって、人間が1人もいなくなった。「おっ?何だ何だ?」と思うより早く、何だかとっても眠くなるガスが出てきた。僕は訳が分からないまま、気が付くとまた神様が見えない雲に乗せてくれて、その上から部屋のみんなの器を見ていた。

『よく見ておきなさい』そういうと神様はそれから行われていた現実を見せてくれた。魂の抜けた器がスコップで袋に放り込まれていく。そして行き場所は「焼却炉」だった。『よいか、以前に人間の目から水が出

た時、すなわち愛されて器になった時、またネコに転生できると話したじゃろう?人間からの愛情を沢山受けて愛されて器になった時、ネコとしての転生になるんじゃ。今回は残念だったのう、みんな頑張るんじゃよ。』

そういう事だったんだ。僕達が癒しを人間に与えると愛してもらえるんだ。次に転生してまた同じような事があったら精一杯アピールして「人間の愛情」をいっぱい集めよう!!僕はすごく興味を持った。

僕の尻尾は三本になった。転生二回目(二回命を終えて三回目の命)だ。

でもこれが見えるのはネコ同士と神様だけ。他の動物やもちろん人間にも尻尾は1本に見えている。さて、今回はどんなネコ生を送るのやら・・・


僕達は四匹一緒に産まれ、お母さんと人間にすごく愛された。目も見える様になり自分で声を出せるくらいになった時、僕も兄妹もみんなバラバラになった。「別の人間に貰われていった」っていえばわかりやすいかな。

僕を引き取ったのは・・・


あーそうそう。「オスの人間とかメスの人間とかわかりにくい!」っていうご意見を頂戴したので、呼び方を代えるニャ(笑)


僕を引き取ったのは女の人、二〇台前半ってところかな。お父さんと一緒に暮らしてて、2人暮らしだった、何とか生活してるって感じかな。

僕が生まれた家ほど裕福ではないけど、「子猫もらってください」の張り紙見てもらいに来てくれたって話してた。僕は前回の記憶があったから、「今度は癒しになれるように頑張らなきゃ!」って思ってた、でもその人と

一緒にいられたのは三日間だけだった。女の人は僕を大切にしてくれるんだけど、お父さんって呼ばれてた人がすごくお酒飲んで暴れる人で、僕を蹴飛ばしたり、物を投げつけたりする嫌なヤツだった。それで女の人は、

「大切にしてもらえる人に拾ってもらってね・・・」って泣きながら僕をお父さんのシャツで包んで外の洞穴みたいなところに置いたんだ。


捨てられたって事だね。お腹もすいたし寂しかったから、しばらくミーミー泣いていたら、子供達がいっぱい集まってきてしばらくお話ししてた。そのなかの1人が僕に気が付いて僕を拾い上げたんだ。すごく喜んでたよ。

男の子も女の子もいたと思う。小学生くらいの子供たちかな。

で、『ネコちゃん、どうする?』  『ここでみんなで育てようぜ!』

『何食べるかな』 『よし!給食のパン持ってこよう!!』ってなって子供の中の1人が『学校戻って、給食のおばちゃんにパン貰ってくるわ!きっとネコちゃんお腹すいてるから!!』って走っていったんだ。まあパンは人間の食べ物で、ネコは食べないけどね、、、。

でも待てど暮らせど帰ってこなくって、

『あいつおばちゃんに怒られてるのかな?』とか『いや、ひょっとしたらパン無くて、家に何か取りに戻ってるんじゃね?』

とか、彼らは話してた。だんだん暗くなってきて、気温も下がってきた頃、子供達はまた話し始めたんだ。『どうする?』  『このままほっといたら死んじゃうかもよ?』

『ええ、ネコちゃん可哀想じゃん!』  『じゃあ誰か持って帰る?』『・・・ウチ、アパートだから・・・』  『俺んち犬がいるから・・・』『私のとこお母さんが猫嫌いって言ってた』こりゃ駄目だって思ったとき、『じゃあ僕連れて帰るよ。僕んち長屋だし、

お隣さんも猫いるし。エサ貰えるかもしれないし!!』って1人の男の子が言って『おおーー!!!』とパチパチ拍手を浴びてた。

僕はその男の子が連れて帰る事になったんだ。でもなんだか息が苦しくて身体が熱くて、僕はどんどん声が出なくなっていったんだ。男の子は心配そうに僕を抱えてくれているんだけど、お水とかミルクとかくれる訳で

もなく、なんだろう。初めて見たけど赤いピカピカ光る鉄の箱?みたいなものに乗せられて、その男の子も家に帰れないみたいだった。

何だか鉄の箱の中でいろいろお話してたみたいだけど、僕の意識はどんどん薄くなっていって、すごく温かい幸せな気分になった。


僕はまた神様に見えない雲の上に乗せてもらっていて、下の器で何が起きているのかを見ていたんだよ。

そう、ネロ三回目の死亡。何だかニュースみたいになっちゃったね(笑)

神様がね『お前を拾ってくれた男の子は優しい、いい子じゃがあの子もまた不幸でな。お前さんの器も弱っておったから、いたたまれなくなってな。

こっちに来させたのじゃ』って言ってくれた。そして、『あの男の子はこれから強く生きる。絶対にお前の力が必要になるし、お前が癒してやらねばならん、これは運命なのじゃ。お前とあの子は必ずまた出逢う、よく見ておきなさい。人間というのは愚かな生き物で、自分の子供を残して親が二人とも自ら首を吊って器を捨ておった。少年は自分の親の器を

これから見る事になる。惨いことじゃ、、そして一人ぼっちになるのじゃ。

あいつ等はしばらくの間後悔させてこの世とあの世の狭間に閉じ込める。

何年になるかはわからぬ。それは「閻魔大王」が決める事じゃからな・・・


ん??「閻魔大王」は悪い事したり酷い行いをしたり、こいつらのように自分で器を捨ててしまう様な奴らを裁く専門の神なのじゃ。おそらく何千年と掛けて罪を償った後、次はセミにでも転生するか、もしくはそれより酷い人間に転生するか。。。それはワシにもわからん・・・

そんな事よりネロよ。下に見える少年をよく見ておきなさい。ワシがなぜ人間という下等な奴らを「癒してやり、愛されよ」と言うか、その意味がわかるはずじゃ。お前はしばらくワシの横にいて、あの少年の成長する様を

見ておきなさい。』神様はそう言って僕を雲に乗せたまま一〇年以上の間、この男の子の育っていく様子を見せたんだ。


いつもすごく脅えて寂しい気持ちが伝わってきたんだ。「人間に転生される事ってこんなにひどい事なんだって思った。お母さんに舐めてもらう温かさやオッパイを貰う幸せもない。ネコはお父さんが居ないものだからわからないけど、でもお父さんとお母さんが一緒に僕だけを残して器を捨てちゃうような話は、ネコ同士はもちろんだけど他の動物でも聞いたことがない。大体自分で自分の器を捨て

