第17話 学院のはみ出し者

 からっとした風が汗を攫って体温が下がる。ほてった頬が冷めるに従い、気持ちがしゃんとする。

 休憩時間の終わりを告げる鐘の音が学院の校庭に響き渡る。生徒たちが砂埃を上げながら校舎に戻っていくのをエマは額にかいた汗を手巾で拭いながら、何気なく見つめる。

 運動をすると頭がすっきりするのは昔から。纏めてかかってきた子どもたち――といってもエマもまだ子どもみたいなものだが――との打ち合いは、靄のかかっていたエマの頭を明瞭にした。


(よし。がんばらないと)


 気持ちが上向いた途端、口さみしい気がしてエマは喉を鳴らす。なんだか、すごく甘味がほしい――そこまで考えて、苦笑いが出た。


(あぁ、そうか。アリスの飴……)


 泣きやんだ後にはご褒美に甘いものをもらうことが当たり前になっているのだ。それは驚くほど強烈な欲求だった。

 釣られるように仲直りをしたくてしょうがない。顔が見たい。そうして彼の作った飴が食べたい。と欲求がどんどん湧き上がり、エマは自分に呆れてしまう。


(これじゃあ、餌付けされてるみたいじゃない)


 だが不思議と不快感はない。

 覚めた頭で改めて考えると、アリスがあんな卑怯な真似をするとは思えなくなっていた。大体、アリスはすでに実力で一歩も二歩も抜きん出ているのだから、わざわざエマを罠にはめるなど考えられない。

 アリスの知らなかった一面を見せつけられて動揺したものの、エマは彼のことを誰よりもよく知っているはず。

 彼はウジ虫ではない。

 何か事情があったのだ。それならば話を聞いて和解したい。エマは強く思う。


(ひとまずは課題を終えて城に戻らないと)


 やるべきことはたくさんある。うじうじ悩まず、目の前のことを全力でやるしかないのだ。


「ヴェネディクト、飲み物をちょうだい」


 渡された飲み物を今度は全部飲み干す。アリスと話をすると決めた途端、檸檬の酸味と蜂蜜の甘味は胸にまで染みこむような気がした。

 ほっと息を吐いたエマは、ふと校庭に何かの気配を感じて顔を上げる。すると、大木にさっと隠れる人影を見つけた。エマは首を傾げ、足音を忍ばせて木に近づく。するとそこには先ほどエマが打ち負かしてしまった少年が小さくなって隠れていた。快活な顔はどこに行ったのだろうか。「やべえ」とでも言いそうな顔で見上げる少年に、エマは問いかける。


「あなた、名前は?」

「……トニ」

「じゃあ、トニ。どうしたの。授業始まっちゃうわ」


 怒られると思っていたのか、トニはわずかにほっとした顔をした。


「行かなくていいんだ」

「どうして?」

「……俺、授業ついていけねえの。行っても行かなくても先生も気にしてないし」

「そんなわけないでしょ。優秀な子しかここには入れないはずだもの」


 さすがに国民全部を受け入れる訳にはいかないため、優秀な人材のみ入学できる。入学試験を突破しなければ、ここにはいられない。


「おれんとこの親が、金を積んで試験官を買収したんだ」


 突然の不正の告白にエマは眉をひそめた。


「そんなこと私に言っていいの? 私が誰でどうしてここにいるか知らないわけじゃないでしょ。ただじゃ済まないわよ」


 どういうつもりか問いかける。すると、


「いいんだ。俺、退学になりたいくらいなんだし。金積まれて、やめさせてくれない先生にも腹立つしさ。金目当てのえこひいきも気持ち悪いし、ムカつくんだ」


 エマは自分勝手な理由にちょっと腹を立てる。不正を正そうというのなら感心したというのに、勉強したくないからという子供っぽい理由では同情できない。


「じゃあ勝手にやめればいいじゃない」


 突き放すエマだったが、


「親がさ……文官になってほしいって言うんだ。俺の家、商売してるから、何かと都合がいいって。でも俺、武官になりたい。だから学校じゃなくて早く軍に入りたいんだ。こうしてる間にどんどん差がつくってのに……」


