第2話:降霊術
刑事の背後に現れたのは、古めかしい和服姿の老女だった。
二郎は唇を動かし、老女もそれに応えているが、二人の声は一般人には聞こえない霊波によるものだ。会話をしている彼の脳裏には、老女が告げた名前の文字までもが鮮明に浮かびあがっている。
「石田キヨという名前に聞き覚えはあるか? キヨの部分はカタカナだ」
不意に告げられた名前。それを聞いた刑事の変化は劇的だった。勢いよく立ち上がり、椅子がガシャリと音を立てて後ろにズレた。目は大きく見開かれ、口は半開きになっている。あれだけ
「知らない名前か?」
刑事はなにも返すことができなかった。ただ二郎に顔を向けているだけで、その焦点は結ばれていない。
「まぁいい。刑事さんよ、キヨが話したいそうだ。ちょっと待ってろ」
二郎が霊に向かって軽くうなずいた。すると、老女の霊がすぅーっと移動して彼と重なり、体ごと刑事へと向き直る。彼の体がビクリと軽い痙攣を起こした。
「ター坊、しゃんとしてよぉくお聞き、他所様が嫌がることを良しとする人間だけにはならないようにと、お婆ちゃまはあれほど言いました。困ったときに頼るのはかまいません。でも、勘違いしてはダメですよ。それからもう一つ。美佐希さんとは籍を入れてあげなさい。もうひ孫の顔を見ることはできないでしょうけど……」
その声は明らかに二郎のものではなかった。しわがれた老女のものだ。
驚愕と放心がないまぜとなったような刑事の面持ちが、ゆっくりと和らいでいく。同時にしわばんだ両の目尻から涙があふれた。
「祖母ちゃん、死に目に会えなくてごめんな……俺、育ててくれてありがとうって、ひとこと言いたかったんだ」
その声は尋問中のそれとは違い、やわらかく切なげだ。
「なにを言ってるんですかこの子は、そんことは気にしなくていいの。男の子なら責任もって仕事したことを誇りなさい――」
キヨの霊に体を貸しながらも、二郎はそのやり取りを注意深く観察していた。あれほどうっとうしくて、不機嫌にさせられた刑事の変わりように驚き、彼もやっぱり人の子なんだと感心さえしている。
幽世で幾多の悪霊と渡りあってきた二郎は、悪霊たちに数知れずダマされ、苦汁をなめさせられてきた。だから彼は、一般人よりも
霊に体を貸している。すなわち憑依されている今、注意深く二人を観察することは、条件反射的に備わった防御本能と呼べるかもしれない。
霊に憑依されるということは、本来
降霊できたということは、キヨは成仏せずに留まっているということになる。それだけ現世に未練を残しているということだ。成仏した霊は降霊できない。だから二郎は一瞬でも油断することなく推移を見守っている。
それはさておき、時間が経つにつれ、一向に終わる気配をみせないキヨの話に、二郎はイラ立ちを募らせていった。
「黙らっしゃい! ター坊がそんなだから、いつまで経っても顎でこき使われる下っ端のままなのです。お婆ちゃまがどれだけヤキモキしているか分かりますか? それからそれから、お酒の飲み過ぎは体に良くありませんッ!?」
ついに我慢の限界をむかえ、憑依させていたキヨを強引に引きはがしてしまった二郎。
「ったく、よくしゃべる婆さんだ。ふつうの霊ってのはもっと弱々しいもんだがな……まぁそれはいい。憑依は霊力の減りが早くてな。いくら俺でも疲れるんだよ。悪かったな婆さん」
その言葉に、キヨは一般人には聞こえない声で『あら、わたくしとしたことが、はしたないところをお見せしてしまいました。もうすこし云い聞かせてやりとうございましたけど、しょうがありません。お体を貸していただき、感謝いたします』と、深く頭を下げ、なごり惜しむようにその姿を薄くしていった。
「おう、達者でな」
二郎はやれやれと刑事に向き直る。
「でだ、刑事さんよ。これでも俺を疑うのかい?」
刑事は脱力するように椅子に腰を落とした。すこしの間をおいて、定まっていなかった視線が二郎に向けられ、固定される。その瞳には生気が戻りつつあった。
