きっと誰のヒーローにもなれない

陽澄すずめ

01

 例え誰かの命で世界が救えるのだとしても、他の人が名乗り出てくれるのを待つだけだ。

 そんな歌を、いつか耳にした覚えがある。


 その条件を示されたら、きっと大抵の人が同じようにするんじゃないだろうか。僕だってそうだ。僕ではない、勇敢な誰かの登場を待ち望む。

 だけどそれはあの歌のように、大切な人を守るためなんかじゃない。

 自分とは無関係のところで見知らぬ誰かが犠牲になって、いつの間にか世界が平和になっていればいいと思うからだ。

 僕が臆病者であることに、間違いはないけど。



 ■



 世界に滅亡が迫っていようとも、目の前の生活にさしたる変化がなければ、それは平和と同じことなのかもしれない。


 その日も僕は窓際の一番後ろの席で、帰りのホームルームの時間をぼんやり過ごしていた。

 中学三年の二学期が始まったばかりの時期だ。そろそろ受験に備えた生活をするべきだとか、不真面目な授業態度は内申点に響くだとか。

 まだ夏休みボケの抜け切らない頭で、そんな担任教師の話を聞き流しつつ、窓の外をきらきら漂う『空のかけら』を眺めていた。


 少し視線を上げれば、ひびの入った青空が見える。あの亀裂は日に日に大きくなっているのだと、昨日もテレビでやっていた。

 西の地平線から中天に向かって伸びているその『割れ目』が、空をぐるっと横断して東の果てへと届いた時、世界はついに終わりを迎えるらしい。

 その原因については何度か説明を受けたはずだけど、あまり理解できていなかった。分かったのは、この日常がそう遠くない未来に壊れてしまうということだけだ。


 現実感は、ひどく覚束ない。

 まるで、数ヶ月後に控えているらしい高校受験みたいに。


「……さて、みんなに知らせなければならないことがある」


 間延びしていた担任の声がなぜか急に暗いトーンに変わり、僕はふと正面を向いた。


「高橋」

「……はい」


 担任に呼ばれた僕の前の席の高橋さんが、消え入るような小声で返事をした。そして手招きに応じて正面へと出ていく。

 長いスカートに、長い前髪。クラスでも目立たないタイプの女子だ。教壇の上に立っても、俯きがちで表情が分かりづらい。


 ゆっくりと教室を見渡した担任が、静かに口を開く。


「実は、高橋が『適合者』に選ばれた」


 途端に、クラス全体が騒がしくなった。動揺と好奇心。そんなものが、波紋みたいに拡がっていく。


「先々月みんなに受けてもらった身体検査、あの時に判明したそうだ」


 ざわめきが一層大きくなる。僕たちは全員、適合検査をされていたのか。背筋がぞっと薄ら寒くなった。


「静かに! ……『任務』は、ひと月後から開始となるそうだ。いいかみんな、高橋と一緒に勉強できるのもあと少しだぞ」


 歓声にも似た声があちこちで上がる。お調子者の友人が「ヒーロー誕生だ!」などと囃し立てる。

 それを聞くともなしに聞きながら、僕は胸の中にもやもやしたものが湧いてくるのを感じていた。

 ズレたことを言う担任だ。僕たちはともかく、高橋さんにとっては勉強なんてもう無意味なのに。

 『適合者』として、世界を救うための特別な『任務』に就くことが決まってしまった彼女には。



 いつものように防護マスクですっぽりと頭部を覆って、帰り道を行く。

 絶えず辺りを漂っている有毒物質、通称『空のかけら』から身を守るために、この装備が必要なんだ。


 十年前にあの『割れ目』ができて以降、街路樹や野菜が枯れてしまったり、外飼いのペットや家畜が弱って死んだりする現象が世界のあちこちで起きていた。

 その物質の正体は、まだ完全には解明されていないらしい。空の亀裂が長く大きくなるたび大気中の含有量が増えるようなので、あそこから降り注いでいるものなのかもしれない。


 夏の名残りの強い陽射しが、学校指定の防護ジャケットの中身を蒸し上げる。

 こんな風によく晴れた日は、例の物質が太陽光に反射するのか、空気がきらきらして見える。それを綺麗だと呑気に思うくらいには、この状態はもはや日常の一部になっていた。


 僕の少し前を、同じ上着を着た生徒が歩いている。その猫背気味の姿勢で高橋さんだと気付いて、思いがけずどきりとする。


 ――正直さ、高橋さんで良かったよね。


 帰り際、クラスメイトのそんな声が耳に入った。あの子はいつも一人だから、と。

 僕の知る限り、高橋さんはいじめを受けているわけじゃない。だけど友達らしい友達もいないみたいだ。休み時間は一人で本を読んで過ごし、お昼は一人で弁当を食べ、今もこうして一人で帰っている。


 僕とて、一度も喋ったことがなかった。席は前後ろだけど、配られたプリントを受け取るぐらいの間柄でしかない。

 それでも、高橋さんが『適合者』に選ばれたことは少なからずショックだった。先生にしろあのクラスメイトにしろ、ああも平然としていられるのは、真実を知らないからだろう。


 高橋さんは、たばこ屋の角を曲がって行ってしまった。小さくなっていく背中を横目で見送って、僕は自分の家路を辿った。




「お前のクラスに、高橋さんという子がいるだろう」


 その日の夕食の時間、そう切り出してきたのは父さんだ。

 僕は平静を装って答える。


「うん、いるけど……」

「お前には伝えておこうと思うが、実は――」

「今日聞いたよ。『適合者』なんでしょ」

「あ、あぁ……そうか、もう情報解禁になったのか」

「『任務』はひと月後からだって。そうなったら、もう戻って来られないんだよね?」

「そうだ」

「気の毒ね……」


 神妙な母さんの声に、きりりと胸が痛む。ダイニングに重い沈黙が落ちた。


 『割れ目』を閉じるために開発された特別な装置に人間の脳波が必要だと判明したのは、もう三年前のことだ。

 それも十代の若者で、その機構に適合する人間の脳波が。

 これまでにも、年に何人かのペースで『適合者』が選び出されていた。


 『任務』にあたった者がその後どうなるのか、世間には知らされていない。

 だけど僕は、気象庁の特定危険物質対策室に勤める父さんから、こっそり教えてもらっていた。機密情報だから絶対に他言するなと、念入りに前置きされた上で。


 ――『適合者』はずっと機械に繋がれて、自分の意思も意識も失くしたまま、死ぬまで生かされ続ける。


 僕の前の席の高橋さんは、そんな運命にあるんだ。


 ざらついた気持ちを誤魔化すために、わざと軽い調子で言う。


「でもさ、びっくりしたよ。適合検査って全員されてたんだね。もしかしたら、僕も『適合者』になってたかもしれないってことだよね」

「いや……それはない」

「え? なんで?」


 父さんはしばし視線を彷徨わせ、母さんの方をちらりと見た後、硬い声で言った。


「対策室スタッフの家族は、どうであれ除外されることになってるんだ」

「あ……そう、なんだ……」


 僕はもうそれ以上、何も言えなくなってしまった。

 かちこちと、秒針の音が時を刻んでいく。ぎこちなく口に運んだハンバーグは、味がしなかった。

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