 しょんぼりするトニを見ていると、掻き消えた同情が再び芽吹いた。それに、さきほどの手合わせでの熱意を思い出せば、確かに武官に向いていると思ったのだ。

 エマはわずかに声色を和らげる。


「あなたの他にも居るの? そんな風にお金を払って入学した子」

「不正についてははしらねえ……けど」


 さすがに人を巻き込むのは気が引けるのだろうか。奥歯になにか詰まったような話し方をするトニに、エマは「誰にも言わないから」と約束する。

 するとトニはちらりと目線を背後に泳がせた。彼の視線を追ってエマが木の裏側を見ると、涼しい顔をした少女がもう一人。樹の根元に座って淡々と読書中だった。


「あきれた」


 まず何に呆れたかというと、エマに気配さえ気取らさせなかったことだ。あとは、気づかれても動揺一つ見せないその図太さ。


「あなた、どうしてこんなところに」

「授業が面白くないから」


 少女は顔を上げもせずに読書を続けている。人と話すときには目を見て話せと教わらなかったのだろうか。


「こ、こいつは俺みたいな落ちこぼれじゃなくって、不正だってしてないし――」


 かばおうとするトニにも少女は知らん顔だ。トニは目を釣り上げて少女の本を取り上げる。


「デジー! おい、この人――じゃなくってこの方は、王女様! 少しは慌てろよ! 打ちのめされるぞ」


 必死過ぎてさり気なく非礼なトニに苦笑いが出る。


「あぁ……視察に来られるとか言われていた……。エマナスティ王女殿下……」


 ようやく少女――デジーは涼しげな視線をエマに向ける。立ち上がると服についた砂埃をはらって丁寧に礼をした。どうやら歳はエマとそう変わらず、上流階級の出らしい。所作が洗練されている。だからよけいにエマは戸惑った。


「あなた、貴族でしょう。あなたみたいな子がどうして授業をさぼっているの?」

「必要を感じないの」


 デジーはにこりと笑う。


「だって、先生が間違いばっかり教えるのだから。それに出来ない子ばかりにかまって、全然授業が進まないの。先生が言うには今にも卒業してもいいくらいだって。だけど卒業させてもらえない。これなら家で一人で勉強していたほうがまだましだけど、学校に行かないと卒業できないもの。だからここにいるの。本当に時間の無駄でしかないわ」


「つまり、あなたは授業の程度が低いって言いたいのね」


 ここは王立学院なのだ。決して教師の質は悪くないはず。エマが難しい顔をすると、トニが「おれ、これ以上授業が難しくなったら、とてもついていけない……」と悲壮感を漂わせる。


(なるほど、ね)


 教師について見回っていた時には全く見えなかった裏側。教室にいる生徒たちは皆まじめに取り組んでいたけれど、人間は一様にはできていないのだから、枠からはみ出してしまう者が居るのは当たり前。そして、はみ出した者は教室にはいないのだ。

 誰も考えつかないことを言えば、常識はずれだと言われ。王になりたいと言えば、女の身でなれるわけがないと言われ。ここにいる二人のはみ出し者の気持ちとエマの気持ちには重なる部分があった。

 二人の話を聞いて、エマは父の課題が一気に半分片付くのを感じた。同時に、父が何を思ってエマをここに向かわせたのか初めてわかった気がした。


(お父さまがこんな問題点をご存じないわけないのよ)


 この程度の問題など、想定できることだし、表沙汰になっていないだけで王宮には上がっているだろう。だから、父の意図は、きっとエマに問題点を探させることだ。

 直接自分の目で見なければ、見逃すことも多い。人づてに聞いていただけでは、問題を自分のこととして考えることは出来なかったと思った。身近な問題でなければ真剣に取り組まない。人というのはそういう勝手な生き物なのだ。

 エマは未だに視察を欠かさない父のことを思う。若い時から一人馬を駆って国中を飛び回っていた父は、今でも、北から南まで、東から西まで、アウストラリスの国土を縦横断して、自分の目で見て、直接話して状況を確認するのだ。だから火種を火種の内に消すことができる。父が賢王と呼ばれるのは、そういった地道な行動の積み重ねなのだと気がつく。華やかな功績ばかりに目を向けがちなエマの目を覚まさせてくれようとしているのだろうか。そんなふうに思った。

 一歩前進したような気になって、エマはむくむくとやる気が湧いてきた。


(問題点はもう三つ。二人と話しただけで三つなら、もっと出てくるはずじゃない……)


 問題点を探すのは、もはや課題だからという理由ではなかった。宿題を残していくなど考えられない。エマは目を細めて校舎を見つめなおして、目を見開いた。ここにあるべきではない人影を見つけたからだ。

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