「……いや、真犯人が確定するまで被疑者として名前は残るが、俺の証言と合わせて限りないシロとして扱われるだろう。ここの様子は録画されてるからな。お前の能力に関しては実証されたとみていい。それと、家の婆さんが迷惑かけたな」
刑事は思いだしたように、安物の着こなされたグレーのスーツの袖で、ゴシゴシと涙をぬぐう。
「気にすんな。あんなに生きがいいのは初めてだが、霊にも色々いるんだろうよ。生きた人間みたいにな」
刑事はしばらく考え込む様子を見せた。途中こまかく首を左右に数度振り、沈黙のあと、軽く、そしてゆっくりと頷く。それはあたかも自分を納得させているようなしぐさだった。
踏ん切りがついたのだろうか刑事は顔を起こし、重々しく口を開く。
「俺には霊のことはよくわからんが……それよりも言わせてくれ」
刑事は立ち上がって二郎の目に視線を結び、しっかりと見据えてテーブルに両手を置いた。そしておもむろに上体ごと頭を下げ、額をごつんとテーブルに叩きつけた。
「済まなかった。この通りだ」
なんだ、謝ることもできるじゃないか。それが二郎の正直な感想だった。
二郎の警官に対する印象は最悪だ。それは職務質問のされ方にもあったが、その後にネットで調べ、酷い警官の対応例を多数知ってしまったことによるところが大きい。記事になるくらいだから一部の無能で利己的な警官を抜き取ったものだろうが、真面目で正義感が強い警官も、ある程度はいるのかもしれない。そう、彼は考えを改めようかと思いはじめている。
警官は絶対に謝らないと、噂されていることも二郎は知っていた。今、眼前で見事な謝罪の姿勢を見せているこの刑事は、特殊な存在なのだろうか? 彼には判断がつかなかった。
しばらくの間頭を下げていた刑事がゆっくり上体を起こし、神妙な顔で語りだした。
「祖母の言葉を聞けたのは二十年ぶりだった。両親が早死にしたせいで俺は祖母に育てられたんだ。今はこんななりだが、ガキの頃はお祖母ちゃん子でな……」
昔のことでも思いだしているのだろうか、刑事の目尻からは再び一筋の涙がこぼれた。彼はそれを手の甲で拭って再び語りだす。
「聞いてただろうから分かると思うが、死に目には会えなかったんだ。当時の俺は刑事になったばかりでな。家にも帰らず躍起になって事件の犯人を追っていた。葬式はちゃんどできたんだが、死ぬ前にありがとうの一言も言えなくてな。それが心残りだったんだ――」
親子ほど歳が離れた刑事の話を聞いていると、二郎の脳裏に両親の顔がふと浮かびあがってきた。彼はわりと裕福な家に生まれ、なに不自由のない暮らしを送っていた。
しかしそんな世界が突如として崩れ去った。
中学一年の秋、学校の帰り道でいきなり黒い
幽世をなんとか生き抜き、力をつけて現世に帰還を果たした当日、彼は当然のごとく自分の家へと向かい、両親を驚かせ、そして喜ばせている。いまだに自分の部屋が十年前の当時のままだったことには驚いたが、それだけ自分のことを想っていてくれたのだろうと涙したものだ。
そんなことを思いだしているうちに、いつの間にか刑事の話が終わっていた。途中から聞いていなかったが、さしたる問題はないだろう。それでも悪いことをしたなと、彼は口を滑らせてしまう。
「なんなら犯人探し、手伝ってもいいぞ? もちろんタダでは無理だがな」
思いがけない申しでだったのだろうか、しんみりしていた刑事は再びテーブルに上体を乗りだし、必死の形相で彼に詰め寄った。
「なにっ!? それは本当か! そんなことが可能なのか?」
そんな刑事に、二郎はあっけらかんと言い放つ。
「その前に腹が減った。カツ丼はでないのか? お約束なんだろ?」
刑事は破顔し、カカカと笑いだす。
「そんなことがあるわけないだろう。あれはドラマの中だけだ。それでもまぁ、おごってやりたいのは山々なんだが、時間が時間だしな……」
壁の時計に二郎が目をやると、すでに午前零時を回っていた。
「カップラーメンくらいならだせるぞ。食っていくか?」
「なにも食えねぇよりマシか」
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