第3話 蜂蜜と檸檬と母の微笑み
夕暮れ時。人の出払った兵の訓練所には父の鋭い声と剣戟の音が響きわたっていた。
「もっと踏み込め! 腰が引けてる」
「ほら、脇が甘い。そんなんじゃ、簡単に弾き飛ばされる」
そう言うそばから、父の剣がエマの剣を下から掬い上げる。手の力をゆるめた、ほんの少しの隙を突かれた。空気を裂くような音とともに舞い上がった白刃が夕日に赤く染まり、落下してくる。
回転しながら落ちてきた剣の柄をあっさり掴むと、父はエマに「まだまだだな」と苦い顔をした。
「接近された時が肝要なんだ。身体が小さいから、押さえこまれたら最後だ」
「大げさよ」
確かにエマは小柄な方だ。見上げるほどの背丈を持つ父にも似なかったが、遠目からでも豊満な体型であるとわかってしまうような母にも似たとは……とても言えない。アリスはエマが母に似ているというが、それは確実に『顔限定』なのだ。彼は優しいから言わないだけで。
(じゃあ、これは誰に似たっていうの)
貧弱ではないが、標準体型に収まってしまう己の肢体――特に胸を見下ろす。母であればきっと見下ろした時に己の足など見えないであろうが、エマは足先がしっかり見える。父に似て筋肉質なのだ。そのことに劣等感がないといえば嘘になるが、この細身の体でなければ剣は上達しなかったと思えば、気にはならない。
エマが肩を竦めると、父は真面目な顔で首を振る。
「守らなければならないものは命だけじゃない。そうだな。剣の師を探すついでに体術の方も探すか」
となると女の師がいいな……そうぶつぶつという父に、エマは追加で願う。
「じゃあ弓術の方も、ついでにお願い」
すると、父は「弓、か」となぜか難しい顔をする。
「だって、王位継承の儀で試されるのは剣だけじゃないもの。いざ戦となった時のための剣術、弓術、体術。それから、戦術や、戦事態を避けるための外交術も大事だから、学問も手を抜けないわ。やっぱり師がいいと伸びると自分でも思うの」
剣術が一番出来るのは師がいいから――そう密かにはにかむエマだったが、父はそこで、突如話を遮った。
「学問で思い出した。お前、そろそろアリスと会うのはやめろ」
「どうして?」
父の顔がめずらしく険しい。王位継承の儀が近いからライバルには近づくな――とかそういうことを想像して構えるエマに対して、父は思いもかけないことを言った。
「あいつは変態だ」
エマは一瞬固まる。
「――は? へんたい?」
「変態の親からまともな子が生まれるわけがないだろうが。あいつには気をつけろ」
「え、もしかして、心配してくれてるの?」
父がこういう風にエマを気にかけてくれることはあまりない。エマは目を丸くすると同時に湧き上がる喜びに顔を赤らめた。
と、そのとき、
「――変態って、まさかヨルゴスのこと?」
艶のある声が響いて、顔を上げると、そこにはエマの母、メイサが呆れたような顔をして立っていた。母は腰まである長い赤髪を後ろでふわりと束ねている。
思いやりにあふれた眼差しは女神のそれにも見え、誰もが魅了されるだろうと思った。
足音を立てずにしなやかに歩く母は、籠から取り出した飲み物を父とエマに渡す。
父が呷るのを横目で見ながら、エマは差し出されたガラスの器に口をつける。一口飲むと爽やかな酸味と甘味が一度に舌の上に広がり、乾いた喉がもっととせがむ。
「美味しい」エマが言うと、
「檸檬と蜂蜜を割ったのよ。どっちも話題のアリスに少し分けてもらったの。疲れが取れるでしょう? 本当にあの子は気が利くのよね。お父様に似たのよきっと」
母がにこやかに言う。父はむうっと顔をしかめて、二杯目を頼もうとした手を静かに引っ込める。
隣で一気に飲み干したエマが大きく息をつくと、微笑んだ母と目があった。母はそのまま二枚もった手巾の一枚でまず父の汗を拭うと、もう一枚でエマの顔を拭う。
「程々にしないと。女の子の顔に傷でもついたらどうするの」
布は冷たく冷やしてあり、汗がすうっと引くのがわかった。
「ルティ。あなた、エマに変なことを吹き込むのやめなさいね。この子が本気にしたらどうするの」
ルティと父の名を呼ぶ母のまなざしと声は思いっきり甘いと思う。エマを呼ぶときとはまるっきり違うのだ。父が母に弱いのは――母のほうが年上なのもあるかも知れないけれど――きっとこのせいに違いないとさえ思う。
どうしたらその色気が出るのだろう。父王のことを名で呼ぶことは出来ないが、そう呼ぶのはあこがれだった。憧憬の目で父を見るエマの前で、母の父への説教は続く。父に説教が出来る人間はこの世で二人だけ。母と、祖母だけだった。
「本気にしてもらっていい。本当のことだ」
「どこが? あんな素晴らしい方にどうしてそんなことが言えるのか、私にはわからないわ」
母が宰相閣下をかばうと、父が不機嫌そうに眉をしかめる。その目に嫉妬の光が浮かぶのを見てエマは胸が軋む。いつでも飄々としている父にこんな表情をさせられるのは母だけだと知っているからだった。
しかし、不機嫌にさせた当の本人は察しが悪く、機嫌を損ねた理由にいつも思い当たらない様子。
そのままいつもどおりに喧嘩を始めそうな両親の間で、エマは小さく息を吐く。
普通ならばいつまでも恋人同士のように仲睦まじい両親に対して、呆れこそしても、こんなふうに憂鬱になることはないだろうとエマは顔を陰らせた。
(どうして、お父様みたいな方が他に居ないんだろう)
じっと見つめる先には、だんまりを決め込むことにしたらしい父。母は呆れたようにため息をつくと、宥めるように声色とまなざしを和らげた。
「あなたが何を思ってそうやっているのかは知っているつもりだけど。エマほど強い娘は国中探しても居ないのだから。鍛えているあなたが一番良く知っているはずでしょう。変な心配はしなくても大丈夫よ」
「だが、剣では勝てないだろうけれど、あいつには親譲りの頭がある。もし――」
父が言いかけた言葉を母は鋭く遮った。
「それでも卑怯なことはしないわ。アリスはシェリアの息子なのだから。あなた常々言ってるでしょう。あいつは俺に似ているって」
シェリアというのはアリスの母親だ。隣国ジョイアから嫁いできた美女。風が吹いたら飛びそうな儚げな姿をしているのに、言うことが尽く毒をはらんでいる。
母とは正反対の女性で、エマが苦手としている婦人の一人であった。そして、エマは知っている。父もこのシェリアを少々苦手としていることを。
「シェリア? それこそ、欲しいもののためには手段を選ばないと思うが」
まるで苦手意識が伝染したかのよう。父は不愉快そうに言うと、その話題を打ち切った。
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