るなんて事が出来るのは、おそらく人間だけだと思う。


この少年は小さい時からお父さんに虐められ、親が居なくなった後も虐められ、本当にひどい育ち方をしていた。でもイキイキしてる時もあったよ。本っていうものを読んでるとき。誰にも虐められずに1人で自分の世界に

いられるみたい。すごいいっぱい本を読んで、この子は頭がすごくいい。神様がこの男の子をお勧めするのもこういう所もあるのかな。ちょっとだけど、僕ら動物の感覚が残ってるみたい。人間は「第六感」とか「予知能力」とかって言うみたいだけど、僕ら動物には普通にあって人間がとりあげられちゃった能力だね。ほら、この本を読んでくれている君にはわかるだろう?地震が来る前に背中がゾワってくる、あれの事だよ。


この男の子はそれが残ってるのかな? 学校で習った事を確認するテストでも毎回すごい優秀だし、まるで出される問題が解ってるみたい。考え方が人間というより僕らに近いのかも。女の子達からもすごい人気があるし、

何よりすごく優しい子だね、神様の言ったとおりだ。


でも、生物としてちょっと弱すぎるなぁ。この子僕らの世界だったらケンカ

に負けてケガして死んじゃうタイプ。。。なんか心配だけどー・・・

あー、ほら言われてるよ。『風間君!君の弱さは体形じゃない。心が弱いんだ。心の強さとは誰かに勝つ!とは違うんだぞ?自分自身に勝つ。誰かを守る。守らなければならな

い時に守るんだ。究極の武道とは闘わない事だ。』

まあ人間の世界の事はよくわからないけど、でもそういう事だよね・・・

おっ?仲間ができたじゃん ♬ ちょっと安心したニャ ♬ あ(笑)

この男の子、がんばるなぁ。小っちゃかったのに人間の中でもすごく身体が大きくなってきた。そしてすごく努力してる。神様もこういう所がほっとけないんだろうなぁ、きっと。


はぁぁぁ!!!! 男の子の心の支えだった人が器になっちゃったじゃん!

神様、でもこの人は小さい子供達を守って器になったんだから、次は人間じゃないものに転生するんですよね?「うむ、ネコじゃな!」仲間じゃん。

えー、なんで?この子悪い事してないじゃん!!女の子守っただけなのに、なんでこんなに酷い仕打ちを受けるのですか?

「ちゃんと救われるように考えてある。修行じゃ。   by神様」

・・・なんか、全身の毛が逆立つほど怖い女の子がでてきた・・・ネコの世界でもこういうメスはたまにいるけど・・・すごい、この子こんなひどい事されてるのに、女の子にはやり返さないんだ。オスの鏡だにゃあ。

あーあー、血だらけじゃん、でもこの周りの人達から悪い気は感じない。こんなにされてるのに何でこの子はこんなに頭が低いんですか?

「義に礼ずる、礼儀というものがあってな、この少年はしっかりとそこを守る事が出来る子なのじゃよ。今まで見てても1度も自分より弱いものを虐めたりせんじゃろう?こういうところがな、いいとこなんじゃ。ほら見て

みなさい。自分を蹴った女の子をもかばっておるじゃろう? by神様」

あ!でも女の子と闘うみたい、着替えてる。これを着たらお互い闘ってもいいという事なんだね。お父さんが娘を投げ飛ばした!しかも少年に謝ってる!!このお父さんはすごく僕達に近いところまで来ているんだね。

動物的感覚をすごく感じるよ。男の子以上に

優しくて素直な人間だ。


すごい!人間同士話し合ってるのに、まるでライオンとネコが話し合ってるみたいだ。。このお父さん、ライオンみたいに強いのに男の子に爪も牙も出さないし、男の子も本当はトラみたいに強いのに一切それを出さない!

「それを達人と言うんじゃよ。人間が動物の域まで達したという意味じゃ。

なかなか人間であそこまで達する事の出来る奴はおらんよ。それより見て

ごらん。トラにハエ二匹が勝てるつもりで挑んでおるぞ(笑) by神様」

女の子頑張ってるのにまるでじゃれ合ってるみたい。そうか、トラの男の子が強すぎるから爪も牙も出さないんだ。お父さんと一緒だ。

え?男の子は何もしてないのに女の子の方が負けちゃった・・・これも神様が言ってた修行の成果なんだね、女の子の方はケガ一つしていないし。この少年、心も強くなったなぁ。あ、今度はオスのハエがトラに挑んでる。

あ、やっぱり・・・まあ、こうなるよね。しかしこの後の少年格好いいし優しい!ネコの世界でもこういうオスは絶対モテモテだろう。もう女の子メロメロじゃん(笑)そりゃそうなるよね、強くて優しいオスだもん。

あ、女の子も素直になった。きっと少年の心が通じたんだね。よかった。

あ、オスのハエが怒ってトラにケンカ売ってる。   ひゃぁー!!

バッチーン!!って。痛そう。そりゃそうなるよね、さっきと同じで。


あ、少年が明るい顔をしている!自分の居場所を見つけられたみたい。すごい優しさとぬくもりにつつまれてる。何だか見てて嬉し・・・。

メスハエが(笑) 完全にメスネコになって少年にゴロニャンしてる ♬

へー、僕らはシャワー嫌いだけど、人間は気持ちよさそうに入るんだなー。


お!少年家族できたじゃん! あ、でも女の子のお兄さん、早くに器になっちゃてるんだ。かわいそうに・・・

あら!少年と女の子の中が急接近ー!!エサじゃないや、お弁当まで作って貰ってしあわせそう!!僕もうれしいよ!!心が辛い事ばかりのこの子の人生が、どんどん満たされてゆく。幸せなきもちになる。トラが大人数に囲まれた!でもライオン師匠も登場し、さすがだね。やっぱりこの二人は別格に強いよ。しかもちゃんと加減してる。暴れた子供の時度は明らかに違う。今の彼にはトラとしての威厳と風格がある。


あら、2人ともケガしてる。ライオンの方はそうでもないけど、トラの方は結構大きなケガみたい。神様、大丈夫ですよね?」


「大丈夫!!彼女の特効薬が男の子にすごいパワーを与えるから!ところでネロ、そろそろ転生するからな。」「はい。」僕はそう答えた。


今回はシナリオ通り、この女の子に拾われるように僕は転生した。「おっ?来た来た!!さあ、僕をみつけておくれ ♬ 」

段ボール箱に入れられた一匹のネコがミーミーと泣いていた、捨て猫だ。男の子と女の子は速足で駆けつけ、「かわいいねー」と僕を抱きかかえて言った。『君の名前はネロだよ!!』 

「おおー!!ちゃんと伝わってよかった。 男の子の方は何で彼女が名前を決めたのか、わかってないみたいだけど(笑)


そうして、「こっそり飼おう!」と連れて帰った。


「よしよし、シナリオ通りニャ ♬」

女の子は僕をカバンに入れて優しく運んでくれた。どうやらこっそり僕を飼おうと企んでいるらしい。ここからしばらく男の子の頭の中。

「産まれてすぐ捨てられた」という大きさではない。愛らしい子猫だ。とはいうものの、何を食べさせていいのか、トイレはどうするのかなどペットを飼った事ない2人だ。彼女はカバンに入れてこっそり部屋に持ち帰

