第7話 謀略
エラム帝国を北西から南東に、ほぼ斜めに走るエヒャ街道を馬で約三日駆けた位置にベモジィはあった。
ラクピの案内のもと、公邸に通されたウマルは二夜ぶりに風呂に入り、ラクピと太守夫婦と共に温かい晩餐を楽しんだ。ラクピの妹であるハーラは、サイードとの婚礼を控えた若い娘であるため、妙な噂が立ってはいけないと考えたベモジィ太守の考えで、この日の夕食には同席しなかった。
十二歳になった頃には東部戦線に赴くようになったウマルにとって、家族で食卓を囲んだ記憶はほとんどない。
平和な晩餐を味わいながら、生まれてこの方ほとんど感じたことのない絵にかいたような家庭的雰囲気を、ウマルは心から楽しんだ。
あたたかい食事を口に運び、夜になると鎧を脱いで風呂に入って眠る。街中を丸腰で歩いていても襲撃されることもない。家族や友人とにこやかに喋る。
帝国西部にある首都ガパやベモジィには存在しているそういった
蛮族から国境を守るタサやセロヒ、山の老人が住むとされる北方の山岳地帯を有するシンダイは日々紛争が怒ってはいるものの、その他エラム帝国39地域は概ね『平和』である。
ウマルは、この国のできるだけ広い地域で、できるだけ長期間、『平和』が続くことを望んでいた。エラム帝国に住む大半の人々の『平和』を守ることを使命とし、ウマルは日々の戦いに身を投じていた。
食事の後、腹ごなしの運動にと、ラクピがウマルを中庭へと誘い出した。
黒い天幕をナイフで細く切り裂いたように輝く白い三日月に、風で流されてきた黒い薄雲がかかる。夜の闇がその濃さを一層増した。
「……ウマル様。ウマル様を見込んで折り入ってのお願いがあるのですが」
月光が届かない夜闇の中で、ウマルの方に向き直るラクピの黒い影が動く。彼がどのような表情をしているのか――その表情は暗くて見えない。
さっきまで少し強く吹いていた風がやむ。
地球上のすべてのものが寝静まりかえっているかのようだ、物音ひとつしない中庭に、澱みのないラクピの低い声だけが聞こえた。
「サイード皇太子の暗殺に協力してくれませんか?」
ウマルは、ラクピの黒い影の頭の部分を黙って見つめて言った。
「サイード皇太子は……君の妹君の婚約者だろう?妹君が悲しむことを君はするのか?」
「ただの政略結婚ですよ。愛のない結婚です。妹は悲しみません」
「ならなおさらだ。父君はこの婚約を喜んでいるんじゃないのか?次期皇帝の義理の父親になれるんだ。君だって……義理の兄になれるんだぞ?」
「そんな私利私欲のために私は動きません!私を
ラクピは語気を強めた。
再び風が吹き始めた。糸のような細い三日月を隠していた薄雲が流されていく。辛うじてあたりを青白く照らし出す頼りない月光が、ラクピの無表情な顔を闇に浮かび上がらせた。
「……皇太子はフセイン様と異なり、気弱すぎる。サイード皇太子に大きくなりすぎた今のエラム帝国を納めることができないのは側近ならずとも皆分かっていることです。市井の民草ですら親の七光りを揶揄する者ばかりです。……ウマル様も噂ぐらい聞いたことがあるでしょう」
「………………」
ウマルはラクピの言葉を否定もしなかったし、肯定もしなかった。同意を求めるかのように言葉は切ったものの、実際のところウマルがサイードのことを内心どう思っているか、ラクピは気に留めていなかった。
「フセイン様亡き後、サイード様が立てば、宰相からリミムザーロに政治的実権が移りましょう。それだけは絶対に避けなければ……悪党にわざわざ祖国を差し出すことはないでしょう。政治は混乱し、国力は間違いなく衰えます」
「だが、まだ皇帝は生きている。生きているうちから死後のことを想定するのは早すぎるだろう」
「いえ。我が国の行く末を思えばこそ……ウマル様。早いなんてことはないのです。好機が来れば手を打っておくべきだ。私に……モーレ宰相にお力を貸していただかしていただけないでしょうか。……なに、簡単なことですよ」
ラクピは瞳を閉じ、鼻でフンッと笑って、像が蟻を踏みつぶしでもするかのようにたわいものないことだと言わんばかりに続けた。
「戦場でひと突き、皇太子を切り捨ててくださればいいのです。サイード皇太子には戦場で立派な戦死を遂げていただくのです」
ここまで話すと慇懃に頭を下げるラクピを無言のままウマルは見つめていた。
「どうか、ご協力を」
念押しするかのように一音一音を丁寧に発音したラクピに、ウマルは言った。
「……協力を、断ると言ったら?」
ラクピはゆっくりと頭を上げ、自分を見下ろしているウマルの顔を、じっと見つめた。
「ここまでお話しした以上、その選択肢はありえません」
懐に手を差し入れたラクピの胸元からゆっくりと取り出されたナイフが、月光が反射して白く光る。
「この話はあなたにとっても悪い話ではないはずだ。あなたの甥であられるロンミ様に皇帝になっていただいた暁には、貴方にもそれ相応の地位が約束されるのです」
右手にナイフを握ったラクピが、じりじりと追いつめるようにウマルの方へと歩を進める。
ウマルはラクピと間合いが縮まらないように
「私利私欲の塊だと、私を
ウマルは、すぐ目の前でナイフを構えて立つ男が、目を見開き怒りで口元を引き
「私は私利私欲のために動きはしない。私は皇帝の命に従わねばならない。皇太子さまをお守りする立場だ。これ以上、私はお前から何も聞かない。……そこを通してくれ」
ウマルの毅然とした物言いを打ち消すように、ラクピが叫ぶ。
「行かせない……!行かせるものか!!!」
ラクピが頭上に振りかぶったナイフが鋭く光る。
「我々に協力できない者に用はない!死あるのみだ……。――死ねっ!!!」
ナイフが振り下ろされようとした瞬間、
「誰!?」
女の声がした。
「……お兄様?――そこで何をしているの?」
「……ハーラ!?」
思いがけない実妹の声に、ラクピは思わずウマルから逸らせた目線を、声のする方に上げた。二階の窓から長い銀色の髪をなびかせ、身を乗り出しているハーラと目が合う。
その隙をウマルは見逃さなかった。
「――――――っ!!!」
ラクピの右手首を掴んで、背後に捻る。
肘関節を取られ、ラクピは思わずナイフから手を放した。
「お兄様!!!……ああ!!!……何ということを!!!どなたかお名前は存じ上げませんが……お待ちください!そちらに伺います」
ハーラは叫ぶと二階の窓辺からさっと身を翻し、姿を消した。
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