第20話 野望を阻止する男たち
沈黙が重い。エマは息苦しささえ感じて、ここに来たことを後悔し始めた。ヨルゴスはアリスの父親なのだ。アリスが居る可能性を考えなかったとは、うかつすぎる。
「どうしてここにいるの」
目を見ることなく尋ねると、アリスは静かに答えた。
「読まなくなった本を持ってきてくれって頼まれて」
「ああ、なるほど」
エマは納得する。子ども向けの本の在処は、アリスの書架だったのだろう。
それっきり途切れる会話にエマは帰りたくなる。さすがに以前と同じように接することは出来ない。どういうつもりだと問う気でいたけれど、いざ会ってみると、今までのように接することが出来ないと心と体が拒絶反応を示したのだ。
ひとまずアリスの出方を待つ。だけど、アリスは沈黙して窓の方を見つめたまま。言葉を選んでいる風だった。彼の方も心の準備ができていないのかもしれないとエマは思った。
どんな顔をしているのだろう。顔をしっかり見るのが怖くて、二人の間にあるテーブルの上に積まれた本を一冊取るとエマはパラパラとめくった。
それには植物の葉を拡大したものの図が描かれている。エマが知っているよりも詳細に描かれていて、憂鬱がわずかに興味に差し替えられる。
「これ、何」
エマは尋ねてからしまったと思う。肝心な話をする前に別の話題を切り出してしまうなど。どうかしている。
焦って話題を打ち切ろうとしたエマだったが、一瞬遅かった。アリスはわずかに身を乗り出し、エマの手元の本を覗きこむ。
「ああ、それは葉を顕微鏡で拡大したものだよ」
「……顕微鏡って、あの、あなたのお父様が最近発明したっていう?」
魅力的な話題に、エマは更に食いついてしまう。どこかで話を切り替えなければと思うものの、誘惑に勝てなかった。
「いいや、西大陸から取り寄せたものを改良したとか言ってたかな。アウストラリスではまだまだ、独自に何かを開発するのは難しいって。だけど、硝子の製作技術が上がっているから、すぐに追いつけるとも言ってたけど」
「あいかわらず、すごいわね。あなたのお父様」
状況も忘れて感心するエマに、アリスが更に一冊手渡しながら尋ねた。
「こっちの本もすごいよ。それより――あの子は?」
そちらには植物がどのように生育していくかの仕組みが描かれている。植物がどうして水しか必要としないのか、食事もしないのにどうして生きていけるのかなど。普段当たり前に思っているようなことが、掘り下げられて書かれている。
「デジーと言って、学院に視察に行って見つけたの。すごく優秀で、授業が物足りなくてさぼってたわ。本が読みたいって言うから王立図書館に行ったら、宰相閣下にお会いして」
「さぼって本を読んでたんだ? 昔の君みたいだな」
「さぼってないし、本も読んでないわよ。先生が教えてほしいことを教えてくれなかったから、あなたに教わりに行ってただけじゃない」
話しながらエマは『違う』と思う。今するべきはこの話じゃない。だけど、どう切り出せばよいかわからず、エマは会話の波に流される。幸か不幸か、アリスとのこういった会話は年季が入っていて、口が勝手に動くのだ。
それはアリスも同じなのだろうか。それとも、あんなことはなんでもないことなのだろうか。
気になりながらも、エマは延々と続く会話から逃れられない。尋ねずにいる内にいろいろな疑いが湧き上がり、どんどん話題を出しにくくなる。きっかけが見つからない。
アリスはエマの葛藤を知ってか知らずか、続けた。
「そういう子には、確かに普通の子にあわせて作った教育計画は退屈なだけだろうね。時間がもったいない」
「私もそう思うわ。だから優秀な子はさっさと飛び級させて卒業させて、研究機関に入れちゃえばいいと思うのよね。ジョイアみたいにもう一つ難易度の高い大学を作るのも手かなと思うけれど、さすがにお金が莫大に必要だし、簡単には行かないもの」
「それよりは……うーん、いっそジョイアに留学させちゃえばいいんじゃないかな」
「女子は大人になったらすぐにお嫁に行くのが当たり前だから、厳しいわ。デジーも親が許してくれないって嘆いていたし」
「そこをなんとかしてあげたいね。優秀な子は女性にもたくさんいるよ。君みたいに」
アリスはくすりと笑った。あまりにいつもどおりの会話に、彼との関係がまったく変わっていないとエマが錯覚しかける。幼馴染の気安さに浸かり続けたい。そんな気分になりかけた、その時だった。
「そうね。じゃあ、ルキアにも相談して――」