り、僕は図書室に戻って「猫の飼い方」を借りてきた。家に帰ってみると

すでにお母さんにバレている。・・・・・・あれまぁ・・・

『あなたねぇ、生き物を飼うって事がどれだけ大変な事か解ってるの?』

『でもさ、あのまま置いといたら死んじゃうかも・・・』

『ほかの人が拾ってくれるわよ、元の所に戻してらっしゃい』

『だってこんなに懐いてるんだよ?ほら、可愛いし・・・』

何処の家でも動物を拾って来たら行われる親子の会話である。

『学校行ってる間はどうするの?』

『そこはほら、もっと家のお手伝いするからー』

『そんなこと言ったってー・・・』

『お母さんも子供の頃、猫飼ってたって言ってたじゃん』

『それはそうだけど、今は他にも面倒見なきゃいけないし・・・』

茜ちゃんの空気が変わった・・・・

『・・・お母さん、それって風間君の事言ってるの?』

『違う違う(笑)町内会長をやる事になったからって話よ(笑)』

『よかった!じゃあさー、町内会費集めるのとか手伝うからーー!』

『んもう、お父さん!!茜が困った事言ってるんだけど・・・』

『いいじゃねぇか、ちゃんと面倒見るんだろ?』

『もちろんよ!途中で投げ出したりしないもん!』

『じゃあ、いいんじゃね?風間君も巻き込んでよ ♬ 』

『わーい、お父さんありがとう!!』

全く、父親というのは娘には甘いものだ。。。

ここからが大変だった。ご飯に鰹節のネコマンマ的なものは食べるとして、トイレの躾が出来るまであっちこっちでするし、フンの中から寄生虫が出てきては獣医さんで虫下しを貰ってきて飲ませ、予防接種、避妊など結構お金のかかるものだ。まぁ、命が救えたのだから安いものだ。


猫の成長は早い。そうこうしている内に身体は大きくなり、トイレもちゃんと出来る様になり、寝るときは茜ちゃんの布団で寝るというサイクルができた。流石に道場には来させなかったが、家の中を縦横無尽に走り回り爪とぎ用のマットがあるのに壁でバリバリするし。それでもみんなから愛されて育って行った。カリカリのネコフードを好んで食べ、毛づくろいをしてはケロッと吐き(猫は吐くものだ)片付けている傍から「お腹すいた」

と鳴く。それでも我が家のマスコットとして家族全員から愛された。


「今回はすごく人間に愛されてる!!おいらも頑張って癒してあげられているみたいだ!!あら?彼氏の方が東京の学校に行っちゃうみたい。まあでも女の子もお母さんもお父さんもみんな優しいし、癒してあげられ

そうだ。(お父さんはライオンだから気を付けなきゃ(笑)」

僕は女の子のお布団に入れてもらって毎日寝た。女の子もきっと彼が居なくて寂しかったんだと思う。「ネロ」 って僕を呼んでくれるから駆けつけると、いつもすごく撫でてくれて優しいんだ。お布団の中でも抱きしめて

くれて、僕の心もポカポカしてた。ただ、人間は寝ると暑くなるから、ぼくは彼女が寝たらいつも足元に移動してた。


彼女は僕をクンクンしたり、僕にチュってするのが好きみたい。僕もこの人間家族は大好きだから、自然と家族の一員にしてもらったって感じかな。今まで人間とこうやって過ごした事ないから不思議な感じだったけど、ペットっていうのは愛してもらえると幸せなんだっていうのが初めてわかったよ。お父さんからもお母さんからも女の子からも、そして他の人間からも「ネロ」ってすごく愛してもらっていたんだ。僕はすごく幸せだった。


お、男の子が帰ってきた。ライオンのお父さんからすごい怒られてる。

『大学行かせるのによぅ、1人も2人も一緒なんだよ!!何で大卒取らなかった!!』

と。この世代の方は『大学卒』という肩書でステータスだったし、自分達が行く事が出来なかった分だけ行かせてあげたかったのだろう。ありがたかったが自分の考えと気持ちを説明したら理解はしてくれた。


よかった。大好きなライオンとトラが闘い始めたらどうしようかと思った。男の子が働き始めたよ。この子すごく賢い子だからがんばりそう!!男のはすごく頑張っているんだけど、女の子は寂しそう・・・

僕が「大丈夫?」って寄っていくとネロ・・」って抱きしめて「寂しいよぅ。」ってよく言ってた。そうだよね、ネコの僕にも女の子の気持ちはわかるもの。だからできるだけ女の子の傍にいたんだ。


そしたら神様が僕の頭の中に話しかけてきたんだ。『ネロよ。お前は充分人間達を幸せにした。そろそろこちらに帰ってきなさい。』  って。

「まだ元気だし、もっと愛情を貰って人間を癒せます!!」


『お前にとっては初めて、人間の目から出る(感謝の水)を見る時が来たのじゃ。名残惜しい気持ちはわかるが、お前にはまだ役目がある。もう一度この家族のもとに転生せねばならん。だから帰ってきなさい、今から戻すようにするからな』

神様とお話しながらご飯を食べていたら、急に温かくて優しい気持ちになった。転生(器を離れる時)がやってきた。

女の子達は大騒ぎしてるけど、大丈夫だよ。僕はもうそこにはいない。

器をさすったり一生懸命してくれてる。この家族は優しいなぁ・・・あ!!これが【人間の目から出る(感謝の水)】なんだね、初めて見た。とうとう僕も感謝の水を貰えたんだ!!でも・・・なんか人間がかわいそう。


神様と一緒に見ていると、女の子が彼氏に怒ってる。『風間君、ネロが。ネロが。』

僕は静かに彼女を抱き寄せて抱きしめた。彼女にとっては初めて命と別れる瞬間に立ち会ったのだ。そのつらさは僕も痛いほどわかる。

『どうしてすぐに帰ってきてくれなかったの!!』声を荒げた娘に師匠は言った。

『男の仕事は戦場だ。ペットが死んだからって帰れるか!無茶言うな!!』

『師匠!!』と遮ろうにも遅かった。彼女はネロの棺を持って部屋にこもってしまった。何度声を掛けても返事をしてくれなかった。物理的考慮をすれば亡骸なので腐敗が進まない内に火葬して埋葬、供養してあげるべきなのだが、今の彼女は放しそうにない。。


『ネロよ、見てるか?』 

「はい・・・」

『人間に愛されるということは素晴らしい事なのじゃ。器になっても、なお離そうとせん。お前は自分のやるべきことをよくやった。人間の悲しみをよく見ておくがよい。愛されるということは別れるときに必ず悲しみが

来るものなのじゃ。お前も寂しいし辛いと思うが、素直に「こんなに愛してもらった、またあの家に転生したい」と思えるかのう?』

「はい、もちろんです。僕はあの人間達と家族になりたいです!」


『うむ。お前も成長し、人間も成長しておるな。よろしい、それを聞いて安心したぞ。これからしばらくすると、あの男の子に事件が起こる。人間がまたお前を必要とする時がくるのじゃ。じゃがそれは今ではない。

しばらくワシと一緒に人間がどうなるのかを横で見ていなさい。』

「はい、わかりました。」

今の僕には自分がやらなければならない事、自分が愛されて幸せだった事、そして自分がこれからやるべきことはちゃんとわかっている。彼らはこれから不安になるんだ!そしてまた僕を必要として愛してくれる。そうなるまで神様は『ちゃんと見ておきなさい』って言った。どの様に癒せばいいのか、どうなっていくのか、ぼくはちゃんと見ておかな

ければならない。神様がこんな素敵な人間達を不幸にするはずがない!


