第9話

冷蔵庫の野菜室に日本酒が冷えていた。サキの言いつけは冷蔵庫の中のものなら飲んでよしというものであった。と秀太は理解していた。その実、酒を飲みすぎて正常な判断ができていない。四合瓶をラッパ飲みしようとは、通常の彼なら思わなかっただろう。宿酔のまま泥酔しはじめて、このまま明日まで寝てしまおうと決意したのが朝の9時すぎである。


眠りが妨げられたのは、玄関を強く叩く音がするからである。

秀太は飲み掛けの瓶に口をつけて寝起きの喉を潤してから、インターホンの受話器を取り上げた。

「もしもし」家主は居ませんと言おうとしたものの、外の人物は秀太を黙らせる勢いであった。

「隣の安川です。どうやら今日は居られるみたいで良かったです。いつもいつも、お宅の痴呆の婆さんが喚くのをずっと迷惑にしてるんですよ。夜中になると盛った猫みたいにギャオギャオ騒ぐものですからうちの人は寝不足で、私も寝不足で、とにかく近所迷惑なわけなんです。わかりますか、とにかく一度話し合いましょう。私も旦那の母親の介護をしたことごありますからね、それは大変だっていうのはわかりますけどね」


家にあげる前から烈火のごときであり、秀太は全く働かない頭のまま生返事を返すしかなかった。

「とにかくですね、様子を確認させてください」

「え、どうしてですか」

「あれだけ夜中に泣き叫ぶような声なんですよ⁉ 虐待でもしているのではないかと思っています、正直なところ。警察にも連絡させていただくことになります」

「夜中に騒ぎ始めたらなんとかします」

生ける屍のような老婆を見られるわけにはいかない。虐待の疑惑があるなかで、あの姿の老婆を見せるわけにはいかない。咄嗟に嘘をついたものの、毎夜毎夜迷惑を被った隣人がその程度で納得するはずもなく、帰ろうとしない。

秀太は日本酒を飲み干した。いっそのこと、急性アルコール中毒になった方がマシかと思われた。

「とにかく、開けてください。隣同士なんですから、話し合いましょうよ」

「いま家主が仕事で外に外出して出掛けているので」

「何わけのわからないことを言ってるんですか」

安川氏に帰ってもらう方法が無いならば、彼女を家にあげるしかないのかもしれない。しかし、安川氏はあの老婆の慟哭を知っていても、その姿は知らない。つまり、脚が杭で打たれていたり身体中に欠損を抱える、暴力の範疇には収まらない姿を見れば警察を呼ぶだろう。すると、自分の就職が危うくなる。


――どうして僕がこんな目に合わなければならないんだ

壁時計が正午の鐘を鳴らした。

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