第10話:新事務所候補

 池袋駅から十五分ほど歩いた裏通りに、その物件はあった。三階建てのこじんまりしたオフィスビルだが、築年数は十年ほどと割と新しい。


「どうしてもココじゃないとダメ?」


 新しい事務所になる予定のビル正面玄関前で由沙は立ちすくみ、もの凄く不安そうな顔で駄々をこねている。


「ほかに選択肢があったか?」


 由沙がこうなったのも致し方ないだろう。なにせこのオフィスビルは、都内有数の凶悪な事故物件なのだから。二郎は彼女がクビを宣告された夜、Webを使って事故物件の情報をかき集めた。もちろん新事務所を構えるオフィスを探しての所業だ。


「でも事故物件だし、出るっていうし、五人も死んでるんだよ」


 テレビ出演するようになって、二郎にはある程度の預金ができていた。ほぼ仕事一筋の由沙にも、それなりの預金があるという。しかし都内で事務所を構えるには、二人の預金を合わせても、当然のごとく、まったく足りなかった。だから事故物件なのだ。


 どれほど凶悪な事故物件であっても、二郎にとってはなんの不都合もない。いや、それどころか、凶悪であればあるほど家賃が安くなって好都合だった。


「だから格安だったんじゃねぇか。俺に言わせりゃこんな優良物件はねぇ。由沙、ケツゆすってねぇで行くぞ。小便でもしてぇのか?」

「そんなんじゃないもん」


 ほんとうに格安だった。どれくらい格安かというと、このあたりのワンルームマンションよりちょっとだけ高い値段設定だ。オフィスビル一棟の賃貸料がである。


 いくら事故物件だからといって、なぜそこまで安いのかと、二郎は興味本位で不動産屋に聞いてみた。まったく借り手がつかないことに困ったオーナーが、解体業者に依頼して一度更地にしようと試みたが、調査に来た解体業者の従業員が次々に体調異常をきたし、その噂が流れて解体すらできなくなったという。


 オーナーが、ここを管理している不動産屋に頼って売りにだしてみるも買い手がつかず、完全に放置状態になっているらしい。不動産屋も買ってくれないかと打診してきたが、さすがに都心のオフィスビルを買うことなどできない。それでも借りてくれるだけでもありがたいと、二郎の狙い以上の格安で借りることができたのだった。


 そんなことはさておいて、情けない顔で尻込みする由沙に構わず、二郎は玄関の施錠を外し、ドアを開ける。


「ふむ、確かに居やがるな、それもたちの悪いのが」


 霊視するまでもなかった。ビル内に足を踏み入れたとたん、一体の悪霊が奥の階段下からヌルリと顔だけを覗かせたのだから。


 頭から血を流した厚化粧の女の霊だった。青白くのっぺりとした肌の半分を血に濡し、長い黒髪で隠すようにしている。悪霊は不自然なまでに白黒がくっきりした片目を、ぎょろりと彼に向けてきた。


「でしょでしょ、止めましょうよこんなトコ。殺人に自殺に事故死、ヤバいことのオンパレードだって。わたしにだって分かるんだよ。こう背筋がゾクゾクってするし、少し寒いし」

「十一月だからじゃねぇか。それともなにか、脂汗あぶらあせでてるし、クソでも我慢してんのか?」

「もう、こんなときにデリカシーの無いこと言わないでください」

「由沙、俺の背中に張りついてろ。さっそくのおでましだ」


 さらに一歩中へと踏みこんだ二郎。その背中にはがっしりと由沙が張り付いていて、ぶるぶると震えが伝わってくる。


「フンッ! 御注連みしめ引ひく内は真浄きよ天津宮神あまつみやかみ歓喜咲楽えらぎあそびたまへ」


 二郎は手印も組まず、簡易的に右手を振り上げただけで祝を唱えた。それだけで霊はもがき苦しみ、甲高くおぞましい怨嗟えんさの声を上げながら薄らいでいく。


 格が違うのだ。圧倒的な霊格の差がこの圧勝劇を生みだしていた。


「終わったぞ」

「ホント? たったあれだけで?」

「今のは古神道しんとうの祝だ。不浄を断つ結界の効果がある。一時しのぎだが当分悪霊は近づけん」


 二郎の師匠である平安の世に生きた陰陽師は、神道にも造詣ぞうけいが深かった。師匠曰く、自分の力を使うより、八百万やおよろずに力を借りるほうが楽なのだそうだ。彼もその教えに従い、神道をすこしばかりかじっている。