「神様!!大変です!!  トラの男の子がお仕事中に口からすごい血を吐いて倒れちゃいました!!」

『うむ。修行じゃ。あの子は純粋がゆえに、自分の器のことよりほかの人間の事を心配し、優先する。良い事なんじゃがちょっと度が過ぎている。(自分の器が自分の物だけではない事)を教えてやるのもワシの務めじゃ。

痛い思いや苦しい思いを敢えてさせてやり、周りの人間の大切さ、優しさ、温かさを思い出させてやらねばならん。その時がお前の出番じゃ、よーく観察しておくのじゃぞ。 

by神様』

    

ここからしばらく人間の様子と男の子の頭の中だよ。


ハッと気付くと病院のベッドの上に居た。起き上がろうにも何かに縛り付けられているのか、身体が動かない。

何が起きているのかも全く分からない。それに・・・耳も聞こえないし声も出ない。うっすらと目だけ見える。視界もかなりぼんやりしている。息が苦しい。何かしらチューブが挿入されている事はわかった。口の横にちらっと太いチューブの様なものが見えたからだ。でも、口は動かないし感覚もない。だんだん意識がはっきりしてきた。それでもかろうじて目が見える様にてきた程度だ。目の前で白衣を着た男性と女性がライトで僕の目を照らしながら何かを話している。聞こえないが眩しそうにしている事は伝わったみたいだ。師匠、お母様、茜ちゃんが部屋に入ってきて、茜ちゃんとお母さんは泣いている。師匠は心配そうにベッドに横たわる僕を見つめている。

「何だ?何があったんだ?何で喋ることも出来なければ耳も聞こえないんだ?」

茜ちゃんが泣きながら移動した。どうやら僕の手を握っているみたいだ。感覚は、ない。

せめて言葉が話せたら。文字が書ければ伝わるのに。耳が聞こえないから状況を知ることも出来ない・・・

師匠がハッとした顔をして部屋を出て行った。目は動くようになってきたので横の動きはわかる。でも顔は動かない。師匠が入ってきた。何かゴソゴソしているのをお母様がしゃがんで見ているようだ。こちらはベッドの上で目しか動かないからしゃがまれると全く見えない。師匠が紙に何か書いたものを僕に見せた。目を凝らしてみてみると

「これがわかるのなら目を回とじろ」

と書いてあった。

理解出来た僕はパチリと一回瞬きをした。また何か書いている。

「本当にわかるのか?本当なら二回、目をとじろ」と書いてある。

僕はわかったので二回、パチパチと瞬きをした。どうなってるんだ?

師匠とお母様と茜ちゃんが手を取り合って泣きながら喜んでいる様子が見える。。。え、、、僕はそんな状態なのか?主治医らしき男性と看護師さんが退室した。そこからは師匠の字と僕の瞬きでの会話が始まった。

「よく生きてたな!心配したんぞ!」・・・「パチリ」

「もうてっきりダメかと思ったぞ、よかった!」・・・「パチリ」

急いで書いてくれている、字がぐしゃぐしゃだ。

「ワシがわかるか?」・・・「パチリ」

茜ちゃんが紙とペンを師匠から奪った。

「私、茜、わかる?」・・・「パチリ」

「お母さんも来てるのよ、わかる?」・・・「パチリ」

そりゃわかるよ、そう思いながらも何もできないのがもどかしい。

「風間君、ずっと意識なかったのよ」・・・「パチリ、パチリ、パチリ」

『は?』という感覚だ。何があった?なぜ?どのくらい?どんな状態?

聞きたい事は山ほどあれど、何もできない。瞬きだけだ。

「痛くない?」・・・「パチリ」痛いどころか感覚もない。

「これ、わかる?」・・「パチリ、パチリ」なんだ?

「二回はわからないってこと?」・・・「パチリ」

三人で何かしゃべっている。また書き始めた。

「耳、きこえないの?」・・・「パチリ」

「生きていてくれてありがとう、心配したんだよ」・・・「パチリ」

僕はどうしたらいい??鏡で自分を写して見せて欲しいくらいだ。

ずっと泣いていたお母様に茜ちゃんがハンカチを渡した。茜ちゃんは別のハンカチを出して涙を拭い、お母様の方を向きながら何か話している。お父さんに紙とペンが渡った。

「わけわからんだろう?」・・・「パチリ」

「説明してやろうか?」・・・「パチリ」

「会社から電話アリ。行くと血まみれ。199電話」・・・「パチリ」

何で急に暗号みたいなんだ?そうか、伝える事を簡潔にする為か!

「頭の中血がいっぱい、早く見つけた、助かった」・・・「パチリ」

な!くも膜下出血か!!だから麻痺で動かないのか!やっと少しわかった。

「ここは、面会謝絶」・・・「パチリ」

「ワシらも長くは居られない、明日また来る」・・・「パチリ」

情報少なっ!!! まあでも生きていてみんな喜んでくれて、意思の疎通も出来た。何日寝ていたのかわからないが、なんとかなるだろう・・・

「風間君、三か月ぶりの世界はどうよ?「パチリパチリパチリ」

三か月!!! 店舗はどうなってる?仕事は?ネロはどうなった?

