第11話:引っ越し

 由沙がクビを宣告されてから二週間が経過していた。新事務所となる貸しビルの清掃と内装工事も終わり、今日が晴れての事務所開きだ。


 なんとかここまで漕ぎつけることができたが、もちろん万事順調にことが運んだわけではなかった。水瀬の移籍問題然り、二郎がレギュラー出演している番組からの降板やゲスト出演キャンセル問題然り。どちらもかねが絡んでくることもあってややこしいことになった。


 水瀬の移籍問題はひとまず置いておくとして、テレビ局としては警察に殺人の嫌疑がかけられた二郎を出演させることはできないと主張し、新事務所に損害賠償金を求めてきた。


 もちろん冤罪の風評被害であるから、そんな要求に応じるわけにはいかはい。損害賠償を求めるならば、逆にキャンセル料を請求すると由沙が言いだして大モメになり、弁護士を雇うはめになったのだ。


 さらに、問題は金銭トラブルだけではなかった。クレームや脅迫の電話やメール、記者会見のしつこい要求が旧事務所に寄せられ、かなりの迷惑をかけてしまった。旧事務所には二郎が謝り倒したうえで、所属していないことを徹底的に周知するようにしてもらっている。


 それでも二郎は、新事務所の方に来た記者会見の要求などはすべて無視している。そんなこともあって、彼に対する世間の風当たりは厳しいことになっていた。


 そんな問題はさておき、大物の配置をようやく終えた一階正面のフロアで、水瀬がなにかを催促するように二郎を見上げてきた。


「明かりを入れるとずいぶん雰囲気が変わるもんだな」

「ふふーん、もっと褒めろー、撫でろー」


 内装のデザインを決めた水瀬が、得意そうに、でも棒読みで、腰に手をあてがって豊満な胸をそらして誇っている。


 おいおい、鼻の穴が膨らんでいるぞ。とは思っても口にしないだけの、デリカシーを備えつつある二郎だった。


「ふざけてないで、ふたりとも身の回りの整理をしなさい」

「へーい」


 せわしなくデスク周りの整理に勤しんでいる由沙に、二郎はやる気のない返事を返した。


「ほーい」


 水瀬も二郎にならったかのように、やる気のない生返事だ。


「ようやく、ようやくこれで新しいスタートが切れるわ。二郎さん、水瀬ちゃん頑張りましょうね」

「へーい」

「ほーい」


 低いテンションで気だるげにしている二人とは対照的に、由沙はやる気をみなぎらせ、キラキラと瞳を輝かせている。


「もう、ふたりとも、そんなんでどうするのよ。新しい事務所で心機一転がんばるの。もっと気合い入れていこー」

「落ちつけ由沙。鼻が膨らんでるぞ」


 水瀬には言わなかった言葉を、あえて由沙に投げかけた二郎。彼女の顔があまりにも、人前にだせるしろものではなかったからだ。ちょいブスが、さらに崩れて見るに堪えない顔になっている。だから自重させようと、彼は彼女をたしなめたつもりだった。


「んフー」


 鼻息荒くさらに鼻を膨らませ、ギロリと二郎を睨みつけた由沙。しかしその顔は怒っているそれではなく、興奮を抑えきれない様相がありありとしていた。


「だから落ち着けって」

「ダメよ二郎。こうなった由沙姉は、とうぶんのあいだ帰ってこないわ」


 そんなことは言われなくとも分かっている。こうなった由沙は、天災の終息を待つかのごとく放っておくしかないのだ。


 そんなことよりも、二郎には常日頃から感じていた疑問があった。


「ところで水瀬」

「なぁに」


 水瀬は通常モードに戻り、誘惑するようにしなを作って上目づかいで二郎を見上げてきた。そんな彼女をいなすかのごとく二郎は視線を外す。いまだ瞳をキラキラさせて誰もいない一点を見つめ、妄想にふけっている様子の由沙に目をやった。


