Lv.28 天使の涙
焼き立てパンの焼ける匂いにソワソワするのは客だけではない。従業員もまた、それを楽しみにしている。スライムはパン売り場の前を行ったり来たり。
厨房から出てきたリズが笑う。
「スライムくん、焼けたよ」
この頃ドラゴンは焼くのが上手になって本当に香ばしくて美味しい。試食のパンを貰おうと口を開けたところを沢渡に見られてしまった。
「スライムくん! ダメだよ、試食を食べちゃ!」
スライムは慌ててジャンプしてリズの持っていたパンのかけらに食いつく。モサモサと口元を動かしながら一言、
「もうひわけごあいません(申し訳ございません)」と。
沢渡は仕方ないなと笑いながら、リズを呼ぶ。
「どうしたんですか、沢渡店長?」
「まだ、みんなには内緒なんだけどね」
言いながら取りだしたのは1通の手紙。渡されたリズは止めていたシーリングワックスの印を見て目を剥く。女王陛下の紋章だった。
「今朝、店の前に置いてあったんだ。誰が届けたかは知らないけれど、とにかく中を読んで」
リズは恐る恐る便せんを取り出すと広げて目を通した。内容は女王陛下がお前のパンをいたくお気に入りである。これから毎日朝食用のパンを王宮に納めよ、とのことだった。どういう流れで店のパンが女王の口元に届いたかは不明だが、リズのパンを気に入り家来がわざわざ手紙を届けに来たのだろう。沢渡はリズが喜ぶと思ってニコニコしていたのだが、予想に反してリズは不機嫌な顔を見せた。
「ちょっと勝手じゃないですか?」
「え?」
思わぬ言葉に沢渡は驚く。
「だって、店長と高橋くんがクイーンズベリーに行った時、みんなしてひどい扱いをしたのに今度は王宮のパンを焼けって言うんですよ? イヤですよ。私はモンスターのためにパンを焼くんだから」
沢渡は少し考えてリズの両手を取る。
「リズさん。我々のことを考えてくれるのはすごく嬉しいよ。実際ひどい扱いを受けたし、私も高橋くんもクイーンズベリーには良い感情を持っていない。でも、それとこれは別だよ」
「でも……」
「いいかい。これはキミにとってチャンスなんだ。上手くいけば、いずれは王宮に入ってパンを焼くことになるかもしれない。そうすれば、今よりもっと大勢の人のためにパンを焼くことになるだろう」
「沢渡店長……」
「にこにこマートもいつまであるか分からないし、キミには先を見据えて将来のための判断を下して欲しいんだ」
「いつまであるか分からないってどういうことですか?」
「えっ、ああ、いやそれは……」
「お店潰しちゃうつもりなんですか!」
「いやいや、違うよ。もしもの話だよ、もしもの」
リズは疑る様な表情をしていたが、フッと視線を反らせ手紙を畳む。
「明日の朝、家来が取りに来るって書いてあったよね。用意をしておいてね」
肝心のリズはあまり気は進まないような様子だったが、沢渡はスキルアップのための修行だと思って励めばいいと言って何とか作るよう説得した。
◇
翌日、リズとドラゴンはいつもより早く出勤してパンを焼いた。手紙に指定されていた分厚いハムと新鮮なサラダ菜を挟んだ惣菜パンに柔らかいチーズパン。リズは沢渡と高橋の朝食に、とチーズパンを余分に焼いてくれていた。焼き立てのホカホカを食べるとふっくら柔らかく、とろけたコクのあるチーズがなんとも言えなくて2人でハグハグと食べた。
徐々に日が昇り、開店より早く女王の家来たちが店にパンを取りに来た。家来たちは大変偉そうな態度で「朝から御苦労だったな」と言った。丁寧に頭を下げて帰って行くのを見送っていると従業員が出勤してきたのでみんなで一緒に開店準備に取り掛かる。今日も忙しいにこにこマートの1日が始まった。
朝礼で王宮のパンを納めていると伝えるとみんな嬉しそうにキャッキャッとはしゃいでいた。リズは少し照れくさそうにしていたけれど、職人としてはこれ以上ないほど光栄なことだろう。こうなれば師匠である彼女の父も惣菜パンの存在を認めざるを得ないだろう。
「気に入ってもらえたらリズも王宮専属のパン職人になるかもしれないっすね」
「そうなると寂しくなるけれど、」
「ああ、でもその前に自分たちもいつまで居られるか分かんないっすよ」
「実際いつまで居られるんだろうね」
「うーん、それは女神さまに聞いてみないと」
夢に出てきたあの女神はそれ以降姿を現わすことは無かった。この世界に転移してきて早4ヶ月が過ぎようと言うのに。女神の言う力が貯まるまで、とはいつのことになるのだろう。
「もし、私たちが居なくなったらみんなどうするんだろうね」
「やっぱりただのモンスターに戻っちゃうんすかね」
「お店が無いとみんな悲しむよね」
「あっ!」
いいことひらめいたと言って高橋が手をパンッと叩く。
「お店は残して貰うってどうっすか? 女神さまにお願いして店長と自分だけ返して貰うってのは」
「高橋くんナイスアイデア! 良いかもしれないね」
2人でとてもいいことを思いついたと言わんばかりに盛り上がる。
「でも、問題はどうやって女神さまに会うかっすよね。1回夢に出てきたっきり見ませんし」
「私も見て無いね」
「うーん。誰か何か知っていないかな」
「おじいさんなら知ってるかもしれませんよ」
試食販売をするスライムに女神について問うと真っ先にその答えが返ってきた。おじいさんというのはマヌールの村に住むモンスター仙人のこと。