帰える間際にあっという感じで茜ちゃんが書いた。

「ネロはペット霊園でお星さまになったよ。ネロが風間君返してくれた」

「パチリ、目から涙が溢れるのが分かった。視界が潤んだからだ。茜ちゃんが泣きながら拭いてくれた。「また明日来るね」・・・「パチリ」そこから記憶がなくなった。すごく疲れたのを覚えている。


この家族、すごく絆がつよい。神様も男の子を器から出さなかったってことは、まだやるべき修行が残ってるのか。。。こんなに大変な思いをしてまだ修行があるって、、、人間として生きていくのも大変だ。


目が覚めた。というより看護師さんに起こされた。『風間さーん、起きてますかー?わかったら瞬きしてください』・・・「パチリ」

自発呼吸の確認、嚥下確認が完了するまでそこから1ヶ月掛った。呼吸器は外れ、食道に入れられたチューブも外された。何とか左半身に感覚が戻りリハビリを始めてから3か月。

僕は退院する事となった。ここからが地獄の始まりである。動かない体に対する絶望感、焦るなと言われても焦る。毎日がジレンマとの戦い。医師が言うには「非常に回復が早い」と言われているのだが、毎日毎時間自分の体と向き合っている僕はだんだん希死念慮が起こり始める。「死にたい願望」だ。そうしたい気持ちはあっても身体は動かない。この負の連鎖が僕を「重度のうつ病」にした。食欲は無くなり無気力になり、昼夜逆転の生活が

始まる。痛みのない腕を切りつけ、熱したフライパンを押し付け、その都度家族に病院に連れて行ってもらう。道場はあっても、もう空手どころではないのだ。それらの傷は今も生々しく傷跡として残っている。

身長一八〇センチ筋肉隆々とした身体は見る影もなく、やせ細りお腹だけが出る。

全ての世話を家族に頼るしかなく、もはや生きている意味さえ分からない。


「ここまで追い詰めるのか!! 神様いくらなんでも酷すぎませんか?」

『ここで男の子の両親のように、周囲の事を考えず(器を捨ててしまう)様ならそれまでじゃ。しかしワシはそうは思わん、この子は必ずこの修行を乗り越えると信じているのじゃ。』

『よいか、ネロよ。大切な事は(信じられるかどうか)ではなく、(信じると心に決めて信じぬく事)じゃ。動物でも人間でも(信じぬく事)ができれば修行は乗り越えられるのじゃ。ワシは乗り越えられない修行は

させぬ。必ず乗り越えてくれると信じぬいておるのじゃ。じゃからお前も信じぬくのじゃ。それがあの家族の力に必ずなるのじゃから。』

「わかりました神様。僕も必ずまたあの家族と暮らせるように、転生できると信じぬきます。」

『それでよい。今は我慢の時じゃ。』

そう言って神様と僕は再び上から家族を見ていたんだ。


僕は茜ちゃんに打ち明けた。「生きてる意味が解らない・・・」と。

彼女は少し考えて僕に言った。「風間君が居てくれる事。それが意味だよ」

そうだ、いつしか僕は自分の事しか考えない様になっていた。彼女はお兄さんを亡くしているのだ。師匠やお母様だって大事なご子息を早くに亡くして、意を決してその場所に僕を迎えてくれたのだ。僕がこんな事でどうす

る!!そこから自分の中の「治してやる!」という決意に火が付いた。マイナス思考は捨てる!マイナス思考になる事が出来るんだったら捨てることも出来るはずだ!と言い聞かせて実行した。顔が半分動かなくても笑顔を出す。動かない方の身体を忌み嫌うのではなくて愛してやろう。無くなったわ

けではない。血液が流れているのだから。生かされているのだから生きなきゃ!皆さんに助けてもらってばかりじゃなく、僕も何かしら助けになりたい。

道場の床をはいずり、毎日リハビリ猛特訓が始まった。先ずは心の問題と身体の問題と分けて考える事とした。リハビリ猛特訓をしていない時には心理学を勉強した。心が壊れたのなら修復する正しい知識を得て実践すれば

いい。猛特訓と猛勉強を毎日行った。ひたすら汗だくになって這いずり回っている僕に師匠から「なぁ、息吹。呼吸使ってみたらどうかなぁ」とアドバイスがあった。そんな事も忘れていた。呼吸によって鉄壁を作り出していたじゃないか!!僕は呼吸を意識しながらリハビリという名の這いずりをするようになった。その内、「擦り傷が痛い」という感覚が芽生え始めた。


「おお?進歩じゃん!!」ここから立ち上がる事が出来るようになるまで早かった。立ち上がってしまえば、正座で足がしびれている様なものである。「動こうと思えば動けるもんだ!」と動いていたら徐々に歩く事が出来

る様になってきた。同時に左手の感覚も戻ってきたので、持ちにくいながらも鉛筆やお箸など、極力左手で使うように意識して行った。それから一年ヵ六ヵ月が過ぎ、僕は人並みになった。体中の全ての麻痺はなくなり、やせ細った身体はある程度見られるくらいの身体に戻った。それもこれも、家族全員で少しの回復でも喜んでくれたからだ。自分が頑張ったんじゃない。皆が頑張って見守ってくれ、治してくれたのだ。


師匠の紹介で近所にある町工場を訪れた。就職するためだ。前職のような勤務時間が長い・昼夜逆転する等はなく、完全な日勤(昼間のお仕事)でお休みも戴ける。こちらでお世話になる事になるのだが、その決定打は町工場の社長様の一言だった。

「ウチで働きながら身体を治せばええ。」

こんなにありがたい言葉があるだろうか。僕は営業成績トップで達成感に浸っていた自分を恥じた。今できる事を一二〇%やる!そう決めて実行した。僕の身体は工場勤務で筋肉が戻り始め、太陽の下で仕事をすることで夜にしっかりと眠れるようになった。営業をバリバリやっていた頃に比べると、給与は激減

した。お給料を戴けてリハビリさせていただけるのだ。ありがたい!


そう思いながら仕事をしていると、ある日社長が傍に来て言ってくれた。

『若い奴を入れて会社を成長させ、お前が社長やれ』と。

確かに僕が最年長者だ。このままでは所謂「事業継承者不足」で、社長の代で会社も終わってしまうだろう。そんな事させてなるものか!!僕の経営魂に火が付いた。付近の高校を周り、手作りのチラシを配り、営業成績を上げていた頃と同じように「先ず自分を好きになってもらう」ことを始めた。


「人間同士の助け合い、そして絶対に生き抜いて見せるという決意、大切な人からの大切な言葉、人間同士の支え。これが神様の修行だったんですね!!!」


『うむ、あっぱれじゃ!!!この者たちはよくぞ乗り越えた。苦しくとも悲しくとも、お互いを支え合って感謝して乗り越えたのじゃ!!そろそろお前を転生させようかと思っておるのじゃが準備はよいか?』


「はい、いつでも大丈夫です!!でも神様、何だか雰囲気が変ですよ?もう少し見てからでもいいですか?」


『うむ。この男の子にはまだ気づかねばならんところがある。よく観察しておきなさい。』


就職して三年が過ぎ収入も安定した25歳の夏の早朝、僕は師匠に言った。 

『茜さんと結婚させてください!』 

返事は『おう!わかった!』だった。 正直ほっとした。

その日仕事が終わって帰宅し『ただいまー』と帰った瞬間、玄関に仁王立ちしている茜ちゃんがいた。

『ちょっと!私の意見も聞かないでどういうことよ!』すごく怒っている。

何を怒っているのかわからなかった。というのも、僕は彼女とは永い付き合いなので、当然わかっているものだと思っていたのだ。今から考えれば傲慢極まりない。

『え、ごめん、なんのことだろう?』この時まだわかっていなかった。

『最低!知らない!!』初めて茜ちゃんに「最低」と言われた。これは本気で凹む。おろおろしているとお母様から助け船があった。

『風間君、茜にちゃんとプロポーズしたの?』はっ!!それか!!