「当分って、いつまで?」

「由沙、ちょっと頼まれてくれるか? ホームセンターに行ってな、安いのでいいから神棚と和紙と筆ペンとカッターナイフを買ってきてくれ。それがあればこの建物を簡易的な神域にできるからな。そうすれば二度とここに悪霊は近づけん」


 いまだに不安そうにしている由沙を見かね、二郎はお使いを頼むことにした。彼女はその言葉を聞いたとたん、安堵の笑みを浮かべて彼の背中から離れていく。


「一番安いのでいいからな。ついでに昼飯もテキトーに頼むわ」


 由沙をお使いに行かせたのは、これ以上怖がらせたくなかったから、だけではない。つい今しがた祓った悪霊など、足元にも及ばない本命が潜んでいることを察知していたからだ。


「さてと、由沙がいない今のうちに本丸をかたしとかんとな。隠れてないででてこいや」


 二郎の霊力を乗せた声に、隠れていた悪霊が反応し、その姿を現した。暗い玄関ホールの天井。長い蛍光灯の脇から逆さまに顔を覗かせ、足元が見える位置まで姿をあらわにすると、天井からぶら下がるように彼を見ている。


 結界が張ってあるにもかかわらずに入ってこれる時点で、この悪霊の力が普通ではないことを示していた。


「何人喰ったらそこまで醜悪な面構えになる。二十人か? いや、三十は下らんか。だが安心しろ。今から俺が解き放ってやる」


 その顔はおぞましく、様々な怨嗟の表情が混ざり合うように浮きでては消え、湧きでては消え、移り変わっていく。


「喰らったはいいが従い切れてねぇじゃねえか」


 一体の悪霊の形をとっているが、意思を統率する主体が存在していないのだ。それはただの集合体だった。それらが集まり垂れ流す霊力は凶悪なれど、意思を統べられない霊力はそのベクトルを制御できず、全方向に霧散している。


 常人がこの悪霊にすこしでも触れたならば、体調や精神に多大な障りを受けることは間違いなかった。だから由沙を遠ざけたのだ。


 もしこの悪霊が一個の意識体として意思を統率していたならば、いかな二郎でも苦戦は免れ得ない相手だっただろう。


「幽世で迷うなよ。未練があるやつ以外は光が導くほうへまっすぐ進め。いいな」


 そう言って二郎は右手を上げ、呪すら唱えずに自身の霊力を刃と成し、呪縛の鎖を断ち切るように振り下ろした。悪霊は床にべちゃりと落ち、呪縛から解き放たれた霊たちが、分離するかのように天へと昇って行く。


「コイツが本体か」


 最後に残った一体。それは幼い男児だった。解き放たれた霊たちの中にも数多くの幼子が含まれていた。おそらくではあるが、親を求めた幼子たちの霊が、寄り集まって悪霊と化したのではなかろうか。二郎にはそう思えてならない。


 かつて幽世で、似たような悪霊を解放したことがあった。だから二郎は、小さくうずくまって泣きべそをかいている幼子の霊に優しく声をかける。


「寂しかったのか?」


 霊は彼を見上げ、小さくうなずいた。


「なら、送ってやるから向こうにで親代わりを探せ」


 かつて幽世で世話になった場所。あそこなら親代わりとなる霊も多い。そう思い浮かべ、二郎は穏やかな霊が集まる集落へと、幼子の霊を送りだした。


 その後二郎はビル内部を隅々まで視て回り、慎重に不浄を打ち祓っていった。由沙が戻ってきたのは、それからしばらく後のことだった。


「アレ? なんか雰囲気が変わった……ような? あ、はい、これでいいですか?」


 由沙は霊たちが完全に居なくなった事務所に入るなり、不思議そうに辺りを見回している。


「ごくろうさん……十分だ。幾らした?」

「お金はいいですよ。経費として落としますから」

「やっぱり由沙はしっかりしてるな。頼りになる」

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