第29話 出発前夜

「明日、早速発つことになりますが」

「ああ、大丈夫です。ありがとうございます」


 文月にとっては、全てが急でいきなりだ。組織の長。母はテロリスト。妹。魔術。そして父親。


 だがもう、彼に迷いはなかった。

 『真実を知りたい』。

 その思いの強さは、母親譲りかもしれない。


「……文月様」

「はい?」


 別にホテルを取っているというアレックスは、部屋から出るタイミングで少し眉を潜めた。


「私に敬語は結構です。いずれ私は、直接貴方様にお仕えするのですから」

「…………いや、慣れないというか……」


 アルテも、アレックスへ敬語は使っていなかった。執事という存在。そんな関係性は、日本には無い。雇った家政婦にすら、敬語が普通だろう。


 賃金や地位ではない、本物の『執事』。心から仕えるという、異質の人間関係。


「……慣れていただかないと、私がひやひやしてしまいます」

「…………うーん。なんとか……慣れます」

「ふむ……」


 良かった、とアレックスは思った。愛月の息子が、『良い子』であって。


「それでは失礼いたします。近くのホテルを取っておりますので」

「あたしもそろそろ帰るね」

「ん」


 アレックスと同時に、美裟も立った。今日は色々なことを知った。兄妹で、話すこともあるだろう。


「……美裟さん」

「はい?」


 玄関を閉じてから。アレックスは美裟へ声を掛ける。


「どうしますか?」

「!」


 出発は、明日だ。


「……荷造りと、ご両親へ挨拶を。きちんとすべきですよ。次にいつ、日本の地を踏めるか分かりません」

「…………分かってます」

「おや」


 美裟の目にももう、迷いは無かった。


「妹達でも、愛月さん……でもない。『文月への役割』が、私にあると思っています」

「…………!」


 そもそも。

 人生を捧げる覚悟はあった。

 あとは。


 彼に、求められたのだ。今日。


「(既にそこまで覚悟を)」

「私も会いたいですしね。あいつの母親……。愛月さんに」

「ほう」

「はい。『無責任に息子を放っておくな』と、ひとつ言ってやりたいと思います」

「!」


 アレックスは目を見開いた。感心したのだ。


「……とても、良いですね。是非お願いいたします」

「ありがとうございます」


 世界に対して物怖じしなかったあの少女と、同じような目をしていたから。


——


——


「フミ兄!」

「お兄さま」

「ん?」

「一緒にお風呂入ろ!」

「りましょう!」


 久々の我が家。と言っても双子にとってはひと月ほどしか滞在していないが。

 明日からはまた別の家。この狭い部屋で3人暮らしは、もう最後。

 その最後の思い出は、譲りたくは無い。例え双子であろうとも。


「……3人は流石に入らん。ふたりで入ってこい。俺は後で良いから」

「ダメーっ!」

「ええっ!」

「良いですかお兄さま。正直に言います」

「へ……?」


 なんなら涙ぐんで。顔を真っ赤にして。ふたりは訴える。


「お母さまや、アレックス達の前で。『こんな』ことは、本当に恥ずかしいのです」

「今しかないんだよっ!」

「……えっ」

「だから。『兄にお風呂をねだる姿』なんて。……見せられないんですっ!」

「!」


 必死に。何故かは分からないが。

 必死さだけは、強く感じられる。


「あと、年齢的にも正直ギリギリだと思います!」

「だ。……だろうな……それは……」


 ぐいぐいと迫る双子に、たじろぐ文月。


「と言うわけでっ。お願いしますっ!」

「ぐ……!」

「フミ兄! ねっ!」

「ぐぐ……! ていうか、なんでそんなに俺と入りたいんだよっ」


 文月とて、別に嫌という訳ではない。先日はセレネと入ったこともある。

 だが不思議といえば不思議なのだ。何故そこまで必死になるのかと。


「そりゃあ、フミ兄大好きだもん」

「!!」


 訊けば。

 何を今更、と言った表情で言われた。


「いや……。よく恥ずかしげも無く言えるなそれ……」

「? 隠して何かメリットあるんですか?」

「うっ」


 妹というのは、こういうものなのだろうか。

 文月には分からない。普通は嫌がるものなんじゃないだろうか。恥ずかしいものじゃないだろうか。

 女の子は、特に。


 だがそれは、日本だけの文化なのか?