僕は急いで階段を駆け上り、茜ちゃんの部屋のドアをノックした。

『ごめん、茜ちゃん、話があるから開けて!』 『聞きたくない・・・』

『ちゃんと説明するから、話をさせて』『放っておいて!聞かないから!』

これはまずい。とんでもないことをやらかし・・・。僕は上着を脱ぐと彼女の部屋の外からドア越しに話し始めた。


『開けてくれなくていい、このまま聞いて。無神経になりすぎてた。僕の中で君は居てくれて当たり前の存在になってた。君は苦しい時も嬉しい時も常に傍にいてくれたし、もう僕にとっては身体の一部のような存在なんだ。

僕が初めて君に出会った時、土下座して蹴り上げられたよね。その時僕は「ぬくぬくと両親揃って甘やかされた身の程知らずのバカ娘が!」って思ったよ。でもお兄さんの事を聞いた。最初の考えは間違ってたってすごく反省した。それから師匠が動いてくれて僕は施設から抜け出せた。

君は僕をお兄さんの様に慕ってくれた。すごく嬉しかったよ。仏壇の前で一緒に泣いたよね。覚えてる?


男の子と女の子は壁を挟んで座ってるけど、お互いを大切に思ってることはすごく伝わってくる。


あの時君がくれたファーストキス、僕には勿体なかった。僕は君のお兄さんでありたいって常に思っていたんだ。いつでも守ってあげられる絶対的に兄にならなきゃって思った。でもこんなにボロボロになって芋虫みたいに這いつくばって、みっともないよね。

そんな奴から結婚を申し込まれてもね。。。ごめん。部屋にもどるね。』

そう言うと彼女の部屋の扉が勢いよく空いて、振り向きざまにバチンと平手で左頬を叩かれた。彼女は泣いていた。

『もう、やめてよ・・・そんなこと言われたら本当に嫌いになっちゃうじゃん・・・』      


「いや、この女の子嘘ついてる。嫌いになんてなれるはずないのに・・・」


『ごめん・・・』


『謝らないで!!何で謝るのよ!!私のキスがもったいないなんて、私の気持ちはどうなるのよ!!じゃあ逆に聞くけど、風間君私に言ったよね、「生きてる意味が解らない」って!その時私、なんて答えたか覚えてる?』


『うん。「風間君が居てくれる事。それが意味だよ」って言ってくれた。』


『わかってんじゃん!!風間君は私の全てなの!!ケガしても入院してもどれだけ格好悪くても、いつも傍で私を守ってくれる大切な人なの。貴方こそ、私の身体の一部なの。お父さんと二人で私を守って入院させちゃったとき、私すごく悔やんだよ!私さえいなければ!!って。でも風間君言ってくれたじゃん!「君を守りたい、守らなきゃって思えたから、多分いつもよりも二人とも強かったんじゃないかな(笑)だからこれで済んだんだよ。生きてるもの。君のせいでケガをしたんじゃない。君が僕と師匠を助けてくれたんだよ。」って!!あれは嘘だったの?』


『いや、嘘じゃない。本気で言った。』


『じゃあ何で「もったいない」とか「みっともない」とか言うのよ!!世界で一番大切な人からそんな事言われる人間の気持ち、ご両親無くしてる風間君ならわかるでしょ!!!』


僕は黙ったまま彼女に近づき、抱きしめた。そして抱きしめたまま言った。


『君に謝るのはこれが最後だ。君の気持ちも考えず無神経な事を言った。そして本当に大切な事を全く理解していなかった。最後に、

その一番大切な女性を傷つけてしまった事を許してほしい・・・』


 【 茜さん、僕と結婚してください 】


『風間君のこと、嫌いになんてなれるわけないじゃん!!!ずっとそう言ってくれるの、待ってたんだから!!!』

そう言って彼女は泣いた。僕は彼女の頭をなでながら、抱きしめていた。


『今夜はいっしょにいて・・』 そう彼女にうながされ、僕は初めて彼女の部屋で一夜を過ごした。


翌朝、師匠とお母様に改めて二人揃って挨拶した。師匠はニコニコと笑い、お母様は涙ぐんでいた。ささやかな身内だけの結婚式を行い、我々は晴れて夫婦になった。今まで以上に苦しみも楽しみも分かち合う仲となった。


「今回のこの気づきも神様の修行だったんですね・・・。以前よりみんな優しくなってる気がします。」


『うむ。人間は心の通じ合う同士、器から離れるその時まで添い遂げねばならん。その覚悟があるかどうかで先は変わってくるのじゃ。今回の事でこの二人も両親も、(みんなが居てくれるから自分の存在がある)と気付いた。

これなら幸せな生活を送る事が出来るじゃろう。ネロよ、いよいよじゃ。

転生の準備をせい。今まで見てきて、自分のすべきことわかっておるな?』

「はい、しっかりとわかっています。人間と共に歩き、こちらからも素敵な愛情をプレゼントしてきます!」


『うむ、よう言った!!!お前も成長したのう。なら安心じゃ、行ってきなさい』


「はい、神様行ってきます!!!」

こうして僕の転生は行われ、再び僕は彼らと会うことになる。彼らの苦しみを全部受け止めた証として、赤でも青でもなく、真っ黒い

「黒猫のネロ」として僕は人間達と幸せになる!!!??????ん?

「おっと?神様の試練がもう一つ残ってるみたい。しっかり見ておこう。」


もうすぐ二七歳になろうとする二人の新しいスタートである。僕達は実家から三駅離れた場所にある、中古でリフォームしたての一軒家に住むことにした。

師匠は『ここに住めばいいじゃねーかー』 と言っていたが、彼女が僕との二人生活を望んだのだ。夫婦生活はとても円満、むしろ独身の時となんら変わらない。変わった事と言えば茜の名前が「風間 茜」となり、部屋も別ではなく一緒に眠れるようになったことくらいだろうか。仕事も順調で僕はネクタイを締めてスーツを着て仕事に向かう立場になっていた。毎日がすごく新鮮で幸せだった。同じ屋根の下で育ったとはいえ、部屋は隣同士だったものが今は真横にいる。横で寝息が聞こえる、手を繋いで眠る事が出来る。

同じ「ただいま」「おかえり」でもこんなに

違うものなのか・・・


健康になった、娘が嫁いだ、幸せに暮らしている、ただ一つご両親の願いを叶えられない事があった。僕たちは子宝に恵まれなかった。原因は僕の方にあり、恐らく生まれた時から自らの遺伝子を作り出す機能が欠如していたようだ。原因を調べてみるまで分からなかった。一縷の望みを掛けて数値を調べると、子供が出来る確率はゼロだと言われた。彼女に受け渡せる僕の遺伝子がゼロなのだ。

