第14話時間は平等である

 その日、僕は彼女の約束を半分破り、学校の屋上で寝転がっていた。

 彼女は朝早くに僕に鍵を託して家を出た。せわしなさそうに支度をしていたので、おそらく遅れ気味だったのだろう。


 夏の日差しがきっとアスファルトを焼き、常人であれば寝転がることなんてできない。

 しかし、僕にはアスファルトの焼ける熱さどころか、日差しの暑さすら感じない。


 本当に不思議な身体だ。

 暑さや冷たさなどわからないのに、ふとした時に確かな温度を感じる時がある。最後に温度を感じたのは昨日。希と食卓を囲んでいる時に流し込んだ味噌汁だ。一口目、二口目は何も温度を感じない味噌の味が口に広がり、なんとも言えない違和感だったが、三口目を運んだ瞬間、口の中から胃の中までじわっと熱が広がった。


 温度を感じる時の条件とかあるんだろうか。

 しばらく、群青色のキャンパスに流れる入道雲を眺めながら考えた。


「いや、わからん」


 きっと、考えても答えなど出ない。そもそも、今の僕のは単純な人間脳では何ら解明のできないことなのだ。その現象のさらに奥に存在する温度の感知に関する問題など、ただの高校生に分かるわけがない。


 それにしても、退屈すぎる。

 自分のふとした感情に驚いた。

 一人で過ごす時間を退屈だ、と感じたのだ。それは、僕にとって長らく忘れられていた感情で、きっともう取り戻すことのないものだと思っていた。


 僕は彼女によって人としての感情を取り戻し始めているのかもしれない。まるで、死んだ感情に命を吹き込まれているような、そんなイメージだ。死んでる僕が言うと冗談に聞こえないけれど……。


 夜の一人は随分と早く時間が過ぎるのに、昼の一人は想像以上に長い。視界に入ってくる情報量で、時間の流れが意識されてしまうからだ。

 夜ならば暗闇に目を閉じていれば、耳に伝わる音も微かなもので、いつの間にか目を開けた時には朝がきているのだ。


「あっ、名前…………」


 彼羽に僕の真名を聞くのを忘れていたことに気が付いた。彼女は僕のことをと呼んでいた。少なくとも名前の最初に「よ」がつくことは確かだろう。


 しかし、その情報だけではどうにも名前など分かるわけもない。

 そもそも、名前を知る方法などいくらでもあるのだ。例えば、もう一度家に帰り、僕の私物から名前を探り当てればいい。もしくは、今この学校の職員室か資料室に潜入し、過去の学生名簿でも探せばいい。


 しかし、そこまでして僕も名前を知りたいというわけではない。もちろん、あの日彼羽に名前を訪ねていれば、この若干のもやもやもなかったのだけれど。


 では、彼羽にもう一度会って名前を聞くかと言われれば、答えはノーだ。

 僕は何となく分かっていた。もう二度と彼女に会うことはない。少なくとも自発的に彼羽を求めることは絶対にない。そして、それは彼女も同じ考えだろう。


 僕と彼羽は過去の清算を済ませた。

 

 前に進むには、過去を振り返ってはいけないのだ。僕はこの十年後の世界では過去の人間であり、異質な存在だ。

 彼羽は前に進むために、僕の十年越しの告白を断ったのだ。引きずってはいけない。そう自分に言い聞かせてとった行動だろう。


 それなら、僕も前に進まなければいけない。でも、僕はこれからどこに進めばいいのだろうか。

 タイムリミットは相変わらず毎晩0時にきっちりと刻まれる。残り十九日。

 僕は十九日で、何をすればいいのだろう。


 これが映画とかならば、主人公である僕が何か目標や、なさねばならない目的を見つけて、達成のために奮闘するのだろうが、今の僕には何をすれば良いのかまるで分からない。


 そもそも、タイムリミットがあるからといって、特段いつもと違う行動を取る必要があるのだろうか。

 時間は皆、平等なのだ。一日二十四時間。人の人生など、一瞬で狂うものだ。

 

 健康な人やどんなに屈強な人だって、ふとした時に大事故に巻き込まれれば、あっけなく命が散ってしまう。

 人間、未来のことは分からないのだ。


 僕のともしびが短いと知って、哀れむ人がいたとして、その人が僕のタイムリミットよりも長く生きれる保証はどこにもない。もしかしたら、明日にでも何らかの出来事で死んでしまうかもしれない。


 そう考えると、逆に一日をこのようにゴロゴロ過ごすのもすごく勿体無いことのように思えてきた。でも、これもきっと僕が今したいことなのだ。たとえ退屈だと感じても、本能的に寝転がって、色々なことに思いを馳せている。

 少なくとも、十年前のタイムリミットの迫った病室の僕よりは、同じ寝転がるでも、今の僕の方が明らかに充実していると言えるだろう。


 視界に収まる群青のキャンパスから、入道雲が消え去り、正真正銘青一色となった。

 ふいに言葉が浮かんだ。


「まるで、海みたいだ」


 あの人ならば、きっと言うはずだ。もう、海に身を投げてしまっただろうか。側から見ればただの自殺志願者であるあのヒーローは、僕に宣言したことをきっちり完遂するだろう。

 でも、止めない。僕は、止めない。止めたら、僕もあの人も後悔する。


 群青の海の下でぼんやり漂うように過ごしている僕は、さながらクラゲである。

 ズボンのポッケからクラゲのストラップを取り出す。てっぺんを若干すぎた西寄りの日差しを受け、青いガラス製のクラゲが生き生きとキラめいた。


「少し、楽しいかも……」


 一人で微笑んでいることに気がつき、誰も見ていないと言うのに慌てて表情を取り繕った。


 少し、楽しい。その言葉の裏に、終わらせたくないという意味が無意識に込められていることを、僕は気が付いていなかった。

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