「という訳で、セレネ」

「うん!」

「勝負!」

「ちょっ。待てお前ら、何の勝負する気だ」

「魔術に決まってるじゃん!」

「馬鹿! こんなくだらんことで魔術使うな!」

「「くだらんことないっ!!」」

「うおおっ!?」


 双子ふたりの怒号が文月を襲う。怯んだ兄を尻目に、セレネがダッフルバッグから『道具』を取り出す。


「……!?」


 それを見て、文月は再度驚く。どんな魔術勝負になるのかと思いきや。


「じゃんけん!」

「ぽん!」


 8×8マスのある正方形のボード。

 6種類16個の駒。


「よしっ! アルテが先行ね!」

「偶数回やって差が出るまでに決まってるでしょ!」

「……『チェス』……?」


 そして何故か本格的な——デジタル式のチェスクロックまで。


「持ち時間は!?」

「早くお風呂入りたいから10分切れ負け!」

「おっけー!」


 あれよあれよと。

 アルテvs.セレネの、チェス対決が始まった。


「…………!」


 文月は最早、口出しができなかった。このふたりの勢いは凄まじい。そもそも彼はチェスのルールすら把握していない。なんか将棋みたいな海外の奴、といった認識しかない。


「そうきたか。セレネはそれ好きね」

「アルテだって戦法いっつも一緒!」


 駒を動かしては、チェスクロックを叩き。交互に、しかも矢継ぎ早に手順を回していく。


「はーい、ナイトお疲れっ!」

「そんなの痛くも痒くも無いし!」


 だがふと気付く。これのどこに魔術があるのかと。


「見付けたっ! 今ここのポーン動いてた!」

「!」


 セレネが、そう叫んだ。


「ちっ。バレたか」

「ふんだ。見逃さないんだからっ!」

「セレネも、そのルークひとマスずれてるから戻して」

「うっ! バレた!」


「…………!」


 文月はずっと盤面を見ていたが、そんな駒の移動など分からなかった。


 魔術で。ズルしているのだ。


「やった! チェック!」

「くそ!」

「セレネもまだまだだね。3手前にアルテのクイーンてどこにあったっけ?」

「え。……あっ! ズルいアルテ!」

「もう駄目ー! 見破れなかったセレネの負けだよ」

「次! わたし先行でもう1回!」

「これに勝てばアルテがお兄さまとお風呂!」

「させないんだから!」


 そして。

 1度の勝利で勝負は決しない。チェスは先手有利のゲームであり、『それが通用する程度』には、ふたりの実力があるということであった。


「……時間、掛かりそうだな」


 見ていても、どちらが勝っているかすら分からない文月は、席を外れてベランダへ出た。この間に風呂に入ろうかとも考えたが、それは怒られる気がした。


——


「…………文月? 何? 荷造りで忙しいんだけど」

「いや。……済まん。そうだよな」

「……別に良いわよ。どうしたの」


 文月は美裟へ電話を掛けた。

 勢いで誘った手前、落ち着いたら少し不安になってきたのだ。


「大丈夫かなと思ってさ。おじさんおばさんとか、普通に美裟の気持ちとか」

「…………気持ち悪いわね急に。別に何も無いわよ問題は。あたしの人生なんだから」

「……明日、朝に神社へ行くよ。迎えに」

「そう」

「……挨拶しないと」

「そうね。お父さんには殴られるだろうけど、それがあんたのケジメなんじゃないの」

「う。……そうだよな……」

「……ねえあんた、『向こう』の人達にあたしを何て紹介するつもりなの?」

「えっ」


 それは。

 美裟なりの、気遣いだった。お互いの気持ちは既に分かっているが、今ひとつ確証が得られない。

 そんなパスだった。


「……恋人じゃ駄目か?」

「!」


 文月は。

 『これ』をはっきりさせたいと、電話したのだ。

 明日が来てしまえば、もううやむやになってしまう気がして。ゆっくり話す時間を作れなかった。電話になってしまった。そんな申し訳なさのこもった声色で。美裟が『嫌い』そうな、少し弱い口調で。


「それで良いわよ」

「……ありがとう」

「じゃあ、もう良い? 切るから」

「あっ。おう。また明日」

「はいはい」


 あっさりと。電話は切られた。


「…………」


 文月はしばらく、その場で動けずに居た。


——


「ふふん! これで2勝2敗! まだまだこれからだよ!」

「望む所っ!」

「まだやってたのかお前ら。もう終われ。俺達も早く準備して、晩飯食って寝るぞ」

「でも! お風呂が!」


 部屋では未だ決着は付いていないようだった。後から聞いた話だが、単純なチェスの実力はセレネが優勢であり、魔術はほぼ互角。だが『騙し合い』に於いてはアルテに分が上がり、結果的に拮抗するらしいのだ。この『魔術チェス』では。


「俺はアルテと入る。それで決まりだ」

「ええ————! なんで——!」

「理由は、セレネとはこの前入ったからだ」

「やった——! お兄さまっ!」

「ずーるーい——!」

「決めないと進まないだろ。さあ入るぞ」

「はーい!」


 ふたりの妹に優劣など付けられない。だが全くの平等など存在しない。

 ならば平等は要らない。公平で良い。文月はその辺り、ふっきれた兄であった。

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