「常々疑問に思ってたんだが、なんで俺は呼び捨てで由沙のことは姉付けなんだ?」

「それを乙女に言わせる気なの?」


 そう言って水瀬は、二郎から後ずさるように距離をとる。彼女は豊満な胸のふくらみを両手で抱き込むかのようにして、モジモジしはじめた。


「俺にはお前のことがよう分からん」

「乙女はミステリアスなものよ」


 無駄話をしているうちに、由沙が自分の世界から帰還を果たしたようだ。なにか思いだしたように二郎を見つめ、不安の色をその顔ににじませた。


「お、戻ってきたな」

「それでなんだけど、二郎さん」

「どうした由沙」

「昨日のあれ、リークしてホントによかったの?」


 クビを宣告されたあと、由沙は時間を惜しむようにパソコンに向かっていた。それほど必死になって、なにをしているのかと二郎がのぞき込むと、そこには彼の疑いを晴らすべく、いくつかの方策がまとめられようとしていたのだ。


 それを知った二郎は自分でも意見をだしながら、由沙と二人がかりでその計画をまとめ上げた。途中水瀬の相手をしながらも、和気あいあいとした雰囲気だったのは、絶妙のタイミングでちゃちゃを入れてくる水瀬のおかげだったのかもしれない。


 幽世にいたころには想像すらできなかった彼女たちとの関わりあいが、二郎のすさんだ心に与えた安らぎはいか程のものだろうか。彼はこの心地よい関係が崩れ去ることを、恐れている自分に気づいていた。


 だから矢面に立つのは己の役目だと、記者会見の代わりに、有名な週刊誌に情報をリークしたのである。


「おう、宣伝にはちょうどいいと思ってな。あの記事が載る号の発売日は十日後だったろ?」

「そうだけど、週刊誌になんか載せたらまた大炎上するよ」


 不安そうに由沙は訴えてきた。しかし二郎はどこ吹く風だ。大炎上大いに結構。むしろ炎上してほしいくらいだと彼は考えている。


 由沙の心配はもちろん分かる。しかしすでに二郎の疑惑はテレビ番組でも、インターネットでも大々的に拡散しているのだ。すでに多くの日本人が、彼の動向に注目しているという事実があった。


 だったらその状況を最大限利用してやればいい。逆に考えれば、二郎の発信する情報は、労せずして多くの人に注目してもらえるということだ。気を病んでもいいことなんてなにもない。この状況を絶好の好機ととらえ、万全を尽くすのみである。


「気にしなきゃいいんだ。そんなものは」


 そこまで言い張れる根拠はもちろんある。二郎は無実だからだ。彼が常人ならば冤罪で有罪という理不尽もありうるが、あいにくそうではない。彼には冤罪を覆せるだけの力があった。


 やっていないことの証明は悪魔の証明になるが、やっていないことを証明する必要などありはしない。以前由沙が提案してくれたように、やっていなくても遺体を発見できる事実を示せばいい。だから気にする必要はなかった。


「気にしなきゃって……炎上がこれ以上大きくなったら、よけいテレビで使ってもらえなくなるよ」

「ワイドショーの疑惑ネタにならなるかも?」


 いまだに心配顔の由沙を気にしてか、黙って聞き役に徹していた水瀬が割り込んできた。


「お、いきなり割り込んできたな」

「でもそれって、燃料にしかならないんじゃ」

「炎上商法?」


 分かっているのか分かっていないのか、表情だけでは分からないのが水瀬の面白いところだ。二郎はそう思っている。ただ一つ分かっていることは、タイミングだけは絶妙だということだった。


 場の空気が怪しくなったとき、いつも水瀬の一言が空気をなごませるのだ。だから二郎はこの空気を壊さないように、彼女の話を膨らませることにした。


「炎上商法か、いいな、それ。俺の力がモノホンだって知れ渡ったときにだ。騒いでる奴らがどんな顔するのか見ものじゃねぇか」

「そんなのんきなこと言って……でも、二郎さん見てると、ちっとも不安にならないんですよねー。世間がこれだけ騒いでて、頭では大問題だって理解してるつもりでもですよ」

「それが二郎クォリティ。頭で理解しようとしてはダメよ、由沙姉。本能で理解するの。メスとしての。そうすれば素直になれるわ」

「なに大人ぶったこと言ってるの、このは」


 水瀬に乗せられ、いつのまにか由沙の顔から不安の色が払拭されている。こんなときに二郎は思うのだ。この三人でいるかぎり、どんなことがあろうと乗り越えていけるのではないかと。周囲の喧騒など放っておけばいい。


「由沙姉やめて、痛いわ」

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