「スライムくんは女神さまに会ったことあるのかい?」
「ボクが人を襲わないのは女神さまと約束したからなんです」
「約束?」
「人間は襲わず、仲良く暮らすようにって言われたんです」
「それやって何か徳があるの?」
「うーん、それは分かりませんけど……」
スライムは一生懸命答えを探すように考え込んでいる。
「女神さまに会う前の晩、おじいさんと戦って負けたんですけど、その時に牛乳を飲まされたんです。それ飲んだらフワフワーって眠くなって夢に女神さまが出てきたんです」
「へええ」
ただの牛乳にそのような効果があるとは考えられない。もしかしたら何かのアイテムがあるのかもしれない。
「明後日、マヌールの村に仕入れに行くから、一緒に行きませんか?」
「そうだね。仙人に聞いてみるのもいいかもしれないね」
翌日、沢渡は店を高橋に任せスライムと一緒にマヌールの村へと向かった。村に着くとスライムは仕入れがあるので別行動。安心して任せているし、沢渡にはむしろその方が都合が良かった。
風車に隣接したログハウスを訪れるとモンスター仙人がコーヒーを沸かしている最中だった。芳しい香りが入り口にまで漂っている。会ったのは1度きりだと言うのに仙人は顔を覚えていて快く招き入れてくれた。
リビングの椅子に腰かけ、仙人が入れたコーヒーを一口すする。この世界のコーヒーは日本の物に比べ色が少し薄く、けれど香りが強くて味と言うよりフレーバーを楽しむ物のようだった。
仙人がロッキングチェアに腰かけたのを見計らって話を始める。やはり聞きたかったのは女神のこと。夢で女神に会いたいと告げると仙人は少し眉をひそめ、「何のために女神さまに会いたいんです?」と問うた。
「え、いや、それは。お願いしたいことがありまして」
「どんな?」
「それは……」
困った沢渡を見て仙人がフッと笑う。
「いやいや、意地悪な質問をしましたな。あなた方の隠していることを少し知りたかったのです」
沢渡は驚いて言葉が継げなかった。
「あなた方がこの世界の住人でないと言うことは薄々感じてました。モンスターたちがみな嬉しそうに話してくれるのですよ。それが聞いたことも無い摩訶不思議な商品のことばかりで」
「そうでしたか」
沢渡は頭をかく。知られているのならこれ以上隠す必要はないと、自分たちがこの世界に来たことの顛末を話した。
「女神さまも粋なことをなさる。この世界にやってきて随分お困りだったでしょう」
「ええ、それはもう」
沢渡は笑いながら嬉しそうにこの世界に来てのことを思い出す。
「大変なことも多かったけれど、それ以上に楽しかったんです。みんなと仲良くなってお店を経営して。私は今の店が大好きなんです。だから……」
「だから?」
「この世界に店を置いていきたいんです。みんなのために」
沢渡は涙声でそう言った。
「なるほど」
仙人は噛みしめるように頷いて少し考えた後、言葉を発した。
「サワタリさん、それはやめてください」
驚いた沢渡はハッとして仙人を見る。仙人は微笑んでいた。
「あなた方のモンスターを思う気持ち、すごく分かりますし嬉しいです。でも、あの店は本来この世界の秩序に無い物です。もしかするとあってはいけない物なのかもしれません」
俯く沢渡を励ますように仙人は優しい声を出す。
「大丈夫、あの子たちは働くことを通してお店を経営すると言うことを学びました。商品を仕入れ、丁寧に頭を下げて接遇という文化を知りました。あなたたちの育てた立派なスタッフです。無いのならお店は作ればいいし、商品は村から仕入れればいい。店が無いのなら無いなりに工夫して頑張りますよ、彼らは」
「そう……でしょうか」
「そうですとも。さあ、顔を上げてください。特別に良い物を授けますよ」
そう言って立ちあがると仙人は戸棚の中から大きな水差しを出してきた。
「これは私が若く冒険者だったころ、女神さまの住まわれる泉で汲んできた天使の涙というアイテムです。これを少量飲んで眠るとその晩夢に女神さまが出てくるという神秘のアイテムです」
「スライムくんに飲ませたのはそれだったんですね」
「さよう。仲間にしたいモンスターに飲ませれば夢の中で女神さまがモンスターの邪心をすべて取り払ってくれるという効果もあります。ですが、あなた方が飲めば女神さまと会うことも可能でしょう」
そう言って仙人は小さな小瓶に天使の涙をたっぷりと注いでくれた。
「以前夢でお会いした時にはそのようなアイテムは使用していなかったのですが……」
「女神さまの方が会いたいと思ったときに稀に出てくることもありますからな。まあ、これを飲めば確実に会えるので心配には及びますまい」
小瓶を手渡すとにっこり笑う。
「辛い時にお使いなさい」
沢渡はその小瓶を大切にボディバッグにしまい丁寧に礼を言うと仙人宅をお暇してスライムの所へ向かった。
「サワタリ店長! たくさん牛乳仕入れましたからね!」
「そうか、それは嬉しいな! 頑張って売らないと」
沢渡の表情を見てスライムが弾むのを止める。
「何だか元気ないですね?」
「そんなこと無いよ! さあ、仕入れを手伝うよ。次は何を買い付けるんだい?」
沢渡はまだ、この世界を去る決心がつけられないでいた。
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