それなら万が一にも可能性もないわけだ。彼女に申し訳ない気持ちになったが、『言ったでしょ、貴方が居てくれる事が大切なの』という彼女の言葉にまたしても救われた。


子宝にこそ恵まれなかったものの、半ば兄妹のように育ってきた二人である、良い所も悪い所も知ったる二人である。ケンカをする事などなく、むしろ結婚する前の方が波乱万丈だっただけに平和な日々を過ごしていた。「結婚すると愛が冷める」なんて話を聞いたことがあるが、我々の場合はむしろその逆で、傍に居ながら結ばれることを許されなかった

2人が長い年月を経て結ばれたのだから、愛情は深まるばかりだった。 

そんなある日、「師匠が倒れた」というお母様からの電話があった。高血圧が原因の様で、1ヶ月ほどの入院加療が必要との診断だった。僕達もすぐに病院に駆けつけたが、師匠はかわらずお元気で『なんてことねぇよ(笑)』

とケラケラ笑っていたが、浴槽の中で気を失っていらっしゃったところをお母様が発見し、救急車で運ばれたそうだ。主治医から

① 血圧降圧剤を服用する事

② お酒の量を控える事

③ 禁煙する事

キツイことだらけの条件を出されたと師匠はボヤいていたが、師匠の師匠であるお母様が一緒に居てくださるのだから大丈夫だろう。脳の血管が切れたとか脳梗塞を併発したとかいうのではなく、純粋に高血圧による一時的なヒートショックで、後遺症もなく退院できそうだ。


茜は変わらず道場で師範として教えているが、師匠がいらっしゃらない間はちょくちょく実家に帰ってお母様が寂しくない様にすることとなった。平日でも実家に泊ってくる日もあり、僕は夕食を戴きに実家に寄って、自宅

に帰って寝る。そして翌朝洗濯機をまわして出社するという日が何日かあった。雨が続く日は経済的な事を考えれば、実家に洗濯物を持って行って洗ってもらうことが望ましいのだが、僕は車を持っていなかったので洗濯物

を袋に入れて電車で三駅・・・というのに抵抗があり、コインランドリーで乾燥までやって、フカフカを持ち帰って畳むということをしていた。


夫婦合わせてもそんなに裕福ではなかったが、子供がいなかったのでこれくらいの贅沢をしてもたまには許された。コインランドリーが贅沢とは今から考えるとかわいいものである。

お母様も血圧は高い方で、時々フラフラするということがあったので、実家が近く娘がすぐに帰る事が出来る環境は、お母様にとっても気が楽だったと思う。師匠入院中でお母様もフラフラする時は「泊っていくね」と二人が初めてを迎えた部屋で寝ているようだ。その時の事を思い出すと気恥ずかしい・・・(笑)とはにかんでいた。

いつものように仕事を終え、実家で三人ですき焼きをした。

『懐かしいね(笑)』『あの時もお父さん居なかったね(笑)』なんて昔話をしていたらすっかり遅くなってしまって終電を逃してしまった。

「龍二さんも泊っていきなさいよー」と誘われたが、久し振りに歩いて帰るのもいいかなと思い、「男だし心配ないから歩いて帰ります!」と実家を出た。

帰り道、線路沿いを歩いていた。結構遅い時間なのにハイヒールを履いた女性がコツコツと前を歩いていた。「後ろを男性が歩いていたらそれだけで怖いだろうな。」と勝手に思い、『こんばんは!』と声を掛けた。

「え?なに?」という顔をされたが、左手の指輪を見せて『自分は家内と一緒に空手道場の師範もやっているので安心してください』と言って道場の場所を伝えたら、『ああ、昔からあるところですよね、知ってます!』と

安心してもらえた。女性の自宅は近くだったので女性も僕も一安心で『ありがとうございました!』と言われて悪い気はせず僕は帰路についた。


こういう時に限って災難はあるもので、『ちょっとおじさーん、お小遣いほしいんだけど(笑)』とニヤニヤしたヤカラが集まってきた。

「はぁ、またこういうのか・・・」と思いながらも『いい根性してるなお前ら。タカリ掛けるからには覚悟あんだろうな』とこの状況を少し楽しんでいる自分もいた。イカンイカン・・・もう大人だし既婚者だし、軽率に暴れる訳にはいかない。

素早い廻し蹴りで一人の帽子を蹴り飛ばし、『無事じゃ済まねーぞ?』

と脅したら『すいませんでした!!』と蜘蛛の子を散らすように消えた。


「・・・やっぱりこのトラの男の子は強いなぁ。でもすごく優しい。」「ちなみにここからは転生する僕と男の子が出会うまでのシーンだよ。」


「最近の奴らは根性ないなぁ(笑)」なんて思いながら無事に家に着いた。『無事に家に着いたよー』の電話を実家にし、僕は重大な事を思い出した。しまった。洗濯物干してない!そして明日着るワイシャツをアイロン掛けてない!!茜が居ないとどうしてもこういう所がいいかげんになる。夜中に

せっせと干しアイロンをかけ、そのままソファーで寝てしまった。朝起きて「しまった、寝過ごした!!」とバタッバタ着替えて玄関から出るとあいにくの雨である。(ついていない、師匠がいない間にすき焼き食べたからか)なんて考えながらビニール傘を刺して駅に向かった。幼少期に見たサラリーマンが眠っていた寝ていた場所とは全く別の場所にある電信柱の下にある収集場所でかすかに聞こえる音。子供のころに比べて格段に衛生的になって、もちろん集められたごみ袋にはカラス防護ネットが掛けられているその中からその音はかすかに、でも確実に聞こえた。

何の音だろう、いやーまさかね・・・なんて通勤の為に駅へ向かう僕の足をその音は止めさせた。何だかすごく通り過ぎ行くことに後悔しそうな気がしたのだ。あの日の様な霧雨ではなく、まとまった雨量の中、傘に当たるボツボツという雨音が耳障りだ。


意を決して傘を置き、集団登校する小学生の「なに?あの人・・・」

みたいな視線を痛く感じながら、僕はネットをどかして音のする袋を探し漁った。半透明のゴミ袋の中に不自然に新聞紙ばかりが入っている袋がいくつかあった。うっすら中身が見えるだけに、「見られたくない物を捨てる時はこういう捨て方をする女性が多い」というのは某ニュースで読んだことがあった。女性の下着とか出てきたら完全に変態で犯罪者じゃないか。。と考えながらゴソゴソしていると

『ちょっといい?君何してるの?怪しい人がいるって通報あったんだけど』

と警察の方。そりゃそうだ。雨の中スーツずぶ濡れで朝からごみ収集場所をゴソゴソしているんだから。

『いや、音が聞こえるんですよ!だから探しているんです!』

『何の音?みんなそういう言い訳するんだよ。警察署で話聞くから』

『いや、本当ですって。そうじゃなきゃこんな雨の中探さないでしょ!』

『逆にさ、隠しておいたもの捨てられちゃって探してるとか?(笑)』


この言葉にさすがにちょっと頭にきた僕は、

『おい、黙って見とけ!何も出てこなかったら署でも何処でも行ってやる』

『君、公務執行妨害で現行犯逮捕するよ?』

『手も触れず悪態もついていない市民を公務執行妨害で現行犯逮捕だと?行政府として市民からの通報に駆けつける職務姿勢は敬意を表するが、さっきの(笑)は違うだろ!君こそ勉強不足ではないのかね?失礼だろ!』

