第15話アルバム

 暗くなる前に僕は希との約束を守るため、帰宅した。彼女のいないアパートの一室は不気味なほど静かで、いつも以上に小さい声でただいまを口にする。


 電気もつけずにリビングの窓際に腰をかける。いつも、僕が夜を過ごす場所だ。

 眠くならないこの身体で夜を過ごすには、窓際で夜空を眺めるに限るのだ。空を見ると、夏の夜にはまだ少し早く、うっすら青みが残っている。


 家に帰ってきても、残りの十九日でやりたいことなど浮かぶはずもなく、ただひたすらに暗みを増す空を眺めた。


 どうしてだろうか。今日はやけに時間が進むのが遅く感じる。

 単純にやることがないだけなのは事実だが、それを除いたとしても遅いのだ。


「……寂しいなぁ」


 ふいに飛び出した言葉に嘘偽りはない。いつの間にか、一人が寂しいと感じるようになってしまった。

 これも、全て彼女のせいだ。


 彼女がやたらと構い、話しかけ、世話をして、笑い、受け入れるから、僕は依存し始めている。


「幽霊に依存されるって、憑かれてるな。はは……」


 視覚、聴覚の他に唯一持ち合わせている食欲さえも、彼女がいなければ一ミリも湧かない。これに関しては依存する前からそうであったのだけれども。


 残りの期間、何がしたいかと聞かれれば、きっと僕は彼女と一緒にいたいのだろう。彼女だけが、僕のエゴを受け入れ、理解してくれる。


 それでも、感情は持ちすぎてはいけない。人間らしい感情を取り戻せば取り戻すだけ、別れが辛くなるのは目に見えているのだ。彼女はきっと、別れを惜しむだろう。それでも、空気を読んであっけなく事を済ませるはずだ。

 でも、僕にこれ以上の感情が戻れば、彼女のように取り繕って別れることなどできない。

 

 十九日が過ぎ去り、二十日目に何が待っているのかわからない。そのまま僕は幽霊としての身体を維持できず、消滅するのか、はたまた十年前のあの薄寒い病室にとんぼ返りするのか。

 できる事なら、綺麗な思い出のまま消え去りたい。今ですら、あの病室には戻りたくないと感じてしまっているのだ。これ以上の感情を持つのは、辛いだけだ。


 ポッケの中のクラゲを力強く握りしめた。


 

 いつしか夜は明け、彼女のいない二日目が来た。

 一歩も動かなかった。正確には動く動機がなかったからだ。今は、ひたすらに彼女に会いたい。それだけが僕の中をぐるぐると渦巻いていた。


 別に恋してるとか、そういうのじゃないと思う。単純に彼女と会話をしたい。同じ卓を囲んで食事がしたい。ただ、それだけのこと。


 確か、彼女は今日の夜には帰ってくるはずだ。

 陽はてっぺんをすでに四時間ほど前に通り過ぎている。


 時間が経つほど、胸が少しずつ高鳴っていく。どうして、こんなにも彼女が帰ってくるのが待ち遠しいのだろうか。いつから僕はこんなに彼女に依存してしまっているのだろうか。


 居ても立っても居られず、部屋の中をぐるぐると歩き回った。もう、自分の感情がよくわからない。


 不意に寝室からドサっという音が聞こえて来た。何かが、落ちたのだろうか。


 見ると、寝室の壁側にある本棚から一冊のアルバムが床に落ちていた。

 本棚には彼女の父親の仕事の資料などもあるらしく、普段から触らないようにしていた場所だ。


 アルバムを拾い、少しだけ背徳を感じながらも中を見る。最初のページには赤ん坊の写真が数枚貼り付けられていた。日数を見るに、どうやら希の赤ん坊の時の写真のようだ。おそらく、このアルバムは彼女の記録なのだろう。


 赤ん坊から、幼稚園、小学校低学年と数多の写真が貼られていた。


「なんか、見たことある顔だなぁ」


 正真正銘、水上希の少年期なのだから、見たことある顔でも不思議は無いのだが。


 ふいにページを捲る手が止まる。


「これ、病院? しかも……」


 そのページには写真は二枚しか貼られておらず、一枚は彼女が病院のベッドで目を閉じて寝ている写真。そして、もう一枚は彼女が病室のベッド横に花の入った花瓶を置いて手を合わせている写真だ。


 僕の勘違いでなければ、この写真の病院は僕が十年前にいた病院だ。日付を確認すると2021年3月15日と記載されている。僕は2020年11月半ばの時点で、余命一ヶ月と宣告されていたので、どうやらこの写真は、おそらく僕が亡くなった後の写真ということだろう。


 だから、何か関係があるのかと言われれば、特に無い。この辺りで大きな病院といえば、この病院しかないのだから。


「なんだ、この写真?」


 次のページをめくると、また日常を描いたような何気ない写真だったので、一度ページを戻して病室の写真を見る。

 花瓶に向けて合唱するその写真は、明らかにこのアルバムにおいては異質だ。それでも、しっかりと貼られて、記録として残されている。

 

 明るいアルバムの内容としてはそぐわないが、それでもこの写真を残さなければいけないだけの理由があるのだろう。


 そういえば、彼女は前に死にかけたことがあり、余命宣告もされたと言っていた。憶測でしかないが、おそらく関係性はあるだろう。

 しかし、これ以上は踏み込んではいけない気がした。誰も、自分が死にかけた時の話など、むやみやたらと掘り返して語りたくはないだろう。少なくとも、今の僕は死にかけていたあの頃は思い出したくない。


 気を取り直して、アルバムを捲った。異質なページはその一ページだけで、あとは彼女の成長記録のようなものだ。小学校から、中学校、高校と彼女はアルバムの中でぐんぐんと成長し、最終の写真は今年の春の写真だ。

 どうやら、スマホで取られた写真のようで、彼女が父親と思しき男性を枠に捉えて一緒に映っている。


 そして、残りのページは今後埋まるであろう白紙のページだ。

 アルバムを閉じた僕は、どうしてもあの病室の写真が引っかかっていた。もう一度、見ようと考え、そして、やめた。なんとなく、罪悪感が大きかった。


 玄関がガチャと開く音が聞こえてくる。


 僕はそっと、アルバムを棚に戻して寝室を後にしたのであった。

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