第16話レモンの味

「水上希、ただいま帰りました!」


 やけに上機嫌な彼女が帰ってきた。白の薄手のワンピースの裾をせわしなく揺らし、そそくさとリビングに上がる。

 足取りがやけにおぼつかないのは、荷物が重いせいだろうか。


「おかえり」


「はい! ただいまです!」


 数日ぶりに会話をしたせいだろうか。彼女の言動がどうにも記憶の彼女とかみ合わない。


「はぁー、疲れた。もう干物になる! なるったら、なる!」


 荷物を雑に隅に寄せ、空いたスペースの床にごろりと仰向けになる彼女。

 僕は彼女を少しばかりまじまじと眺めた。

 やけに高いテンション。火照った顔。焦点が合っていない眼。


「もしかして、酔ってる?」


 彼女は少し唸り、勢いよく起き上がる。


「いやぁ、軽はずみというか、青春をこじらせたというか」


「別によくある話だから、いいんだけど。水いる?」


 よくある話では良くないのだが、僕にも過去の経験としてお酒の味は知っている。もう一度言うが、良くないのだけれど。


「んー、んー、いる。ってか、私そんなに様子変かね?」


「変だね。いつも、少し馬鹿っぽいけど、今はすごく馬鹿に見える」


 冷蔵庫から天然水を取り出し、彼女に渡す。


「えー、酷い! 悲しいなぁ」


「そんな、笑顔で言われても……」


 彼女はペットボトルの中身を半分ほど一気に飲むと、また仰向けに倒れこんだ。足をパタパタと揺らし、上機嫌に鼻歌を歌っている。

 しばらく、彼女の陽気な歌だけが部屋に流れた。


「旅行、楽しかった?」


「うん、楽しかった!」


「大阪と京都だっけ?」


「そうだよ。どっちも食べ物が美味しくてねぇ。つい、食べすぎちゃった。でも、人が多かったから疲れちゃって、ホテルを堪能できなかったのが悔しい」


 そんなことを言いつつも、彼女の表情は変わらずニコニコしているので、実際はそこまで気にしていないのだろう。


「あと、すっごくナンパされた。あれは、うざい。うん、うざかった」


 今度は顔をしかめているので、本当に嫌だったのだろう。

 彼女は酔っているとずいぶんとわかりやすくなるようだ。


「でも、ナンパってある意味光栄なことじゃない? 他人に可愛いって思われるのは、悪くないでしょ」


「んー、そうなんだけどねぇ。ナンパしてくる人たちって、たいてい昔付き合ってた人と同じ感じだから。やっぱり、可愛いって思われる相手も選びたいよね」


「なるほど。一理あるかもね」


 彼女が僕に近くに来いと手で指示する。壁に持たれて座っていた僕は不思議に思いながらも、彼女のすぐ隣で座りなおした。

 すると突然、彼女は僕の腕をグイっと引っ張って、自分の方へと引き寄せた。

 

 空気のように軽い僕の身体は、彼女に軽々操られ、バランスを崩して手を着いた僕は彼女を見下ろす体勢になってしまう。

 今、この場面を誰かが見ようものなら、僕が彼女を押し倒したと思われてしまうだろう。


「ちょ、何してんの。手、離して」


 鼓動を打つことのない心臓が悲鳴を上げそうだ。

 しばらく、蝉の音が二人の間を駆け抜けるように鳴り響いた。


 そして、先に口を開いたのは彼女だ。


「ねえ、私のこと、可愛いと思う?」


 思わぬ質問に息が詰まった。


「それ、さっきの話から繋がってたりする?」


「繋がっているといえば、繋がってる。けど、正直なところ、単純に気になるだけかなぁ」


「幽霊の意見なんて、特に参考にもならないと思うけど」


「いいから、答えてよー」


 こういう時、なんて答えるのが正解なのだろうか。正直なところ、生前は彼羽とほとんど一緒にいたため、他の女性と接する機会などほとんどなかった。

 少しばかり悩んだ結果、特に繕わずに伝えることにした。どうせ、彼女は酔っているのだから明日には忘れているだろう。


「いや、普通に可愛いと思うよ。そこらへんの女性よりかは全然」


「本当!? やった――! うひっひっひ、幽霊君は私のことを可愛いと思ってるのかー! そうか、そうかー!」


 彼女は大層喜んでいるが、僕は苦笑いだ。酔っ払いとは結構めんどくさいものだと再認識した。


「ほら、もう満足でしょ。いい加減、離して。動けないから」


 グッと力を込めて彼女の手をどけようとするも、びくともしない。なんて不便な身体なのだろうか。


「じゃあ、いっか。うん」


「……? なに一人で自己解決してるの」


「いやぁ、なんか気分良いし、このノリでもう一つだけ青春をしてみようかと」


 僕は首を傾げた。彼女の発言は理解できず、黙って考える。


 次の瞬間、僕の口に彼女の口が重なっていた。

 ゆっくりになる視界。理解の追い付かない思考。


 何が起きているのか理解するまでにどれくらい時間を要しただろうか。一瞬だったかもしれないし、はたまた数十秒かかっていたかもしれない。それでもその間、彼女の唇の間隔は直に伝わってきているわけで、時間の概念など僕の頭の中から消え去っていた。


 僕が感じる長い時間を経て、彼女の唇がゆっくりと僕から離れる。身体を持ち上げていた彼女は再び背を床に着け、真っ赤に染まった頬で僕を見つめる。


 僕は一体、どんな顔をしているのだろうか。


「ファーストキスはレモンの味ってよく言うけど、味なんてしないね」


 彼女が僕の手を放し、自分の唇に手を当てる。それでも、僕は動けなかった。


「僕が生きてたら、レモンの味はしたかもね」


「ただ経験したかっただけだから、あんまり気にしないでね」


「君はまた一つ、青春をこじらせたね」


「そうかも……。あはは」


 動揺を無理矢理隠し、いつも通り小生意気に会話をつないだ。


 ファーストキスはレモンの味。そんな、甘酸っぱい話はよく聞くけど、人の唇に味なんてするわけもない。

 ただ一つだけ、確かに言えることがある。


 温度を感じないはずの僕だけど、彼女の唇は確かに温かかった。


 

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