と言い放ち、音の発信源をとうとう僕は見つけた。これがただの音の出るオモチャだったらどうしよう。いや、でも何かしら出て来てくれれば疑いも晴れるし、自分自身スッキリする・・・

そう自分に言い聞かせながら、警察官の覗き込む視線をうっとうしいな・・・

と思いながら硬く縛られた口の横を破いて中身を取り出すと、新聞紙にくるまれて更にコンビニの袋に入れられた命がそこにはあった。

生まれて間もない状態で遺棄されたのだろう。三匹の内、二匹は死んでいた。

『ほら、あったじゃん!』と普通は出そうなものだが、僕の口から出た言葉は、『近くの獣医さん、どこですか?! 早く!!』だった。助けなきゃ!!それだけだった。

『獣医さん?振り向いたらあるけど・・・』そう警察官に言われ、急いで消えそうな命を運び込むべく、開業前の診療所のインターホンを押した。

『すいません!診ていただきたいんです!!すいません!!』

何度もインターホンを押し、何度も声を掛けた。返答はない・・・

ここで汚名返上、名誉挽回とばかりにでてきた先程の警察官。

『朝早くからすいません、〇〇署の警察です。開けていただけますか?』

驚くことにものの数秒で出てきた。『はいはい、何かありましたか?』

簡単に経緯を説明し診ていただけることになりました。

ここで沸き起こる疑問点・・・

① なぜゴミと一緒に捨てられていたのか

② 探し始めてすぐのタイミングで誰が通報したのか

③ なぜ警察の問いかけにはすぐに反応したのか

④ そしてなぜ、すぐ裏が獣医さんだったのか

これらは一般市民である私は安易に触れない事にする・・・そしてその後どうなったのかも知る由もない。なぜならこの時応急処置だけしてもらい、僕は別の知り合いの獣医さんを訪ねたからだ。


「そう、こいつは次に転生する時はきっと閻魔大王が怒ると思う。だって産まれたばかりの僕をゴミと一緒に捨てたんだよ!!兄弟はすぐあっちの世界に戻されたけど、僕には使命があったからこの時は頑張った!」


『おいおい、こいつぁ危ないぞ・・・?』

『そんな事は判ってる!!だからお前の所に来たんだろ!!』

『わーかった。やれるだけの事はやってみる。でもよ、ダメ元だぞ。大丈夫でもそうでなくても電話するから、お前は取り敢えず会社行け。クビになっても知らねーぞ?』

『そんな事は言われなくても解ってる!いいからこの子何とかしろよ!』

『おい、お前・・・うるせーよ。こっちは毎日救っては死なれの繰り返しなんだよ。救いたいにきまってるだろうが!!いいから行け!!』

気が付けばさっき僕が警察官に抱いていた感情と同じ思いを彼にも抱かせていた。

僕は無力だ・・・

二日後の深夜、彼から電話があった。

『お前、責任もって面倒みられるんだろうな?』

『当たり前だ。それよりどうだったんだ?』

『面倒みられるかどうか訊いてるのに悲しいお知らせする馬鹿がいるか?面倒みるんならそれなりの手続きとか避妊とか、今の内から考えとかないといけないからよ』

『助けてくれてありがとう・・・』

素直に言葉に出た。

『おいおい、本当に大変なのはこれからだぞ?引き取りに来い。説明してやるから。そして俺を寝かせろ。ポカリとサンドイッチ買ってきてくれ』

不眠不休で今にも消えそうな灯と闘って、彼は見事に火をともらせた。

僕はただただ感謝の念でいっぱいな気持ちでコンビニに走った。

迎えに行き受け取ると、確かに鼓動が聞こえる・・・

よかった、本当によかった・・・ でも本当の闘いはここからだった。


「そうニャ。僕が器から離れちゃったら元も子もない。人間達が頑張ってくれたんだから、僕も頑張らなきゃって必死だったよ。」


知り合いの獣医に出してもらった、人間でいう粉ミルク。少しだけ溶かして体温位に温め、針の無い注射器みたいなものでゆっくり飲ませる。

『いいか、ギャーギャー鳴いても1日に5回までな。』助かってホッとした。とはいうものの、まだ生かし続けられる自信が無い。

怖いのだ。この小さな命をパーカーの中にまるで有袋類であるかのように自分のお腹に包み、静かに眠っている姿を見ていつの間にか夢を見ていた。


「命を繋ぐって事は本当に大変な事なんだって、これだけ転生してみて僕も解ったよ。本当にみんな頑張って命を繋いでいるんだなって。それにしても、疲れたよね。ありがとう!!すごく温かくて気持ちいいから、僕も一緒に寝るニャ ♬」


知り合いの獣医に見てもらって命が助かった生まれたての真っ黒な子猫。その子が夢でも見ているのかビクッとしたので僕もびっくりして起きた。パーカーの中にまるで有袋類であるかのように自分のお腹に包み、静かに

眠っている姿を見ていつの間にか僕も寝ていた。今日は土曜日、会社はお休み。そろそろ茜も帰ってくるんじゃないかなー。

『ただいまー!!』 茜だ!『おかえり!!』

僕は子猫を落とさない様にお腹に包んだまま玄関に出迎えた。

『ただいまー。ごめんねー。お父さん無事に退院したわー』

『本当! よかったー。これで安心だねー。お母様は?』

『お母さんも血圧降圧剤飲まなきゃいけないみたいだけど、あとは普通に生活してて大丈夫だって。』

『よかったよかった、安心したよ(笑)』

『ねね、ネロは?』『ここにいる―(笑)』

『ずるーい、私も抱っこしたーい! いいなーいいなー!!』

『わかったよ。じゃあこのパーカーごと貸してあげるから着てごらん』

『わーい!あったかーい、かわいいー!!赤ちゃんいるってこんな感じなの

かなー。  あっ、ごめん・・・』

『謝らないの(笑)ネロがいるじゃん(笑)』

『そうだね、この子大切に育てようね。』


「違うニャ(笑) 女の子が帰って来たのがわかったから、起きて!!ってお腹ポンポンしたニャ(笑) まあでも、これで晴れてまたこの人間たちの所にもどってこられたニャ。

あ・・・嬉しくってつい「ニャ」がついてたニャ(笑)


九回も生まれ変わるオイラにとって、「人間との生活なんてあっという間」だと思っていたけど、流石に二十一年間・七六六五日も一緒にいると情が沸くニャ。人間が言う年齢ってヤツに当てはめるとオイラは随分高齢者らしいけど、いつまでたってもこの二人は子猫

扱いニャ。まぁ、嬉しいけどニャ。今のところ神様の声は聞こえないから、もうしばらくこの二人と居るニャ。

いや・・・この二人と生きていたいニャ。

         七六六五日の物語 了


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7665日の物語 @ryukokoro

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