第3話:芸能マネージャー 和泉由沙

「あっ、二郎さん! 大変なことになってます。これはまずい。スゴクまずいですよ、二郎さん。聞いてますか、二郎さん!」


 彼女はデスク上のノートパソコンに顔を近づけ、マウスでグリグリと画面をスクロールしながら、血走った目でテキストを凝視していた。


 どうひいき目に見ても美人には見えない。どこにでもいそうで、たとえ偶然電車の座席で隣に座られても意識することはない、ちょっとブサイク目な女。それが出会ったときに二郎が抱いた彼女、和泉由沙いずみゆさの印象だった。


「名前は二度も三度も呼ばんでいい。慌てるな由沙。で、なにがマズいんだ?」


 はた目に見て、由沙の慌てようはただ事でなかった。しかし二郎は、ああ、いつものことだと慌てる素振そぶりすら見せない。


「拡散してます。しまくってます」

「なにが」

「二郎さんが犯人じゃないのかっていう。喜多川みゆを殺した」


 マジシャンを騙ってテレビ出演していたのが祟ったのだろう。彼が見せた霊能力はトリックで、二郎が殺人犯であるという方向に世論は傾いているようだ。


「ならなんで俺はここにいる? 警察からは昨日解放されたぞ」

「そんなの、視聴者が知るわけないじゃないですか! どうしよう、このままじゃ……」


 長い間、幽世かくりよという浮世離れした世界にいた二郎でさえ、由沙がなにをわんとしているのか理解できた。現世うつしよに戻って一年。彼はWebを教師に、奪われた十年の時節を取り戻そうとしてきたからだ。そんなWeb上で、彼は反吐へどがでるような光景を何度も見てきた。


 Webに蔓延はびこる雑多な思念は、ときに無力なにえを求めて集い、ひとつの意思となる。贄はその意思に飲まれ、野獣のむれに狩られた獲物のごとくなぶり犯されるのが運命だ。そのさまは情けなど無縁。徹底的に、余すところなくむさぼり尽くされる。


 匿名で顔が見えないという魔法。それは容易たやすく人を魔物に変えてしまう。しかしそんな魔物がどれだけ集い騒ごうとも、幽世に巣食う悪霊、悪鬼、魑魅魍魎ちみもうりょうと比べれば大したことはなかった。


「ほっとけほっとけ」

「二郎さん!」


 しかし由沙には二郎がくぐってきた想像を絶する修羅場など、理解できようもないのだろう。諭すような真顔をズイと近づけてきたその迫力に、彼は思わずたじろいでしまう。


「おう……」

「インターネット、舐めてません? 若い子たちの間じゃテレビより影響力あるんですよ。炎上ですよ、炎上!」

「んなもん、見なきゃいい」

「はぁ、二郎さんはお気楽すぎます。ぜんっぜん分かっていません。炎上がひどくなって事務所に突電きたり、マスコミに追いかけられたり……って、なにのんきに本なんか見てるんですか! って、それわたしの本」


 デスクの飾りと化している一冊だけの文庫本。不自然に思い、それを無造作に手にとった二郎は、聞いたことがある名の知れたタイトルに違和感を覚えた。猪突猛進を地で行く彼女に似合わないのだ。


「由沙でもこんな本読むんだな。おまえ、ミステリー好きだったか? というか事務所にこんな本置いといて読む暇なんかないだろ」

「返してください。コレは特別なんです。わたしにとってはお守りみたいなもので――」


 とつとつと語られたその内容は、娘の前のめりすぎる性格を危惧した父親からの、教訓を含むプレゼントだった。これを読んで、すこしでも慎重な性格になればとの願いが込められているらしい。


 しかしそれは、由沙がこの本をお守りにしている本当の理由ではなかった。


「――その本を渡された日に受けた面接に受かったんです。それまでは全部落ちてて。って、危ない危ない。話題をそらそうとしてもダメです」

「チッ」

「チッ、じゃありません。ほらっ、コレ見てくださいよコレッ」


 由沙が指さした先。そこに書かれていることを流し読みした二郎は、よく妄想だけでこれだけの虚言をでっちあげられるものだと、かえって感心したほどだ。


「もうこんなのまでできてる。場合によっちゃ法的措置まで検討しなきゃダメですね。コレは」


 それはいわゆる、まとめサイトと呼ばれるたぐいのものだった。


「そこまでするか? ほっときゃいいだろそんなもん」


 こんなものが残ってしまえば、なんらかの不利益をこうむる可能性も確かに残る。それくらいのことは二郎にも想像できた。


 考えるということを放棄した人種がいる。もはやそれは人としての権利を放棄した、人ならざる者たちだ。そんな彼らによって、この虚構は語り継がれていくのだろう。いくら潰したところで、イタチごっこになる。そんなふうに二郎は思っている。


「芸能界舐めてませんか? 二郎さん。タレントはイメージが命なんですよ。せっかく人気がでてきたところなのに、このままじゃどこの局も使ってくれなくなります」


 しかしそんな不利益も、彼には響かない。


「別に俺はタレントになんぞなるつもりはなかったんだが。おまえとの約束はテレビに出演して芸能人相手にマジックを見せる。それだけだったはずだ。現に、この事務所とも専属契約しなかったしな。……それにだ、稼ぎのあてはもうついてる」


 食い入るように見つめていた画面から目を離し、二郎の両眼を直視した由沙。その瞳には、小さな怒りと大きな興味の色がにじみでていた。


「なんなんですか? そのアテって」


 二郎は危機感を覚えた。人知を超えた修羅場をくぐってきた彼にしてそう思うのだから、彼女の目力めぢからもそうとうなものだ。


「おまえにゃ関係ねぇ」

「薄情なこと言わないでくださいよー。ここまでくるのにどれだけ苦労したと……ダメダメ、これは言っちゃダメなこと――」


 期待に満ちた顔が一瞬で情けないそれへと変わり、こんどは思案顔でブツブツとつぶやいている。そんな由沙の百面相に二郎は毒気を抜かれ、ほっこりした気分にさせられてしまう。


「分かった分かった、そのへんにしておけ。おまえには助けられたからな。手伝ってやるから安心しろ」

「手伝ってやるって、なんですか、そのエラそうな言い方は。そりゃぁアレはわたしが提案した企画ですよ。って、あれ? それならわたしに責任が……いやいや――」


 彼女を見ていると本当に飽きない。


 知り合った当初は、せっかちでうるさい不細工女だとしか思わなかった。しかし関わりを深めていくうちに、その印象はすこしづつ変貌を遂げ、今では近くにいないと物足りなさを感じるまでに至っている。


 自分の容姿を気にしているのだろう。決してしつこくはないが、念入りに施されたナチュラルメイク。まったく嫌味を感じさせないそのメイク術にも感心したものだ。髪も丁寧に後ろでまとめられていて清潔感を演出している。


 それだけではない。もはや普段着のように着こなしているグレーのパンツスタイルスーツからも、身なりには気を使っているのがよくわかる。


 さらに、本人は気にしているようだが、スタイリッシュなスーツのせいで強調された安産型の大きな美尻びけつが男の本能を程よく刺激し、スーツの上からではまったく判別できないほどにつつましやかな胸のふくらみを、うまく相殺していた。


 たしかに由沙は美人でもないし、可愛いほうでもない。どちらかといえば不細工だ。しかし一人の女としてみると、なぜか好印象を抱きつつあることに、二郎は気づきはじめていた。

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