第10話

サキをかばう義理もないので、秀太は玄関先で応答することにした。

昨夜と打って変わります、すっかり大人しくなっている老婆は疲れ果てて眠っているようだ。カーテンから漏れた一筋の光で部屋全体が見渡せた。昨夜、あれほど狂気に満ち満ちていたものとは思えない、華奢で脆弱そうな老婆がいた。

その姿は人間の残骸である。杭で身動きを封じられ部屋から出ることも叶わない。


昨夜の雪が残るような凍える路上で、中年の女性が腕を組んで震えて待っていた。スキーウェアのように重厚な防寒着を纏っている。

「矢柄さんの旦那さんですか」

「いえ、えっと留守番を頼まれただけです」

「そうですか。前にも伺ったのですが、何とかすると言いながら一向におばあ様の喚き声がやみません」

秀太は他人事ながら、それほど立派には見えない一軒家が連なる住宅街で、隣人が一晩ずっと咽び声を上げ続けることのストレスに他人事ながら同情した。

「矢柄さんのお友達ですか。いまのお婆様のご様子はどうですか?」

――ズタボロです。

とはいえず、今は寝ていますが、症状はひどいようですと答えた。

秀太の息を嗅いだ安川氏は、どことなく軽蔑する眼差しを彼に向けた。

「とにかく、矢柄さんに伝えておいてください。あまりに酷ければ警察も――」

絶叫が谺した。

どうやら老婆は狸寝入りをしていたらしい。正午の閑静な街に相応しくない種類の声であり、並大抵のことではない。

安川氏は血相を変えて家にあげてくださいと言った。彼女のなかで、虐待は懸案事項から確定に変わったようだ。やんごとなき事態が起きているに違いないと。

当然、あの老婆を見られればただじゃすまないだろう。

老婆の痛ましい苦悶は、喉を潰さんというほどだ。

「帰ってください」

「警察を呼びますよ」

非常に困る。就職ができなくなる。

「こちらでなんとかしますから」

しかし、老婆の声がやむ気配はない。

「せめて救急車でも呼びましょう。貴方では、失礼ですが何もできませんよね」

泥酔していることは既に見抜かれていたようで、引き下がるつもりのない安川氏はスマホを取り出した。

秀太はそれを取り上げようと試みたものの、安川氏に脚払いをされ、凍った路面に倒れた。

「わっ、分かりました。お上がりください」

情けなく倒れ付した地面から安川氏を見上げて部屋に入る許可を出した。

どしどしと絶叫のする方に向かっていく安川氏は、ついに扉の前に立った。

何度も拳で扉を叩いて、安否を確認している。

「奥様、大丈夫ですか? 開けてもよろしいですか?」

返事はなく、声を荒げるだけであった。

神経を焼かれているような壮絶さである。

秀太は動転していた。あの姿を見られたら、自分の将来が危ぶまれる。

秀太は扉を開けたままのリビングに、空になった四合瓶が転がっているのをみた。

彼は、安川氏から目を離すことなく、その瓶を手にするため後ずさった。もし、不都合な動きをとれば、この瓶で身動きできなくなるまでぶん殴って気絶させる。

飲み口を握りしめた。自分の唾液で粘粘していた。

瓶の底の強度は十分だろう。

「開けますよ、いいですか

安川氏は部屋に入っていった。

秀太はそうっと安川氏の背後に立った。

おそらく4,50歳であろう彼女も、ここまで傷ついたひとを見るのは初めてだろう。そもそもどうして生きているのか、秀太には説明ができない。

秀太は瓶を振りかぶった。

視線は、安川氏の後頭部をしっかりと見つめていた。

これを振り下ろせば、確実に障害で警察に行くはめになる。しかし、この危機を抜けるためには……

安川氏は不意に動き始めた。秀太は、意を決した。

そして、安川氏は、声もなく倒れた。瓶は空振りして、自分の太腿をぶん殴った。

秀太は、昨夜は自分も気絶していたことを思い出した。


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