何気なく口からこぼれた名前はひどく苦く、エマは顔をしかめた。政を動かす立場ならそうするべきだとわかっているけれど、気が進まない。間に横たわるプロポーズが重くのしかかるのだ。
顔を上げ、ため息を吐いたエマは、アリスの視線をまともに受け取ってしまう。鋭さを急にまとったアリスの眼差しは、これ以上、その話題は許さないとでも言っているかのようだった。温厚なアリスに似合わない迫力に、心臓が大きく跳ねる。
こんな風に、いままでに見つめ合ったことがあっただろうか。ふいにエマは記憶を探った。彼と話すときはたいてい隣に並んで同じ方向を見ていた。向かい合ってはいなかったと気がつく。
戸惑いの原因が、分かった。
(私、今、初めてアリスを見ているのかも……)
今、何を言おうとしていたのだろう。ハッとするエマだったけれど、アリスと話すべきことは別にあったことを思い出す。いや、彼の目に思い出させられたのだ。
「……この間のことだけど」
アリスが切り出した。ちりり、と燭台の火が縮む音がする。アリスが目を伏せると、長いまつげが影を落とす。憂いを含んだ表情は初めて見るもので、なぜか惹きつけられて目を離せない。
耳が痛くなるような沈黙が二人の間に落ちる。
エマは耐え切れずに続きを促した。
「何?」
アリスは小さく深呼吸をしたあと、まっすぐにエマを見つめる。エマはアリスが謝るのだろうと構えた。だけど彼の口からは別の言葉がこぼれた。
「君には嫌な思いをさせたかもしれない。だけど謝らないよ」
「え?」
意味がわからない。だが、すぐに『煽るな』と責めた彼を思い出し、怒りと羞恥で頭にカッと血が上った。
「つまり、――私が悪いって、私に謝れって言っているの?」
憤るエマに、アリスは小さく首を横に振る。
「謝ったら、僕の気持ちが嘘になる」
アリスが伏せていた目を上げた。熱の渦巻く眼差しに、どくり、全身が脈打つような気がして、ぼうっとなる。
(どういうこと?)
問い詰めたいのに、口がうまく動かない。エマは代わりに目で問う。
アリスは苦笑いをこぼした後、エマをまっすぐに見つめて、かすれた声を漏らした。
「あのことを否定したくない」
それは、一体どういう意味だろう。キスを否定したくない。それはつまり?
(キスの意味……って)
エマは働かない頭で必死に考えた。
だけど、キスをする理由など、実は一つしか無いのではないかと思い当たる。
目を見開くエマにアリスはぎこちなく微笑んだ。
「君が、好きだよ。エマ」
「な、に、言って……」
「君のことばかり考えてる。夢の中に出てくるくらいに」
これ以上ないほどに心を動かされる。アリスの言葉は、エマの中の名前の付けられない感情に、瞬く間に名をつけた。エマも気を紛らわせていないと、アリスのことばかり考えていた。全く同じだったのだ。
「君は僕を兄としか思っていないかもしれない。ルキアのことが好きなのかもしれない。けれど、僕も長い間、ずっと君を見てきたから、そう簡単に渡す訳にはいかないんだ。だから、僕もアウストラリスの男として、力づくで君を手に入れようと思うよ」
力づく、その言葉がこれほどに合わない人もいないだろうとエマは見当外れの感想を抱く。何か気になることを言われた気がしたけれど、予想外のことが起こりすぎて動転し、彼の言葉を受け止めきれていないのだった。
(つ、つまりこれって、プロポーズ……)
一日に二人の男から求婚されるなど、そんな事態に陥るなど予想もしない。まず、エマは女王になろうと思っているのだ。結婚など二の次だったせいで、まともに対応できない。こういった場合どう対処すればいいのか、全くわからない。
エマは床にしゃがみこんで膝を抱える。そして抱えた膝に向かって「うー……ん」と唸る。挙動不審のエマの頭上で、アリスはさらに言った。
「武術大会には僕も本気で参加する。そして、最後には僕が君をもらう」
とんでもない言葉に、エマは「冗談でしょ……」と顔をひきつらせた。武術大会? アリスまでもが本気で優勝を狙う?
正直に言うと、アリスはエマの敵ではないと思う。だけどアリスが何の勝算もなくこんなことを言うとも思えなくて気味が悪い。敵に回したくないと思っていた男が、またもや別の形でエマを邪魔しようとしている。
愛の告白に浸るどころではない。エマは考え込んだ。
(じゃあ、私の王位は――)
二人の男に王位獲得を阻止されようとしている。告白とプロポーズには確かに心動かされたものの、それが己の野望を阻害するものとなれば、複雑な心境になってしまうエマであった。
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